スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&第二部定理三五と第四部定理一

2019-10-16 19:06:35 | 将棋
 9日に指された第50回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は増田康宏六段が3勝,高野智史四段が1勝。
 振駒で高野四段の先手となり相掛かり。先手の浮き飛車に後手の増田六段の引き飛車。先手が早繰り銀の速攻を掛ける将棋。
                                        
 先手が4六の銀を上がったのに対して後手が3二の金を上がって受けた局面。ここで☗4六飛と回って戦力を足しましたが,この手があまりよくなかったのだと思います。
 後手は☖6五桂と跳ね先手の☗7七桂に☖5七桂成☗同玉と捨てて☖2四角の間接王手飛車。このまま☖4五歩とされては終了なので先手は☗4八玉と逃げましたが☖4六角☗同銀の飛車角交換に進みました。
                                        
 第2図は先手の桂得なのですが,後手が飛車を手持ちにしたのが大きく後手の方がやれるようです。なので第1図で4六に飛車が回るのはまずく,先手はたとえばここでか銀を5五に上がる前に☗7七桂のような手を指しておかなければいけなかったということになりそうです。
 増田六段が先勝。第二局は21日です。

 スピノザは太陽を例に説明しているのですが,数値に誤りが含まれているので,僕はここでは月を例材に説明します。
 僕たちは月を表象するimaginariとき,これは夜に月を見たときを想定してほしいのですが,そのときには月が現にあるよりずっと近くにあるように知覚します。第二部定理三五がいっているのは,このときに実際に月が知覚しているような近い位置にあると思うなら,それが虚偽と誤謬を分けた場合の誤謬errorであり,実際には月は見た目よりはずっと遠くにあるということを知っているなら,それは虚偽falsitasではあっても誤謬ではないということです。この場合には,実際に月が自分から,あるいはこれは地球からといい換えてもほとんど違いはありませんが,どれほど離れた位置にあるのかを正確に知っている必要はありません。ただ見た目よりはずっと遠くにあるということさえ知っているなら十分です。
 もし僕たちが,地球と月との間にある距離を正確に知っていると仮定するなら,このとき僕たちはそのことについて十全な観念idea adaequataを有していることになります。これはそれ自体で明らかでしょう。このときある人間がその十全な観念を有していると仮定して月を見れば,月がその当の距離ほど離れているかのように知覚するpercipereのかといえばそうではありません。そのことを知っていようと知っていまいと,月は同じように表象される,実際にあるのよりもずっと近くにあるかのように表象されるのです。第四部定理一がいっていること,すなわち真verumであるものが真であるということが現在するということを理由としては誤った観念idea falsaが有する積極的なものは除去されないというのはこのような意味です。つまりこの定理Propositioの意味は,この場合でいえば月の,正確にいうなら地球と月との間の距離の,真の観念idea veraすなわち十全な観念がある知性intellectusのうちに現実的に存在するとしても,月の表象像imagoは除去されない,いい換えればその混乱した観念idea inadaequataは除去されないということです。つまり一般的にいうなら,ある知性のうちにXの十全な観念が存在するということは,その同じ知性のうちのXの混乱した観念が除去される原因causaにはならないし,その発生を妨げる原因にもならないということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛仁親王牌・世界選手権記念&肯定する力

2019-10-15 18:52:12 | 競輪
 台風19号の影響で2日目以降が順延された前橋グリーンドームでの第28回寛仁親王牌の決勝。並びは小松崎‐和田の東日本,三谷‐村上の近畿,清水‐中川‐園田の西国で木暮と浅井は単騎。
 和田がスタートを取って小松崎の前受け。3番手に三谷,5番手に木暮,6番手に清水,最後尾に浅井で周回。残り3周のバックの入口の手前から清水が上昇開始。バックの出口で誘導は退避。清水が小松崎を叩きましたが,小松崎は引かず,外の中川と併走に。併走の後ろに浅井,木暮が続き,8番手に三谷という隊列になって清水はスローペースに落としました。バックから三谷が発進。清水を叩いて打鐘。ペースアップで競り合いに決着がつき,清水の後ろは小松崎‐和田に。浅井,木暮と続き,園田がスイッチ。番手を奪われた中川が最後尾の一列棒状に。バックから浅井が捲りましたがこれは前まで届かず。やや車間を開けていた村上が直線入口から踏み込んで優勝。逃げた三谷が半車身差の2着に粘って近畿のワンツー。清水は流れ込む形で8分の1車輪差の3着。清水の外にいった小松崎が4分の1車輪差の4着で村上と清水の間を突いた和田が4分の1車輪差で5着。
                                        
 優勝した京都の村上博幸選手はサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグ8勝目。GⅠは2014年2月の全日本選抜競輪以来の4勝目。寛仁親王牌は初優勝。このレースは三谷と清水の争いではないかとみていました。三谷が先制し粘り込むレースになったので,番手の村上に展開の利があったというところでしょう。ただ,清水も3番手ですから位置としては悪かったわけではなく,もっと早めに動いていった方がよかったのではないでしょうか。村上が番手選手としてうまかったのは事実ですが,やや積極性に欠けるレースであったという印象はぬぐい得ません。

 人間の精神mens humanaのうちにある混乱した観念idea inadaequataは,その観念の対象ideatumとなっているものの本性naturaを含んでいる観念です。そしてそれは,その人間の身体humanum corpusが観念の対象となっているものに刺激されるaffici限りにおいては,そのものの本性の観念であるということができます。また,観念の対象となっているものが自分の身体であったり自分の精神であったりする場合には,何らかの物体corpusに刺激される限りにおいての身体なり精神の本性の観念であるということができます。このためにそうした混乱した観念を肯定する意志作用volitioというのは,真verumなるものを真なるものとして,あるいは十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用と同じだけの力potentiaを有するのです。なぜなら,たとえば外部の物体Xの混乱した観念を肯定する意志作用は,Xが自分の身体を刺激するafficere限りでのXの本性を肯定するような意志作用であるといえるからです。
 繰り返しになりますが,それが同じだけの力であるとみなせるのは,その混乱した観念が混乱した観念であるということを知っている限りにおいてです。このことをより積極的にいえば,たとえばXの表象像imagoについては,Xが自分の身体を刺激する限りにおいてのXの本性の観念であるということを知っている限りにおいてであるということです。もちろんそれが虚偽falsitasであるということ,真理veritasではないということさえ知っていれば,それがどのような観念であるのかということまで知っていなければならないというものではありませんが,虚偽を虚偽であると知るということが具体的にどのような意味であるのかということを示せば,これがその条件となるという意味で説明しました。
 このことをスピノザが明言しているのが第二部定理一七備考です。そこでいわれているように,もし虚偽を虚偽として認識するcognoscereのであれば,虚偽を認識することは人間の精神の欠点ではなくむしろ長所なのです。そしてその理由のひとつとして,混乱した観念が含んでいる意志作用は,それ自体でみるならば力である,それも,十全な観念idea adaequataが含んでいる意志作用と同じだけの力であるからだということをあげることもできるでしょう。
 さらにこのことは,第四部定理一とも関係を有します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイルチャンピオンシップ南部杯&含まれる本性

