僕は高校1年くらいの時期には,確かに出っ歯に関連する被害妄想がありました。実はこの種の被害妄想が,『漱石日記』にもあります。僕からみても漱石はひどい被害妄想の持ち主であったと思えます。
漱石の日記は,自身の感情を吐露するものと,そうした要素をいっかな表出しないものとがあります.後者の日記を書いていたときにも,あるいは被害妄想を抱いていたかもしれませんが,明らかに頻出している部分があります。それが⑨の1914年10月から年末に書かれたもの。日記には書かれていませんが,漱石は留学中にも明らかに被害妄想と思われる感情を抱いていて,このふたつの時期は漱石の心境に似たような部分があったのかもしれません。
漱石の被害妄想の大枠は決まっています。何か他人の行動で嫌な思いをした場合に,それはその相手が自分に不快感を与えるために意図的になしていると判断することです。いろいろな例があるのですが,どの内容をみても,それは漱石の妄想にすぎず,相手がそんなことを意図しているわけがないと僕には思えます。大概の人がそのように感じるでしょう。
漱石の心情のダイナミズムだけをみれば,ここでは第三部定理四九備考でスピノザが示したことが生じていることになります。つまり相手が意図的に,要するに自由な意志で自分に嫌がらせをしていると漱石は妄想していたわけで,その分だけその相手に対する憎しみは,漱石の胸のうちでとても大きなものになっていたのではないでしょうか。日記を読めば,それを書かずにはいられないような漱石の心境だけは理解できます。
たびたび嫌な思いをさせられるのは,それだけ頻繁に関わっているからです。したがって被害妄想の中心をなす相手は,きわめて身近な人間です。留学中でいえば下宿先の同居人であり,日記の当該部分であれば,夫人や女中といった人たちです。そうした人たちからみれば,自身が漱石に腹を立てられなければならない理由というのが不明であった筈です。少なくともこの時期の漱石の近辺では,憎しみの連鎖というのが日常的に発生していたのではないかと思えます。
僕が初めて『エチカ』を読んだのは学生時代です。哲学的興味はそれ以前からありましたし,それ以降も現在まで継続しています。そうした哲学的思索の過程の中で,僕は人間には自由意志が存在しないという結論に至りました。老人に席を譲る場合という具体例で考えて得ることができた結論でした。つまり第一部定理三二というのを,人間の精神にだけ該当させたなら,僕は自力でそこまでは辿りついたことになります。その後で僕は,もしも自由意志というものが自然のうちに存在するのだとしたら,それは神の意志をおいてほかにはあり得ないだろうと推測したのです。
スピノザだけでなく,デカルトを読んだこともありましたから,哲学の中で神という概念に触れたことはあったわけです。しかしそれまでの僕にとって,神というのはスピノザやデカルトが示しているような意味において概念的に把握できるような何かでしかなく,具体的なイメージが伴ったものではありませんでした。僕が神を初めて具体的なものとして把握することができたのが,この自由意志の主体として僕自身が措定した存在のことでした。要するに自然は,あるいは世界はとか,宇宙はといってもよいですが,それは神の意志によって始まるのだというように規定したわけです。
このときに僕はスピノザの哲学に対するあるインスピレーションを感じたのです。なぜそう感じたのかということは,今となってはよく分からないところがあるのですが,たぶんその当時の僕にとって,スピノザが示している世界観のイメージというものは,そのときに僕が規定したような世界観に重なり合っていたのだろうと思います。
それで僕は再び『エチカ』を読むことになりました。そして,僕が規定したような世界と,スピノザが主張している世界というのは,実際にはいっかな重なり合わないようなものであるということを理解したのです。ただ,僕は,神が自由意志によって世界を創造したというようには規定していても,それが善意であるというようには少しも考えませんでしたし,この現実世界に対して、何らかの可能世界があるとも少しも考えてはいませんでした。
漱石の日記は,自身の感情を吐露するものと,そうした要素をいっかな表出しないものとがあります.後者の日記を書いていたときにも,あるいは被害妄想を抱いていたかもしれませんが,明らかに頻出している部分があります。それが⑨の1914年10月から年末に書かれたもの。日記には書かれていませんが,漱石は留学中にも明らかに被害妄想と思われる感情を抱いていて,このふたつの時期は漱石の心境に似たような部分があったのかもしれません。
漱石の被害妄想の大枠は決まっています。何か他人の行動で嫌な思いをした場合に,それはその相手が自分に不快感を与えるために意図的になしていると判断することです。いろいろな例があるのですが,どの内容をみても,それは漱石の妄想にすぎず,相手がそんなことを意図しているわけがないと僕には思えます。大概の人がそのように感じるでしょう。
漱石の心情のダイナミズムだけをみれば,ここでは第三部定理四九備考でスピノザが示したことが生じていることになります。つまり相手が意図的に,要するに自由な意志で自分に嫌がらせをしていると漱石は妄想していたわけで,その分だけその相手に対する憎しみは,漱石の胸のうちでとても大きなものになっていたのではないでしょうか。日記を読めば,それを書かずにはいられないような漱石の心境だけは理解できます。
たびたび嫌な思いをさせられるのは,それだけ頻繁に関わっているからです。したがって被害妄想の中心をなす相手は,きわめて身近な人間です。留学中でいえば下宿先の同居人であり,日記の当該部分であれば,夫人や女中といった人たちです。そうした人たちからみれば,自身が漱石に腹を立てられなければならない理由というのが不明であった筈です。少なくともこの時期の漱石の近辺では,憎しみの連鎖というのが日常的に発生していたのではないかと思えます。
僕が初めて『エチカ』を読んだのは学生時代です。哲学的興味はそれ以前からありましたし,それ以降も現在まで継続しています。そうした哲学的思索の過程の中で,僕は人間には自由意志が存在しないという結論に至りました。老人に席を譲る場合という具体例で考えて得ることができた結論でした。つまり第一部定理三二というのを,人間の精神にだけ該当させたなら,僕は自力でそこまでは辿りついたことになります。その後で僕は,もしも自由意志というものが自然のうちに存在するのだとしたら,それは神の意志をおいてほかにはあり得ないだろうと推測したのです。
スピノザだけでなく,デカルトを読んだこともありましたから,哲学の中で神という概念に触れたことはあったわけです。しかしそれまでの僕にとって,神というのはスピノザやデカルトが示しているような意味において概念的に把握できるような何かでしかなく,具体的なイメージが伴ったものではありませんでした。僕が神を初めて具体的なものとして把握することができたのが,この自由意志の主体として僕自身が措定した存在のことでした。要するに自然は,あるいは世界はとか,宇宙はといってもよいですが,それは神の意志によって始まるのだというように規定したわけです。
このときに僕はスピノザの哲学に対するあるインスピレーションを感じたのです。なぜそう感じたのかということは,今となってはよく分からないところがあるのですが,たぶんその当時の僕にとって,スピノザが示している世界観のイメージというものは,そのときに僕が規定したような世界観に重なり合っていたのだろうと思います。
それで僕は再び『エチカ』を読むことになりました。そして,僕が規定したような世界と,スピノザが主張している世界というのは,実際にはいっかな重なり合わないようなものであるということを理解したのです。ただ,僕は,神が自由意志によって世界を創造したというようには規定していても,それが善意であるというようには少しも考えませんでしたし,この現実世界に対して、何らかの可能世界があるとも少しも考えてはいませんでした。
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