11日に京都で指された第71期王座戦五番勝負第四局。
永瀬拓矢王座の先手で角換わり。桂馬を跳ねて早い段階で戦いになりました。後手の藤井聡太竜王・名人が駒損になった分だけ先手がよくなったようですが,先手は得した駒を自陣に打ち付けたため後手陣を攻略するのは難しく,先手は勝つまでは大変という局面が長引き,その後は一時的に後手が逆転したようなのですが,難解な決め手を1分将棋の中で逃したため,最終的に先手が勝ちという局面に至りました。
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ここではすでに双方が1分将棋。先手がと金を引いた手に対して後手は☖5二同金と取りました。ここは☖3三金と逃げる方が有力にみえますので,先手はあまり読んでいなかったのではないかと思います。
読み直しになったかもしれませんがここは☗同成銀と取る一手。これに対して☖5五銀と打ちました。これは後に発生するかもしれない☗4四金の防御にはなっていますが,☖5五金と馬に当てる方が普通でしょうから,これも先手の読みにはあまりなかった手だろうと思います。
おそらく第1図の時点ではまったく想定していなかったであろう局面になった先手は,そこで☗4二金と打つ手を考えました。対して☖2二王なら後で1二に逃げて詰みませんが,これは手順に3七の角を抜けるので先手が勝ちます。これは先手も読み切れたものと思います。取る方も☖同金☗同成銀☖同玉までは一瞬で判断できるでしょう。
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ここで☗6二飛と打つと☖3三玉と逃げられて詰まないと読んだ先手は☗4二金を断念。☗5三馬と王手をしましたが☖2二玉で後手玉が詰まないので逆転。後手の勝ちになりました。
第2図は先手の勝ちで,☗5二飛と打てば取ると詰みなので☖3三玉。そこで☗5五馬の王手に☖同角成と取るほかなく,詰みもあるのですが,☗同飛成と取り返して先手玉が盤石になります。つまり詰まさなくても先手の勝ちだったのです。読み切れなくても☗4二金と打ってしまえば第2図には必ず進み,そこまで進めばその過程の中で☗5二飛は発見できた筈です。先手は読み切れない中で悪い方に手が伸びてしまったという将棋でした。
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藤井竜王・名人が勝って3勝1敗で王座を奪取。王座は初の獲得。これで現存する8つのタイトルのすべてを保持することになりました。現時点ではすべての棋士が参加する4つの棋戦のすべての覇者にもなっていますから,驚異的な記録となります。
ここでいう哲学的利点というのは,唯物論とか観念論といったものを想定してのことです。僕たちが生きている世界は,物体corpusだけの世界ではありませんし,精神mensだけの世界でもありません。物体と精神は同じもののふたつの側面であるというのが同一説の意味するところだからです。したがって同一説を採用するなら,この哲学が唯物論的なものであるか観念論的なものであるのかという疑問は直ちに解消することができます。スピノザの哲学は唯物論ではありませんし観念論でもありません。あるいは同じことですが,唯物論でありかつ観念論でもあるのです。
実際の哲学上の唯物論と観念論の対立という観点からみたときは,スピノザの哲学は唯物論との相性の方がよくなっているのは事実だと思います。ですから,唯物論的なものの見方に慣れているのであれば,同一説を採用することにさほどの意義を認めることはできないかもしれません。しかしもし観念論的なものの見方に慣れている場合には,同一説の採用には大いに意義があるといえます。観念論の哲学で観念ideaといわれているものは,観念対象ideatumの別の側面であるというのが同一説が示していることになりますから,観念だけが存在して観念対象は実在しないというような極端な考え方は,スピノザの哲学においてはあり得ないということが理解できるからです。現実的に存在するある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaというのは,ある人間というひとりの人間のふたつの側面です。ですからその人間の身体の中に何かが生じているということは,その人間の精神のうちに何かが生じているということを意味します。もちろん逆に,その人間の精神のうちに何かが生じているということはその人間の身体の中に何かが生じているという意味なのです。ですからその人間について考えるときに,その人間の身体について考えようと精神について考えようと,正しく考えるのであれば結論は一致することになります。そしてこうしたことが,現実的に存在するすべての物体について成立するということになるのです。
このことは平行論を採用しても成立はします。ただ同一説はこれを直接的に帰結させるのという利点があるのです。
