スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

九十九島賞争奪戦&視力

2013-12-16 19:00:09 | 競輪
 西日本地区では今年最後の記念競輪になる佐世保記念の決勝。並びは桐山ー諸橋の東日本,川村-坂上の近畿中部,山田ー井上ー渡部で西国となり,佐藤と野田は単騎。
 周囲の様子を窺いながら桐山がスタートを取って前受け。野田を挟んで4番手に山田。佐藤を挟んで8番手から川村の周回。残り2周のホームから山田が前との車間を広げて川村を牽制,その状態のままバックから発進して打鐘からのかまし先行。4番手に続いた佐藤は前で待っていた桐山に弾かれて後退。さらに桐山はホームでインから渡部を掬って3番手に。後ろで脚を溜めていた川村が捲っていくとこのスピードがよく,井上は併せられずに後を追っていくのがやっと。そのままだれも寄せ付けなかった川村が優勝。番手発進の井上が1車身差で2着。川村にやや離れ加減であったものの何とかくらいついて坂上が4分の3車身差の3着。
 優勝した京都の川村晃司選手は先週の広島記念で記念競輪初優勝を決めたばかり。このレースはメンバー構成からやや難しそうな印象がありましたが,周回中に脚を使う必要がなく,桐山の動きで隊列も短くなったので,僕が思っていた以上の楽勝になりました。ラインの前を回った中では脚力は最上位で,好調も間違いないところですから,順当な結果に終ったというのが正しいかもしれません。

 このとき,僕は10番目の患者でした。診療の開始時刻は午前9時半でしたが,院内にはそれ以前から入れるようになっていまして,もっと早くに来て診療を待っていた人が9人いたということになります。О眼科はいつも患者の数が多く,下手をすると平気で20人待ちくらいの状況になりますから,これくらいならば十分であり,僕としてもこれ以上は早く行く気にはなれません。
 いつもは呼ばれて眼圧測定をして,それから視力検査をしていたのですが,この日は先に視力検査をして,その後で眼圧測定でした。どういった理由でそうなったのかは分かりませんが,要する時間に変わりはありませんから,僕としてはこの順番はどちらでも構わないところです。
 視力はこの日も左目で0.08まで見えました。実をいうと日常生活の中では,視力が衰えていると感じることの方が多いのですが,実際には変化していませんし,何年か前と比べたなら,むしろ良くなっていることになり,これは不思議に感じられます。一方,眼圧はどういう理由か分かりませんが,僕はいつでも高めの数値が出ます。とくにこの日の左目の21mmHgというのは,過去最高でした。主目的の網膜症に関しては問題なしでした。
 実はこの日,眼鏡の上に装着するサングラスを忘れてしまいました。横浜はこの時期は晴れることが多く,この日もそうでしたので,帰りは眩しくて難儀しました。11時前には帰宅できましたから,早く行ったかいがあったとはいえるでしょう。午後からは長者町でしたが,この日は散瞳の効果が長く続いてしまったので,当初の予定よりも少しだけ時間を遅らせなければなりませんでした。
 また,この日から妹がショートステイに出掛けました。2泊3日で磯子区内の施設を利用。ショートステイは20日前後に組まれるケースが多いですが,12月なのであまり遅くなるよりは早い方がいいだろうという作業所の配慮があったのではないかと推測します。もっともこれは単なる推測ですから,単にショートステイ先の空き状況によるものであったかもしれません。火曜日からでしたが,今月は荷物は前日に運搬し,当日は母が送っています。
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朝日杯フューチュリティステークス&最初の先生

2013-12-15 19:13:00 | 中央競馬
 2歳チャンピオンを決める第65回朝日杯フューチュリティステークス
 ショウナンワダチは出負け。最内枠を引いたのですからベルカントが逃げたのは当然。コース形態もあって隊列が定まるのに時間を要しましたが,追っていったのはエルカミーノレアル,マイネルディアベル,掛かっていたと思えるプレイアンドリアル,ウインフルブルームといったあたりで,サトノロブロイ,アトム,ショウナンアチーヴまではほぼ集団になりました。その後ろのインにアジアエクスプレス。前半の800mは46秒8で,ミドルペースといっていいでしょう。
 直線は先行勢が横に広がりましたが,その中から抜け出したのはウインフルブルームとショウナンアチーヴ。この2頭は激しく競り合いましたが,コーナーの半ばあたりから外に出したアジアエキスプレスがこの2頭の外から差し込み,最後は抜け出して優勝。激しい競り合いはショウナンアチーヴに軍配が上がり,1馬身4分の1の差で2着。競り負けたウインフルブルームがクビ差で3着。
 優勝したアジアエクスプレスはここまで2戦2勝。初戦が5馬身,2戦目が7馬身という大差をつけてのもので,能力の高さはおそらく随一。ただその2戦はいずれもダートですので,未知数の部分もかなり大きいという存在でした。全日本2歳優駿に回れば大本命でしたでしょうが,鞍上の進言もありこちらに出走。見事に芝もこなしての大レース制覇となりました。どの程度の成長力があるかは分かりませんが,ダートの方がむしろ向くのではないかと思いますので,来年以降も活躍できることは間違いないものと思います。曾祖母の従弟に1999年の朝日チャレンジカップと京都大賞典を連勝したツルマルツヨシ
 騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手はジャパンカップに続いての日本での大レース制覇。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。管理している手塚貴久調教師は春の桜花賞以来の大レース制覇。第63回以来2年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス2勝目。

 母からの又聞きではありますが,先生は自分が癌であることを知った上で,単にそのことを周囲の人たちには伝えなかったというだけではなく,治療を受けることもなかったそうです。断言することはできませんが,実際にその通りであったとしたのなら,先生が自分が癌であるということを知ったときには,もう末期で,手の施しようがないような状態に至っていたということでしょう。
 母の話ですと,調律師からは,話してもよいことであるのかどうか分からないけれども,一応は伝えておくというニュアンスが込められていたそうです。僕たちは先生とは付き合いがありましたが,先生の家族とは何の繋がりもなく,そもそもこの先生の家族構成がどのようなものであるかということすら知りません。ただ,調律師がそのようなニュアンスを含ませたということは,先生が亡くなったということは,親類のことは分かりませんが,それ以外にはごく親しい知人にのみ知らされたということなのだろうと思われます。逆にいうなら,調律師と亡くなった先生とは,かなり親しい間柄であったということでしょう。
 少なくとも僕が高校生の頃には,この先生は妹にピアノのレッスンをしていました。レッスンの開始の当時,たぶん音大生であったと思いますので,僕よりも年上であることは間違いありません。また,僕は大学生のときに,この先生が出演したオペラを友人とふたりで観劇していますが,そのときには学校は卒業していたと思いますが,30代にはなっていなかったと思うのです。したがって僕と10の年の違いはないでしょう。僕は今月の7日に43歳になりましたので,先生は50歳前後での早世であったということになります。調律師は,この先生よりもさらに少し年上だと思いますが,これは僕の見立てにすぎません。こういう形で伝えられましたので,何かお悔やみをするということはできませんでしたが,知らずにいたよりは知っておいた方がよかったということは間違いなく,教えてくれた調律師には感謝しています。
 翌日,12月3日の火曜日は午前中にО眼科へと眼科検診に行きました。病院に着いたのは診療開始の午前9時半でした。
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エヴゲーニイのムイシュキン観&調律師

