昨日の佐世保記念の決勝。並びは佐々木‐末木の上甲,深谷‐渡辺の静岡,窓場‐稲川‐村田の近畿,松浦‐荒井の西国。
渡辺がスタートを取って深谷の前受け。3番手に松浦,5番手に佐々木,7番手に窓場で周回。残り3周のバックから窓場が上昇開始。コーナーで深谷に並びかけるとホームで叩きました。コーナーで外から松浦が上昇し,バックで窓場を叩いて前に。佐々木がさらに外から松浦を叩いて打鐘。ホームでは末木が佐々木との車間を開けて待機。バックから松浦が発進。末木が牽制しましたが乗り越えました。しかしこのラインの後ろにいた窓場の捲りには抵抗できず,窓場が先頭。荒井が松浦から窓場にスイッチしましたが振り切った窓場が優勝。荒井が4分の3車輪差で2着。大外から捲り追い込んだ深谷が2車身差で3着。
優勝した京都の窓場千加頼選手は4月の向日町のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは松浦と深谷の実績が上位でしたが,窓場は脚力では遜色ないところまできているので,チャンスはあるとみていました。先行になっては苦しいと思っていたのですが,捲る展開になって力を出すことができたという印象。記念競輪はこれが初優勝なのですが,ビッグを獲得してもおかしくない選手だと思っています。
この部分は吉田の記述,正確にいえば講義の内容もどことなく不確かなものとなっています。吉田によれば,ステノNicola Stenoは,上申書を書いている間,バチカン写本が含んでいる毒に,たとえ偶然にでもだれかが触れてしまうことがないように,バチカン写本を肌身離さず持ち歩いていたと語っているそうです。もしステノのこのことばが,上申書を提出してからバチカン写本を提出するまでのおよそ3週間の期間を含んでいるのであれば,辻褄は合うことになります。しかしそうであるなら,ステノがどこでそのように語っているかということを問題としなければなりません。発見されたバチカン写本は発刊され,それに解説とステノの上申書が付せられているのですから,普通に考えればこれは上申書の中でステノが語っていることばだと思われます。実際にこの文章は,上申書を提出するまでの間はバチカン写本を肌身離さず持っていたというように読解できますから,上申書に書かれている内容であると解する方が自然でしょう。とすると,上申書を提出してからバチカン写本を提出するまでの3週間の期間のことはここには含まれていないということになるでしょう。もちろんその3週間の間も,ステノがバチカン写本を肌身離さず所持していたということは間違いないと僕は思いますが,なぜ上申書とバチカン写本の提出の間に3週間の期間があったのかということは謎として残ります。上申書はバチカン写本に関する説明なのですから,上申書の内容を審査するためには,資料としてバチカン写本が必要だったと僕には思えるからです。
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遺稿集Opera Posthumaは同年の暮れになってからオランダで発刊されました。ローマカトリックはその遺稿集に対して異例の早さで禁書指定に動き,実際に禁書となりました。これはステノのカトリックに対する大きな功績といえるでしょう。もちろんそれはカトリックに対するという前提なのであって,自由思想家にとってはステノの動きは迷惑なものでしかなかったことは間違いありません。
吉田によれば,ステノが科学の研究から完全に身を引いたのは,この上申書およびバチカン写本を異端審問の機関に提出した1677年のことであったそうです。
渡辺がスタートを取って深谷の前受け。3番手に松浦,5番手に佐々木,7番手に窓場で周回。残り3周のバックから窓場が上昇開始。コーナーで深谷に並びかけるとホームで叩きました。コーナーで外から松浦が上昇し,バックで窓場を叩いて前に。佐々木がさらに外から松浦を叩いて打鐘。ホームでは末木が佐々木との車間を開けて待機。バックから松浦が発進。末木が牽制しましたが乗り越えました。しかしこのラインの後ろにいた窓場の捲りには抵抗できず,窓場が先頭。荒井が松浦から窓場にスイッチしましたが振り切った窓場が優勝。荒井が4分の3車輪差で2着。大外から捲り追い込んだ深谷が2車身差で3着。
優勝した京都の窓場千加頼選手は4月の向日町のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは松浦と深谷の実績が上位でしたが,窓場は脚力では遜色ないところまできているので,チャンスはあるとみていました。先行になっては苦しいと思っていたのですが,捲る展開になって力を出すことができたという印象。記念競輪はこれが初優勝なのですが,ビッグを獲得してもおかしくない選手だと思っています。
この部分は吉田の記述,正確にいえば講義の内容もどことなく不確かなものとなっています。吉田によれば,ステノNicola Stenoは,上申書を書いている間,バチカン写本が含んでいる毒に,たとえ偶然にでもだれかが触れてしまうことがないように,バチカン写本を肌身離さず持ち歩いていたと語っているそうです。もしステノのこのことばが,上申書を提出してからバチカン写本を提出するまでのおよそ3週間の期間を含んでいるのであれば,辻褄は合うことになります。しかしそうであるなら,ステノがどこでそのように語っているかということを問題としなければなりません。発見されたバチカン写本は発刊され,それに解説とステノの上申書が付せられているのですから,普通に考えればこれは上申書の中でステノが語っていることばだと思われます。実際にこの文章は,上申書を提出するまでの間はバチカン写本を肌身離さず持っていたというように読解できますから,上申書に書かれている内容であると解する方が自然でしょう。とすると,上申書を提出してからバチカン写本を提出するまでの3週間の期間のことはここには含まれていないということになるでしょう。もちろんその3週間の間も,ステノがバチカン写本を肌身離さず所持していたということは間違いないと僕は思いますが,なぜ上申書とバチカン写本の提出の間に3週間の期間があったのかということは謎として残ります。上申書はバチカン写本に関する説明なのですから,上申書の内容を審査するためには,資料としてバチカン写本が必要だったと僕には思えるからです。
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遺稿集Opera Posthumaは同年の暮れになってからオランダで発刊されました。ローマカトリックはその遺稿集に対して異例の早さで禁書指定に動き,実際に禁書となりました。これはステノのカトリックに対する大きな功績といえるでしょう。もちろんそれはカトリックに対するという前提なのであって,自由思想家にとってはステノの動きは迷惑なものでしかなかったことは間違いありません。
吉田によれば,ステノが科学の研究から完全に身を引いたのは,この上申書およびバチカン写本を異端審問の機関に提出した1677年のことであったそうです。