12月26日に指された第49期棋王戦挑戦者決定戦二番勝負第二局。
振駒で伊藤匠七段の先手で相掛り。後手の広瀬章人九段が工夫を凝らした駒組をしたので,類似形が少ない力戦になりました。
ここで先手は☗8六銀と上がりました。後手は☖7六銀と取ることができたのですが,そうはせずに☖6三金と上がり,飛車を5筋に回れるようにしました。先手は☗4七銀と引いて5筋を強化。そこで先手は☖3四歩と合わせていきました。
☗同歩☖同銀は先手が損をしますので,☗5五角と歩を取りました。後手が☖3五歩と取り返したところで☗4五歩☖同歩と突き捨てました。
第2図から☗6八金右と寄って一呼吸置きましたが,これで玉の固さと駒の働きの差で先手が指しやすくなっているようです。後手が正しく応対したというわけではないのでしょうが,この将棋は先手の構想力が素晴らしかった一局だと思います。
連勝で伊藤七段が挑戦者に。棋王戦五番勝負には初出場。第一局は来月4日に指される予定です。
この私見はスピノザの哲学と関係をもっていますので,簡単に説明しておきます。
僕が人間の現実的本性actualis essentiaというのは,人間の欲望cupiditasのことです。これは第三部諸感情の定義一によります。一方,事物の現実的本性は,コナトゥスconatusともいわれます。こちらは第三部定理七によります。この定理は人間だけに適用されるわけではなく,現実的に存在するすべてのものに適用されます。つまり現実的に存在するすべてのものは,自己の有に固執するのであって,人間もそうした事物のひとつですから,各々の人間はそれぞれの自己の有に固執するのであって,とくに人間の場合はそれが欲望として現れる,あるいは欲望として認識されるのです。
より小なる実在性realitasからより大なる実在性に移行するとき,人間は喜びlaetitiaを感じます。逆により大なる実在性からより小なる実在性に移行するときには人間は悲しみtristitiaを感じます。これらは第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三によります。これらの定義では実在性ではなく完全性perfectioといわれていますが,スピノザの哲学ではこれらは同じことを意味します。これは第二部定義六によります。
現実的に存在する人間は,自己の有を維持しようとするのですから,より小なる実在性からより大なる実在性に移行することは希求しますし,より大なる実在性からより小なる実在性に移行することは忌避します。つまり現実的に存在する人間は各々の喜びを希求し各々の悲しみを忌避するのです。これがそれぞれの人間には欲望として認識されることになります。すなわち僕たちの欲望はほとんどの場合で,喜びを希求する欲望か悲しみを忌避する欲望にパターン化することができるのです。
グループホームの利用者を家に連れて帰りたいという家族の欲望は,喜びを希求する欲望であることになります。欲望は現実的本性なので,僕はこれを現実的本性というのです。そしてこのことで家族に喜びが生じるのは自然なことであると僕は解します。だから現行の制度は人間の現実的本性にはそぐわないと僕は考えるのです。他面からいえば,現行の制度は,利用者を家に連れて帰ることを家族は忌避するという観点から設計されていることになるのです。
振駒で伊藤匠七段の先手で相掛り。後手の広瀬章人九段が工夫を凝らした駒組をしたので,類似形が少ない力戦になりました。
ここで先手は☗8六銀と上がりました。後手は☖7六銀と取ることができたのですが,そうはせずに☖6三金と上がり,飛車を5筋に回れるようにしました。先手は☗4七銀と引いて5筋を強化。そこで先手は☖3四歩と合わせていきました。
☗同歩☖同銀は先手が損をしますので,☗5五角と歩を取りました。後手が☖3五歩と取り返したところで☗4五歩☖同歩と突き捨てました。
第2図から☗6八金右と寄って一呼吸置きましたが,これで玉の固さと駒の働きの差で先手が指しやすくなっているようです。後手が正しく応対したというわけではないのでしょうが,この将棋は先手の構想力が素晴らしかった一局だと思います。
連勝で伊藤七段が挑戦者に。棋王戦五番勝負には初出場。第一局は来月4日に指される予定です。
この私見はスピノザの哲学と関係をもっていますので,簡単に説明しておきます。
僕が人間の現実的本性actualis essentiaというのは,人間の欲望cupiditasのことです。これは第三部諸感情の定義一によります。一方,事物の現実的本性は,コナトゥスconatusともいわれます。こちらは第三部定理七によります。この定理は人間だけに適用されるわけではなく,現実的に存在するすべてのものに適用されます。つまり現実的に存在するすべてのものは,自己の有に固執するのであって,人間もそうした事物のひとつですから,各々の人間はそれぞれの自己の有に固執するのであって,とくに人間の場合はそれが欲望として現れる,あるいは欲望として認識されるのです。
より小なる実在性realitasからより大なる実在性に移行するとき,人間は喜びlaetitiaを感じます。逆により大なる実在性からより小なる実在性に移行するときには人間は悲しみtristitiaを感じます。これらは第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三によります。これらの定義では実在性ではなく完全性perfectioといわれていますが,スピノザの哲学ではこれらは同じことを意味します。これは第二部定義六によります。
現実的に存在する人間は,自己の有を維持しようとするのですから,より小なる実在性からより大なる実在性に移行することは希求しますし,より大なる実在性からより小なる実在性に移行することは忌避します。つまり現実的に存在する人間は各々の喜びを希求し各々の悲しみを忌避するのです。これがそれぞれの人間には欲望として認識されることになります。すなわち僕たちの欲望はほとんどの場合で,喜びを希求する欲望か悲しみを忌避する欲望にパターン化することができるのです。
グループホームの利用者を家に連れて帰りたいという家族の欲望は,喜びを希求する欲望であることになります。欲望は現実的本性なので,僕はこれを現実的本性というのです。そしてこのことで家族に喜びが生じるのは自然なことであると僕は解します。だから現行の制度は人間の現実的本性にはそぐわないと僕は考えるのです。他面からいえば,現行の制度は,利用者を家に連れて帰ることを家族は忌避するという観点から設計されていることになるのです。
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