2019-10-14 19:10:19 | 地方競馬
 第32回南部杯
 ロンドンタウンとノボバカラの2頭で後ろを離していく形に。3馬身差でアルクトス,モジアナフレイバー,パンプキンズの3頭。その直後がサンライズノヴァとゴールドドリームの2頭でこの5頭は一団。3馬身差でオールブラッシュ。さらにミツバ。2馬身差でロジストームとメイショウオセアン。2馬身差でナラ。2馬身差でラモントルドール。4馬身差でイッセイイチダイとレプランシュとソーディスイズラヴ。力量差がはっきりしていたこともあり縦長の隊列に。前半の800mは45秒7のハイペース。
 3コーナーを回るとノボバカラは苦しくなり始め,内からアルクトス,外からサンライズノヴァとモジアナフレイバーが追い上げ,ゴールドドリームはこれらの後ろ。直線は逃げたロンドンタウンの内からアルクトス,外からサンライズノヴァ。大外に回ったモジアナフレイバーの内に進路を選択したゴールドドリームの優勝争い。ロンドンタウンは脱落。わりと楽に抜け出したサンライズノヴァが優勝。最内のアルクトスが1馬身半差で2着。外のモジアナフレイバーを差す形でゴールドドリームが1馬身半差の3着。モジアナフレイバーがクビ差の4着でロンドンタウンは1馬身半差で5着。
 優勝したサンライズノヴァは昨年の武蔵野ステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初制覇。ここはゴールドドリームの力が上でしたが,球節の炎症後の一戦でしたので,崩れるケースもあり得るとみていました。その場合はアルクトスとサンライズノヴァが候補で,僕は能力そのものはサンライズノヴァの方が上とみていました。武蔵野ステークスを勝った後,成績は残せていなかったのですが,おそらく体調によるものだったのだろうと思います。復調してくればこれくらい走って当然の馬ですので,今後も注目ではないでしょうか。父はゴールドアリュール。9代母がダイシング。祖母は1989年にフラワーカップを勝ったリアルサファイヤ。母のふたつ下の半弟に2005年に武蔵野ステークス,2007年にフェブラリーステークスを勝ったサンライズバッカス。Novaは新星。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手は一昨年の京阪杯以来となる重賞4勝目。デビューから18年半で大レース初勝利。管理している音無秀孝調教師はジャパンダートダービー以来の大レース13勝目。南部杯は初勝利。

 現実的に存在する物体corpusXの本性essentiaは,Xが現実的に存在することを鼎立する本性です。よってそれがなければXは現実的に存在することができません。このことは第二部定義二の意味から明らかです。そして人間の身体humanum corpusは物体のひとつですから,ある人間の身体が現実的に存在するのであれば,その身体の現実的本性actualis essentiaというものがあります。僕たちにとってそれ,すなわち自分の身体の現実的本性は,あるものaliquidとしてしか認識できないものです。いい換えれば自分の身体の現実的本性をあるがままに認識するcognoscereことはできません。第一部公理六から分かるように,真の観念idea veraというのは観念されたものideatumと一致しなければなりません。つまり僕たちは現実的に存在する自分の身体の本性を真に認識することはできないのです。あるいは同じことですが,十全に認識することはできないのです。このことは,自分の身体に限らず,自分の精神mensについてもあるいは外部の物体についても同様です。
                                   
 しかし一方で,僕たちは自分の身体を刺激するafficere限りでの外部の物体の本性は認識します。そしてこの限りでの本性も,その物体の現実的本性を含んでいるのです。同様に,僕たちは何らかの外部の物体に刺激されるaffici限りでの自分の身体の現実的本性についてはそれを認識します。これは第二部定理一九から明らかです。そしてこの限りでの自分の身体の現実的本性というのは,自分の身体の本性を含んでいるのです。よってこれらの表象像imaginesは,外部の物体のあるいは自分の身体の本性のありのままの観念ではありませんから,その真の観念あるいは十全な観念idea adaequataであるということはできず,したがって誤った観念idea falsaあるいは混乱した観念idea inadaequataではあるのですが,もし僕たちの身体が外部の物体に刺激される限りで真verumあるいは十全adaequatumといい得るような観念があると仮定するなら,それは真であるとか十全であるとかいい得るような観念ではあるのです。ある人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神Deusのうちに十全な観念があるというのは,そのような解釈を無限知性intellectus infinitusの一部を構成している有限な知性からみたものを,無限知性の見地からいい換えたものであるという解釈ができなくもないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋華賞&第二部定理二六系

