弥彦競輪場で争われた昨日の第32回寛仁親王牌の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐渡部の福島,古性‐南の大阪,犬伏に諸橋で和田と河端は単騎。
佐藤がスタートを取って小松崎の前受け。5番手に古性,7番手に和田,8番手に犬伏,最後尾に河端で周回。このまま上昇の動きがなく打鐘を迎えました。打鐘後のコーナーから犬伏が発進。諸橋がダッシュについていかれなかったので単騎の捲りに。犬伏は前の隊列から少し離れた外を回ったのでなかなか前に追いつけず,バックに入って古性の横あたりまで来たときに古性が発進して犬伏は不発に。古性が前を捲ると佐藤が古性マークの南を牽制。南が外に浮いたので南を追走していた和田が落車。後ろの動きとは関係なかった古性が優勝。番手を奪った佐藤が1車身半差で2着。佐藤マークの渡部が1車身差で3着。
優勝した大阪の古性優作選手は7月の福井記念以来の優勝。ビッグは6月の高松宮記念杯以来の7勝目。寛仁親王牌は初優勝。このレースは脚力では古性が断然というメンバー構成になりましたので,あとは位置取りがどうなるかがポイント。福島ラインの後ろを回り,だれも福島ラインを抑えに来なかったのでそのまま福島ラインが先行するという展開は,このラインの番手の佐藤にとって最高でしたが,このラインを追走していた古性にとっても悪いものではありませんでした。犬伏は自分が勝てるところから発進したということだったのでしょうが,それまでに何も動きがありませんでしたので前に追いつくところまで至りませんでした。これは厳しくいえば,自分の脚を過信しすぎていたということになるでしょうし,作戦負けともいえるでしょう。
現実的にAという人間とBという人間のふたりの人間が存在すると仮定します。このときAの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性は異なります。このことも第三部定理二から明らかです。この定理Propositioによれば事物と事物の本性は一対一で対応し合うことになっています。このことは当然ながら事物の現実的本性にも適用されます。したがってAの現実的本性とBの現実的本性が一致するということは,AとBが同一人物であるということを意味しなければなりません。これはAとBというふたりの人間が存在するという前提に反します。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なるのです。
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個物res singularisの現実的本性は,自己の有esseに固執します。それは,自己の存在existentiaに固執するperseverareという意味でもありますし,自己の力potentiaに固執するという意味でもあります。本来的にはこのふたつは一致するのですが,引き裂かれてしまった場合は,自己の存在に固執する場合もあるでしょうし自己の力に固執する場合もあるでしょう。したがって,Aは存在に固執し,Bは力に固執するという場合があり得ます。僕が示した実例でいえば,Aは副作用を忍耐して延命治療を受けるけれど,Bは副作用を回避するために延命治療を固辞するという場合があり得るのです。そしてここが重要なことですが,それはAの現実的本性でありBの現実的本性なのです。つまりどちらを選択するとしても第三部定理七に一致するということになるのです。よって,ホッブズThomas Hobbesは生命を維持するために力を行使することが自然権jus naturaeを行使することだといっていますが,AもBもその力を行使していることになります。つまり,生命を維持するということを,単純に生命を永らえることであると解することはできません。少なくとも存在するということが力の発現であるということを肯定するaffirmare場合には,力を維持するということが生命を維持するということと同じ意味になるので,文字通りに生命を維持するというように解釈することはできないのです。
ここのところはスピノザとホッブズの間で一致するのですが,スピノザはそれを個物の現実的本性とみなすのに対し,ホッブズはそれを自由意志voluntas liberaに帰するので,乖離が生じてきます。
佐藤がスタートを取って小松崎の前受け。5番手に古性,7番手に和田,8番手に犬伏,最後尾に河端で周回。このまま上昇の動きがなく打鐘を迎えました。打鐘後のコーナーから犬伏が発進。諸橋がダッシュについていかれなかったので単騎の捲りに。犬伏は前の隊列から少し離れた外を回ったのでなかなか前に追いつけず,バックに入って古性の横あたりまで来たときに古性が発進して犬伏は不発に。古性が前を捲ると佐藤が古性マークの南を牽制。南が外に浮いたので南を追走していた和田が落車。後ろの動きとは関係なかった古性が優勝。番手を奪った佐藤が1車身半差で2着。佐藤マークの渡部が1車身差で3着。
優勝した大阪の古性優作選手は7月の福井記念以来の優勝。ビッグは6月の高松宮記念杯以来の7勝目。寛仁親王牌は初優勝。このレースは脚力では古性が断然というメンバー構成になりましたので,あとは位置取りがどうなるかがポイント。福島ラインの後ろを回り,だれも福島ラインを抑えに来なかったのでそのまま福島ラインが先行するという展開は,このラインの番手の佐藤にとって最高でしたが,このラインを追走していた古性にとっても悪いものではありませんでした。犬伏は自分が勝てるところから発進したということだったのでしょうが,それまでに何も動きがありませんでしたので前に追いつくところまで至りませんでした。これは厳しくいえば,自分の脚を過信しすぎていたということになるでしょうし,作戦負けともいえるでしょう。
現実的にAという人間とBという人間のふたりの人間が存在すると仮定します。このときAの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性は異なります。このことも第三部定理二から明らかです。この定理Propositioによれば事物と事物の本性は一対一で対応し合うことになっています。このことは当然ながら事物の現実的本性にも適用されます。したがってAの現実的本性とBの現実的本性が一致するということは,AとBが同一人物であるということを意味しなければなりません。これはAとBというふたりの人間が存在するという前提に反します。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なるのです。
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個物res singularisの現実的本性は,自己の有esseに固執します。それは,自己の存在existentiaに固執するperseverareという意味でもありますし,自己の力potentiaに固執するという意味でもあります。本来的にはこのふたつは一致するのですが,引き裂かれてしまった場合は,自己の存在に固執する場合もあるでしょうし自己の力に固執する場合もあるでしょう。したがって,Aは存在に固執し,Bは力に固執するという場合があり得ます。僕が示した実例でいえば,Aは副作用を忍耐して延命治療を受けるけれど,Bは副作用を回避するために延命治療を固辞するという場合があり得るのです。そしてここが重要なことですが,それはAの現実的本性でありBの現実的本性なのです。つまりどちらを選択するとしても第三部定理七に一致するということになるのです。よって,ホッブズThomas Hobbesは生命を維持するために力を行使することが自然権jus naturaeを行使することだといっていますが,AもBもその力を行使していることになります。つまり,生命を維持するということを,単純に生命を永らえることであると解することはできません。少なくとも存在するということが力の発現であるということを肯定するaffirmare場合には,力を維持するということが生命を維持するということと同じ意味になるので,文字通りに生命を維持するというように解釈することはできないのです。
ここのところはスピノザとホッブズの間で一致するのですが,スピノザはそれを個物の現実的本性とみなすのに対し,ホッブズはそれを自由意志voluntas liberaに帰するので,乖離が生じてきます。