第47回名古屋大賞典。
一旦はヤマニンウルスが前に出ましたが,外からノットゥルノが追い上げてノットゥルノの逃げに。勢い良く追い上げたこともありすぐに3馬身くらいのリードになりました。ミッキーファイトが2番手になって控えたヤマニンウルスは3番手。4番手にベルピット。5番手にアウトレンジ。6番手にシンメデージー。発馬後の向正面ではこの後ろにやや差がつきましたが,正面に入ると差は詰まり,アルバーシャが7番手,8番手にアナザートゥルース,9番手にサンマルパトロール,10番手にラジカルバローズで11番手にメルト。最後尾のファルコンウィングだけが離されました。ミドルペース。
ノットゥルノは快調に飛ばしていき,2周目の向正面に入ったあたりでリードは4馬身くらいに。ミッキーファイト,ヤマニンウルスは続いていきましたがベルピットは苦しくなり,アウトレンジが外から4番手に。3コーナーにかけてミッキーファイトがノットゥルノとの差を詰めていくとヤマニンウルスはやや離され,最終コーナーで外から追い上げてきたアウトレンジと併走。ただ前の2頭とは水が開いてしまいました。直線に入ってもノットゥルノはよく粘りましたが,外からミッキーファイトが差して優勝。逃げ粘ったノットゥルノがクビ差で2着。3着はヤマニンウルスとアウトレンジの競り合いに,内からシンメデージー,外からアナザートゥルース,さらに大外からサンマルパトロールも並んでいって接戦。内を回ったシンメデージーが4分の3馬身差で3着。大外のサンマルパトロールがクビ差の4着でアナザートゥルースがクビ差で5着。ヤマニンウルスがクビ差の6着でアウトレンジは4分の3馬身差で7着。
優勝したミッキーファイトはレパードステークス以来の勝利で重賞2勝目。これまで大きく崩れたことはなく,ジャパンダートクラシックでもフォーエバーヤングから1馬身4分の1差の2着に食い込んでいました。ここは5戦全勝のヤマニンウルスがいたために2番人気の評価でしたが,シンメデージーが3着に入っていることからも分かるように今年の3歳馬はレベルが高く,能力はこちらの方が上だったということでしょう。斤量差があるのに着差が僅かだった点はやや不満ですが,ここが古馬との初対戦でしたから仕方ないかもしれません。これまでの戦績から考えても,もっと上を目指せる馬だと思います。母の父はスペシャルウィーク。4代母がエアグルーヴで7代母がパロクサイド。5つ上の半兄が2019年の中京記念を勝ったグルーヴィットで4つ上の半兄が2022年にシリウスステークスとチャンピオンズカップを勝ったジュンライトボルト。
騎乗した戸崎圭太騎手と管理している田中博康調教師は名古屋大賞典初勝利。
ステノNicola Stenoの上申書の内容については,吉田は概ね次のように説明しています。
バチカン写本に含まれている思想は感染力が強い疾病のようなものであって,これ以上の感染をできる限り防ぐためには,また,すでにその疾病に毒されてしまっている人びとの治癒を推進するためには,この疾病の感染源とでもいうべきものを発見し,しかるべき対抗措置をとるために,努力してしすぎるということはないと思われる,というものです。
この上申書が提出されたのはすでに述べたように1677年9月4日です。スピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊されたのは同年の暮れになってからですから,この時点ではまだ未発刊でした。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,遺稿集の発刊を阻止しようと躍起になっていたのは,オランダのカルヴァン派だけではなくカトリックも同様であったとされていますが,このステノの上申書の内容からすると,その部分には信憑性があると解してよいようです。
一方でこのことは,次のようなことを推測させます。
カトリック陣営がスピノザの遺稿集の発刊を阻止したかったのであれば,それを阻止するためには全力を尽くしたと思われます。努力しすぎてしすぎるということはないというのは,上申書にみられるステノの意見というより,カトリック陣営の総意であったと思われるからです。そうであれば,それをだれが編集し,またどこで編集されているのかということは,きわめて重要な情報であった筈です。そしてその情報がステノにあるいはカトリックの上層部に齎されていたら,遺稿集が発刊されるということは困難だったと思われます。これらの情報があれば,遺稿集の発刊の前に編集者たちの発刊の準備を阻止することができたと推測できるからです。そしてその情報を,たぶんチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは知っていたと思われます。チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerと知り合うことによってスピノザとも知己になったのであり,そのシュラーと定期的に書簡で連絡を取っていたのはすでに述べた通りです。そしてそのシュラーは遺稿集の編集者のひとりなのですから,そのことをチルンハウスが知らなかったという方がむしろ不自然であるといわなければならないでしょう。
