スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&出版の決定

2015-12-16 19:21:43 | 将棋
 6日に国立科学博物館で指された第1回叡王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は郷田真隆九段が8勝,山崎隆之八段が3勝。
 棋戦名の発案者による振駒で山崎八段の先手。相掛かりに進み先手引き飛車,後手浮き飛車。戦いの途中まで均衡が保たれていましたが,先手が欲張りすぎたために形勢を損ねてしまったようです。ただ,後手が受けに回って勝つ指し方をしたので,もつれていきました。
                                 
 先手が7二の成桂を入った局面。この直前に後手は攻め合って勝つべき手順を逃していて,それまでより危険な状況に陥っています。ここで△8五歩で香車を取りにいきましたが,ここでこのように指すならやはりもっと早い段階で攻め合うべきだったでしょう。
 ▲5一角△3二王▲9五角成△同香▲5二飛△3三王までは一本道でしょう。先手は駒が足りませんから▲6二成桂と引いて取りにいきました。
 後手は△3八角から攻めていきましたが,この手はもしかしたら疑問だったのかもしれません。というのは▲3六金と桂馬の方を外されてしまったからです。ここで△同歩と取ったのは普通の手ですが,たぶん単に△4七角成の方がよかったのではないでしょうか。でもこれは普通ではないので,金を取り返せない手順に進めたことの方が問題であるように感じます。
 実戦は金を取り返したので先手も▲6三成桂と取って△4七角成に▲5八金と打てました。
                                 
 これで後手が攻め合って勝つのは困難になり,どうやら逆転しているようです。
 山崎八段が先勝。第二局は13日に指されました。

 もうひとつの理由は以下のようなものです。
 編集者たちが遺稿をどうするか相談した場合,実際に可能なのは,何もせずに処分してしまうか,遺稿集として刊行するか,そうでなければ遺稿自体をだれかに売ってしまうかのどれかであったと思うのです。そしてこの第三の場合というのは,実際に検討されていたと史実からは推定できます。すでに説明したように,シュラーはライプニッツに対して,『エチカ』の原稿を買わないかという打診をしているからです。
 『宮廷人と異端者』では,これはシュラーが金儲けを企んで,できもしないことを打診したのだというようになっています。僕もそうである可能性は否定しません。原稿はリューウェルツの手元にあり,おそらくリューウェルツが最初に相談したのもイエレスであったと推測できるからです。ですがこれは編集者たちの相談のときに話が出て,ライプニッツはその買い手になり得るから,おそらく編集者の中で最もライプニッツと親しかったシュラーが編集者を代表して打診したと解せなくはありません。
 ライプニッツが返事をしないうちに,シュラーは遺稿を刊行することが決定したからその申し出はなかったことにしてほしいという手紙を送りました。つまりその間に話し合いが進展して,遺稿集の出版が編集者たちの間で最終的に決定されたとみれば,これらのライプニッツ宛の書簡が出されたことも合理的に説明できます。スチュアートは故意にシュラーを悪く書いているような印象がありますから,こちらの推測の方が史実に近いとみることは明らかに可能だと思います。そしてそうであるならば,少なくとも遺稿をどう扱うかということに関しての合議に,シュラーは参加していたということになるでしょう。そしてこの場合には,シュラーだけでなく,ほかの編集者たちも参加していたと考えるのが妥当だと思います。
 遺稿集として出版するという決定は,スピノザの意に沿ったものだったと僕は思っています。スピノザが送り先として,親友たちの中からリューウェルツを指名したのは,彼が出版者だったからであり,それはつまり公開されることを望んでいたからだと思うからです。
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椿賞争奪戦&遺稿の取り扱い

2015-12-15 19:00:46 | 競輪
 伊東温泉記念の決勝。並びは菅田‐内藤の北日本,郡司‐和田‐渡辺の南関東,深谷‐柴崎の中部,脇本‐村上の近畿。
 菅田がスタートを取って前受け。3番手に深谷,5番手に脇本,7番手に郡司で周回。残り3周のホームから郡司が上昇。ホームを出るあたりで菅田を抑えました。脇本がこのラインに続いてバックでは菅田の外に並びましたが,菅田が譲らなかったので引き,菅田が4番手,脇本が6番手,深谷が8番手の一列棒状に。このまま残り2周のホームから郡司がスピードアップ。一列のまま1周が経過.ここから脇本が動いていくと和田も番手捲りで応戦。脇本はバックで一杯に。和田が先頭のまま直線に入りましたが,脇本のさらに外から捲り追い込んだ深谷が届いて優勝。半車輪差で和田が2着。和田マークの渡辺が半車身差の3着。
                                 
 優勝した愛知の深谷知広選手は10月の大垣記念以来の記念競輪10勝目。伊東温泉記念は初優勝。今年はビッグで決勝進出すらなく,デビューして最も苦しい年になりました。ですが最近はかつてのようないいレースを見せることも多くなってきていて,復調気配があります。このレベルの選手が記念競輪を2勝したくらいで復活とはいえないと思いますが,来年は完全復活の年になるかもしれません。僕自身もそうなることを期待しています。

 スピノザは死んだ場合の遺稿の取り扱いは,宿主であったスぺイクに依頼していました。その具体的な内容は,遺稿が保存してある机ごと,中身を記さずに梱包してリューウェルツへ送るというものでした。スぺイクは依頼を実行し,それらがすべてリューウェルツの手に移ったので,遺稿集の刊行が可能になったのです。この事実は,スピノザがリューウェルツに甚大な信頼を寄せていたことの証といえるでしょう。
 ハルマンは,リューウェルツが遺稿を受け取った後のことを,リューウェルツゾーンから聞かされ記録に残しました。それによればリューウェルツはその扱いについてイエレスに相談し,書簡以外の原稿は整理し,書簡については取捨分類したとなっています。これでみるとリューウェルツとイエレスですべてを決めたかのようですが,たぶん事実はそうではなく,この扱いの最終的な決定は,遺稿集の編集者になったすべての人びとの合議によって決定されたと僕は考えます。
 僕がそのように考える根拠はふたつあります。そのうちのひとつは,もしもイエレスとリューウェルツゾーンのふたりだけであったら,たぶん遺稿を整理したり取捨選別することすらままならなかったと思われるからです。というのは,原稿の大部分と書簡の一部はラテン語で記されていた筈ですが,イエレスはおそらくラテン語は解さなかったと思われるからです。というのも,イエレスはラテン語で書かれた書物を読むために,それをオランダ語に訳させていたからです。スピノザからイエレスに宛てられたすべての書簡がラテン語ではなくオランダ語で書かれていたということも,イエレスがラテン語を理解する能力に欠如していたことの証明になるでしょう。
 『神学・政治論』がオランダ語に訳されようとするのを阻止するために,スピノザがほかのだれでもなく,イエレスに依頼したというのも,この観点から理解できるかもしれません。その訳を最も読みたがっていたのがイエレスであったとも考えられるからです。だからこの書簡でスピノザがそれを望まないといっている友人は,ヨハン・デ・ウィットフッデのような政治家ではなかったかと僕は思うのです。
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香港国際競走&著作の出版