2013-12-14 19:10:03 | 歌・小説
 僕は以前はエヴゲーニイのムイシュキン観は,誤謬に満ちているというように考えていました。このゆえに僕はエヴゲーニイという存在を軽んじていたのです。ただ,エヴゲーニイがムイシュキン公爵を正しく理解できていなかったという点については,エヴゲーニイを重くみるようになった今でも変わりはありません。その誤謬がどこにあると僕が理解しているのかを,簡単に説明しておきます。
                         
 エヴゲーニイはムイシュキンの子どもの二面性を,厳しく糾弾します。ムイシュキンにそういった二面性があるということは,確かに的確な批判であると思います。しかし一方で,エヴゲーニイはムイシュキンの愛に関しては,正確には把握できていなかったと思えるのです。
 エヴゲーニイの理解では,ムイシュキンはナスターシャを愛してはいませんでした。ムイシュキンがナスターシャに寄せている思いは,愛ではなく同情とか憐憫なのであるというのが,エヴゲーニイの理解でした。ではムイシュキンが本当はだれを愛していたのかといえば,それはアグラーヤの方だというのが,エヴゲーニイのムイシュキン観の根幹を形成していると僕は理解します。
 これが僕のいう致命的な誤謬なのです。しかし僕がいいたいのは,ムイシュキンが愛していたのはナスターシャの方であったということではありません。むしろムイシュキンは,確かにエヴゲーニイのいうように,アグラーヤのことを愛していたのですが,それと同じように,ナスターシャのことも愛していたのです。そしてその愛は,同情とか憐憫といったことばで表現されるようなものではなかったのだと僕は思うのです。
 このときのやり取りで,ムイシュキンはエヴゲーニイに問い詰められ,自分はふたりを愛しているのだと告白します。その告白にエヴゲーニイはとても驚いています。つまり同時にふたりの,あるいは複数の女を愛せる男が存在し得るということは,エヴゲーニイには思いもよらなかったことだったのです。
 少なくともほとんどラストに近いこの問答まで,エヴゲーニイはこの観点からムイシュキンに接していたということになります。エヴゲーニイはこうした視点をもっているという前提で『白痴』を読むと,確かにそこには致命的な欠陥があるということが,理解できるのではないかと思います。

 翌日,12月2日の月曜日は,午後1時半からピアノの調律がありました。調律は概ね1年に1度で,昨年のように11月の終りとか,今年のように12月の初めといった時期。2010年のこの時期は母が磯子中央病院に入院中でしたので,僕が応対していますが,それ以外はすべて母が応接しています。
 僕の家のピアノは,その名はだれもが知っているであろう大手楽器メーカーのもので,購入したときに調律師も紹介してもらいました。ピアノは,素人には不可能なとても専門的な調整が必要な楽器ですし,ちょっとした買い物というのとはまったく違っていますから,販売する場合には,このように調律師も紹介するというのが,いわばアフターサービスという意味においても一般的なのかもしれません。25年くらい前に買ったものですから,その間ずっと年に1度は調律をしていたということになりますが,調律師の方は変わることなく現在まで担当しています。さすがにこれだけ長期間にわたっていますから,応対している母は当然ですが,僕も顔馴染みにはなっています。僕はこの日は保土ヶ谷区の星川に出掛けていまして帰宅したのは午後3時半過ぎ。ただその時点では調律は終了していまして,調律後にはおやつも出しますが,それも食べ終えて,調律師の方はもう家にはいませんでした。
 僕はこのときまで知らずにいたのですが,実は妹の最初のピアノの先生というのは,この調律師に紹介してもらったのだそうです。ピアノの先生は現在が三人目で,最初の先生の後はその先生が辞めるときに紹介してくれた先生に続いていますので,最初の流れからいえば,この調律師の紹介というのが連綿と受け継がれて今に至っているいるということになります。
 なぜこの日になってそれを知ったかといいますと,この日に調律師から母にあった話を,僕も母から聞かされたからでした。それは驚くような内容で,妹の最初の先生が,今年の6月に亡くなっていたというものでした。さすがに詳しいことまでは明かされなかったようですが,死因は癌であったそうで,先生はそのことを自分では知っていたのですが,ほかの人には教えることなく亡くなってしまったのだそうです。
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リコー杯女流王座戦&美容師

2013-12-13 19:28:54 | 将棋
 挑戦者のホームといえる関西将棋会館で指された第3期女流王座戦五番勝負第四局。
 加藤桃子女流王座の先手で里見香奈女王・女流名人のごきげん中飛車。③の丸山ワクチンに。後手が木村美濃を目指しつつ早めに向飛車に転換する将棋になりました。
                         
 ☖5五歩と突かれて5六にいた銀を上がった局面ですが,これが失着でした。☖5三銀上とされて銀の処置をしなければなりません。ただ,単に☗7五歩と突くと,馬を作られることが防げなそうということで,☗4五歩と突くことになりました。丸山ワクチンは基本的に持久戦志向ですから,ここで仕掛けなければならなくなったこと自体,先手の失敗を示していそうです。
 ☖同銀に☗4八飛と回りましたが☖4四歩でどうということはありません。☗8六角で☖6四歩を一旦は防いだものの☖3一角で駒を足されました。☗3六歩で桂跳ねを見せましたが一足早く☖3三桂。結局は☗7五歩と突かざるを得なくなりました。
                         
 後に突き捨てがあるので受け一方の手ではないのですが,やはりこの手では苦しいように思えます。後手は☖2四歩からゆっくり攻め,先手の反撃をかなりからいと感じられる指し方で封じ込んで勝っています。
 3勝1敗で里見香奈女王・女流名人が女流王座に。タイトル獲得は今期のマイナビ女子オープン以来で通算15期目。女流王座は初めてです。

 医師から話を聞いたわけではありませんから断言はできないのですが,こうした状況から察するなら,N伯父の心肺が停止していた間に十分な酸素が脳に回らず,結果として脳死に至ったと判断するのが妥当であろうと思います。そしてこのような状態にまで至ってしまった以上,以前のように回復することを望むのは,担当している医師に対してはもちろんのこと,N伯父自身に対しても酷なことなのだろうと思っています。
 この日はちょうど僕たちにN伯父の詳しい状況を教えてくれた伯父夫婦も見舞いに来ていたそうです。面会が可能になったので見舞いに行くことができるようになったということも,従兄からこの伯父夫婦に伝えられ,僕たちにも知らされたことでした。伯父夫婦はこの日も自動車で来ていましたので,母と妹は帰りは送ってもらうことになりました。家に戻ったのは午後3時半前のことでした。
 翌日からは12月。1日が日曜日で母と妹は美容院へ。美容院の予約はいつも妹が電話していまして,午後2時からと決まっているのですが,この日は午後1時からでした。美容院の都合でそのようになったのか,あるいは妹の希望でそうしたのかははっきりとは分かりませんが,状況を考慮するなら,たぶん後者であったのではないかと思われます。というのは,午後2時の予約ですと,通常は午後4時前後の帰宅になります。この日は1時間繰り上がったわけですから,帰宅時間も同じだけ早くなるのが道理です。しかしふたりが家に戻ったのは午後3時50分頃で,午後2時の予約の場合と大して変りはなかったからです。なぜ時間が掛かってしまったのかは母に聞きました。母によれば,いつもはしないような作業をこの日は行ったとのこと。これは顔を剃ったりマッサージをしたりといったことであったよう。僕は入院中に1度行ったのを除けば,最近は床屋には行っていませんが,坊主にする以前に通っていた床屋では,常にこうした施術がありました。顔を剃るにはおそらく何らかの免許が必要なのではないかと思われますので,おそらくこの美容院の美容師は,美容師の免許だけではなく,理容師の免許も持っているのではないかと思います。
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第三部定理三一&脳死

