スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

お~いお茶杯王位戦&合倫理性と有徳性

2023-05-19 19:17:02 | 将棋
 昨日の第64期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は羽生善治九段が3勝,佐々木大地七段が1勝。
 振駒で佐々木七段の先手となり相掛り。後手の羽生九段が攻める展開になりました。
                                        
 ここで☖4三桂と打ちました。
 後手は☗6三歩成☖同銀と成り捨ててから☗6六銀と逃げました。
 飛車取りになっていますので後手は☖5四飛。先手が☗7九銀と6八の金にヒモをつけたのに対して☖8二香。このあたりの後手の手順に問題があったようです。
 先手は☗6五銀と上がり飛車取りなので☖5五飛。
                                        
 第2図となって打った4三の桂馬が狙われる駒になってしまい,後手が不利に陥りました。
 佐々木七段が勝って挑戦者に。王位戦七番勝負には初出場。第一局は7月7日と8日に指される予定です。

 第四部定理二四でいわれているように,現実的に存在する人間が有徳的であるといわれるのは,その人間が理性ratioの導きに従っている限りです。よってもしある人間が他者に対する憎しみodiumのゆえにその他者に害悪を与えることを断念するとき,もしその人間が理性に従って害悪を与えることを断念しているのであれば,その人間は有徳的であるといえます。しかしそうでない場合,たとえば憎しみとは異なった不安metusのような感情affectusによって害悪を与えることを断念するのであれば,その人間は有徳的であるとはいえません。スピノザが第四部定理六三でいっているように,不安に導かれてmalumを避けて善bonumをなすとき,その人は理性に従っていないことになるからです。
 これでみれば分かるように,スピノザの哲学では合倫理的であるということと有徳的であることとは異なります。合倫理的であるということは現実的に存在するある人間の行為だけで判定することができるのですが,有徳的であるということは行為だけでは判断できず,行為の原因causaによって判断されなければならないからです。もしある人間が有徳的であるのなら合倫理的であることができますが,合倫理的であるからといって有徳的であるとはいうことができません。いい換えれば,ある人間は合倫理的であるけれども有徳的ではないという場合があることになります。
 この相違は,僕の考えでは,有徳的であるということは個人に帰せられるのに対して,合倫理的であるということは共同体とか社会societasといった人間の集団に帰せられるからです。つまり,共同体なり社会なりを円滑に進めていくことの手段としてあるのが倫理であって,徳virtusというのはそうした手段とは別の,諸個人の生き方と関連ささせられているのです。
 よって,第三部定理三九でいわれていることのうち,他者を愛しているときにその人に親切をなすということも,それ自体で合倫理的ではあるのですが,それだけで有徳的であるとはいえないことになります。愛amorという感情は喜びlaetitiaの一種ですから,第三部定理五九によりその人間の能動actioであり得ます。つまりその人間の理性から生じ得る感情です。この場合は無条件で有徳的であることになります。

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