2019-10-13 19:04:55 | 中央競馬
 第24回秋華賞。メイショウショウブは左前脚の蹄の底の内出血で出走取消となり17頭。
 発走後の正面で先頭に立ったビーチサンバにコントラチェックが競りかけていき,2頭で並んで逃げるような形に。向正面に入るあたりでリードは3馬身。ダノンファンタジーとパッシングスルー,ブランノワールとクロノジェネシスとレッドアネモス,カレンブーケドールとフェアリーポルカという順で続き,この7頭は一団。2馬身差でシャドウディーヴァ。3馬身差で後方集団の最前列にローズテソーロとエスポワール。サトノダムゼル,シゲルピンクダイヤ,シングフォーユーと続き,最後尾にトゥーフラッシーとシェーングランツという隊列。前半の1000mは58秒3の超ハイペース。
 3コーナーを回るとダノンファンタジーが外から前の2頭との差を詰めにかかりました。コントラチェックは直線の入口を待たずに脱落。直線に入るところで一旦はビーチサンバが差を広げ,追ってきたダノンファンタジーは伸びあぐねました。その間にクロノジェネシスが伸びてきて,逃げるビーチサンバを差して優勝。直線の入口でクロノジェネシスに押し込まれる形になったカレンブーケドールがダノンファンタジーとクロノジェネシスの間に進路を確保し2馬身差で2着。後方から1頭だけよい脚を使ったシゲルピンクダイヤが1馬身半差で3着。
 優勝したクロノジェネシスはクイーンカップ以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。このレースは能力ではダノンファンタジーが上位ですが,距離とコースには不安があり,ほかの馬が勝つ可能性の方が高いとみていました。クロノジェネシスはそれ以外の馬の中では能力上位を形成する1頭なので,ダノンファンタジーが崩れた場合は優勝候補の1頭でした。ただこのレースは前半のペースのわりに時計が遅いです。これは瞬発力を発揮しにくい馬場状態になったからだと思われ,レース全体の結果としてはその点を大きく考慮しておかなければならないでしょう。母の父はクロフネ。3代母はラスティックベル。ひとつ上の半姉に昨年の紫苑ステークスと今年のヴィクトリアマイルを勝っている現役のノームコア。Genesisは創世記。
 騎乗した北村友一騎手は大阪杯以来の大レース3勝目。秋華賞は初勝利。管理している斉藤崇史調教師は昨年の全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。

 ある人間が何らかの物体corpus,たとえばXを表象するimaginariとき,その人間の精神mens humanaのうちにあるXの観念ideaは混乱した観念idea inadaequataです。この表象像imagoは,Xの本性naturaを含む観念ではありますが,Xの本性そのものの観念ではないからです。このことは第二部定理二五からも明らかですが,第二部定理二六系ではもっと明瞭に言明されています。
                                   
 「人間精神は,外部の物体を表象する限り,それの妥当な認識を有しない」。
 このことは何をもって人間の精神が事物を表象するというのかということさえ分かっていれば,先述の第二部定理二五と第二部定理二六から明白なので,これ以上の証明Demonstratioはしません。
 しかし一方で,この観念が外部の物体,ここでの考察でいえばXの本性を含む観念であることは事実です。そのゆえにXが現実的に存在すると観想するcontemplariことができるからです。ですから第二部定理三三でいわれているように,この表象像すなわち混乱した観念が,何か積極的な虚偽falsitasを構成していることにはなりません。むしろその本性を含むという意味でいえば,真理veritasの一部を構成しているとみることさえできるでしょう。そして僕たちがどんな事物であれ,たとえペガサスのような現実的には存在していないような事物でさえも,それを混乱して認識するcognoscereすべての場合について,このことが妥当します。ですからたとえ僕たちが事物を混乱して認識するのだとしても,前提としておいたように,それが混乱した観念すなわち虚偽であるということを知っている限りにおいては,この認識cognitioは僕たちの精神の力potentiaであるといえるのです。
 さらにこのことは,他面から説明し直すこともできます。僕たちがXを表象するとき,その表象像はXの本性を含んでいるのですが,それはどのような意味において含んでいるといわれるのかといえば,第二部定理一七から分かるように,Xが僕たちの身体corpusを刺激するafficere限りにおいてです。したがってこの刺激状態の観念,これをこのブログでは身体の変状affectiones corporisといいますが,この観念は,それを認識する人間の身体がXによって刺激されるaffici限りでのXの本性の観念であるといい換えることができます。つまりXの本性を含むとは,その限りにおいてXの本性そのものなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーフィールドステークス&本性を含む観念

2019-10-12 18:48:49 | 海外競馬
 オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドステークスGⅠ芝2000m。
 スズカデヴィアスは発馬後にすぐ控えて内に。徐々に位置取りが下がる形で最後尾からの追走となりました。先頭からは概ね7馬身から8馬身くらい。直線手前から惰性をつけるような感じで外へ出しましたが,2頭を差すにとどまり,勝ち馬からは4馬身弱の差で8着。激戦の3着争いまで1馬身4分の3ほど届かないという結果でした。
 この馬は日本でGⅢ1勝,オープンを2勝というクラスの馬ですから,普通に考えてGⅠでは厳しいです。こういう馬がオセアニアの中距離のGⅠに出走してどの程度の結果を出せるのかは注目していたのですが,着差としても着順としても能力に準じたようなものであったと思われます。

 主体subjectumというのをどのように規定するのが適切なのかということは別にしても,ある知性intellectusが混乱した観念idea inadaequataを有するとき,それがなぜ力potentiaであるといい得るのかということについては,事物を混乱して認識するcognoscereその知性の側からの説明も与えておきます。ただ前にもいったように,スピノザの哲学においてこれを説明するべき本筋は,第二部定理一一系の具体的意味に絡めるものです。僕がこれからするのは,このことをより分かりやすくするためのものだと理解してください。それから,この条件というのは,虚偽と誤謬を分けた場合の,虚偽falsitasの場合にのみ限られます。いい換えれば,虚偽が虚偽であるということを虚偽を認識するその知性が認識している場合に限られるということは前提としてください。この認識cognitioが欠乏している場合は,第二部定理四九備考でいわれているように,真verumなるものを真なるものとして肯定するのと同じ力があるというわけではありません。
                                   
 第二部定理一七によれば,ある人間たとえばAの身体corpusが外部の物体corpusたとえばXによって刺激されるとき,Aの精神mensはXが現実的に存在すると観想します。これはAの精神のうちにあるXの表象像imagoであって,混乱した観念です。実際にこの観念は,Aの精神の本性naturaを構成するとともにXの観念を有する限りで神のうちにある観念ですから,先述の第二部定理一一系の具体的意味によって,Aの精神のうちにXの混乱した観念があるということは明白です。
 ではなぜこのときにAはXが現実的に存在すると観想するcontemplariのでしょうか。それはこの定理Propositioにあるように,Xがその本性を含む仕方でAの身体を刺激するafficereからです。第二部定義二の意味から分かるように,一般に事物の本性essentiaというのはその事物の存在existentiaを鼎立するのであって,排除しません。よってXがその本性を含む仕方でAの身体を刺激すると,Aはその限りでXの本性を認識することになり,このXの本性がXの存在を鼎立するために,AはXが現実的に存在すると観想することになるのです。これについて詳しくは,この定理の証明Demonstratioを参照してください。
 ここから分かるのは,Aの精神のうちにあるXの表象像は,Xの本性を含んでいる観念であるということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典報知新聞社杯エーデルワイス賞&主体の規定