2013-12-12 19:15:48 | 哲学
 Kを同居させることに対する奥さんの拒絶の理由は,奥さんは先生よりも人間の心の動きというものをよく理解していたからだと僕は考えています。
 このとき,奥さんがどのような心の動きというものを弁えていたのかということは,スピノザの哲学によって説明することができます。それは感情の模倣という概念です。
                         
 奥さんは,先生が自分の娘に好意を抱いているということを知っていました。そこに先生の友人であるKがやって来れば,Kにはこの感情の模倣が生じ,先生と同じように自分の娘を好きになるであろうということが,奥さんには手に取るように分かっていたのです。奥さんはKとの同居を提案する先生に対して,そのことは先生自身のためにならないということを拒絶の理由として挙げています。先生にはそのことの意味が分からなかったのですが,奥さんの拒絶の理由は,そこだけにあったのだと理解して間違いないというくらいに僕は理解しています。
 さらに第三部定理三一では次のことが示されています。
 「もし我々が自分の愛し,欲し,あるいは憎むものをある人が愛し,欲し,あるいは憎むことを表象するならば,まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し,欲し,あるいは憎むであろう。これに反し,もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを,あるいはその反対を,〈すなわち我々の憎むものをある人が愛することを〉表象するならば,我々は心情の動揺を感ずるであろう」。
 これも感情の模倣ですが,ある人への愛は,他者のその人への愛によってますます強化されるということを示しています。この定理は一般的になぜ三角関係が生じやすいかということを示していますが,先生とKのお嬢さんに対する愛は,この定理で示されていることによって,より増幅されていったといえるのではないでしょうか。

 全身麻酔によって生じる副作用として,最悪のものはそのまま目が覚めないということでしょう。ただ,N伯父の身に生じてしまったのはそれではありませんでした。目は覚めたのです。しかしそれは,意識が覚醒しているという状態ではなく,むしろ朦朧とした状態であったようです。そしてその半覚醒状態のままN伯父は暴れてしまったようなのです。そしてこれが原因となり,今度は意識不明の重体に陥ってしまいました。そこでそのままICUへと入れられたのです。
 ICUに入るということは,生命に危機がある状態であると解して間違いありません。こういうことになってしまいましたので,それまでは秘匿にされていたN伯父の大腸癌,入院,手術,そしてその予後のことまで含めたすべてのことが,伝えられることになりました。従兄としてもこういった形でそれを親戚に伝えるということは本望ではなかった筈であり,その心中は察するに余りあります。最初に伝えられたのは,K伯母の三回忌の後,同時に行われた祖母の三三回忌法要のために日野公園墓地に向ったときに,僕たちを同乗させてくれた伯父,父のすぐ上の兄で,父のきょうだいの次男の家族に対してでした。どうも従兄はその伯父から他の親戚にも伝えるように依頼したようで,僕たちにはこうした経緯は,この伯父,厳密にいうならこの伯父の妻から知らされたことになります。
 僕たちがこのことを知ったのは,先月の半ばのことでした。ただ,このときにICUに入っていたN伯父は面会謝絶の状態でしたので,見舞いには行かれなかったのです。その後,すぐの生命の危機は脱したとのことで一旦はICUを出され,一般病棟に戻ったようなのですが,そこでまた事態が急変し,一時的に心肺停止の状態になりました。緊急措置によってその機能は回復したのですが,この影響でいわゆる脳死状態に。11月30日に母と妹が見舞ったとき,N伯父はこの状態であったことになります。脳死は法的には死と認めることができますが,おそらく従兄の判断で,心肺が運動している間は,死とはしないということになったのでしょう。実際に心臓も肺も自力で動いている状態ではあるようです。
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ゴールドカップ&入院の経緯

2013-12-11 19:53:41 | 地方競馬
 この条件でこの時期だと3年目になる第51回ゴールドカップ。今野忠成騎手が負傷したため,サイオンは佐藤博紀騎手に変更。
 好発のナイキマドリードが内に切れ込みながらまずは先頭に。この影響で不利を被ったように見えたメイショウパーシーですが,正面に入ると外からナイキマドリードを交わして,逃げに持ち込みました。ケンブリッジエルとロビンフットも続き,ナイキマドリードは4番手に。サイオンとブラゾーハリーが続いてさらにスマートジョーカー。そしてタマモスクワート,ジョーメテオという隊列に。ハイペースでした。
 向正面でタマモスクワートが上昇の構えをみせると,その後ろからジョーメテオも動きました。結果的にコーナーではジョーメテオの方が捲りきる形になり,先頭で直線に向くと差をさらに広げていき,2馬身半差で優勝。メイショウパーシーを交わしたサイオンの外に先に動いたタマモスクワートが追いすがり,ゴール前で交わして2着。アタマ差の3着にサイオン。
 優勝したジョーメテオはこれが南関東重賞初制覇。今年の7月にJRAから浦和に転入してきた馬。南関東重賞を勝つだけの能力があることは転入当初から示していましたが,どうも乗り難しいところがあるようで,その点がネックとなっていました。今日はうまくいきましたが,安定して能力を発揮できるとはいい難い面は残っているように思います。距離はこのくらいが最適で,あまり長くなるのはマイナスにしかならないのではないでしょうか。父はネオユニヴァース。叔父に1999年の函館記念,2000年の中山金杯と小倉大賞典を勝ったジョービッグバン。祖母の弟には1993年のきさらぎ賞を勝ったツジユートピアン。Meteorは隕石。
 騎乗した大井の坂井英光騎手は昨年8月のアフター5スター賞以来となる南関東重賞制覇。ゴールドカップは初勝利。管理しているのは南関東リーディングを独走中の浦和の小久保智調教師で,ゴールドカップ初勝利。

 妻がすでに七回忌を終えているということ,また曾孫がいるということからお分かり頂けるでしょうが,N伯父はかなりの高齢です。ですから癌があったとしても,それが後の死因となるまで進行したかどうかは僕には疑問の余地があります。しかしN伯父は手術に踏み切りました。妻の七回忌のときも,9月のK伯母の三回忌のときも,N伯父は参列していましたから僕も顔を合わせていました。そしてそのときにはそういった兆候を何も感じませんでした。大腸癌の発見を告知されたのがいつであったのかは僕は知りませんが,手術に耐えるだけの体力があったであろうことは,僕には間違いがないことのように思えます。また,そうでなければ診断した医師の方も,手術を勧めたりはしなかったであろうと思います。
 実はこれらのことは,事後になって知らされたことでした。つまり僕たちはN伯父に大腸癌が見つかったことはもとより,手術したことも入院したことも知らなかったのです。N伯父は入院するまで,汐見台でひとりで暮らしていましたが,N伯父単独の決断で手術したり入院したりすることは不可能ですから,おそらく息子夫婦が世話をしたものと思います。そしてそのことが僕たちに,というか僕たちだけではなく,ほかの親戚にもこれは秘匿されていたのですが,そうなった理由は,大腸癌が早期のものであり,手術をすれば必ず回復するので,その後で伝えてもよいであろうとの判断があったためであろうと推測します。
 その日がいつであったのかも不明なのですが,実際にその手術自体はうまくいったようなのです。ところがその後で大変なことになりました。予後が非常に悪かったのです。といいますか,事前に想定はされていたことのうちで,最悪に近い事態が生じてしまったといえるでしょう。
 癌の手術ですから,全身麻酔です。全身麻酔というのは人間の身体に負担をかけます。ほとんどの場合はそれでも何の問題も起きませんが,不測の事態が生じる可能性はどんな場合にも皆無ではありません。ですからこうした手術の前には,本人や家族に対して,その可能性に関する説明が医師から与えられます。僕も父のときに,そうした説明を受けました。
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香港国際競走&N伯父