2015-12-14 19:31:55 | 海外競馬
 昨日,香港のシャティン競馬場で行われた香港国際競走4レースのうち3レースにのべ10頭の日本馬が参戦しました。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。大外の馬が押して逃げ,ミッキーアイルは2番手から。ストレイトガールは後方3番手の外,サクラゴスペルは最後尾を追走。スローペースだったのではないかと思えます。ミッキーアイルは逃げ馬の外に並び掛けるような形で直線に。しかしここから勝つことになる逃げ馬に離されるとギブアップ。後続の馬たちに飲み込まれて7着。ストレイトガールは直線は大外の進路になり,目立った伸びはなく9着。サクラゴスペルは内に進路を取りましたがこちらもレースに参加したという感じはなく12着。ストレイトガールあたりはもう少し走れてよかったような気もしますが,全般的にいってこのレースに参加した日本馬は能力が足りなかったという印象になりました。
 香港マイルGⅠ芝1600m。モーリスは概ね5番手付近。3頭ほど置いてフィエロ,さらに1頭を挟んでダノンプラチナという位置取り。ミドルペースでした。このレースは地元の人気馬がモーリスをマークするような展開。その馬が大外に出て直線ではモーリスより前に出たと思うのですが,そこからモーリスが差し返すと,内で粘った2着馬も交わして優勝。馬場の内から中よりは密集したため行き場がない場面もあり,ダノンプラチナは7着。フィエロは9着。2頭とも進路があればもう少しやれたでしょうし,とくにダノンプラチナは明らかに脚を余した感じがします。対してモーリスは力を十全に発揮。マークしてきた馬を負かしていますから濃い内容だったといえます。レースぶりからするともう少し距離があってもよさそうに思えました。
 優勝したモーリスマイルチャンピオンシップに続き6連勝で大レースも3連勝。父はスクリーンヒーロー。祖母は1989年のクイーンステークス,1990年の金杯とアルゼンチン共和国杯,1991年のアメリカジョッキークラブカップを勝ったメジロモントレーデヴォーニアメジロボサツの分枝。騎乗したライアン・ムーア騎手はマイルチャンピオンシップ以来の日本馬での大レース制覇。管理する堀宣行調教師もマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇で海外GⅠは3月のジョージライダーステークス以来の2勝目。日本馬の海外大レース制覇もそれ以来で香港では一昨年の香港スプリント以来。香港マイルは2005年以来10年ぶり2勝目。
 香港カップGⅠ芝2000m。外枠でしたがエイシンヒカリがじわっとハナへ立つと2馬身ほどのリードの逃げ。9番手くらいでインのヌーヴォレコルトと外のステファノスが並び,2馬身差ほどでサトノアラジンが追走。向正面に出た後もエイシンヒカリはペースを落としませんでしたが,レース全体ではスローペースだったといえるでしょう。直線に入ったところでもエイシンヒカリは2馬身くらいのリード。見た目の手応えそのままにここから2番手以降を離しましたので,この時点で勝ったのではないかと思いました。最も迫ったのは最内を回ってきたヌーヴォレコルトでしたが,逃げ切ったエイシンヒカリの優勝でヌーヴォレコルトが2着と日本馬のワンツー。ヌーヴォレコルトはインを回った好騎乗と前が詰まらなかった分の2着。この馬に最も合ったレースができての結果ですが,どうしても勝ち運には恵まれないという感が残ります。10着のステファノスと11着のサトノアラジンは完敗ですが,とくにステファノスはもう少し走れておかしくないように思え,やや不可解です。
                                  
 優勝したエイシンヒカリは前々走の毎日王冠以来の勝利で大レース初制覇を海外で達成。この馬は昨秋にオープン特別を勝った時点でマックスの能力は非常に高いことが明らかになっていました。相手がどうこうよりも気分よく走れるかどうかが焦点。必要以上に抑えてペースを落とさなかったのがよかったと思います。先手を奪えるのは強みなので,安定性は欠くかもしれませんが,中距離では相当の期待をしてもよい馬でしょう。父はディープインパクト。祖母のはとこに2012年の兵庫ジュニアグランプリと2013年のシリウスステークスを勝っている現役のケイアイレオーネ。騎乗した武豊騎手JBCクラシック以来の大レース制覇。海外での重賞は一昨年のニエル賞以来。GⅠは2007年のドバイデューティフリー以来。香港では2001年の香港ヴァーズ以来で香港カップは初勝利。管理している坂口正則調教師は1990年のオークス以来25年ぶりの大レース2勝目。

 コレギアント派であったことから類推できるように,リューウェルツは自由思想に寛容でした。自身が自由思想家であったといっても間違いないと思います。ハルマンと会ったリューウェルツゾーンは父の仕事を継ぐ形で出版者になりました。つまりリューウェルツも出版者だったのです。そして自由思想家らしく,自由思想に関連する多くの著作を出版していました。ですからファン・デン・エンデンが書店経営者であったことを差し引いても,エンデンとリューウェルツには出会う契機があったと考えることができます。
 1661年にオルデンブルクレインスブルフのスピノザを訪ねたとき,オルデンブルクがスピノザを知る契機となった人物として『ある哲学者の人生』でピーテル・セラリウスのほかに実名があげられているのがふたりいて,そのうちのひとりがリューウェルツです。リューウェルツはアムステルダムの出版者でした。レインスブルフとアムステルダムは離れているので,その時期にはそうたびたびは会えなかったと推測できます。したがってスピノザがレインスブルフに移る以前,すなわち1660年よりは前に,スピノザとリューウェルツは親友といえる関係になっていたと考えてよいでしょう。
 『デカルトの哲学原理』は実名でリューウェルツを出版者として刊行されました。『神学・政治論』は匿名で出版元があたかもドイツであるかのように装って刊行されました。遺稿集はイニシャルで,出版元は表記されずに刊行されました。それぞれ形式は異なりますが,いずれも出版者はリューウェルツです。
 自身が自由思想家だったと推定できますから,スピノザの著作の出版に協力することは不思議ではありません。とはいえ『デカルトの哲学原理』はともかく,ほかのふたつは出版すれば罪に問われるおそれがあったといえます。なので出版をしり込みしたとしてもリューウェルツを責めることはできないでしょう。ですがその危険を顧みずにリューウェルツはスピノザの著作を世に出したことになります。リューウェルツゾーンよりリューウェルツの方がスピノザの人生にとって重要人物であったのは,ここから理解できると思います。
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農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&リューウェルツ

2015-12-13 19:17:55 | 中央競馬
 2歳牝馬チャンピオンを決定する第67回阪神ジュベナイルフィリーズ
 抜群の発馬だったのがメジャーエンブレム。しばらく先頭を走りましたが,キリシマオジョウとメジェルダの2頭が追い抜いていき3番手に。この後ろはごった返していましたが,クードラパンとジェントルハート。さらにクロコスミア,ペプチドサブル,ブランボヌール,ウインファビュラス,キャンディバローズ,デンコウアンジュといった馬たちが一団で追走。最初の800mは46秒9のミドルペース。
 キリシマオジョウは3コーナー通過後,騎手が馬を御しきれなくなって後退。メジャーエンブレムとメジェルダが並んで直線に。メジャーエンブレムは手応えに余裕があり,直線に入ってから突き放すと,後続から迫られる場面もなく,2馬身の差をつけて優勝。メジェルダは掛かっていたので苦しくなり,その外を追ったキャンディバローズ,デンコウアンジュ,ウインファビュラスの3頭の中からウインファビュラスが抜けて2着。道中で一旦は位置を下げてしまい苦しくなったブランボヌールが何とか伸びて1馬身4分の1差の3着。
 優勝したメジャーエンブレムは新馬,特別と連勝後,前哨戦のアルテミスステークスは2着。とはいえそれがかなり強い内容でしたのでここは人気に推されていました。今日は枠順にも恵まれましたが圧勝といえる内容。このレースは人気になって勝った馬は大成するケースが多く,将来的にも期待がもてるでしょう。ただ,今までのレースぶりから見る限り,距離には限界があるように感じます。父はダイワメジャー
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は7月のジャパンダートダービー以来の大レース制覇。阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。管理している田村康仁調教師は開業から17年半強で大レース初勝利。