2019-10-11 18:48:28 | 地方競馬
 昨晩の第22回エーデルワイス賞
 マナモクプニは立ち上がって1馬身の不利。まずクモキリが前に出て,内から追い抜いたプリモジョーカーが先手を奪う形。3番手はアザワクとキラットダイヤ。5番手にレインズパワー。6番手にグローリアスレゴンとコーラルツッキーで8番手にデビルスダンサー。ここまでが一団。2馬身差でスマイルエルフとミナトノヨーコ。3馬身差でニシノミンクス,マナモクプニ,ミホスローリアスの順で続き,5馬身差でウィーンソナタ。3馬身差の最後尾にミリミリという隊列。前半の600mは33秒9の超ハイペース。
 3コーナーではプリモジョーカーとクモキリはほぼ横並び。これにアザワクが並んでいく形。クモキリはコーナーの途中で一杯。プリモジョーカーは先頭で直線に入ってきましたが,すぐにアザワクが前に出て,一旦は抜け出しました。追ってきたのは中団あるいは後方から外を差してきた,コーラルツッキー,ミナトノヨーコ,ニシノミンクスの3頭。3頭とも最後まで伸びましたが,道中の位置取りの差でコーラルツッキーだけがアザワクを差し切ることができて優勝。アザワクが半馬身差で2着。ミナトノヨーコが半馬身差の3着でニシノミンクスはハナ差で4着。
 優勝したコーラルツッキーは前々走の北海道重賞のフルールカップ以来の勝利で通算4勝目。重賞はもちろん初勝利。このレースはJRAから参戦してきた馬が新馬か未勝利を勝ち上がったばかりで,記録的に目立つ馬は不在。こういう場合は北海道勢の争いになるのがこのレースのパターンですが,今年の北海道の2歳馬は全体を通しても抜けた能力を有する馬が不在でしたので,大混戦になるだろうと思っていました。コーラルツッキーの場合はフルールカップの勝ち方は鮮やかだったので,優勝候補の一角とは考えていました。1000mは3戦3勝で,1200mは3戦3敗だったために人気を落としていましたが,少なくとも前走のリリーカップは控え過ぎての敗戦で,必ずしも200mの延長に耐えられないというようには思えませんでした。さらに距離が伸びるのはマイナスでしょうから,それを能力でどこまでカバーできるのかということが今後の焦点となってくるでしょう。母の父はキングヘイロー
 騎乗した服部茂史騎手はデビューから25年で重賞初勝利。管理している田中淳司調教師は2016年の兵庫ジュニアグランプリ以来となる重賞4勝目。エーデルワイス賞は初勝利。

 同じ人間の精神mens humanaのうちに,異なった様式のXの混乱した観念idea inadaequataがふたつあるいはそれ以上存在し得るということは,実は論理的に証明するよりも,僕たちの経験に訴えた方が分かりやすいと思います。というのは,僕たちは異なったものを表象するimaginariことによって,同一のものを表象するということがよくあるからです。たとえばAからXを連想するし,BからもXを連想するということがあるでしょう。この場合,前者の場合はそういう連想をする人間の精神の本性naturaを構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるといわれるのであり,後者の場合はその連想をする人間の精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りでXの観念が神のうちにあるといわれるのです。
 たとえばある人間が現実的に存在するとして,その人間がリンゴを表象することから赤を連想することもあるでしょうし,火を表象することから赤を連想する場合もあるでしょう。このとき,その人間の精神のうちには赤の混乱した観念があるのですが,前者の混乱した観念と後者の混乱した観念の様式が異なるということは,とくに説明するまでもなく明らかでしょう。そしてここで僕が例示した事象あるいはこの例示に類する事象が僕たちにしばしば生じているということも,自身の経験に照らし合わせれば明らかだと思います。したがって同じ人間の精神のうちに,異なった様式の混乱した観念が存在し得るということも,容易に理解できるだろうと思います。
 なので,僕はもしもスピノザの哲学において主体subjectumという概念notioを措定しようと思うのならば,それはその主体が混乱した観念を有する限りにおいてであるといい,その理由を,Aという人間の精神のうちにあるXの混乱した観念とBという人間の精神のうちにあるXの混乱した観念は,様式が異なる別の混乱した観念であるということに求めました。ですが実際には,Aの精神のうちに異なった様式の複数のXの混乱した観念があり得る,あるいは現実的に存在するのです。したがって,単に混乱した観念の様式の相違によって主体という概念を規定するのなら,同じ人間もまた別の主体であるといういい方も可能になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧島酒造杯女流王将戦&主体内の差異

2019-10-10 19:06:43 | 将棋
 5日に霧島ファクトリーガーデンで指された第41期女流王将戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王将が4勝,西山朋佳女王が4勝。
 霧島酒造の社長による振駒はと金が3枚出て西山女王の先手。☗7六歩☖3四歩☗6八飛☖2四歩☗2八銀☖2五歩という珍しい出だしから先手の四間飛車矢倉,後手の三間飛車美濃という相振飛車に。後手の作戦勝ちだったと思いますが,主導権を得た分の得で,先手は愚形にはなったものの,ずっといい勝負だったように思います。
                                        
 先手が7筋の歩を突き捨てた局面。ここは何とか攻めを繋がなければなりませんが,☗7七桂と取られそうな駒を使いにいったのは好判断でした。
 後手は☖5五金と角の方を取って☗同飛に☖5四歩と打ちました。先手は☗6五桂とさらに活用。☖6四馬に☗4五飛と逃げました。もし同じ手順になるならここは☗2五飛の方が得でした。
 後手は☖5五桂。先手は☗4六銀と逃げ☖5七龍のときに☗4一飛成としました。同じ手順ならここは☗2一飛成があり得たわけでそれなら実戦の☖5一金引が龍取りにはなりませんでした。
 ここで☗7三香と打ったのは攻め続けるための唯一の手段。☖4一金に☗6二銀と打ちました。
                                        