2013-12-10 19:28:32 | 海外競馬
 8日に開催された香港国際競走。今年はみっつのレースに1頭ずつの日本馬が遠征しました。
 4レースの香港ヴァーズGⅠ芝2400mに出走したのは昨年の七夕賞と11月のアルゼンチン共和国杯を勝っているアスカクリチャン。2頭がスクラッチして12頭。前半は外の5~6番手を追走。向正面で3番手に。ペースはスロー。3コーナーを回ると手が動き始め,どうやらこの時点で手応えを失っていたようです。直線は後続に飲み込まれ,大きく離されての7着でした。
 この馬はこれが大レース初出走。距離も前走で2500mを勝ったとはいえ,本来は2000mくらいが最適と思いますので,仕方がない結果だったといえるのではないでしょうか。
 5レースの香港スプリントGⅠ芝1200mには昨年のJRA賞の最優秀短距離馬のロードカナロアが出走。好発から控えて前から5馬身程度の6番手の外を追走。この距離としたら超スローペース。コーナーで外を進出して前に並び掛け,残り200m手前ではっきりと先頭に出ると,あとは離していく一方。5馬身もの差をつける圧巻の優勝でした。
 優勝したロードカナロアは9月のスプリンターズステークスから連勝で大レース6勝目。前年に続いて香港スプリント連覇。父はキングカメハメハ。Kanaloaはハワイの海の神。騎乗した岩田康誠騎手と管理している安田隆行調教師はスプリンターズステークス以来の大レース制覇で前年のこのレース以来の海外重賞勝利。日本馬による海外重賞制覇は9月のニエル賞とフォワ賞以来。GⅠは昨年の香港スプリント以来。スプリント戦は大きな差はつきにくいですし,スローペースとあればなおさら。それでありながらこの圧勝劇ですから,間違いなく日本競馬史上最強のスプリンターでしょうし,世界的にも特別な馬です。これで引退して種牡馬になりますが,引退レースがベストパフォーマンスであった上,安田記念も勝っているのですから,相当な有力牝馬を集められる筈で,そちらの結果も楽しみ。血統的にはダートの一流馬が輩出してもおかしくないように思えます。
 8レースの香港カップGⅠ芝2000mに出走したのは今年に入ってダービー卿チャレンジトロフィー,鳴尾記念,函館記念,札幌記念と重賞を4勝したトウケイヘイロー。この馬はどんなレースをするのかまず注目していましたが,日本でのレースと同様に軽快に逃げました。スローペースでしたが途中は3馬身~4馬身程度のリード。3コーナー付近から差が詰まりましたが先頭は譲らず,よい手応えで直線に向きましたので,これは好勝負は必至と思いました。逃げ込みを図ったものの,人気を二分していたうちの1頭にすぐ外から交わされ,さらに外からも追い上げられましたがそれらは凌いで2着でした。
 勝ち馬は1番枠なのでインを通れたのですが,直線では武豊騎手がうまく進路を塞いで立て直させました。それでも差し切られたのですから,力量差は着差以上にあったと考えられ,むしろ健闘したといっていいと思います。残り800mから23秒86,22秒34で上がってきているのですから,やはりもっと強い馬がいたというほかありません。

 幼少期の思い出もいくつかあります。
 N伯父は食べ物や飲み物がよく冷えているがゆえに美味である状態を,「ひゃっこい」ということばで表現しました。僕はN伯父の出身がどこであるのかも,またそもそもこの表現が方言であるのかも分かりませんが,こういうことばを使うのは,僕の周囲ではN伯父だけでした。また,僕が普通は「しょっぱい」と表現する味に関しては,「しょっからい」と言いました。これは北陸地方の一部では使用される方言であると聞いたことがありますが,このことばを使うのも,僕の知っている人ではN伯父だけです。
 その後,N伯父は洋光台にマンションを買って,そちらに引っ越しました。さらにその後,それは売って今度は汐見台にマンションを購入。それ以降はずっとそちらに住んでいます。汐見台は,妹が養護学校を卒業した後,一時的に勤務していた施設があったところです。は小脳出血を発症するまで,そこでボランティアとして昼食を作りに行っていたのですが,N伯父も同じようにその施設でボランティア活動をしていました。母と同様に昼食を作るだけでなく,勤務する障害者の送迎なども行っていました。ですから少なくとも2010年の10月頃まで,母とは週に1度くらいは顔を合わせていたことになります。
 妻,つまり父の実姉ですが,この方は故人。8月に母の同窓会があった翌週に,法事がありましたが,それがこの伯母のもの。七回忌でしたから死んだのは2007年。また例によって競馬と関連付けるなら,この伯母の納骨の日は菊花賞でした。競馬年表でいうなら,ウオッカがダービーを勝った年ということになるでしょう。
 子どもは男の子がひとり。僕からみると従兄ですが,年は離れています。大学卒業後に警察官になり,結婚したのを機に独立して家を構えました。この従兄夫婦には女の子がひとりいまして,この人もすでに結婚し,子どもを産んでいます。したがってN伯父には,子どもがひとり,孫がひとり,さらに曾孫もひとりいるということになります。
 N伯父が入院した理由は,健康診断で大腸癌が発見されたためでした。ただこの癌自体は早期のものだったのです。
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ひろしまピースカップ&杉田

2013-12-09 19:05:34 | 競輪
 GⅠから中4日での開幕となった広島記念の決勝。並びはまず東日本がふたつで,佐藤には成清,池田勇人に松坂,松岡ー川村-東口―三谷の近畿で,地元の池田良は単騎。
 スタートは佐藤が取って前受け。池田良はこのラインを追走するレースになりました。4番手が池田勇人,6番手から松岡で周回。松岡の上昇が遅く,残り2周のバック入口手前で先に池田勇人が動いて佐藤の前に。これを外から松岡が叩いていって打鐘。近畿勢が出きって,池田勇人が5番手,佐藤が7番手の一列棒状。バック3コーナー手前では川村が番手発進。これでは後ろの選手は届かず,そのまま川村が優勝。マークの東口が半車身差の2着で近畿のワンツー。さらに半車身差の3着は直線でよく伸びた松坂。
 優勝した京都の川村晃司選手はこれが記念競輪初優勝。ただし,いつ優勝してもおかしくないだけの力はありました。85期ですが37歳ですので,早いうちに達成しておきたかったところではあるでしょう。やや単調な展開となり,その面では恵まれたというのは事実。後ろの動きを待たずに番手から出たのが,ワンツーまで決めることができた最大の要因でしょう。ビッグを制覇する可能性ももっている選手であると考えています。