 ハルマンが訪ねた出版者はリューウェルツです。スピノザの無二の親友と書かれています。彼はスピノザに会ったことがありましたし,人間的に敬愛し,思想的に共鳴していたのも報告から間違いありません。親友であったのは事実でしょうが,無二といえるかは微妙です。それにスピノザの人生においてより重要なのは,この出版者の父であるリューウェルツJan Rieuwertszの方です。この父子は名前も同じなので表記を分けるのは難しいのですが,ここでの約束事として,これ以降,僕が単にリューウェルツと記したらそれは父の方を示し,ハルマンが会った息子の方はリューウェルツゾーンと書くことにします。
 この時代のオランダ人の苗字で,○○ゾーンというのは○○の息子という意味を有します。なので僕がリューウェルツと表記するとした父の方も,いくつかの著作ではリューウェルツゾーンと表記されています。また,『ある哲学者の人生』では,イエレスJarig Jellesのことがイエレスゾーンと表記されています。僕はそこに意味があるとは思わないので,原則的に○○ゾーンと表記される苗字は○○とだけ示すことにしています。スピノザの親友である出版者については,おそらくこの父子しか言及することはないでしょう。父をリューウェルツ,子をリューウェルツゾーンと表記するのはこれらすべての理由からです。
                                  
 リューウェルツは1616年産まれですから,スピノザより16ほど年長だったことになります。スピノザとの出会いについては,ナドラーSteven Nadlerはふたつの可能性を示しています。ひとつはイエレスによる仲介で,もうひとつはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenの仲介です。
 リューウェルツもコレギアント派collegiantenでした。同じコレギアント派のイエレスはおそらくスピノザの商人仲間で,スピノザがコレギアント派と接近する前のスピノザの知合いです。ですからイエレスが仲介するのは不自然ではありません。
 リューウェルツとエンデンの関係はナドラーは示していないので分かりません。ただ,エンデンはラテン語学校を開校する前は,アムステルダムAmsterdamで書店を経営していたので,同地の出版者のリューウェルツと知り合っても不思議ではなかったと僕は思います。
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記者の保身&ハルマン

2015-12-12 19:27:55 | 歌・小説
 リーザの死を必然的であると解することが可能なのは,テクストだけに依拠するなら記者だけです。叫び声が殺人の契機になったと考えることは可能でも,それが確実であるとはだれにもいえません。ましてテクストは偶発的であったことを強調し,それが結論となっているのですから,一般の読者はこの殺人が必然であったとは解さないでしょう。一方で,テクストを記述した記者が,これを必然的な殺人と解する読者が存在すると認識していたのも間違いないところです。なぜ記者がそう認識したかといえば,記者自身がそこに必然性があると考えていたからに違いありません。
                                 
 記者が叫び声の部分を記述したこと自体が,叫び声と殺人の間に因果関係があると解していた証拠です。もしもその叫び声が殺人とは何の関係もないと記者が考えていたのなら,この部分を記述する必要がないからです。あるいは記述すること自体が不可能であったでしょう。
 つまり記者は,殺人を必然的と解する架空の読者をあらかじめ設定し,その読者が実は偶発的な殺人であったと認識を改めるような仕方でテクストを書いたことになります。死の状況の記述に関して記者の意図があったのだとすれば,その意図とはこうしたことであったと考えるのが妥当だと僕は考えます。
 ということは,記者は殺人が必然的であると解されてはまずいと思っていたとみるのが常識的でしょう。そしてこの場合まずいというのは,真実ではないという意味であるより,記者自身にとって悪しきことであると理解するべきだと思えます。なぜなら,単に誤解を防ぐためであるならもっと別の記述ができた筈だからです。そもそもこれを必然的と解する架空の読者を想定すること自体が,いい換えれば誤解するであろう読者を想定していること自体が,この観点からは不自然だというべきでしょう。だから記者は,叫び声に何らかの意図があったというようには解されたくなかったのです。つまり記者の意図の根源的な真意は,保身にあったと思います。なぜそんな保身が必要だったのか。それは叫び声をあげただれかのうちのどちらかは,実は記者自身であったからではないでしょうか。

 イエレスに宛てられたスピノザの書簡が遺稿集への掲載にあたって編集者に選別されていたという事実は,次のことから明らかになっています。
 1673年に産まれ,1717年に大学教授となったドイツ人のゴットリープ・シュトレという人物がいました。この人が1703年にふたりを連れてオランダを旅しました。その供のひとりにハルマンというドイツ人がいます。シュトレとハルマンはそれぞれにそのときの旅行記を残したようです。残存しているのはその抜き書きにすぎません。
 このうちハルマンの旅行記の方に,スピノザの著作の出版者のところに立ち寄ったとき,遺稿集には未掲載のスピノザの書簡を見せてもらったという記述があります。これがイエレスへのものでした。現行の『スピノザ往復書簡集』では書簡四十八の二として収録されているものがそれです。書簡の番号からも,これが遺稿集には未収録であったことが分かります。なお,ステノからの書簡はアルベルトからの書簡六十七に関連付けられて六十七の二とされていますが,四十八の二と四十八は無関係です。四十八はハイデルベルク大学教授への要請をスピノザが断った書簡です。四十八の二は日付がこの書簡の直後なので,ここに収録されたのです。
 ハルマンがどういう人物であったかはよく分からないようです。ただひとつ,間違いなくいえるのは,自由思想にかなり寛容な人物であったということです。というのは旅行記の別の部分で,この時代のオランダ人たちがスピノザが明らかにした諸々の真理に見向きもしないのは残念であるとし,スピノザの思想は人びとにとって有益なものであると記しているからです。すでにスピノザは無神論者の汚名を着せられていて,その思想に同調することは危険なことではなかったかと思われます。ハルマンはオランダ人ではなくドイツからの旅行者ではありましたが,1703年の時点でこのように記述できる人物が存在したということは僕にとっては驚きでした。たぶんこのことはシュトレの方にも当て嵌まります。シュトレもオランダ滞在中にスピノザのことを多く調べていて,それが旅行の目的ではなかったかと思えるほどです。
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リコー杯女流王座戦&価値判断

2015-12-11 19:35:53 | 将棋
 第5期女流王座戦五番勝負第四局。
 加藤桃子女流王座の先手で伊藤沙恵女流二段のうそ矢倉。この将棋はたぶん先手が序盤でしくじっていて,後手が8筋不突きを生かして中飛車に回り,3筋も絡めてと金を作ったところでは後手がリードしていたと思います。ただ,後手は決定打を放てず徐々に混戦に。
                                  
