漱石の小学生の頃のことを考えるときに,明治維新は漱石が産まれた後の出来事だった,つまり漱石が産まれたのは末期であったとはいえ江戸時代であったということと,江戸時代の身分でいえば漱石は最上級であった武士の家庭に出自をもっていたということは,見逃してはいけないと思います。そして幼少期の漱石自身は,当然のように自身が武士の出自ということに,一種のアイデンティティーを抱いていました。そのことを資料として明らかにしているもののうち,『漱石追想』の中で僕の興味を惹起させるエピソードを含んでいたのは,篠本二郎による「腕白時代の夏目君」というものです。
すでに紹介したように,漱石は養父母の離婚によって転校していますが,牛込薬王寺前町の小学校で同級だったと篠本は書いていますので,これは市ヶ谷の小学校です。漱石は養父母の離婚で生家に戻っていますが,戸籍上は養子に入った塩原のままでした。夏目家から通っていて,小学校で塩原を名乗っていたのか夏目を名乗っていたのかは分かりません。
著者である篠本二郎は,生年も没年も不詳となっていますが,小学校で同級生だったのですから,生年は漱石と同じか違っても1年くらいでしょう。この人も出自は武士でした。後に鉱物学の専門家となって,教授を歴任した後に,鉱山の調査に従事したとのことです。このうち,篠本が教授を務めた五高というのは熊本の学校で,漱石もイギリスに留学したときに勤務していたところです。漱石がここの教授になった時点では,篠本は鹿児島の七高に転任していたか,あるいはすでに鉱山の調査員になっていたようですが,顔を合わせることにはなったそうです。
篠本による「腕白時代の夏目君」の初出は,昭和10年版の漱石全集の月報第二号となっています。どういう意味か僕には分かりませんが,昭和10年12月にこの月報というのが発行されて,その中に掲載されたということでしょう。篠本は文章の末尾に2月19日という日付を付していて,これはおそらく昭和10年の2月19日を意味すると思われます。月報ですから月刊で,第一号が11月に出ている筈ですが,何らかの理由でそこには掲載することができなかったのでしょう。
第一部定理二五備考では,神Deusは自己原因causa suiであるのと同じ意味において,すべてのものの起成原因causa efficiensであるといわれなければならないといわれています。備考Scholiumでは単に原因といわれていますが,スピノザがいう原因というのは一律に起成原因を意味するので,このように解して間違いありません。したがって,第二部定理八でいわれている個物res singularisないし様態modiの形相的本性essentia formalisに対して,神は自己原因であるというのと同じ意味において起成原因であることになります。これに対して,円と長方形との間にはこのような関係はありません。円は自己原因であるわけではありませんし,長方形の起成原因でもありません。では円あるいは長方形の起成原因というのが何かといえば,第一部定理二五備考から,神でなければなりません。つまり,長方形は,円が有している本性naturaのゆえに存在しまた概念するconcipereことができるものではあるのですが,だからといって起成原因が円であるということではなく,起成原因は神でなければなりません。この点を見失うと,やはりこの備考を適切に理解することはできないだろうと僕は考えます。スピノザは備考の冒頭で,これを十分に説明する例を挙げることはできないといっていますが,そこにはこのような事情が含まれていると考えることができます。
備考の内容を,定理Propositioおよび系Corollariumと合わせるのであれば,円は自己原因であって,かつ円が自己原因であるというのと同じ意味で長方形の起成原因であると解する必要があります。しかし,ここまでに詳述した事情から実際にはこのように概念することはできませんから,むしろこの備考は表象imaginatioの上で判断する方が,僕たちには判断しやすいといえるのです。ですからなおのことこの備考の例示に関しては,正しく解する上では十分な注意が必要とされることになるのです。
円の中には無限に多くのinfinita長方形があるということに関しては,柏葉の論文の対象になっています。柏葉がいうには,円の中には無限に多くの長方形があるのだけれども,その無限に多くの長方形のすべてが存在するということは不可能です。いい換えれば,それらの長方形のすべてが現実的に存在することはあり得ないと指摘しているのです。
すでに紹介したように,漱石は養父母の離婚によって転校していますが,牛込薬王寺前町の小学校で同級だったと篠本は書いていますので,これは市ヶ谷の小学校です。漱石は養父母の離婚で生家に戻っていますが,戸籍上は養子に入った塩原のままでした。夏目家から通っていて,小学校で塩原を名乗っていたのか夏目を名乗っていたのかは分かりません。
著者である篠本二郎は,生年も没年も不詳となっていますが,小学校で同級生だったのですから,生年は漱石と同じか違っても1年くらいでしょう。この人も出自は武士でした。後に鉱物学の専門家となって,教授を歴任した後に,鉱山の調査に従事したとのことです。このうち,篠本が教授を務めた五高というのは熊本の学校で,漱石もイギリスに留学したときに勤務していたところです。漱石がここの教授になった時点では,篠本は鹿児島の七高に転任していたか,あるいはすでに鉱山の調査員になっていたようですが,顔を合わせることにはなったそうです。
篠本による「腕白時代の夏目君」の初出は,昭和10年版の漱石全集の月報第二号となっています。どういう意味か僕には分かりませんが,昭和10年12月にこの月報というのが発行されて,その中に掲載されたということでしょう。篠本は文章の末尾に2月19日という日付を付していて,これはおそらく昭和10年の2月19日を意味すると思われます。月報ですから月刊で,第一号が11月に出ている筈ですが,何らかの理由でそこには掲載することができなかったのでしょう。
第一部定理二五備考では,神Deusは自己原因causa suiであるのと同じ意味において,すべてのものの起成原因causa efficiensであるといわれなければならないといわれています。備考Scholiumでは単に原因といわれていますが,スピノザがいう原因というのは一律に起成原因を意味するので,このように解して間違いありません。したがって,第二部定理八でいわれている個物res singularisないし様態modiの形相的本性essentia formalisに対して,神は自己原因であるというのと同じ意味において起成原因であることになります。これに対して,円と長方形との間にはこのような関係はありません。円は自己原因であるわけではありませんし,長方形の起成原因でもありません。では円あるいは長方形の起成原因というのが何かといえば,第一部定理二五備考から,神でなければなりません。つまり,長方形は,円が有している本性naturaのゆえに存在しまた概念するconcipereことができるものではあるのですが,だからといって起成原因が円であるということではなく,起成原因は神でなければなりません。この点を見失うと,やはりこの備考を適切に理解することはできないだろうと僕は考えます。スピノザは備考の冒頭で,これを十分に説明する例を挙げることはできないといっていますが,そこにはこのような事情が含まれていると考えることができます。
備考の内容を,定理Propositioおよび系Corollariumと合わせるのであれば,円は自己原因であって,かつ円が自己原因であるというのと同じ意味で長方形の起成原因であると解する必要があります。しかし,ここまでに詳述した事情から実際にはこのように概念することはできませんから,むしろこの備考は表象imaginatioの上で判断する方が,僕たちには判断しやすいといえるのです。ですからなおのことこの備考の例示に関しては,正しく解する上では十分な注意が必要とされることになるのです。
円の中には無限に多くのinfinita長方形があるということに関しては,柏葉の論文の対象になっています。柏葉がいうには,円の中には無限に多くの長方形があるのだけれども,その無限に多くの長方形のすべてが存在するということは不可能です。いい換えれば,それらの長方形のすべてが現実的に存在することはあり得ないと指摘しているのです。
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