一旦はヤマニンウルスが前に出ましたが,外からノットゥルノが追い上げてノットゥルノの逃げに。勢い良く追い上げたこともありすぐに3馬身くらいのリードになりました。ミッキーファイトが2番手になって控えたヤマニンウルスは3番手。4番手にベルピット。5番手にアウトレンジ。6番手にシンメデージー。発馬後の向正面ではこの後ろにやや差がつきましたが,正面に入ると差は詰まり,アルバーシャが7番手,8番手にアナザートゥルース,9番手にサンマルパトロール,10番手にラジカルバローズで11番手にメルト。最後尾のファルコンウィングだけが離されました。ミドルペース。
ノットゥルノは快調に飛ばしていき,2周目の向正面に入ったあたりでリードは4馬身くらいに。ミッキーファイト,ヤマニンウルスは続いていきましたがベルピットは苦しくなり,アウトレンジが外から4番手に。3コーナーにかけてミッキーファイトがノットゥルノとの差を詰めていくとヤマニンウルスはやや離され,最終コーナーで外から追い上げてきたアウトレンジと併走。ただ前の2頭とは水が開いてしまいました。直線に入ってもノットゥルノはよく粘りましたが,外からミッキーファイトが差して優勝。逃げ粘ったノットゥルノがクビ差で2着。3着はヤマニンウルスとアウトレンジの競り合いに,内からシンメデージー,外からアナザートゥルース,さらに大外からサンマルパトロールも並んでいって接戦。内を回ったシンメデージーが4分の3馬身差で3着。大外のサンマルパトロールがクビ差の4着でアナザートゥルースがクビ差で5着。ヤマニンウルスがクビ差の6着でアウトレンジは4分の3馬身差で7着。
優勝したミッキーファイトはレパードステークス以来の勝利で重賞2勝目。これまで大きく崩れたことはなく,ジャパンダートクラシックでもフォーエバーヤングから1馬身4分の1差の2着に食い込んでいました。ここは5戦全勝のヤマニンウルスがいたために2番人気の評価でしたが,シンメデージーが3着に入っていることからも分かるように今年の3歳馬はレベルが高く,能力はこちらの方が上だったということでしょう。斤量差があるのに着差が僅かだった点はやや不満ですが,ここが古馬との初対戦でしたから仕方ないかもしれません。これまでの戦績から考えても,もっと上を目指せる馬だと思います。母の父はスペシャルウィーク。4代母がエアグルーヴで7代母がパロクサイド。5つ上の半兄が2019年の中京記念を勝ったグルーヴィットで4つ上の半兄が2022年にシリウスステークスとチャンピオンズカップを勝ったジュンライトボルト。
騎乗した戸崎圭太騎手と管理している田中博康調教師は名古屋大賞典初勝利。
ステノNicola Stenoの上申書の内容については,吉田は概ね次のように説明しています。
バチカン写本に含まれている思想は感染力が強い疾病のようなものであって,これ以上の感染をできる限り防ぐためには,また,すでにその疾病に毒されてしまっている人びとの治癒を推進するためには,この疾病の感染源とでもいうべきものを発見し,しかるべき対抗措置をとるために,努力してしすぎるということはないと思われる,というものです。
この上申書が提出されたのはすでに述べたように1677年9月4日です。スピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊されたのは同年の暮れになってからですから,この時点ではまだ未発刊でした。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,遺稿集の発刊を阻止しようと躍起になっていたのは,オランダのカルヴァン派だけではなくカトリックも同様であったとされていますが,このステノの上申書の内容からすると,その部分には信憑性があると解してよいようです。
一方でこのことは,次のようなことを推測させます。
カトリック陣営がスピノザの遺稿集の発刊を阻止したかったのであれば,それを阻止するためには全力を尽くしたと思われます。努力しすぎてしすぎるということはないというのは,上申書にみられるステノの意見というより,カトリック陣営の総意であったと思われるからです。そうであれば,それをだれが編集し,またどこで編集されているのかということは,きわめて重要な情報であった筈です。そしてその情報がステノにあるいはカトリックの上層部に齎されていたら,遺稿集が発刊されるということは困難だったと思われます。これらの情報があれば,遺稿集の発刊の前に編集者たちの発刊の準備を阻止することができたと推測できるからです。そしてその情報を,たぶんチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは知っていたと思われます。チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerと知り合うことによってスピノザとも知己になったのであり,そのシュラーと定期的に書簡で連絡を取っていたのはすでに述べた通りです。そしてそのシュラーは遺稿集の編集者のひとりなのですから,そのことをチルンハウスが知らなかったという方がむしろ不自然であるといわなければならないでしょう。