 先手がただのところに歩を打った局面。この後の展開から分かりますが,ここは△4八とと指すほかなかったのではないでしょうか。
 実戦は△4九同飛成と取りました。先手は▲5三角と王手銀取りを掛け,△2一玉に▲5一飛の王手も決めて△3一歩に▲3五角成と銀を取りました。これは角にもヒモをつける一石二鳥の手になっています。第1図で△4八とであれば銀にヒモがつくのでこの手はありませんでした。
                                  
 第1図で歩を取ればおそらく第2図までは一本道です。そしてこちらを選んだからには後手はここで△5八桂成と指すのでなくてはなりません。ですがそれは指しきれなかったようで△4二銀▲8一飛成△5九龍▲8八王△6九角と進めました。でもこの順は先手玉を寄せるためには駒が不足していて,先手の勝ち筋に入ったのではないでしょうか。
 加藤王座が勝って2勝1敗1持将棋。第五局は25日です。

 ほかの書簡もみてみましょう。
 書簡四十四はすでに紹介したもので,スピノザがイエレスに対して『神学・政治論』がオランダ語に訳されようとしていることの真偽を確かめ,事実であれば中止するように努力してほしいと要請しているものです。これがこの書簡の冒頭部分で,ですから主題はここにあったといえるでしょう。けれどもこの書簡が掲載されたのは,たぶんその後で政治論について語られているからなのであり,もし前述の要請だけで終っていたとしたら,この書簡は遺稿集から排除されることになったのではないかと僕は推測しています。
 書簡五十はイエレスからの質問にスピノザが答えたもの。質問はふたつあったようで,ひとつはスピノザとホッブズの国家論の間にある相違がいかなるものであるかということで,もうひとつは神が「唯一」であるという点と関連します。とくに後者はスピノザの哲学にあっては重要であると僕は考えます。遺稿集に掲載されたイエレスへの書簡のうち,掲載される価値が最も高かったと僕に思えるのはこの書簡です。
 書簡八十四が『スピノザ往復書簡集』のうち,宛先が記されていない唯一の書簡です。前に説明したような理由から,僕はこの手紙はイエレスに宛てられたものと解します。なお,この書簡は遺稿集に掲載はされたのですが,書簡として掲載されたのではなく,遺稿集に含まれていた『国家論』の序文のような形で掲載されたとのことです。いってみればこれは,書簡としては掲載する価値は高くはなかったということでしょう。もし編集者たちがそのように判断したのであったとすれば,僕はその判断には同意できます。
 このようにみれば分かるように,スピノザからイエレスに宛てられた手紙というのは多種多様です。そしてもしも,イエレスに宛てたということが掲載する価値規準であったとしたら,つまりイエレスに宛てられたということがそれだけで掲載の価値に値すると編集者が判断したのであったとすれば,それが多種多様であることは,その価値判断の是非とは別に理解できるところです。ところが,実際にはそうではなく,編集者によって選別されているのです。
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思惟の主体&スピノザとイエレスの文通

2015-12-10 19:19:16 | 哲学
 人間が能動的に神を愛するとき,愛する主体というのはその人間であるというより神自身であるというのがスピノザの哲学における考え方です。これはスピノザの哲学の特徴のひとつである,認識論における主体の排除と大きく関係します。そしてスピノザの哲学では,ふたつの意味において主体の排除が貫徹されているということができます。
 ひとつは,精神があれを認識しこれを認識しないという選択をすることが不可能であるという意味です。かつて僕が詳しく説明したのはこちらの方です。すなわち現実的に存在する観念は第二部定理九の仕方で自動的に発生するのであって,その観念を認識する精神がそれを決定することはできません。つまり精神とは自動機械なのであり,主体的に何かを認識するような思惟の様態ではないのです。
 もうひとつが愛する主体とは何かということで意味されていることです。現実的に存在する人間の精神というのは,その精神という様態的変状様態化した神の思惟の属性にほかなりません。このことは万人に妥当します。よってAという人間の精神がXを認識するとはAの精神に様態化した神がXを認識するということですし,Bという人間の精神がXを認識するのならばBの精神に様態化した神がXを認識するというのと同じことです。したがってどんな人間が何を認識しようとも,それは結局のところ神が認識しているということなのであり,人間が主体になって認識しているということではないのです。
                                  
 僕が知る限り,この特徴に最も注意を向けているのは上野修です。『スピノザの世界』では,スピノザの哲学ではあらかじめ精神なるものがあってそれが事物を認識するというように理解してはならず,精神など存在せずとも認識作用や観念が存在すると理解しなければならないという主旨のことがいわれています。『哲学者たちのワンダーランド』では無頭の神というフレーズを用い,それは精神なき思考であるといわれています。
 実際には,人間だけが思惟の主体であることができないのではありません。神ですら思惟の主体ではあり得ないのです。

 スピノザとイエレスの間の書簡で遺稿集に掲載されたものには,はっきりとした特徴があります。それはすべてがスピノザからイエレスに送られたものであり,イエレスがスピノザに送ったものは1通も掲載されていないことです。つまり遺稿集の編集者は,スピノザが送ったものは掲載する価値があるけれども,イエレスが送ったものはそうではないと判断したことになります。イエレス自身が編集者のひとりだったのですから,これはイエレスの判断と考えてよいと僕は思います。ただしそれは,フッデの場合のように,立場を考えて配慮したとか,イエレス自身が身の安全のためにそう決めたというのではないことも確実です。なぜなら,もしもそうであるならスピノザから送った書簡の方から,その相手がイエレスであるということを伏せなければなりませんが,そうしたことはなされていないからです。つまりイエレスは自分にスピノザとの交際があったことが発覚するのは構わないと思っていて,同時に自分が出した書簡は遺稿集の掲載に値しないと考えていたことになります。このことは遺稿集の序文を書いたのがイエレスであったことからも明白でしょう。
 イエレス宛の書簡のうち,最初のものが書簡三十九で,これはレンズが主題となり,それに関連することだけが書かれています。
 書簡四十は,三十九に対してイエレスが送った質問の返答を含みます。この手紙ではまず錬金術,次にデカルトの哲学に関連することが書かれ,返答は最後です。中盤のデカルト哲学への言及は思想的価値があり,この書簡に掲載の価値があるとみなされたのは僕には理解できます。
 では四十を掲載するために三十九も掲載されたのかといえば,そうではありません。次の書簡四十一もイエレスに宛てられたものですが,ここでは水圧と水流の速度についてだけが言及されています。僕にはこの書簡のどこに価値があったのか疑問なのですが,編集者は価値があると判断したのです。ということは三十九も,おそらく自然科学の観点からのみ掲載する価値があると判断されただろうと僕は考えます。四十の内容の理解を容易にする目的ではなかったと思うのです。
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デイリー盃クイーン賞&不思議な処置