 ここで☖6五馬と桂馬を取って☗6一銀成に☖7三王と上に逃げ出そうとしましたが,☗6五銀と馬を取り返されて後手の敗勢になりました。第2図では☖7三桂と香車を取り,☗6一銀不成に☖6二飛と打って頑健に抵抗すればまだ難解だったようです。
 西山女王が先勝。第二局は23日です。

 僕が規定した主体subjectumの概念notioについては,なお注意するべきことがあります。
 僕はたとえばAという人間の精神mens humanaのうちにあるXの混乱した観念idea inadaequataと,Bという人間の精神のうちにあるXの混乱した観念は,同じようにXの混乱した観念である,Xに関する虚偽falsitasであったとしても,Aの精神のうちのXの混乱した観念とBの精神のうちにあるXの混乱した観念の様式は異なり得るので,もしもスピノザの哲学の中に主体という概念を持ち込もうとするのであれば,それは各々の人間が混乱した観念を有する限りで,いい換えると,各々の人間が事物を混乱して認識するcognoscere限りにおいてであるといいました。そしてその様式の差異は,各々の人間の精神の本性naturaの差異,あるいは同じことですが各々の人間の身体humanum corpusの現実的本性actualis essentiaの差異に還元できる場合があるし,完全に還元することはできなくとも,その差異が混乱した観念の様式の差異にまったく影響を与えないということはあり得ないのです。
 ただ,注意しておかなければならないのは,たとえばAという特定の人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとして,その混乱した観念の様式もまた常に一定であるとは限らないということです。第二部定理一一系の具体的意味に照合させると,たとえばAの精神の本性を構成するとともに何かほかのものの観念を有する限りでXの観念が神のうちにある場合は,AはXを混乱して認識します。つまりXの混乱した観念がAのうちにあります。このとき,もしもAの精神のうちにあるXの混乱した観念の様式が常に一定であると主張するなら,具体的意味の中でほかのものといわれているものもまた常に一定でなければなりません。しかしこのことはこの意味からは帰結させられませんし,この意味の前提とすることもできません。すなわち,Aの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合もあれば,Aの精神の本性を構成するとともにCの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合もあります。少なくとも論理的にはあり得ます。どちらの場合もAはXを混乱して認識しますが,そのふたつのXの混乱した観念の様式には差異があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&相違の規準

2019-10-09 19:18:21 | 地方競馬
 第29回埼玉新聞栄冠賞
 カンムルが少し躓いて1馬身の不利。しごいてしごいてディアデルレイがハナへ。2番手にマイネルアウラート,3番手にムサシキングオー,4番手にロジチャリスとサダムリスペクトでこの5頭が先行。2馬身差でキャッスルクラウンとセンチュリオン。4馬身差でキングニミッツ,3馬身差でハセノパイロ,2馬身差でエスケイアリュール,そして2馬身差でカンムルと,1周目の正面に入るまでかなり縦長。正面で少し凝縮しました。ただ,全体的にはスローペースだったのではないかと思います。
 向正面でセンチュリオンが外から上がっていったことでレースが動きました。マイネルアウラート,ロジチャリス,サダムリスペクトの3頭はすぐに後退。やや抵抗したムサシキングオーも3コーナー手前で一杯になり,あとは逃げるディアデルレイとセンチュリオンの優勝争い。ところが3コーナーを回るとディアデルレイが一方的に差を広げていき,直線に入るところでは決定的なリード。そのまま楽に逃げ切ったディアデルレイの優勝。センチュリオンが7馬身差で2着。外から追い上げたキングニミッツが6馬身差の3着。
 優勝したディアデルレイはJRA時代の2017年12月にオープンを勝って以来の勝利で南関東重賞初勝利。南関東に転入したのは昨年の秋。7戦して南関東重賞で2着はありましたが,これが転入後の初勝利でもありました。このレースは近況からセンチュリオンが負けることは予想しにくいメンバー構成。ディアデルレイは2着はあっても勝つのは難しいだろうと思っていましたので,意外な結果。楽なペースで逃げられたというのはあるでしょうが,それにしても差がつきすぎだと思いますので,初めての出走となった浦和コースに対する適性がきわめて高かったとみておくのが妥当なのではないかと思います。父はキングカメハメハ。母は2005年にフローラステークス,2007年に京都牝馬ステークスと愛知杯を勝ったディアデラノビア。ひとつ上の全姉は2014年にマーメイドステークスと府中牝馬ステークスと愛知杯を勝ったディアデラマドレ。ふたつ下の半弟は2015年の京都2歳ステークスと6日の京都大賞典を勝っている現役のドレッドノータス。Dia del Reyはスペイン語で王の日。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は一昨年のハイセイコー記念以来となる南関東重賞5勝目。埼玉新聞栄冠賞は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞18勝目。第26回以来3年ぶりの埼玉新聞栄冠賞2勝目。

 同じXの混乱した観念idea inadaequataであるといっても,ある人間の精神mens humanaのうちにあるXの混乱した観念とそれとは別の人間の精神のうちにあるXの混乱した観念とでは,その様式が異なります。少なくとも異なり得ます。観念と意志作用volitioは一体化したものであり,そのことは十全な観念idea adaequataであろうと混乱した観念であろうと同様なのですから,Xの混乱した観念の様式が異なるのなら,それを肯定する意志作用の様式も異なるというべきだと僕は考えます。よってある人間の精神のうちにXの混乱した観念があり,それとは別の人間の精神のうちにやはりXの混乱した観念があるとき,ある人間と別の人間は,Xを肯定する意志作用を有している点では同じですが,異なる仕方でそれを肯定しているという場合があり得ることになります。つまり混乱した観念を肯定する意志作用というのは,諸個人の間で必ずしも一様ではないということになります。
 このゆえに,僕はもしもスピノザの哲学の中で主体subjectumという概念notioが何か意味を持つのだとすれば,それは各々の人間が混乱した観念を有する限りであると考えます。実際に事物を十全に認識するcognoscere限りでは,観念の形相formaもそれを肯定する意志作用も同様なのですから,だれがそれを認識しているのかということは問う必要がありません。単に無限知性intellectus infinitusのうちにそのものの観念があるとみなせばよいだけです。ですがある人間の精神のうちにXの混乱した観念がある場合には,その様式はその人間の精神のうちにだけあるXの混乱した観念であるという場合が,少なくとも論理的にはあるのです。
                                   