 父が眼底出血の手術のために入院していた当時は,母は運転をしていました。つまり見舞いには自動車で通っていたのです。最後の運転が母の異変が生じた2010年10月8日。現在とは状況は異なっています。ただ,金沢区の横浜市大病院は,無人運行のシーサイドラインの市大医学部駅と直結していますから,そこからは迷いようがありません。そしてシーサイドラインは一方の起点が新杉田。新杉田はJR根岸線も通っていて,これは根岸駅から乗れます。シーサイドラインの新杉田駅と根岸線の新杉田駅は同じ名前の駅としては少しばかり離れていますが,乗換案内の表示がありますから,ここでも迷うことは考えにくいです。これも前に説明したことですが,母は方向感覚には鈍いところがありますので,初めての場所には不安がつきまといますが,こうした事情ですから,市大病院に妹とふたりだけで行くということに関しては,心配の必要はありませんでしたし,母自身にも二の足を踏むような思いは皆無でした。
 新杉田駅とは別に,京浜急行には杉田駅があります。これらふたつの駅は,国道16号線や商店街を挟んでいますが十分に徒歩圏内です。そして僕はこの一帯のことをすべて杉田といいます。あるいはそういう認識です。つまり新杉田も杉田も同じように杉田といいます。妹は杉田のボーリング場に何度も行っていますが,このボーリング場は,駅でいえば杉田よりは新杉田の方がずっと近いのです。僕は磯子区内の国道16号線の沿線で,金沢区と接するような付近については,それをすべて杉田と認識していますし,ここで杉田という場合には,そうした広い範囲のすべてを指すと理解しておいてください。
 見舞った相手ですが,これは父からみて2番目に上の姉,つまり父のきょうだいの次女の夫でした。僕からみるならば伯父になります。ここからはこの伯父についてはN伯父という表記で進めます。
 僕がまだ子ども,これは物ごころがつく頃から小学校の低学年くらいまでですが,この伯父夫婦は僕の家から非常に近いところ,幼かった僕でも十分に歩いて行かれるようなところに住んでいました。よく遊びに行った覚えがあります。
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農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&眼底出血

2013-12-08 19:11:57 | 中央競馬
 過去の勝ち馬には多くの名牝の名が連なっている第65回阪神ジュベナイルフィリーズ
 隊列がはっきりとは定まらないようなレースでしたが,前にいったのはニホンピロアンバーとダイヤモンドハイの2頭。やや離れてスイートガーデンとホウライアキコ。メイショウアサツユ,フォーエバーモア,エクスペリエンス。さらにレッドリヴェールとやや行きたがっていたように見えたマーブルカテドラル。トーセンシルエット,レーヴデトワール,マジックタイム,モズハツコイがいて,ハープスターはその後ろ。前半の800mは46秒3で,飛ばしていた割にはミドルペースの範疇といえると思います。
 直線で前2頭を交わして先頭に立ったのはホウライアキコ。これをスムーズに外目に出したフォーエバーモアが交わすと,大外を真一文字に伸びてきたのがレッドリヴェール。ハープスターは外に出せず馬群を割るレースになり,フォーエバーマークがホウライアキコに馬体を寄せにいったので開いたフォーエバーマークとレッドリヴェールの間に突っ込み,この3頭はほとんど並んでのゴールイン。写真判定となり,優勝はレッドリヴェール。ハナ差の2着がハープスター。クビ差の3着にフォーエバーモア。
 優勝したレッドリヴェールは6月に新馬を勝ち,8月に札幌ステークスを制覇してここまで2戦2勝。前走が大雨の極悪馬場でのもので,かなり底力があると証明されていましたから,ここは優勝候補の筆頭ではないかと考えていました。この着差ですから突出した力があったわけではありませんが,トップクラスの一員であることは間違いなく,来年以降も活躍してくれるでしょう。軽い馬場でのスピード勝負は課題で,小柄なのは仕方がありませんが,馬体ももう少し成長してほしいという気はします。父はステイゴールド。5代母が名牝中の名牝で,この一族からは日本でも多数の活躍馬が出ています。Rêveurはフランス語で空想家。
 騎乗した戸崎圭太騎手は一昨年の安田記念以来の大レース制覇で阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。管理している須貝尚介調教師は天皇賞(秋)以来の大レース制覇。第64回に続いて阪神ジュベナイルフィリーズ連覇で2勝目。

 かつて説明したように,は横浜市立の中学校で教師をしていました。年に1度の健康診断があったのですが,いろいろと理由を作っては受診を怠っていたのです。いつかは忘れましたが,ある年に,校長の命令で健診を受けました。それによりⅡ型糖尿病が発見されたのです。そしてその時点でかなり進行していました。なので強制的に即入院となったのです。父は定年まで勤務しましたが,これは50代のときであったことは間違いありません。僕も当時はたとえば糖尿病が不治の病であるといった,糖尿病に関する基本的知識さえありませんでしたから,はっきりとした数値は分かりませんが,こうした措置がとられたということは,ヘモグロビンA1cは少なく見積もっても8%は超えていた筈だと思います。
 ただ,この入院はみなと赤十字病院で,その後の治療,通院もみなと赤十字病院でした。そしてその間に,合併症である網膜症を発症。眼底出血まで至りました。ここまで進むと手術が必要です。これらの診断もすべてみなと赤十字病院で行われたのですが,手術についてはみなと赤十字病院では不可能だったようで,横浜市大病院で受けることになったのです。この手術のために入院が必要。父が市大病院に入院した経緯はこのようなものでした。
 父の眼底出血がどのようなものであったのかは僕は詳しくは知りません。一般的に考えるならば,硝子体手術であったと理解するのが妥当でしょう。網膜症は最悪の場合には失明しますが,父は視力を失うということはありませんでしたから,この手術自体は成功したのだと僕は理解しています。退院した後はみなと赤十字病院の眼科に定期的に通うようになりました。新生血管ができてしまってレーザー治療などは行いましたが,それらの治療はすべてみなと赤十字病院で。そしてさらなる眼底出血には至らなかったこともあり,網膜症を理由として入院したことは,その後はありませんでした。
 つまり目の手術のための期間だけですから,そんなに長く入院していたというわけではありませんし,その後は市大病院には通院すらしていません。ただ,入院中は母は見舞っていましたから,場所についてはよく把握していたのです。
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ビューパーダンスとステラマドリッド&昼食の時間

2013-12-07 19:23:48 | 血統
 ハーツクライの母は重賞2勝のアイリッシュダンスですが,その母は1983年にアメリカで産まれたビューパーダンスという馬で,この馬がこの母系の日本での輸入基礎繁殖牝馬になります。ファミリーナンバーエスサーディーと同じで6-a
                         
 全兄に種牡馬として輸入されたリファーズスペシャルという馬がいます。日本では大した種牡馬成績は残せませんでしたが,アメリカではGⅠの優勝馬も出しましたし,自身もイギリスのGⅠ勝ち馬。ビューパーダンスが繁殖牝馬として輸入された背景のひとつであったと推測されます。
 ビューパーダンスは日本では8頭の産駒を残し,活躍馬も少なくありませんでしたが,重賞を勝ったのはアイリッシュダンスだけ。そこからハーツクライへと血が継続されていったことになります。昨年のフラワーカップを勝ったオメガハートランドはアイリッシュダンスの孫で,ここからさらに優秀な産駒が出てくる可能性もあります。
 ビューパーダンスの半姉の仔にはアイリッシュシャドウという馬がいて,この馬も繁殖牝馬として輸入されました。産駒にはオープンで2勝,フェブラリーステークスでは3着になったシャドウクリークがいます。
 こうしたことからこの一族が注目されたためでしょう,ビューパーダンスの別の半姉の仔も繁殖牝馬として輸入されました。それが1987年にアメリカで産まれたステラマドリッド。アメリカでGⅠを4勝した馬です。この馬も日本で多くの仔を産み,またアメリカ産まれの一族から輸入された馬もいて,牝系は拡大中。現在のところはステラマドリッドの直仔で,重賞を4勝,2002年のJRA賞の最優秀4歳以上牝馬に選出されたダイヤモンドビコーが代表馬ですが,ステラマドリッドを輸入基礎繁殖牝馬とする系統からも,大レースの勝ち馬が輩出する可能性があるように思います。