2015-12-09 20:41:02 | 地方競馬
 ハンデ差が結果に影響を与えるのかどうかが注目だった第61回クイーン賞
 先手を奪ったのはノットオーソリティ。徐々に進出していったディアマイダーリンが2番手に。控える形になったトロワボヌールが3番手。この後ろはやや離れてツリーハウスとセイカフォルトゥナが追走という隊列に。最初の800mは49秒7のミドルペース。
 3コーナーを回るとトロワボヌールは手綱を動かしながらの追走に。4コーナーでノットオーソリティとディアマイダーリンの差は1馬身くらい。直線はノットオーソリティの外に出したディアマイダーリンと最内を突いたトロワボヌールの3頭の叩き合いに。外のディアマイダーリンが優勝。内からしぶとく脚を伸ばしたトロワボヌールがクビ差で2着。ノットオーソリティは力尽きて4分の3馬身差の3着。
 優勝したディアマイダーリンは重賞初勝利。芝の3歳牝馬重賞で3着と2着があり,クラシック路線に乗った馬ですから力があったのは確か。ただここがダート初出走でしたので僕はそれを懸念していました。結果からみるとそれは杞憂であったということでしょう。とはいえスムーズな競馬になったのが味方したといえなくもなく,砂を被るような展開になった場合の課題はまだ残っているともいえそうです。今日のところは2着馬との斤量差も大きく,トップクラスまでいったとは断定できませんが,まだ3歳ですからそこまでいく可能性は大いにあると思います。父はハーツクライ。従兄にゴールドアリュール
 騎乗した横山典弘騎手,管理している菊沢隆徳調教師はクイーン賞初勝利。

 スピノザに宛てられた書簡に関していえば,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちがどこに掲載の価値を求めたかということのヒントになる事例がすでにありました。それはアルベルトAlbert Burghからの手紙とステノNicola Stenoからの手紙への扱いの差です。編集者たちは前者だけを遺稿集に掲載し,後者は排除しました。ふたつの手紙をそれ自体で比較したならば,価値が高いのは後者であると僕は判断しますし,この見解はほとんどの人に受け入れられるだろうと思います。なのに編集者が遺稿集への掲載にあたって逆の判断を下したのは,スピノザはアルベルトには返事を書いたけれどもステノには書かなかったからに違いありません。スピノザの返事の内容をよく理解できるようにするために,書簡六十七も掲載する価値があったのです。
                                  
 スピノザの返信は書簡七十六で,これは哲学的にも神学的にも多くの内容を含みます。ですから編集者たちが掲載する価値があるとみなして何ら不思議はありません。ですがイエレスJarig Jellesに宛てた書簡三十九というのは,哲学また神学的内容をまったく含みません。つまりそうした観点から掲載する価値があると編集者が判断したのではないのです。強いていえばこの書簡はデカルトの光線屈折学に関する言及があり,それに対してスピノザのなぜデカルトが誤謬を犯したかということの推測が含まれています。いい換えればデカルトへの言及が含まれているのですが,そうはいっても思想とは無関係だというべきでしょう。
 さらにこの書簡には不思議な部分があります。これは明らかにイエレスからの書簡への返答なのです。したがってアルベルトからの書簡に掲載する価値が見出せたのと同じ理由で,イエレスの質問の書簡も掲載する価値があった筈なのです。ところがそれは掲載されていません。さらにこの書簡に対してイエレスはさらに詳しい説明を求める書簡を送り,次の書簡四十でスピノザはそれに答えているのですが,その書簡も掲載されていないのです。スピノザはすべての書簡を保存していました。さらにイエレス自身が編集者であったことを考えると,こういう処置は非常に不思議に感じられます。なぜこうしたことになったのでしょうか。
 
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九十九島賞争奪戦&レンズが主題の書簡

2015-12-08 19:06:45 | 競輪
 グランプリで人気になるであろう武田が参戦してきたものの準決勝で敗退となった佐世保記念の決勝。並びは後閑‐中村の関東,野原に和田‐加藤の東日本がマーク,吉本‐山田‐井上‐岩津の西国。
 牽制となってスタートを取ったのは和田。野原が前受け。4番手に後閑,6番手に吉本の周回に。残り3周の3コーナーから吉本が発進。そのまま一気にスピードアップし,ホームで野原を叩くと後閑がこのラインに続き,前後が入れ替わって一列棒状。吉本は緩めなかったので打鐘までこの隊列のまま。野原はここから発進。ホームで前まで追いつきそうになるとすかさず山田が番手から出ていきました。野原は井上の外でよく粘りましたが最終コーナーの手前で一杯。直線の手前で山田がやや外に進路を取ると井上が内から踏み込んで優勝。マークの岩津が2車身差で2着。ずっとインを回った中村が,山田の動きで外に行った選手が苦しくなった分もあり,うまく続いて4分の3車身差の3着。
 優勝した長崎の井上昌己選手は昨年の佐世保記念以来の記念競輪優勝で通算10勝目。地元となる当地は2011年にも優勝があり3勝目。強力なライバルが不在となって九州勢には願ってもないメンバー構成に。野原の動きには注意が必要だったと思いますが,前受けとなったので吉本は自分の仕事がしやすくなったでしょう。山田もしっかりとお膳立てをしましたので,これで勝てなければ勝てるレースはないという展開になりました。結束がもたらした優勝でしょう。

 スピノザがレンズを主題に語っている書簡として,イエレスに宛てた書簡三十九があります。『フェルメールとスピノザ』では,スピノザがレンズを研磨する技術に長けていたことを示すために,フッデに宛てた書簡三十六が援用されています。ですがこの書簡は主題は哲学で,ことのついでにスピノザがフッデにアドバイスを求めたというのが全体の内容になっています。マルタンがこちらを利用したのは,書簡三十九は望遠鏡のレンズについて語られているのに対し,書簡三十六はレンズの新しい磨き皿を作るためのアドバイスを求めているからかもしれません。カメラ・オブスキュラのレンズは望遠鏡や顕微鏡のレンズとは違ったレンズだったのですから,こちらの方が説得力があるとマルタンが考えたとしても不思議ではないからです。ただ,レンズの大きさから考えると,スピノザがおそらく自宅で使用するための磨き皿は,カメラ・オブスキュラのレンズとは関係なかったろうと僕は判断します。
                                 
 イエレスは書簡三十九の内容を十全に理解することができなかったようで,さらに詳しく説明することを求めました。対してスピノザは書簡四十で答えています。ただしこちらの書簡はいろいろなことが語られていますので,主題がレンズであるとは必ずしもいえないような内容になっています。
 ライプニッツとのやり取りで遺稿集に掲載された書簡,四十五と四十六は光学を中心に語られていますので,レンズが主題になっているといえないことはありません。ですが僕の推測は,ライプニッツはスピノザと哲学的な対話をするため,接近の手段として光学を利用したというものですので,これは少なくともライプニッツにとっては名目上の主題になっているにすぎないと解します。実際にスピノザとライプニッツとの間でこの後に哲学的内容を有する文通が行われたということは,シュラーがスピノザに宛てた書簡七十から明白です。なのでこのやり取りに関しては,主題はレンズではなかったというのが僕の判断になります。
 書簡三十九はスピノザがイエレスの質問に答えたものです。遺稿集の編集者はなぜこれを掲載の価値ありと判断したのでしょうか。
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かもめの歌&理論と実践

2015-12-07 19:14:55 | 歌・小説
 「ノスタルジア」はその本来的な意味である望郷心が主題となっているわけではなく,この意味だと「ホームにて」の方が相応しいといえます。「ノスタルジア」は故郷より過去への想起としてこのタイトルになっているのでしょう。僕は産まれも育ちも横浜であり,だから望郷心というのを抱くことはありません。なので僕自身にはノスタルジーは,むしろ過去との関係で抱かれる情念です。そしてこの点において,「ノスタルジア」は「ホームにて」よりリアルに感じられます。というのは,「ホームにて」からはどことなく甘美な思いも感じられるのに対し,「ノスタルジア」からはそうした印象を受けないからです。いうなれば僕にとってノスタルジーとは,必ずしも甘美な情念ではないのです。
 「ノスタルジア」の歌い手が,だれのことも天使だったと言う,というとき,僕はすごく共感できるのです。これは過去のすべてを懐かしく思い出しているというより,それを受け入れているというように思えるからです。これと同じような意味において共感できるフレーズが,「かもめの歌」にもあります。
                                   