 このことは,主体という概念の規定としてはきわめて消極的だといえます。ただ,第二部定理一一系の具体的な意味に照らすと,各々の人間の精神の本性naturaが異なる分だけ,いい換えれば各々の人間の身体humanum corpusの現実的本性actualis essentiaが異なる分だけ,混乱した観念の様式が異なるという場合があるのですから,それを主体とみなすこと自体は許容できるのではないかと僕は思います。ある人間の身体の現実的本性と別の人間の身体の現実的本性の相違,つまりある人間の精神の現実的本性と別の人間の精神の現実的本性の相違を,ある主体と別の主体の相違の規準としているからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝澤正光杯in松戸&混乱した観念の不一致

2019-10-08 18:54:08 | 競輪
 システム障害の影響で初日から順延された松戸競輪場での千葉記念の決勝。並びは渡辺‐内藤の北日本,小埜‐伊勢崎-中村-二藤の南関東,取鳥-原田の中国四国で三谷は単騎。
 渡辺がスタートを取って前受け。3番手に小埜,7番手に三谷,8番手に取鳥で周回。残り3周のホームを過ぎると取鳥が上昇開始。バックで小埜が合わせて出ると取鳥は引きました。そのまま小埜が渡辺を叩いて前に。二藤の後ろで渡辺と三谷の併走となり,引いた取鳥は再び8番手となって打鐘。二藤の後ろを取ったのは渡辺。三谷は内藤の後ろに入り直し,ホームから発進。渡辺は二藤の内から4番手を取りにいったためこれに対応できず,取鳥が三谷に乗る形に。バックから伊勢崎が番手捲りに出ましたが,三谷が外から捻じ伏せました。伊勢崎マークの中村が直線で三谷と三谷マークのようなレースになった取鳥の間から鋭く伸び,三谷にきわどく迫りましたが届かず,優勝は三谷。中村が8分の1車輪差の2着で取鳥が4分の3車身差の3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は昨年の競輪グランプリ以来の優勝。記念競輪は昨年3月の玉野記念以来となる4勝目。千葉記念は初優勝。このレースは南関東が4人いたのですが,小埜は先行して強いタイプではありませんし,伊勢崎も今は自力で走る選手ではないので,力のある三谷か渡辺が展開はあまり関係なしに勝つのではないかと思っていました。三谷は渡辺に弾かれてかなり苦しかったのですが,そこから立て直して自力で発進し,番手捲りを乗り越えたのですからやはり力が上だったということでしょう。伊勢崎はもっと早く発進してしまうべきだったように思いますし,渡辺は位置の確保にこだわり過ぎたように思えます。

 第二部定理一一系の具体的意味によれば,ある人間の精神mens humanaの本性naturaを構成するとともにほかのものたとえばAの観念ideaを有する限りでXの十全な観念idea adaequataが神Deusのうちにある場合,その人間はXを混乱して認識します。ここから分かるのは,だれが認識するcognoscereかによって,Xの混乱した観念idea inadaequataの様式が変化するということです。なぜなら,たとえばPという人間の精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるときPはXを混乱して認識し,Sという人間の精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるならSはXを混乱して認識することになるので,もしPのうちにあるXの混乱した観念とSのうちにあるXの混乱した観念が完全に一致するためには,Pの精神の本性とSの精神の本性が同一でなければなりません。しかしこれをいうのは不条理でしょう。したがって,各々の人間の精神の現実的本性actualis essentiaが異なる分だけ,各々の人間の精神のうちにある,同じものを対象とした混乱した観念は異なるのでなければなりません。そしてスピノザの哲学では,身体の観念を精神というのですから,各々の人間の身体corpusの現実的本性が異なる分だけ,各々の人間が有する混乱した観念も異なるといい換えることもできます。
                                   
 各々の人間にあって混乱した観念の様式が異なるということは,さらに別の方法によっても説明することができます。たとえば,Pの精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りでの神のうちにXの十全な観念があるとき,Sの精神の本性を構成するとともにAの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるということは,絶対にそうでなければならないというものではないからです。たとえばSの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があるという場合もあり得るのです。よってどちらの場合も,つまりPもSもXを混乱して認識するのですが,仮にPの精神の本性とSの精神の本性が同一の本性であるとしても,Aの観念とBの観念が異なるだけXの観念のあり方は異ならなければなりません。つまりPとSはXを異なった様式で混乱して認識するのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

凱旋門賞&同一の形相

2019-10-07 19:13:30 | 海外競馬
 日本時間の昨晩,フランスのパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞GⅠ芝2400m。
                                       
 フィエールマンは最初は内の2番手,途中からは単独の3番手を追走。ブラストワンピースは5番手の外から。発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利があったキセキは7番手の内を追走。フィエールマンは最後の直線に入る前に騎手の手が動き出して後退。勝ち馬からおよそ48馬身差の最下位で入線。ブラストワンピースはフィエールマンが後退し始めたあたりから外を回って追い上げようとしましたが前には追いつけず,勝ち馬からおよそ33馬身差のブービー。キセキは馬群の中から追い上げようとしましたがこちらも前までは追いつけず,勝ち馬からおよそ21馬身半差の7着でした。
 キセキは日本馬3頭の中では最も能力は上と僕はみていましたが,発馬が致命的で,自身が得意とするパターンに持ち込むことができませんでした。結果からみると上位4頭の能力が抜けていたようで,そこの争いに加わることはできなかったでしょうが,もう少し上位か少なくとも小さな差で終えることができたでしょう。ブラストワンピースは普通にレースをしてのもので,着差はともかく力負けだと思います。フィエールマンは負けすぎですが,この馬は日本でも間隔をあけてレースを使っているように,体質的に弱い部分があります。こういうタイプの馬の海外遠征は厳しかったということではないでしょうか。ただし,体質もまた競走馬の能力のひとつであることは間違いありません。