 施設のバザーが開催されていた間,ずっと母と妹は行動を共にしていたというわけではないと思います。ただ,帰りは一緒でして,家に戻ったのは午後3時20分頃のことでした。
 25日の月曜日はすでに説明したように,母は施設へバザーの後片付けに出向きました。そしてこの日から,妹はショートステイに行っています。11月は予約をキャンセルし忘れた1泊のショートステイにも妹の意向で行きましたから,これが2度目。そしてそのときにも説明したように,この日からのショートステイは2泊3日でした。月曜は新たなる支援として実施されるようになった家までの迎えが継続されている唯一の日です。よって荷物もそれで同時に運搬してもらいました。なお,母はこのために妹を送り出した後でバスで施設の方へと赴きましたので,僕が妹を送り出すという必要はありませんでした。ちなみに僕はこの日は午前中が伊勢佐木町で午後から長者町。伊勢佐木町と長者町は隣町ですから,そのまま直行するのがどう考えても合理的です。しかし僕は伊勢佐木町での仕事を終えてから,家まで戻り,再び長者町へと出掛けました。昼食を摂取するために十分な時間を確保できるということが事前に判明している場合,僕は必ずこのようにしています。これは食餌療法のためには可能な限り外食は避けた方が利便的であるということと,家で食事を摂るならば,インスリンを持って出掛ける必要がなくなるということの,ふたつの理由からです。
 妹が戻ったのは27日の水曜日。僕はこの日は川崎でしたが,午後4時半前には帰宅しました。ただ,妹が勤務している作業所は,水曜日だけは作業の終了が午後3時と,ほかの日よりも1時間早くなっています。この場合はどんなに遅くなっても午後4時前には帰ってきますので,僕が帰宅したときには,妹はすでに帰っていたことになります。
 11月30日の土曜日に,母と妹は金沢区にある横浜市大病院に行きました。といっても何か異変があったからというわけではなく,病人の見舞いです。ここはかつて父が入院していたことがあり,妹は初めてだと思いますが,母は行ったことがある場所でした。
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メイショウボーラー&施設のバザー

2013-12-06 19:27:10 | 名馬
 先月の兵庫ジュニアグランプリニシケンモノノフが勝ちました。これはメイショウボーラーの産駒の初の重賞制覇でした。
 父はタイキシャトル。デビューは2歳の7月,新馬を勝つとオープンも連勝。さらに小倉2歳ステークス,デイリー杯2歳ステークスと重賞も連勝。無傷の4連勝で挑んだ朝日杯フューチュリティステークスは惜しくもクビ差の2着でした。
 スピードが勝ったタイプで,距離延長はプラスには思えませんでしたが,3歳の緒戦には弥生賞を選択。2着に粘ったので皐月賞に進みダイワメジャーの3着。さすがにダービーではなくNHKマイルカップを目標とするもこれはキングカメハメハの3着。果敢に安田記念に出走しましたが,さすがにこの時期に古馬相手では分が悪く,11着と大敗を喫しました。
 秋はマイル路線を選択。スワンステークス3着と上々の滑り出しでしたが,マイルチャンピオンシップはデュランダルの7着。CBC賞に向いましたがこれも4着と,3歳時は勝ち星を積み上げることはできませんでした。
 年明けはダート路線に。ガーネットステークスで重賞3勝目を上げると根岸ステークスも連勝。さらにフェブラリーステークスも勝って大レースも獲得しました。この後,高松宮記念に進むも16着。人気になったかしわ記念も5着に終りました。
 秋はJBCスプリントにぶっつけで参戦し4着。暮れの兵庫ゴールドトロフィーは2着。年明けの根岸ステークスは7着で,連覇を目論んだフェブラリーステークスは15着。明らかに能力に陰りを感じさせるようになりました。
 一息入れてかきつばた記念で4着になった後,安田記念に進むも14着。夏のサマーチャンピオンで2着に入りセントウルステークス7着を挟んで出たスプリンターズステークスで2着。この好走は正直いって驚きでした。しかしスワンステークスは9着。香港スプリントはゲートをかなり遅れて出て途中で走るのを止めてしまうという不可解な競走中止。おそらく競走意欲も減退していたのでしょう。
 翌年も現役を続行。しかしスプリンターズステークスを15着と大敗しただけで,引退となりました。
 競走生活の晩年の印象から,有力牝馬は集まりにくい状況。自身を超えるような産駒が輩出することはきわめて難しいだろうと思います。ただ,開花が早く,スピードがあり,ダートを苦にしないというように,ことばは悪いですが種牡馬として潰しが効く条件は備えています。地区重賞の勝ち馬とか,下級重賞の勝ち馬であれば,また出てきてもおかしくないのではないでしょうか。

 施設が主催するバザーについては,養護学校のバザーとは異なり,こちらから物品の提供はありません。売る品物は,施設で作っているものだからです。妹が通っている作業所では主にパンを作っています。また,施設の方ではケーキなどの菓子類や,工芸品のようなものも作っていますので,それらが売り物になるわけです。ただし,バザーをする際には,ひとつだけ問題がありました。
 たとえば妹は日常的にパン作りに携わっています。これは要するに日常的にパンを売っているという意味です。妹が通っている作業所には売店もあり,作ったパンはそこで売られています。作業所での作業というのは,パン作りだけではなく,売店でパンを販売するという仕事も含まれているのです。また,売っているパンは必ずしも売り切れるというわけではありません。そうした場合,売れ残ったパンを妹が買ってくるということもあります。それは妹の朝食になりますから,無駄な出費というわけではありません。
 したがって,バザーで売るための商品を作るためには,その分だけ多くの商品が必要になりますので,いつもよりも作業量を多くしなければなりません。しかし妹のような障害をもつ従業員に,普段以上の仕事を課すことはほぼ無理といえます。そして作業所の方々も,そうした商品を作るということだけが日々の仕事のすべてではありませんから,かれらだけでバザー用の商品を別に作るということにも無理がありました。そのために,保護者がその仕事を手伝うということになっていました。もちろんこれは任意のものであり,強制ではありませんでしたが,母はこのバザーの週は何日か,手伝いに行きました。これは作業所ではなく施設で行われますので,妹を作業所まで送っていった後で,さらに施設の方へ移動しての手伝いでした。仕事の内容は単に売るための商品を作るというだけではありません。そうした品物に値札をつけるとか,あるいは実際に売る店の準備なども含まれていたようです。また,バザーが終了すれば今度は後片付けをしなければならず,それは週が明けた11月25日の月曜日に予定されていまして,こちらの方にも母は行っています。
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リコー杯女流王座戦&交通規制