     思い出話はえこひいきなもの
     いない者だけに味方する
     いまさら本当も嘘もない
     私のせいだと名乗るだけ


 大好きな曲のひとつですが,僕はよほどのことがない限りこの歌は聴きません。歌い手自身がこう歌っているからです。

     いつかひとりになった時に
     この歌を思い出しなさい
     どんななぐさめも追いつかない
     ひとりの時に歌いなさい


 きっといつか,これをひとりで歌う日がやってくるのでしょう。 

 『フェルメールとスピノザ』では,カメラ・オブスキュラのために必要とされたレンズは大きなものであったとされています。そして顕微鏡や望遠鏡のレンズとは違った機能を有していなければならなかったともされています。このことは,このレンズを製作するために必要とされている理論が,顕微鏡を製作するために必要だった理論や望遠鏡を製作するために必要であった理論と異なっていた筈だということを推測させます。この観点から考えてみましょう。
 レーウェンフックは顕微鏡によって多くの発見をなしました。それは単にそれだけの技術力があったというだけではなく,その理論にも長けていたということの証であると僕は思います。一方,スピノザはケルクリングのために顕微鏡のレンズを製作していました。そしてケルクリング自身がこのレンズのことを第一級と評し,これによってリンパ管の束を観察することが可能になっているといっています。ですから顕微鏡のレンズの製作に関する理論も実践も,スピノザはレーウェンフックに対してそんなに劣っていたとは考えなくてよいだろうと僕は判断します。
 一方,スピノザはホイヘンスのためには望遠鏡のレンズを製作していました。ホイヘンスはスピノザが精巧な道具によって仕上げているから,このレンズは非常に優れたものになっているという主旨のことをいっています。つまりスピノザには,望遠鏡のレンズについても水準以上に理論を理解していたし,その理論を実践する能力を有していたと理解して大丈夫でしょう。もしかしたらレーウェンフックにはこの種の能力はなかったかもしれません。顕微鏡のレンズの製作のために必要とされる技術と望遠鏡のレンズの製作のために必要とされる技術にはあまり大きな差はないと考えておいた方がたぶん安全で,だから実践的な能力においてスピノザの方が優っていたと断定するのは危険だと思いますが,理論の方に関してはスピノザの方が長けていたと理解する余地はあります。というのもレーウェンフックはあくまでも顕微鏡学者なのであり,そのためには望遠鏡のレンズのための理論というのは知る必要がなかった可能性もあるからです。
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チャンピオンズカップ&必要な根拠

2015-12-06 19:18:28 | 中央競馬
 香港から1頭が遠征してきた第16回チャンピオンズカップ
 コーリンベリーが逃げるだろうと思っていましたが,まったくその気がなかったようでコパノリッキーの逃げに。追っていったのがクリノスターオー。その後ろは二ホンピロアワーズとガンピットの併走。コーリンベリーはこれらの後ろに。サンビスタとホッコータルマエが並んで続き,ダノンリバティとグレープブランデー。あとはローマンレジェンド,ワンダーアキュート,ナムラビクター,ロワジャルダン,グランドシチー,ノンコノユメ,サウンドトゥルーの順で同じような間隔での追走に。最初の800mは48秒0でミドルペースに近いハイペース。
 ホッコータルマエは早めに動いて直線の入口ではコパノリッキーの外へ。ここから競り合いになり,ようやくコパノリッキーを競り落とそうかというところでその外に出されて追ってきたサンビスタが一気の末脚で2頭を捕え,そのまま抜け出して快勝。最内から追い込んだノンコノユメが1馬身半差で2着。大外から追い込んだサウンドトゥルーがクビ差で3着。
 優勝したサンビスタは前々走のレディスプレリュード以来の勝利。大レースは昨年のJBCレディスクラシック以来の2勝目。牝馬路線での内容から,牡馬相手でも通用するとは思っていましたが,現実的に結果が出ていませんでしたので軽視していました。ここで結果を出したのは驚きですが,それだけの能力があったのは間違いなかったということでしょう。後方にいた2頭が2着と3着に追い込む厳しい競馬でこれだけの着差をつけたのは立派としかいいようがありません。父はスズカマンボ。母は2002年のフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル。Sambistaはポルトガル語でサンバダンサー。
                              
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はダービー以来の大レース制覇。チャンピオンズカップは初勝利。管理している角居勝彦調教師は昨年のジャパンカップ以来の大レース制覇。第6回,9回に続き7年ぶりのチャンピオンズカップ3勝目。

 こちらの問題は次のような観点からも重要だといえます。
 単純に自然科学者として比較するなら,スピノザはレーウェンフックの足元にも及びません。これは両者がなした自然科学に対する功績を,現在の時点で評価したものです。そしてレーウェンフックは顕微鏡学者でした。顕微鏡による観察にレンズが必須であるのはいうまでもありません。したがって,フェルメールのカメラ・オブスキュラに何らかの貢献を両者がなしたと仮定した場合には,レーウェンフックにはなし得たけれどもスピノザにはなし得なかったことがあると判断する方が,スピノザになし得てレーウェンフックになし得ないことがあったと判断するより妥当であるというのが一般的な見解であるかもしれないのです。
 実際にはレンズの製作に関する技術力は,スピノザの方がレーウェンフックよりも高度であったと判断しておく方が無難で安全だろうと僕は考えています。ただし僕がそのようにいうのは,とくにカメラ・オブスキュラに限定せず,広い意味でレンズに関することならば,そのように理解しておけば間違いは少ないだろうというほどの意味でしかありません。レーウェンフックは実際に顕微鏡を用いて数々の発見をしました。マルタンはその一部はスピノザのレンズに負うているのだといっていますが,仮にその部分を差し引いたとしても,レーウェンフックにはなし得たけれどもスピノザにはなし得なかったということも間違いなくあっただろうと僕は考えます。僕がいっているのは,どちらがレンズに関連した多くのことをなし得たかといえば,それはスピノザだっただろうということです。最低でも,レーウェンフックが有していたであろう水準以上の技術と同程度の技術がスピノザにもあったということは,確実だといっていいと思います。
 ここではカメラ・オブスキュラに対する両者の貢献を比較しようとしています。なので一般的にスピノザの方が技術力が上であったという見解はあまり意味を有することができません。特にこのレンズに対して,スピノザの方がレーウェンフックよりも大きく貢献できただろうと推定できるだけの根拠が必要とされているのです。
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第三部諸感情の定義二七&フェルメールの認識

2015-12-05 19:27:26 | 哲学
 第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoの反対感情は,第三部諸感情の定義二六の自己嫌悪humilitasです。しかしスピノザは,自己満足にはもうひとつ別の反対感情があると説明しています。それは次の第三部諸感情の定義二七の後悔poenitentiaです。
                                 