 第二部定理一一系の具体的意味から,ある人間の精神mens humanaの本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるといわれるとき,この人間はXを十全に認識します。これはどの人間にあっても同一です。したがって現実的に存在するどの人間の精神のうちにXの十全な観念があるとしても,その観念の形相formaは同一です。そしてそれは,神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるXの観念の形相と同一であることになります。人間の精神が神の無限知性の一部であるということは,このような意味を有していなければならないからです。
 第二部定理四九系にあるように,知性と意志voluntasは同一です。これは,個々の観念と個々の意志作用volitioは同一であるという意味でなければなりません。したがって,もしも観念の形相が同一である場合には,意志作用もまた同一でなければなりません。すでに示したように,Xの十全な観念が人間の精神のうちにある場合,その形相はどの人間の精神のうちにあろうと同一なのですから,それを肯定する意志作用もまた同一です。つまりどの人間であっても,Xの十全な観念を肯定する意志作用は,同一の意志作用です。いい換えれば,どの人間も同じようにXを肯定するということになります。そしてこのXの十全な観念は,神の無限知性のうちにある観念と同じ形相なのですから,Xを肯定する意志作用もまたそれと同一であるといわなければなりません。したがって僕たちはXを十全に認識するcognoscereなら,つまりXの十全な観念を有するなら,神と同じようにそれを認識しているのだし,また神と同じようにそれを肯定しているということになります。この場合に,Xを認識する主体subjectumが,またXを肯定する主体が何であるのかということを問う必要はないことは明らかでしょう。主体が何であっても思惟作用は同一であるからです。これがスピノザの哲学における主体の排除の理由のひとつになります。
 もっとも,十全adaequatumなるものを十全なるものとして肯定する意志作用については,それを力potentiaであるとみなすことに異論は出ないでしょうから,実際には十全な観念の場合には主体についてはあまり考える必要がないかもしれません。問題は混乱した観念idea inadaequataを有する場合にあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファーザとシンコウエルメス&両立の説明

2019-10-06 20:15:17 | 血統
 先週のスプリンターズステークスを勝ったタワーオブロンドンは,世界的名牝系が出自です。日本での活躍馬を紹介します。
                                        
 タワーオブロンドンの祖母は競走馬として輸入されたシンコウエルメス。デビュー前の調教で重度の骨折。安楽死処分もあり得る骨折でしたが,血統のよさから難手術を敢行。競走能力は喪失しましたが一命をとりとめ,繁殖牝馬になりました。タワーオブロンドンの母は,シンコウエルメスがイギリスで産んだ仔です。シンコウエルメスの半兄には1997年にマイラーズカップとセントウルステークスを勝ったオースミタイクーン。また半姉の産駒に2006年に中京記念を勝ったマチカネオーラがいます。
 牝系の起点となっているのはシンコウエルメスの祖母のMargarethenという馬。ファミリーナンバー4-n
 Margarethenの1972年の産駒の子孫には2006年に東海ステークスとブリーダーズゴールドカップを勝ったハードクリスタル,1997年に京王杯オータムハンデキャップと府中牝馬ステークスを勝ったクロカミがいます。クロカミの孫には2011年にレパードステークスを勝ったボレアス,2013年に弥生賞を勝ったカミノタサハラ
 Margarethenの1973年の産駒の子孫には,日本馬の重賞勝ち馬はいませんが,2006年に安田記念を勝った香港のブリッシュラックがいます。
 Margarethenの1974年の産駒の子孫には2006年に朝日チャレンジカップを勝ったトリリオンカット。また繁殖牝馬として輸入されたファーザがいて,この馬はフリオーソの母になりました。フリオーソの半弟が2012年に金盃大井記念,2013年に金盃を勝ったトーセンルーチェ。2009年に京成盃グランドマイラーズ勝島王冠,2010年に大井記念東京記念を勝ったセレンも同じ系統の子孫です。
 Margarethenの1976年の産駒の子孫には一昨年の日経新春杯と去年の宝塚記念を勝ったミッキーロケットと2000年に青葉賞を勝ったカーネギーダイアンがいます。
 もう1代,2代と遡ればさらに活躍馬が出てきます。今後も多くの重賞勝ち馬が輩出する一族でしょう。

 誤謬errorは認識cognitioの欠乏を意味します。よって無限知性intellectus infinitusの一部とみられるような知性が誤謬を犯す場合には,その欠乏している認識する力potentiaが不足しているという意味になります。よって真verumなるものを真として肯定するのに偽falsitasなるものを真として肯定するのと同様の思惟する力を要さないという,第二部定理四九備考の一節が出てくるのです。しかし,虚偽falsitasである混乱した観念idea inadaequataあるいは誤った観念idea falsaをそれ自体でみるなら,その中に積極的に虚偽を構成する要件が含まれているわけではないのですから,観念を肯定する意志作用volitioは,それが十全な観念idea adaequataとみられようと混乱した観念とみられようと同等でなければなりません。したがって,同じ備考の別の一節でいわれているように,意志voluntasが思惟する力全般よりも広くわたるということはあり得ないのです。しかも混乱した観念は,無限知性の一部を構成するとみられる有限知性の中にあるとみられる限りにおいて混乱した観念なのであって,無限知性からみれば十全な観念なのです。一読すると矛盾するかのようにも思える同じ備考の中の個々の一節は,このように解釈することで両立することになります。そしてこれらが両立可能である論拠をスピノザの哲学の中で説明するのには,この仕方が最も適切であると僕は考えます。
 しかし,このような説明が分かりにくいものになっていることは僕も認めます。その理由は,僕たちはたとえば無限知性の一部としてみられるような自分の精神mensというのを,大概の場合は認識の主体subjectumとして解しているからです。すなわちこの分かりにくさは,主体の排除を徹底することが困難であるという事情によるのです。スピノザの哲学は,思惟の主体が何であるのかということを本質的に問いません。ところが僕たちはたとえば僕が,あるいはあなたがXを認識しているというように認識のあり方を把握します。このゆえに,現実的に存在するある人間の知性のうちに,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時に存在する場合,第四部定理一によってこれは生じ得る仮定ですが,そのときにXの十全な観念を肯定する意志作用とXの混乱した観念を肯定する意志作用が同等の力を有するのを不自然だと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡二十六&第二部定理三三証明