2013-12-05 19:04:41 | 将棋
 静岡市で指された昨日の第3期女流王座戦五番勝負第三局。
 里見香奈女王・女流名人の先手で3手目に▲2六歩と突いて居飛車を明示。加藤桃子女流王座は一手損角換り4を選択。やや変わった手順でしたが,先手が棒銀,後手が腰掛銀の形に進みました。
 僕の印象ですと,中盤で角を打ち合った局面では後手が指しやすくなっているように感じます。基本的に後手が攻勢の展開となり,先手から厳しそうな反撃がなかったので,もう少しで後手が勝ちそうだという局面まではいきました。
                         
 先手が銀を打って受けた局面。感想では焦ったとありますが,△7八金と打っていきました。昨日はその局面だけアクセスできたのですが,そのときには後手が良さそうだけれども,この手は危ないのではないか,なぜそんなに急いで決めにいこうとするのかという疑問を抱きました。ただ,感想戦での検討からすると,実は第1図の局面ではもう難しくなっていて,後手が良いともいい難くなってしまっているようです。したがって後手にとって最大の疑問手は,それより以前にあったと理解するべきなのでしょう。
 △7八金には▲同馬の一手で△同馬▲同玉△8七歩成▲6八玉までは僕には一直線と思えます。そこで△4三角と打っていますが,決めにいった後に指されるような手とは思えませんので,ここは後手が変調でしょう。▲2六龍と受けに使うのは,攻めにはすぐに役に立ちそうにもありませんから当然なのでしょう。後手は△3四角とこちらに出ました。対して▲8四歩と飛車先を止めたのは大きな一手。△7八角成は当然ですが▲5八玉は安全な方に逃げられるので先手としてもありがたそう。△6七歩成▲同桂△7七と▲同桂△同馬のときに▲8三金と打ち,飛車先を完全に遮断しました。
                         
                       (この局面の先手の持ち駒に歩は2枚です)
 ここまで進めば後手が勝つのは容易でなくなっていること,というよりも明らかに逆転して先手が勝ちやすくなっていることが僕でも分かります。この後,飛車を取りきった先手が,自玉の不詰みを読み切って勝っています。
 里見女王・女流名人が勝って2勝1敗に。第四局は13日です。

 11月16日の土曜日にピアノのレッスンがありました。午後4時半からの予定で,その通りに行われました。
 17日の日曜日はガイドヘルパーを利用。本牧町でのカラオケです。カラオケに連れて行ってもらうことが恒例となって以後,午後11時半前にガイドヘルパーが妹を迎えに来るようになっています。これは僕の家の近くから根岸駅まで出るバスの時間に合わせてのもの。根岸駅で乗り換えて本牧町まで行き,まず昼食を済ませてからカラオケボックスに向うというのが決まった行動になっています。妹はこのように定まった行動をすることを好みますので,何らかの変化があるよりは,いつもいつも同じである方がむしろよいのです。基本的にガイドヘルパーと妹のふたりで行くわけではなく,現地で何人かが集合するようですが,それぞれに都合がありますから,いつも決まったメンバーであるというわけではありません。1度だけですが,妹とガイドヘルパーのふたりだけというケースも過去にはありました。
 この日は横浜国際女子マラソンが開催されていました。根岸駅から本牧町に向うバスのルートでは,その根岸駅から間門の交差点まではマラソンのコースに設定されています。したがって交通規制が実施され,一時的に通行止めになることが事前に報知されていました。そしてその影響で,運休するバスがあるということも分かっていました。実はこの時間ですと運休直前のバスに乗れるという形でしたから,もしも何かあった場合には,本牧町まで到着できないというおそれもあったのですが,とくに何事も起きず,予定通りに行くことができました。帰りはもうマラソンが終った後ですから,交通規制も解除された後で,何も問題がないと事前に想定されていましたし,実際にその通りとなりました。
 翌週の土曜日が11月23日で,勤労感謝の日。すでに説明しましたが,今年はこの日に作業所でのバザーが開催されることになっていまして,それが11月の土曜出勤にあたっていました。作業所を運営している施設に午前8時半に集合ということになっていて,母と妹は午前8時前には家を出ています。バザーは母も一緒でした。
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デイリー盃クイーン賞&妹の意向

2013-12-04 19:12:50 | 地方競馬
 今年の船橋競馬は今週が最後。メーンは第59回クイーン賞
 逃げる可能性もあると思っていたラフアウェイが発走直後に落馬。このためにサクラサクラサクラが楽に先手を奪いました。2番手でこれをマークしたのがアクティビューティ。アムールポエジー,マニエリスム,カラフルデイズの3頭が直後を追走。その後ろに空馬が入ったこともあり,6番手以降は離れました。最初の800mは49秒1でミドルペース。したがって離された馬たちには厳しい展開。
 前5頭から3コーナー付近でマニエリスムは脱落。サクラサクラサクラは上々の手応えで直線に。外から並び掛けたのがアクティビューティで,2頭の競り合いになりましたが,アクティビューティが最後は抜け出し,2馬身差で快勝。サクラサクラサクラが粘って2着。2頭の外から追ったものの差は詰まらず,1馬身半差の3着がカラフルデイズ。
 優勝したアクティビューティは重賞初勝利。とはいえメーデイアの2着が3度もあったように,この路線のナンバー2といえる存在。メーデイアがジャパンカップダートに回ったのでここは絶好のチャンス。そしてそれを見事にものにしました。右回りの方が走れていたので,左回りでも結果を出したのは収穫といえるでしょう。
                         
 騎乗した吉田隼人騎手と管理している柴田光陽調教師は共にクイーン賞初勝利です。

 ショートステイは原則的に月に2泊になっています。ただ,一般論として,ある事柄に関してそれが原則であるといわれることの意味は,実際にはそれには例外があるということです。そしてこの場合にもそれは同様でした。現に妹は過去には週末のショートステイというのを利用したことがありましたが,これを利用すると必然的に最低でも3泊はするということになるからです。ただし今回の場合,港南区内の施設の利用のキャンセルをしなかったのは,僕たちの非ではなく,作業所の担当者の落ち度でした。ですから先方から母には,この1泊のショートステイに関しては,利用してもよいし利用しなくてもよいという連絡が事前にありました。現在は作業所との連絡はそのすべてを母が担っていますから,これらのことはすべて僕は後になってから知らされた話でした。
 それでこのショートステイをどうするかは,母は悩んだようです。最終的に断らずに予約の通りに利用することにしたのは,妹の意向を確認してのことでした。つまり妹が行きたいという意思を示したので,そのまま利用するということになったのです。そうした理由から14日から1泊で妹はショートステイに出たのですが,この日の朝に作業所に迎えを依頼し,荷物を持っていきました。この週は月曜日,11日に通常の迎えがありましたので,それまで通りであればその日に荷物を先送りするところであったのですが,当日に迎えに来てもらったのも,妹の意向でした。どういう理由かは分かりませんが,妹はこの形が気に入ったようです。この14日は僕は神奈川区の片倉町というところに行っていまして,それでも午後4時半前には帰って来ています。
 1泊ですから15日の金曜日に妹は帰宅。詳述したような理由から,この港南区の施設の利用というのは,これが最後になるかもしれません。この日は僕は長者町で,前日よりさらに早く,午後4時過ぎには家に戻りましたので,作業を終えて自宅に戻った妹を出迎えるという形になりました。これは前にも説明したかと思いますが,ショートステイを終えて帰宅するという日は,作業所から家まで送ってもらうというサービスを利用しています。
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朝日新聞社杯競輪祭&ショートステイの予約