 「後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲しみである」。
 第三部諸感情の定義二五は,自己満足を自分の働く力を観想するagendi potentiam contemplatorことによって生じる喜びLaetitiaであると定義しています。ですが,僕たちが自分の精神mensの自由な決意decretumによってなしたと信じる行為の観念ideaを伴うことによって喜びを感じるとき,それも自己満足であるとスピノザは考えているのです。このように考えることはきわめて自然でしょう。現実的に僕たちが自己満足を感じるのは,単に自身の能動的な力を観想する場合より,自分の行為を観想する場合の方が圧倒的に多いであろうからです。ですから同じような観想によって悲しみtristitiaを感じるなら,それは反対感情になります。その反対感情をとくに後悔と定義していることになります。つまり後悔とは自己嫌悪の一種であると理解するのが妥当でしょう。
 この悲しみが後悔といわれることについては異論は出ないものと思います。後悔の反対感情は自己満足の一種である何らかの感情affectusと本来はいわれるべきだと僕は考えますが,その感情を示す適切な語句がないのです。スピノザが自己嫌悪と後悔のふたつを共に自己満足の反対感情として定義しているのはそういう理由からだと思います。
 人間は精神の自由な決意によって何らかの行為をなすことはできません。これは第一部定理三二からも第三部定理二からも明らかです。だからこの定義Definitioでは精神の自由な決意によってなした行為とはいわれず,そう信じた行為といわれています。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがスピノザに書簡を送ったのは1671年10月です。つまり「天文学者De astronoom」が描かれた3年後です。したがって,その1671年10月の時点ではスピノザは自身が光学の有識者であるということが世間に知られていると自覚していたと僕は判断しますが,このことは,「天文学者」を描く以前のフェルメールJohannes Vermeerが,スピノザは優秀なレンズの職人であるということを知り得たということの状況証拠にはならないのです。ただ,ライデンLeidenにファン・ローンJoanis van Loonを訪ねた1660年の時点では間違いなくスピノザはレインスブルフRijnsburgのヘルマン・ホーマンHermann Homanの家に寄宿していたのであり,その寄宿先にはレンズを研磨するための専用の小屋あるいは部屋があったのですから,レンズのことに関してもフェルメールがスピノザの技術のことを知り得たという可能性を排除する必要はないだろうと思います。僕はマルタンJean-Clet Martinがいうように,スピノザは哲学者としてよりレンズ職人として知られていたとは判断しません。それでもフェルメールがレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookを介さずにスピノザにカメラ・オブスキュラcamera obscuraのレンズに関する相談ないしは依頼をするということはあり得たろうと思うのです。つまり僕が作った物語のうち,フェルメールがレーウェンフックの秘密裏にスピノザにレンズの作製を依頼するということは,史実として絶対にあり得ないとは考えません。
 もうひとつの問題,すなわちレーウェンフックにはなし得なかった,フェルメールを満足させるだけのレンズの製作を,スピノザがなし得たかどうかということの方が,たぶん僕の物語にとっては重要です。というのも,スピノザがフェルメールに協力するということは,必ずしも直接的な依頼でなくても成立はします。物語には登場しない別の人物を介してもよいのですし,仮にレーウェンフック自身の仲介があったと考えても,物語の全体が壊れてしまうわけではありません。ですが「天文学者」は「少女Meisjeskopje」より高性能のレンズを用いて描かれたというのは,僕にとってもマルタンにとっても物語の根幹をなしているといえるからです。そしてマルタンと違い僕は,レーウェンフックの協力も必ずあったという考えなのです。
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シャンソネット,ドバイソプラノ,ハルーワソング&やり取りの成立

2015-12-04 19:24:47 | 血統
 JBCレディスクラシックを勝ったホワイトフーガは,世界的に名馬が続出している一族です。遡るほど多くの馬が出てきてしまいますので,ここではホワイトフーガの4代母であるGlorious Songから続く一族だけ詳しく紹介しておきます。ファミリーナンバー12-c
                                       
 まずGlorious Songの近親に日本競馬に縁が深い種牡馬が4頭います。全弟にタイキシャトルの父であるDevil's Bag,2番仔がメイセイオペラの父であるグランドオペラ,3番仔に日本で重賞勝ち馬を3頭出したRahy,8番仔に1996年に競走馬として来日してジャパンカップを勝ち,アサクサデンエンの父になったSingspielです。Singspiel産駒で重賞を4勝して種牡馬になったローエングリンは2013年の皐月賞を勝った現役のロゴタイプを出しました。
 6番仔の産駒のハルーワソングは繁殖牝馬として輸入されました。産駒に2011年のラジオNIKKEI賞を勝ったフレールジャックと昨年の中日新聞杯と新潟記念を勝っている現役のマーティンボロ。孫には2012年のクイーンカップ,2013年2014年のヴィクトリアマイルを連覇したヴィルシーナがいます。
 9番仔の産駒のドバイソプラノも繁殖牝馬として輸入。この馬がホワイトフーガの祖母になります。
 最後の産駒がシャンソネットでこの馬はGlorious Songの直仔としては繁殖牝馬として輸入された唯一の馬。1頭の産駒しか残せなかったのですが,それが2010年にNHKマイルカップを勝ったダノンシャンティです。
 もう少し広く辿るとグラスワンダーなども同じ一族。この牝系からはまだまだ多くの活躍馬が出てくるでしょう。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizからスピノザへの書簡は,世間では多方面にわたるスピノザの才能が称えられていて,ライプニッツ自身は光学においても優秀な知識を有していると承知しているという主旨の一文で始まっています。これを読むとスピノザが光学に優秀な知識を有していると知っているのはライプニッツだけと解することも可能です。ライプニッツはスピノザの友人であるシュラーGeorg Hermann Schullerと以前から通じていたのですから,単に文章だけでなく,史実の面からもこの読解が可能だといわなければならないでしょう。ですが僕はそうではないと思います。むしろ光学も,称えられているとライプニッツがいった多方面にわたる才能のひとつであったと解します。
 なぜなら,僕はこの手紙が送られた時点では,ライプニッツはスピノザがどのような人物であるのかを概ね知っていたのに対し,スピノザはライプニッツのことをそうは知らなかったと思うからです。この書簡によってライプニッツを初めて知ったという可能性もあると思います。というのは後にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがシュラーを介して『エチカ』の草稿をライプニッツに読ませることの可否を問うた書簡への返信に,スピノザはライプニッツというのはこの手紙を送ったのと同一人物だろうという主旨のことをいっているからです。それ以前に知っていたのなら,別の書き方をしたと思います。これらは僕の推測でしかありませんが,たぶん正しいと思います。
 だとすると,ライプニッツが自身の光学の論文の講評を,自分のことをよくは知らないであろうスピノザに求め,さらにスピノザを介してフッデJohann Huddeの講評も得ようとするのに,単にライプニッツだけがスピノザが光学の有識者であると知っているだけでは不十分だと考えます。その場合にはスピノザの方がなぜライプニッツがそれを知っているのかを不思議に感じてしまうからです。でもスピノザは返信の方で,そのようなことは何も問うていません。そしてそのことが意味しているのは,光学の有識者であることが世間に知られているということを,スピノザ自身が自覚していたからだと思います。これを前提にしないと,このやり取りは成立しないというのが僕の考えです。
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竜王戦&レンズ職人としての知名度

2015-12-03 19:52:01 | 将棋
 昨日から甲府で指されていた第28期竜王戦七番勝負第五局。
 先手の渡辺明棋王が糸谷哲郎竜王の一手損角換わりを拒否するような指し方をして,先手が浮き飛車,後手が引き飛車の相掛かりに。ですが後手は5筋の位を取って中飛車に回り,あまり見たことのない将棋になりました。8筋を交換してからこのように指すのはあまり得がないように思えるのですが,こういう指し方が好きなのでしょう。
                              
