人間が神Deusになってしまうのなら,それは人間にとっての完全性の喪失にほかならないのであり,このゆえにそれは悪malumであるとスピノザはいっているというようにフロムErich Seligmann Frommは『人間における自由Man for Himself』の中で解釈しています。このことを悪とフロムが結び付けているのは,第四部序言でスピノザがいっていることと関連します。すなわち,現実的に存在する人間が,人間の本性の型に近づく手段になるものが善bonumといわれ,それを妨げるものが悪といわれるのであれば,もし何らかのものが人間を神にする,すなわち人間の本性natura humanaを神の本性にするとしたら,それは人間を人間の本性の型に近付けるどころか,神の本性の型に近付けることによって人間の本性の型に近付けるのを妨げるのだから,そのものは悪であるということです。
この部分はこのように理解する限り,スピノザがいっていることと矛盾を来すものではありません。ただし当該部分のフロムの解釈には,いくらかの難点が残っているといえます。つまり上述したような僕の解釈とは異なった要素が組み込まれていると思われます。
まず最初に,スピノザは単に現実的に存在する人間が人間の本性の型に近づくことが人間にとっての善であるといっているわけではなく,その人間が,人間の本性の型に近づくと確知するcerto scimusのであれば,それがその人間にとっての善であるといういい方をしています。これは第四部定理八でいわれていることに代表されるように,スピノザは善や悪というのはものの本性に属するものではなくて,各個人の認識cognitioに依存する概念notioであるとみていることと関係します。ここで確知するといわれているのは,十全に認識するcognoscereという意味を含みますから,もし人間が十全に認識するということを前提するなら,そしてたぶんフロムはここではこのことを前提しているのですが,何が善と認識され何が悪と認識されるのかということは各人の間で一致するでしょう。しかし実際には人間は事物を混乱して認識し,しかしそれが確実であると思い込むことはあるのであって,その場合では各人の間で何が善であり何が悪であるのかということの認識が異なります。そしてスピノザはそのこともまた前提しているのです。
カトリックに改宗していたステノNicola Stenoに対して自著として『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を贈ることは危険であると思ったから,スピノザはステノには献本をしなかったものと僕は考えます。ただ,ステノがそれをどういうルートであるかは定かではないですが入手したことは間違いないのであって,それを読んだということ自体は,書簡六十七の二から明らかだといっていいでしょう。この書簡の冒頭部分は,確かにステノが『神学・政治論』を読んだのでなければ書くことができなかったであろう内容を含んでいるからです。
この『神学・政治論』は発売禁止の処分を受けています。これはその内容に危険な点が含まれていると判断されていたからです。当然ながらその危険な点というのは,キリスト教という宗教に関連する点なのであって,それが危険であるということはプロテスタントであろうとカトリックであろうと同様です。つまり『神学・政治論』はキリスト教にとっての危険な書物なのですから,カトリックにとっても,もちろんステノにとっても,危険な書物であったのは間違いないでしょう。
こうしたことを鑑みれば,たぶんそれを読めばスピノザの手によるものであったと分かっていたであろうし,実際にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがステノに対して著者がスピノザであるということを明かしたバチカン写本は,とくに内容を精査せずとも異端審問所に提出する価値があったであろうと想定されます。しかし吉田が指摘しているように,ステノはその内容を精査した上で提出しているのです。このこと自体ははっきりとそう断定できるわけではないのですが,ステノがバチカン写本を入手した時期と,上申書を異端審問機関に提出した時期の期間を考えると,どうしてもステノはその内容を精査していたとしか考えられません。
書簡六十七の二は,カトリックの立場からステノがスピノザを改心させようとする意図を明らかに含んでいます。だからスピノザが実際に改心したかもしれず,それを確認する必要があったから精査が必要であったということはできないわけではありません。しかしスピノザが改心するということをステノが本気で想定していたわけではないと僕には思えるのです。
この部分はこのように理解する限り,スピノザがいっていることと矛盾を来すものではありません。ただし当該部分のフロムの解釈には,いくらかの難点が残っているといえます。つまり上述したような僕の解釈とは異なった要素が組み込まれていると思われます。
まず最初に,スピノザは単に現実的に存在する人間が人間の本性の型に近づくことが人間にとっての善であるといっているわけではなく,その人間が,人間の本性の型に近づくと確知するcerto scimusのであれば,それがその人間にとっての善であるといういい方をしています。これは第四部定理八でいわれていることに代表されるように,スピノザは善や悪というのはものの本性に属するものではなくて,各個人の認識cognitioに依存する概念notioであるとみていることと関係します。ここで確知するといわれているのは,十全に認識するcognoscereという意味を含みますから,もし人間が十全に認識するということを前提するなら,そしてたぶんフロムはここではこのことを前提しているのですが,何が善と認識され何が悪と認識されるのかということは各人の間で一致するでしょう。しかし実際には人間は事物を混乱して認識し,しかしそれが確実であると思い込むことはあるのであって,その場合では各人の間で何が善であり何が悪であるのかということの認識が異なります。そしてスピノザはそのこともまた前提しているのです。
カトリックに改宗していたステノNicola Stenoに対して自著として『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を贈ることは危険であると思ったから,スピノザはステノには献本をしなかったものと僕は考えます。ただ,ステノがそれをどういうルートであるかは定かではないですが入手したことは間違いないのであって,それを読んだということ自体は,書簡六十七の二から明らかだといっていいでしょう。この書簡の冒頭部分は,確かにステノが『神学・政治論』を読んだのでなければ書くことができなかったであろう内容を含んでいるからです。
この『神学・政治論』は発売禁止の処分を受けています。これはその内容に危険な点が含まれていると判断されていたからです。当然ながらその危険な点というのは,キリスト教という宗教に関連する点なのであって,それが危険であるということはプロテスタントであろうとカトリックであろうと同様です。つまり『神学・政治論』はキリスト教にとっての危険な書物なのですから,カトリックにとっても,もちろんステノにとっても,危険な書物であったのは間違いないでしょう。
こうしたことを鑑みれば,たぶんそれを読めばスピノザの手によるものであったと分かっていたであろうし,実際にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがステノに対して著者がスピノザであるということを明かしたバチカン写本は,とくに内容を精査せずとも異端審問所に提出する価値があったであろうと想定されます。しかし吉田が指摘しているように,ステノはその内容を精査した上で提出しているのです。このこと自体ははっきりとそう断定できるわけではないのですが,ステノがバチカン写本を入手した時期と,上申書を異端審問機関に提出した時期の期間を考えると,どうしてもステノはその内容を精査していたとしか考えられません。
書簡六十七の二は,カトリックの立場からステノがスピノザを改心させようとする意図を明らかに含んでいます。だからスピノザが実際に改心したかもしれず,それを確認する必要があったから精査が必要であったということはできないわけではありません。しかしスピノザが改心するということをステノが本気で想定していたわけではないと僕には思えるのです。