永瀬拓矢王座の先手で角換わり。桂馬を跳ねて早い段階で戦いになりました。後手の藤井聡太竜王・名人が駒損になった分だけ先手がよくなったようですが,先手は得した駒を自陣に打ち付けたため後手陣を攻略するのは難しく,先手は勝つまでは大変という局面が長引き,その後は一時的に後手が逆転したようなのですが,難解な決め手を1分将棋の中で逃したため,最終的に先手が勝ちという局面に至りました。
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ここではすでに双方が1分将棋。先手がと金を引いた手に対して後手は☖5二同金と取りました。ここは☖3三金と逃げる方が有力にみえますので,先手はあまり読んでいなかったのではないかと思います。
読み直しになったかもしれませんがここは☗同成銀と取る一手。これに対して☖5五銀と打ちました。これは後に発生するかもしれない☗4四金の防御にはなっていますが,☖5五金と馬に当てる方が普通でしょうから,これも先手の読みにはあまりなかった手だろうと思います。
おそらく第1図の時点ではまったく想定していなかったであろう局面になった先手は,そこで☗4二金と打つ手を考えました。対して☖2二王なら後で1二に逃げて詰みませんが,これは手順に3七の角を抜けるので先手が勝ちます。これは先手も読み切れたものと思います。取る方も☖同金☗同成銀☖同玉までは一瞬で判断できるでしょう。
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ここで☗6二飛と打つと☖3三玉と逃げられて詰まないと読んだ先手は☗4二金を断念。☗5三馬と王手をしましたが☖2二玉で後手玉が詰まないので逆転。後手の勝ちになりました。
第2図は先手の勝ちで,☗5二飛と打てば取ると詰みなので☖3三玉。そこで☗5五馬の王手に☖同角成と取るほかなく,詰みもあるのですが,☗同飛成と取り返して先手玉が盤石になります。つまり詰まさなくても先手の勝ちだったのです。読み切れなくても☗4二金と打ってしまえば第2図には必ず進み,そこまで進めばその過程の中で☗5二飛は発見できた筈です。先手は読み切れない中で悪い方に手が伸びてしまったという将棋でした。
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藤井竜王・名人が勝って3勝1敗で王座を奪取。王座は初の獲得。これで現存する8つのタイトルのすべてを保持することになりました。現時点ではすべての棋士が参加する4つの棋戦のすべての覇者にもなっていますから,驚異的な記録となります。
ここでいう哲学的利点というのは,唯物論とか観念論といったものを想定してのことです。僕たちが生きている世界は,物体corpusだけの世界ではありませんし,精神mensだけの世界でもありません。物体と精神は同じもののふたつの側面であるというのが同一説の意味するところだからです。したがって同一説を採用するなら,この哲学が唯物論的なものであるか観念論的なものであるのかという疑問は直ちに解消することができます。スピノザの哲学は唯物論ではありませんし観念論でもありません。あるいは同じことですが,唯物論でありかつ観念論でもあるのです。
実際の哲学上の唯物論と観念論の対立という観点からみたときは,スピノザの哲学は唯物論との相性の方がよくなっているのは事実だと思います。ですから,唯物論的なものの見方に慣れているのであれば,同一説を採用することにさほどの意義を認めることはできないかもしれません。しかしもし観念論的なものの見方に慣れている場合には,同一説の採用には大いに意義があるといえます。観念論の哲学で観念ideaといわれているものは,観念対象ideatumの別の側面であるというのが同一説が示していることになりますから,観念だけが存在して観念対象は実在しないというような極端な考え方は,スピノザの哲学においてはあり得ないということが理解できるからです。現実的に存在するある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaというのは,ある人間というひとりの人間のふたつの側面です。ですからその人間の身体の中に何かが生じているということは,その人間の精神のうちに何かが生じているということを意味します。もちろん逆に,その人間の精神のうちに何かが生じているということはその人間の身体の中に何かが生じているという意味なのです。ですからその人間について考えるときに,その人間の身体について考えようと精神について考えようと,正しく考えるのであれば結論は一致することになります。そしてこうしたことが,現実的に存在するすべての物体について成立するということになるのです。
このことは平行論を採用しても成立はします。ただ同一説はこれを直接的に帰結させるのという利点があるのです。