 4四で角交換がされたところ。先手はすぐに▲1六角と打っていきました。それなりに成算があっての指し方に思えます。
 △4三銀右と受けたのに対して▲2四歩と合わせていきました。そこで△4一角と打って受けましたが,この手はさすがに考えていなかったのではないかと思います。熟考して▲2三歩成△同歩に▲2二歩と打ちました。これは金で取ると▲3五銀で処置できないと思われるので△同飛は止むを得なかったのではないかと思います。先手はそれでも▲3五銀と出て△同銀に▲5六飛と回って王手。これも仕方のない△4二王に▲4三角成△同王▲5一飛成で龍を作りました。
                              
 先手は著しい駒損ですが,玉がしっかりしていて手番。後手は駒の働きも悪いので,これで先手が確たるリードを奪ったといえそうです。たぶん駒損だったからだと推測しますが,安全に勝つような順を選択したので手数はかかりましたが,先手の快勝といえる一局でしょう。
                               
 渡辺棋王が4勝1敗で竜王に復位。第17期,18期,19期,20期,21期,22期,23期,24期,25期に獲得していて3年ぶり10期目の竜王です。

 『フェルメールとスピノザ』ではスピノザはオランダでは哲学者としてよりもレンズの加工職人として知られていたとされています。事実その通りであるなら,話は簡単です。思想家としてのスピノザの名前をフェルメールが知っていたとしておかしくないだけの状況証拠は揃っているのですから,レンズ職人としてもっと知られていたのなら,当然ながらフェルメールがそのことも知り得たということになるだろうからです。さらにもうひとつ,哲学者としてのスピノザについては,加え得ることがあります。それは『デカルトの哲学原理』はイエレスの金銭的援助を得ることにより,1663年には実名で発刊されていたことです。これはラテン語で書かれたものですが,翌年にはオランダ語版も出版されていました。ブレイエンベルフはそれを読んで反駁の手紙を私的にスピノザに送ったのです。現存する『スピノザ往復書簡集』にはスピノザがレンズについて語っているものがあまり多く含まれていません。でもこれは遺稿集の編集者が,掲載する価値がないと判断したために除去したからであったかもしれず,ブレイエンベルフが哲学に関して私的な手紙を送ったように,レンズの製作に関してスピノザに送られた私信というのもなかったとはいえないのです。
 とはいっても,本当にスピノザが哲学者としてよりレンズ職人として有名であったのかを確かめる術は僕にはありません。確かにレインスブルフヘルマン・ホーマンの家に下宿していた時点で,レンズを研磨するための専用の部屋があったくらいですから,知識が高度であったのは間違いないとしていいでしょうが,それが広く知れ渡っていたかどうかは不明としかいいようがありません。
 それでも,ライプニッツが後にスピノザとの接触を求めるためのおそらくは方便としてスピノザに書簡を送ったとき,光学に関する有識者とスピノザをみなしていたのは事実です。つまりライプニッツが興味を抱いたのはスピノザの思想に対してであるのは間違いないと僕は判断しますが,同時にレンズ職人としてのスピノザを知っていたのは確かだし,それはシュラーからの情報だけではなかったと僕は思うのです。
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農林水産大臣賞典浦和記念&有名性

2015-12-02 19:16:39 | 地方競馬
 11年ぶりに12月に入ってからの実施になった第36回浦和記念
 サイモンロードとリアライズリンクスが出ていきましたが,サイモンロードは控えてリアライズリンクスの逃げに。外連味なく飛ばしていったので道中は大きなリードを奪いました。単独の2番手となったのがサミットストーン。その後ろに控えたサイモンロードとハッピースプリント。さらにタイムズアローとソリタリーキングが並んで追走という隊列に。前半の1000mは61秒5でハイペース。2番手は1秒差くらいだったと思いますので全体的にはミドルペースだったと考えてよいかもしれません。
 リアライズリンクスは3コーナーで一杯になり追っていたサミットストーンがコーナーの途中で先頭に。サミットストーンをマークして追い上げたハッピースプリントは直線の入口ではサミットストーンに追いつきました。ここから追い出されたハッピースプリントが抜け出し,2馬身の差をつけて快勝。サミットストーンが2着。この2頭を追うところでやや離されてしまったソリタリーキングが2馬身差で3着。
                           
 優勝したハッピースプリントは昨年の東京ダービー以来の勝利。重賞は一昨年の全日本2歳優駿以来の3勝目。長く勝てなかったのは3歳秋の休養明けのレース以外は強いメンバーを相手に戦い続けていたため。チャンピオンズカップへの出走を予定していましたが,賞金不足で除外濃厚となったためこちらに回ってきたもの。相手のレベルが一気に落ちていましたので,ここは勝てるだろうと考えていました。順当な優勝といえるでしょう。最も高い能力を発揮できるのはもう少し短い距離なのではないかと思います。はとこに2009年の関東オークススパーキングレディーカップ,2010年の名古屋大賞典スパーキングレディーカップ,2011年のTCK女王盃エンプレス杯スパーキングレディーカップを勝ったラヴェリータ
 騎乗した北海道の宮崎光行騎手は南関東ではこの馬で全日本2歳優駿を勝って以来の重賞制覇。浦和記念は初勝利。管理している大井の森下淳平調教師も浦和記念は初勝利。

 1661年にオルデンブルクホイヘンスに会うことを主目的にオランダに来たとき,スピノザが住むレインスブルフヘルマン・ホーマンの家にも足を伸ばしたのは,ピーテル・セラリウスから話を聞いていたからなのかもしれませんが,オランダに到着した後でスピノザの噂を耳にしたからなのかもしれません。この場合その噂というのは,単にスピノザがユダヤ人共同体から破門された人物というだけでは不十分なのであり,オルデンブルクが会うことによって利益を得られるような知識人でなければならなかったのです。
 1665年にフォールブルフで新任の牧師を選定する際,その選定にあたったティードマンは,スピノザを下宿させているということで保守派から非難を浴びました。これは下宿しているのがスピノザであったから可能であった非難なのであり,少なくとも保守派にとって,スピノザは危険思想の持ち主という意味において有名であった証拠となり得るでしょう。
 1666年にクールバッハ兄弟が尋問されたとき,スピノザとの関係がその中に含まれていたことも,同じ意味をもっているといえるでしょう。これらのことを考えれば,スピノザのことをフェルメールがレーウェンフックからの紹介なしに知ったとしても,さほど不思議ではないと推定してよいと思います。
 ですが,スピノザがフェルメールも知り得るほどに有名であったという根拠とした上述の説明は,いずれもスピノザが思想家として,とくに保守派から見た場合に危険な思想家であるという意味で有名だったということなのであって,レンズの製作に携わっていたという意味で著名であったことを示しているわけではありません。仮にフェルメールがレーウェンフックの秘密裏に高性能のレンズの入手に動いたとしても,スピノザが優秀な技術者であるということを知らなければ,会う必然性はありません。フェルメールにとって重要であったのは,自分にとって満足ができるレンズを製作できる人物だったのであり,スピノザという特定された人物であったわけではありません。むしろその技量があればスピノザでなくても構わなかったと考えなければならないからです。
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