スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&固有の権利

2023-10-19 19:20:59 | 将棋
 17日に指された第45期女流王将戦三番勝負第二局。
 香川愛生女流四段の先手で西山朋佳女流王将の三間飛車。先手の左美濃から後手が先攻。後手が攻めて先手が受けるという将棋になりました。
                                        
 ここで後手は☖7五歩と打ちました。先手が☗同金と取ったので☖6六角と打ち☗7六金☖5七角成で馬を作ることに成功。先手が☗5九飛と銀取りを受けたところで再び☖7五歩。先手が☗8六金と逃げたので後手も☖4八馬と逃げました。
                                        
 第1図の☖7五歩を取ったのなら,2度目の☖7五歩のときに☗5七飛と馬を取れるのでなければ,先手は後手に馬を作らせただけになってしまいます。馬を取るわけにはいかなかったので第2図になりましたが,これは後手が一方的に得をして差がついてしまいました。なので第1図からの☖7五歩にすぐ☗8六金と逃げておいた方が,先手としてはよかったということになるでしょう。
 西山女流王将が連勝で防衛。第41期,42期,44期に続く連覇で4期目の女流王将獲得となりました。

 自然権jus naturaeが,自分自身の生命を維持する権利であるという点については,スピノザとホッブズThomas Hobbesの考え方を一致させることができると僕は考えます。
 スピノザの哲学における自然権は,事物の現実的本性actualis essentiaに由来します。現実的に存在する事物はどんなものであれそれに固有の現実的本性を有します。このことは第二部定義二の意味から明白です。事物の本性はその事物の存在existentiaを鼎立するのですが,それは逆にいえば,事物の存在はその事物の本性によって鼎立されるという意味ですから,ある事物に本性がない,本性がないというのは奇妙ないい方なので,ここでは本性が矛盾を含むといい換えますが,もし本性が矛盾を含んでいるのであれば,そうした本性を有するものは存在できません。よって事物が現実的に存在するためにはその事物に固有の現実的本性が必要になります。これはつまり,事物が現実的に存在しているならその事物は固有の現実的本性を有しているということになります。
 このために,スピノザの哲学における自然権は,人間に固有の権利ではありません。現実的に存在するのは人間だけでなく,むしろ無限に多くのinfinitaものが存在するのであって,そうしたものはすべて現実的に存在する以上は現実的本性を有しているからです。この現実的本性が自然権の由来となっている以上,現実的に存在するすべてのものが自然権を有するといわなければならないのです。
 たぶんホッブズはそのようには考えてなく,自然権は人間に固有の権利であると考えていると思われます。ホッブズが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んで衝撃を受けた理由のひとつは,スピノザが自然権をこのような権利として考えていることが理由になっているかもしれません。だからこの点でもスピノザが考えている自然権とホッブズが理解している自然権との間には相違があるといわなければならないのですが,この点もここでは無視します。というのは,仮に自然権が人間に固有の権利であると考えるとしても,スピノザがいう自然権とホッブズがいう自然権との間には一致する点を見出すことができるからです。なのでここではホッブズが考えているように,自然権を人間に固有の権利と解します。
コメント
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