21日に札幌で指された第3期白玲戦七番勝負第六局。
里見香奈白玲の先手で西山朋佳女流三冠の向飛車。先手が袖飛車を匂わせたので三間飛車に戻り,先手も後手も飛車を3筋,2筋と動かすような対抗形に進みました。この将棋は中盤で後手が動き過ぎたために形勢を損ねそのまま挽回できないという一局でした。

ここで後手は☖9五歩と動いていきました。先手は☗4三と☖6二銀の交換を入れてから☗9五歩と手を戻しました。後手はさらに☖7四歩として☗6五桂に☖7五歩。ただ☗3三角と受けに利く角を打たれてこれ以上は攻めを継続することができませんでした。

後手の手順は不利とみて戦線を拡大したようにみえるので,すでに局面を悲観していたかもしれません。ただこの動きは大敗を招くことになりましたので,第1図は☖6二銀と先に逃げておき,☗4三となら☖6六歩のように指しておくのがよかったのではないでしょうか。
里見白玲が勝って3勝3敗。第七局は28日に指される予定です。
スピノザがいう自然権jus naturaeは諸個人の現実的本性actualis essentiaに由来します。個人の現実的本性というのは,個人が現実的に存在する限りは必ずその個人に属する本性です。ですから個人がどのような状況の下に存在しようと,その人間に属する自然権が変じるということはありません。このためにスピノザは書簡五十でいっているように,たとえ国家Imperiumの中においても個人の自然権というものをスピノザは消去しません。というか,何らかの状況において消去することができるものとしては,スピノザは最初から自然権を考えていないのです。
これに対してホッブズThomas Hobbesがいう自然権は,諸個人の自由意志voluntas liberaに由来することになっています。したがって,意志を発揮することもできれば発揮しないこともできるということが前提となっていますから,自然権を自分が思うままに行使するかしないかということを,個人が自身の意志によって決定するdeterminareことができます。なので,特定の状況によっては人間は自然権の行使を放棄するという主張が成り立ちます。
それでも,基本的には人間は,自分自身の生命を維持するという目的finisに制限はされているものの,その自然権を行使します。この状態のことをホッブズは自然状態status naturalisと定義しています。他面からいえば,自然状態においては何が自分の生命を維持するために有益であるのかということを,自身の自由意志によって決定することができるとホッブズは考えているのです。しかしこの場合,Aという人間が自身の生命を維持するために有益な事柄と,Bという人間が自身の生命を維持するために有益な事柄が,同一であるとは限らず,むしろ相反する場合が大いに生じ得るでしょう。なのでホッブズはこの種の自然状態は,万人の万人に対する戦争状態であるといいます。この戦争状態を回避するために,国家においては各人がその自然権を全面的に放棄することになります。これが社会契約説に繋がっていくのですが,前もっていっておいたようにここでは政治論や国家論についての考察はしません。
このようなホッブズの論理というのは,その自然権が諸個人の自由意志に由来するということを離れても,別種の問題を孕んでいるように僕には思えます。
里見香奈白玲の先手で西山朋佳女流三冠の向飛車。先手が袖飛車を匂わせたので三間飛車に戻り,先手も後手も飛車を3筋,2筋と動かすような対抗形に進みました。この将棋は中盤で後手が動き過ぎたために形勢を損ねそのまま挽回できないという一局でした。

ここで後手は☖9五歩と動いていきました。先手は☗4三と☖6二銀の交換を入れてから☗9五歩と手を戻しました。後手はさらに☖7四歩として☗6五桂に☖7五歩。ただ☗3三角と受けに利く角を打たれてこれ以上は攻めを継続することができませんでした。

後手の手順は不利とみて戦線を拡大したようにみえるので,すでに局面を悲観していたかもしれません。ただこの動きは大敗を招くことになりましたので,第1図は☖6二銀と先に逃げておき,☗4三となら☖6六歩のように指しておくのがよかったのではないでしょうか。
里見白玲が勝って3勝3敗。第七局は28日に指される予定です。
スピノザがいう自然権jus naturaeは諸個人の現実的本性actualis essentiaに由来します。個人の現実的本性というのは,個人が現実的に存在する限りは必ずその個人に属する本性です。ですから個人がどのような状況の下に存在しようと,その人間に属する自然権が変じるということはありません。このためにスピノザは書簡五十でいっているように,たとえ国家Imperiumの中においても個人の自然権というものをスピノザは消去しません。というか,何らかの状況において消去することができるものとしては,スピノザは最初から自然権を考えていないのです。
これに対してホッブズThomas Hobbesがいう自然権は,諸個人の自由意志voluntas liberaに由来することになっています。したがって,意志を発揮することもできれば発揮しないこともできるということが前提となっていますから,自然権を自分が思うままに行使するかしないかということを,個人が自身の意志によって決定するdeterminareことができます。なので,特定の状況によっては人間は自然権の行使を放棄するという主張が成り立ちます。
それでも,基本的には人間は,自分自身の生命を維持するという目的finisに制限はされているものの,その自然権を行使します。この状態のことをホッブズは自然状態status naturalisと定義しています。他面からいえば,自然状態においては何が自分の生命を維持するために有益であるのかということを,自身の自由意志によって決定することができるとホッブズは考えているのです。しかしこの場合,Aという人間が自身の生命を維持するために有益な事柄と,Bという人間が自身の生命を維持するために有益な事柄が,同一であるとは限らず,むしろ相反する場合が大いに生じ得るでしょう。なのでホッブズはこの種の自然状態は,万人の万人に対する戦争状態であるといいます。この戦争状態を回避するために,国家においては各人がその自然権を全面的に放棄することになります。これが社会契約説に繋がっていくのですが,前もっていっておいたようにここでは政治論や国家論についての考察はしません。
このようなホッブズの論理というのは,その自然権が諸個人の自由意志に由来するということを離れても,別種の問題を孕んでいるように僕には思えます。