昨日の伊東温泉記念の決勝。並びは深谷‐松坂の南関東,寺崎‐村田‐椎木尾の近畿,北津留‐坂口の西日本で新田と長島は単騎。
寺崎も出ていきましたが外から追い抜いた新田がスタートを取って前受け。2番手に寺崎,5番手に深谷,7番手に北津留,最後尾に長島という周回に。残り4周のバックの出口から北津留が上昇。長島も続きました。この3人がホームで新田に並ぶと,バックに入って新田が引き,北津留が誘導の後ろに。すると今度は寺崎が上昇。残り2周のホームで北津留を叩いたのですが,椎木尾が牽制を受けて離れてしまい,3番手に北津留,5番手に椎木尾,6番手に長島,7番手に新田,8番手に深谷という一列棒状になって打鐘。ホームから北津留が発進しましたが,寺崎自身が牽制すると北津留は浮いてしまい不発。その外から長島が捲るとバックの出口で寺崎の前に。この長島の動きに乗ったのが新田でさらにそれに続いたのが深谷。このふたりが先捲りの長島をさらに捲りました。直線は深谷が新田との差を詰めたものの届かず,優勝は新田。深谷が半車輪差で2着。深谷マークの松坂が1車身半差の3着で長島は1車輪差の4着。
優勝した福島の新田祐大選手は昨年9月の青森記念以来の優勝で記念競輪8勝目。伊東温泉記念は初勝利ですが,2014年4月の共同通信社杯と2017年7月のサマーナイトフェスティバルの優勝が当地であります。このレースは脚力は新田が上位で深谷が次位。かなり早い段階から北津留と寺崎が競り合うようなレースになり,その後ろにいた長島が捲ったのですが,さらに上から捲られたのは脚力の差でしょう。長島の後ろで深谷より前という位置を取ることができたのが,新田にとって最大の勝因になったのだと思います。
第五部定理三証明のために用いられている第二部定理二一の論証Demonstratioの強力な根拠となっているのは,第二部定理七です。つまり,観念idearum idemとその観念対象ideatumの秩序ordoと連結connexioが同一であるということによって,ある観念とその観念の観念idea ideaeは同一個体であるといわれているのです。つまり,ある観念とその観念の観念の秩序と連結は一致しなければなりません。
次に,ある人間の精神mens humanaのうちに混乱した観念idea inadaequataがあるというのは,その人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神Deusのうちにそのものの観念があるということです。他面からいえば,その観念はその人間の精神と関連付けられるだけでは混乱した観念ですが,この仕方で神と関連付けられ,神のうちにあるとみられるのなら十全adaequatumです。ところで,観念とその観念の観念が同一個体であるのなら,その観念の秩序と連結が観念の観念の秩序と連結に一致しなければなりません。つまりある観念の観念は,その観念が神と関連付けられるのと同じ秩序と連結で神と関連付けられなければなりません。よってもしも観念がある人間の精神とだけ関連付けられて混乱しているといわれるのであれば,その観念の観念も,その人間の精神とだけ関連付けられるのなら,観念が混乱しているのと同様に,混乱しているといわなければならないことになります。
このことは,おそらく次のように考えた方が分かりやすいかと思います。
ここにある人間が現実的に存在しているとして,その人間が悲しみtristitiaを感じているとします。そしてその人間が,自分が悲しみを感じていると認識したとしましょう。これが上述の観念と観念の観念の関係になります。ここでは第五部定理三について探求しているので,それに合わせて観念ではなく感情Affectusで説明しています。
このとき,この認識cognitioによってその人間が悲しみから免れたかといえばそんなことはありません。自分が悲しみを感じていると認識している人間が,悲しみを感じていないというのは,それ自体で矛盾だといわなければならないからです。つまりこの認識によって,その人間は悲しみを感じなくなる,いい換えれば悲しみの受動passioを止めるというわけではありません。
寺崎も出ていきましたが外から追い抜いた新田がスタートを取って前受け。2番手に寺崎,5番手に深谷,7番手に北津留,最後尾に長島という周回に。残り4周のバックの出口から北津留が上昇。長島も続きました。この3人がホームで新田に並ぶと,バックに入って新田が引き,北津留が誘導の後ろに。すると今度は寺崎が上昇。残り2周のホームで北津留を叩いたのですが,椎木尾が牽制を受けて離れてしまい,3番手に北津留,5番手に椎木尾,6番手に長島,7番手に新田,8番手に深谷という一列棒状になって打鐘。ホームから北津留が発進しましたが,寺崎自身が牽制すると北津留は浮いてしまい不発。その外から長島が捲るとバックの出口で寺崎の前に。この長島の動きに乗ったのが新田でさらにそれに続いたのが深谷。このふたりが先捲りの長島をさらに捲りました。直線は深谷が新田との差を詰めたものの届かず,優勝は新田。深谷が半車輪差で2着。深谷マークの松坂が1車身半差の3着で長島は1車輪差の4着。
優勝した福島の新田祐大選手は昨年9月の青森記念以来の優勝で記念競輪8勝目。伊東温泉記念は初勝利ですが,2014年4月の共同通信社杯と2017年7月のサマーナイトフェスティバルの優勝が当地であります。このレースは脚力は新田が上位で深谷が次位。かなり早い段階から北津留と寺崎が競り合うようなレースになり,その後ろにいた長島が捲ったのですが,さらに上から捲られたのは脚力の差でしょう。長島の後ろで深谷より前という位置を取ることができたのが,新田にとって最大の勝因になったのだと思います。
第五部定理三証明のために用いられている第二部定理二一の論証Demonstratioの強力な根拠となっているのは,第二部定理七です。つまり,観念idearum idemとその観念対象ideatumの秩序ordoと連結connexioが同一であるということによって,ある観念とその観念の観念idea ideaeは同一個体であるといわれているのです。つまり,ある観念とその観念の観念の秩序と連結は一致しなければなりません。
次に,ある人間の精神mens humanaのうちに混乱した観念idea inadaequataがあるというのは,その人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神Deusのうちにそのものの観念があるということです。他面からいえば,その観念はその人間の精神と関連付けられるだけでは混乱した観念ですが,この仕方で神と関連付けられ,神のうちにあるとみられるのなら十全adaequatumです。ところで,観念とその観念の観念が同一個体であるのなら,その観念の秩序と連結が観念の観念の秩序と連結に一致しなければなりません。つまりある観念の観念は,その観念が神と関連付けられるのと同じ秩序と連結で神と関連付けられなければなりません。よってもしも観念がある人間の精神とだけ関連付けられて混乱しているといわれるのであれば,その観念の観念も,その人間の精神とだけ関連付けられるのなら,観念が混乱しているのと同様に,混乱しているといわなければならないことになります。
このことは,おそらく次のように考えた方が分かりやすいかと思います。
ここにある人間が現実的に存在しているとして,その人間が悲しみtristitiaを感じているとします。そしてその人間が,自分が悲しみを感じていると認識したとしましょう。これが上述の観念と観念の観念の関係になります。ここでは第五部定理三について探求しているので,それに合わせて観念ではなく感情Affectusで説明しています。
このとき,この認識cognitioによってその人間が悲しみから免れたかといえばそんなことはありません。自分が悲しみを感じていると認識している人間が,悲しみを感じていないというのは,それ自体で矛盾だといわなければならないからです。つまりこの認識によって,その人間は悲しみを感じなくなる,いい換えれば悲しみの受動passioを止めるというわけではありません。
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