スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

朝日杯フューチュリティステークス&上申書

2024-12-15 19:15:29 | 中央競馬
 第76回朝日杯フューチュリティステークス。岩田康誠騎手が移動中にスマートホンでコメント機能付きのYouTubeを視聴したため騎乗停止処分を受け,ダイシンラーは横山典弘騎手に変更。
 エルムラントは控えるような発馬で2馬身の不利。発馬後はダイシンラー,アドマイヤズーム,クラスペディアの3頭が横並び。2馬身差でコスモストームとトータルクラリティ。その後ろがミュージアムマイル,ランスオブカオス,アルテヴェローチェ,パンジャタワー,テイクイットオールの集団。その後ろがエイシンワンドとタイセイカレント。さらにアルレッキーノとドラゴンブースト。3馬身差の最後尾にエルムラント。道中でダイシンラーが単独の先頭に立ち2馬身ほどのリード。単独の2番手にアドマイヤズームとなりました。前半の800mは48秒0の超スローペース。この影響で折り合いに苦労する馬が多く見受けられました。
 3コーナーでもダイシンラーのリードは2馬身。アドマイヤズームの後ろがミュージアムマイルとトータルクラリティとなり,さらにその外からテイクイットオールとドラゴンブースト。直線の入口ではアドマイヤズームがダイシンラーに並び掛け,2馬身差でミュージアムマイル。アドマイヤズームがほどなく先頭に立つとそのまま抜け出して楽勝。追いかけたミュージアムマイルが2馬身半差の2着。外から脚を伸ばしたランスオブカオスが2馬身半差で3着。
 優勝したアドマイヤズームは重賞初挑戦での大レース制覇。10月の新馬を4着に負けた後,前走で未勝利を勝ったばかりでした。このレースは前走を1番人気か2番人気で勝ち,距離が1600mならなおよいというはっきりとした傾向があり,その傾向には合致していました。大きな差をつけて勝ったのは能力の証とみていいでしょう。レース内容からすると,このくらいの距離がベストで,距離延長はマイナスに働きそうに感じられます。父はモーリス。母の父はハーツクライ。5代母がクルーピアレディーの祖母にあたる同一牝系。
                            
 騎乗した川田将雅騎手JBCクラシック以来の大レース46勝目。第69回,72回,75回に続く連覇で朝日杯フューチュリティステークス4勝目。管理している友道康夫調教師はジャパンカップ以来の大レース24勝目。第70回,73回に続き3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス3勝目。

 一説ではステノNicola Stenoがカトリックへの改宗を決意したのは1667年だとされています。これは僕が知る限り,最も遅い年代です。ステノは1663年までライデン大学に在籍していましたが,この年に父親,というのは継父であったようですが,死んだのでデンマークに戻っています。その後にパリにいた時期があったようですが,1665年にはフィレンツェにいました。ですから1667年に改宗を決意したとなれば,これはイタリアに移ってからです。イタリアはカトリックの総本山ですから,カトリックに改宗したからイタリアに移ったとみることも可能ですが,イタリアに移ってから周囲の影響で改宗したとする方が自然かもしれません。いずれにしても『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』が発刊される以前にステノがカトリックに改宗していたのは間違いないと考えていいでしょう。書簡六十七の二が書かれたのが1671年であったにせよ1675年であったにせよ,その時点で間違いなくステノはカトリックの信者であったのであり,『神学・政治論』を読んでいましたし,スピノザとも依然として疎遠ではないと思っていたことになります。
 スピノザとステノ関係はそのようなものでしたから,バチカン写本を読んだとき,その著者がだれであるかは書かれていなかったものの,それがスピノザによるものであるということはステノには分かったろうと吉田は推測していますし,僕もその通りだと思います。もっともこの点については,ステノが異端審問所に提出した上申書の中に,バチカン写本の持ち主,というのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausのことでしょうが,白状したという旨のことが書かれているようです。つまりステノがバチカン写本を異端審問所に提出したとき,それがスピノザの手によるものだということについて,ステノは確信をもっていたということになります。
 スピノザが書いたものであるということについてはチルンハウスの告白によって確信していたステノですが,それをすぐに異端審問所に提出したわけではありません。数週間にわたってバチカン写本の内容を精査した後,1677年9月4日に,バチカンの異端審問の担当部局に,先述の上申書を提出したのです。
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