2013-12-03 19:07:17 | 競輪
 1日に小倉競輪場で争われた第55回競輪祭の決勝。並びは新田に岩津,平原-長塚-神山の関東,深谷-金子の師弟,藤木ー大塚の西日本。
 スタートは取り合いになりましたが誘導の後ろに入ったのは新田でそのまま前受け。3番手に深谷,5番手が平原,8番手から藤木で周回になりました。藤木は残り3周のホームから早くも動いていってバックに入るところでは新田の外に。しかし新田はすぐには引かず,残り2周のホームまで併走。そこからようやく下げて藤木が前に出て,新田が3番手に。新田ラインに平原が続いていたため,深谷は早めに下げていて,5番手に平原,8番手に深谷となって一列棒状に。バックで平原が発進していくと新田も併せて出ていき,さらに藤木も踏んで打鐘では先行争いに。前に出たのは新田でしたが,岩津が離れ,ホームでは新田の後ろは内に藤木,外に平原。ここで深谷がかましていくと新田を叩ききり,残りは1周ですから番手の金子とマッチレース。金子は意外と楽に差し切って優勝。4分の3車身差で深谷が2着を確保して師弟のワンツー。金子を追った新田を内を突いた大塚が交わし,きわどく詰め寄ったもののタイヤ差で3着まで。
 優勝した愛知の金子貴志選手は10月の青森記念以来の優勝。ビッグは7月の寛仁親王牌に続いて3勝目。GⅠは2勝目。新田と平原で先行争いをすることは考えられましたが,成り行き上そこに藤木も参戦したので,深谷には仕掛けやすいレースとなりました。出きってさえしまえば簡単に捲られるような選手ではありませんから,あまり後ろを気にするような必要もなかったでしょう。師弟でグランプリに出走することが確定しましたが,同様の展開になれば,大いにチャンスがあるでしょう。

 この手違いに関しては少し詳しい説明が必要でしょう。
 ショートステイは,母が入院した後,妹の支援のひとつとして実施されるようになりました。当初は1泊2日を月に2回で,磯子区内の施設と南区内の施設を,原則的に交互に利用していました。施設が2ヶ所であったのは,この支援が開始されたときの,この事情に関係しています。
 その後,基本的に2泊3日を月に1回という形にこちらの希望で変更しました。そうであるならショートステイ先の施設もひとつでよくなったということになりますが,それまでの継続性から,2ヶ所の併用を続けていたわけです。そして今年になり,面接などの条件を経て,港南区内の施設が追加され,3ヶ所に増えたわけです。
 ただ,この新しい施設と,それまでに使っていたふたつの施設とでは,予約に大きな相違がありました。それまでの施設は1ヶ月前の予約であったのに対し,新施設は2ヶ月前の予約だったのです。実際に予約を入れるのは僕たちではなく,作業所の方でしたが,こうした理由から,この11月の予約は,9月中に入れられていたということになります。
 1泊と2泊では,2泊の方が荷物が多くなるのが道理です。ところがこの場合はそうではありませんでした。こちらから用意していかなければならない荷物の種類が,それまでに利用していたふたつの施設と,新しく加わった施設とでは異なっていたからです。たとえばバスタオルは,それまでは施設のものを利用できたのに対して,新施設ではこちらで持っていかなければならなかったというような具合です。したがって事前の準備というのは,1泊しかできない新しい施設の方が,2泊できるそれまでの施設よりも大変なくらいでした。それでいて1泊しか利用できないのであれば,利用している側からいえば魅力がありません。そこで,11月中に2泊できる施設の予約が入れられたならば,先に予約を入れたこのショートステイについてはキャンセルしたいという旨のことを,10月中に母の方から作業所の担当者に伝えてあったのです。そして2泊の予定を入れることはできたのですが,キャンセルするのを忘れてしまったということでした。
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霧島酒造杯女流王将戦&バスの車内

2013-12-02 19:06:43 | 将棋
 10月23日の対局だった第35期女流王将戦三番勝負第三局は,11月30日に放映されました。
 振駒は歩が4枚となり里見香奈女流王将の先手に。三間飛車で美濃囲い。香川愛生女流二段は居飛車を選択し,穴熊を目指しました。組もうとしたところで先手が仕掛けたのですが,後手の対応がうまく,作戦勝ちに。将棋はそのまま大きな波乱はなく後手が勝ちましたので,ここでは僕が視聴していてはっきりと後手が良くなったと感じた部分を紹介します。
                         
 後手がと金を払って桂馬を跳ねた局面。もう先手としてはどのように指すか難しい局面になっている感じですが,▲5四角と打ちました。次に▲4四角と出られてはたまりませんが,△4二金上は固められる受けですから,そんなに腹立たしい手ではないでしょう。角を打った以上は▲6三角成。飛車にはひもがついていますから受ける必要はなく,△7九飛と打ち込みました。▲5四歩かなと思っていましたが▲5三歩。取れますが形が悪くなりますから△5一歩と打つ方が普通でしょう。飛車を取っても桂馬が角に当たってしまいますから▲7三馬と桂馬の方を取りました。これには後手も△8九飛成。そこで先手は▲4五歩と打ちましたが,△7五飛の両取り。そこで▲9五馬と受けましたがこれは後手の言い分が通った形。△3三銀引と逃げました。
                         
 これは玉の堅さが違いすぎます。それでいて同じように駒が捌けているのですから,相当に後手が良いといえるのではないでしょうか。
 香川女流二段が2勝1敗で女流王将に。タイトル初挑戦での戴冠となりました。

 この週の週末,11月9日の土曜日にピアノのレッスンがありました。この日は午後4時から。そして10日の日曜日に母と妹は美容院に。これは午後5時前と,通常と比較したなら1時間ほど遅れての帰宅となりました。母によれば,この日はほかに客がいたので時間が掛かったのだそうです。美容院というのは事前に予約を入れて通っていますから,当日にほかの客が来たのだとしても,優先されていいように思えますから,僕としてはこれは不可解というほかないような理由です。
 13日の水曜日は妹が歯科へ。担当の医師に変更があってから,鎮痛剤やら抗生物質などが処方されていたのですが,この日はそれがありませんでした。実際には処方してもらっても薬を入手するだけで服用はさせていませんでしたから,不要なものではあったのですが,これはとくに母の方からそのように要望したというわけではなく,医師の判断でそのようになったということでした。妹はどうもこの日は疲れてしまったようで,帰りのバスの中で眠ってしまったそうです。疲れの原因が歯科への通院にあったのか,それともそれ以前の作業所での仕事にあったのかは不明です。作業所からの帰りにひとりで眠ってしまったら大変なことになりますが,今までそのような事故が発生したことはありません。妹としてもひとりであればそれなりの緊張感があり,眠ってしまうということもないのでしょうが,この日は母と一緒ということで,いくらかの安心感もあったかもしれません。それに付け加えれば,作業所や施設の最寄りのバス停から乗り換える根岸駅までと,みなと赤十字病院から根岸駅までですと,要する時間に違いもあります。普段は眠ってしまうだけの時間がないということもいえるかもしれません。僕はこの日は川崎で,帰ったのは午後5時半頃。すでに母も妹も戻っていましたから,上述のことはすべてその後で母から聞いたものです。
 翌日の14日から今度はショートステイでした。これは港南区の施設を利用してのもので1泊2日。どうもこの施設は1泊の利用しかできないようです。そうした理由もあって一旦は断ったのですが,手違いで利用するということになったものでした。
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