2019-10-05 18:53:28 | 哲学
 スピノザは英語はできなかったということをいったときに,書簡二十六を援用しました。この書簡をざっと説明しておきます。
                                        
 これは1665年5月にスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てられたもの。遺稿集Opera Posthumaにも掲載されました。
 これは書簡二十五への返信で,書簡二十五を受け取った経緯が説明されています。スピノザはある友人からそれを渡され,その友人はアムステルダムAmsterdamの書簡商から渡されました。書簡商というのが何を意味するのかは僕には不明です。そしてその書簡商は,ピーテル・セラリウスPetrus Serrariusから受け取ったのだろうとスピノザは推測しています。この当時の書簡はこのような複雑な経路でやり取りされるのが一般的であったのでしょう。
 スピノザはオルデンブルクの健康状態等について,セラリウスやホイヘンスChristiaan Huygensから聞いていたと書いています。ただその書き方から,セラリウスとオルデンブルクが知り合いであることは前から知っていたけれど,ホイヘンスとオルデンブルクが知り合いであったことは最近になって知ったというように読めます。
 ロバート・ボイルRobert Boyleが論文を出したこともホイヘンスから聞いていたといっています。ホイヘンスはその論文を所有していました。また,おそらくロバート・フックの顕微鏡による観察の本もホイヘンスは所有していたともいっています。そしてこれらは英語で書かれていました。もしスピノザが英語に通じていればホイヘンスはそれを貸してくれただろうといっていますので,ここからスピノザが英語はできなかったということが分かります。
 この後,土星の環に関する話題に触れられていますが,この部分はおそらくこのブログで用いることはないと思われますから割愛します。

 第二部定理三二では神に関係する限りではすべての観念が真であるomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae suntといわれています。したがってこの定理Propositioと第二部定理四三を合わせれば,観念が神のうちにあるとみられる限りでは,認識cognitioの欠乏というのは起こりません。他面からいえば,それを認識するcognoscere知性intellectusが誤謬errorを犯すことはあり得ません。それどころか,その知性が虚偽falsitasを認識することすらあり得ないといわなければならないのです。
 一方,第二部定理三三では,観念の中に積極的に虚偽といわれるようなものはないといわれています。実はこのことは,前述の事柄と関係しています。なぜならこの定理のスピノザの証明Demonstratioにもあるように,もしも虚偽の形相formaを積極的に構成する観念があるとするなら,それは神のうちにはあることができないということは,第二部定理三二から明らかです。したがってもしもそのような観念があるといわれ得るのであれば,それは神の外になければならないのです。ところが第一部定理一五によって,あるものはすべてが神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,何かが神の外にあるということは不可能です。なので,虚偽の形相を積極的に構成するような観念は存在しないといわなければなりません。
 では誤った観念idea falsaあるいは混乱した観念idea inadaequataがあるといわれるのはどのような意味においてなのでしょうか。それを示しているのが第二部定理一一系の具体的意味です。すなわちある精神mensの本性naturaを構成するとともに,何か別の観念を有する限りでXの観念が神のうちにある,真の観念としてあるいは十全な観念としてあるといわれる場合に,この精神はXを誤って認識するあるいは混乱して認識するといわれるのです。ここから分かるように,混乱した観念とか誤った観念というのは,有限な知性,第二部定理一一系のいい方に倣うなら神の無限知性intellectus infinitusの一部とみなされるような知性のうちにあるのです。
 無限知性の一部とみなされるような知性は,事物を混乱してあるいは誤って認識することがあるのであり,そのときに第二部定理三五でいわれているような認識の欠乏,力potentiaの欠乏を同時に起こす可能性があるので,その事物について単に虚偽として認識するばかりでなく,誤謬を犯す可能性もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典レディスプレリュード&第二部定理四九備考の意味

2019-10-04 19:21:49 | 地方競馬
 昨晩の第16回レディスプレリュード
 サラーブとラビットランは発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利。まずクレイジーアクセルが前に出てファッショニスタとミッシングリンクが追う形に。4番手のエイシンセラードと5番手まで巻き返したサラーブの5頭が一団に。2馬身差でマドラスチェックとプリンシアコメータとオルキスリアン。さらにアンデスクイーンとラビットランとなりこの5頭も一団。3馬身差でローレライ。2馬身差の最後尾がアルティマウェポンという隊列。最初の800mは49秒8のミドルペース。
 3コーナーで前の3頭は雁行に。エイシンセラードとサラーブも離れずについていき,2馬身差でマドラスチェック,プリンシアコメータ,アンデスクイーンの3頭。直線に入るとミッシングリンク,エイシンセラードの2頭は脱落。クレイジーアクセル,ファッショニスタ,サラーブが競り合うところへ,サラーブの外からアンデスクイーンが進出。3頭の争いから抜け出たのはファッショニスタで,これとアンデスクイーンの優勝争いに。最後は外のアンデスクイーンが差し切って優勝。ファッショニスタがアタマ差の2着。4コーナーでもまだ後方の位置から大外を追い込んできたラビットランが3馬身半差で3着。クレイジーアクセルがクビ差の4着でサラーブがクビ差で5着。
 優勝したアンデスクイーンブリーダーズゴールドカップからの連勝で重賞2勝目。2着のファッショニスタは距離に不安があるとみて個人的には軽視していましたが,最後はその分の差が出たということではなかったかと思います。今年のJBCレディスクラシックは1400mという距離で行われることになっていますので,それだとファッショニスタの方を上位とみることができるのではないでしょうか。母の父はキングカメハメハ。6代母はレディチャッター。祖母の9つ上の半姉が1998年に福島記念を勝ったオーバーザウォール,2つ上の半兄が2006年に福島記念,2007年に七夕賞を勝ったサンバレンティン,ひとつ上の半兄が2005年に京都新聞杯,2007年に朝日チャレンジカップと京都大賞典を勝ったインティライミ
 騎乗した戸崎圭太騎手と管理している西園正都調教師はレディスプレリュード初勝利。

 第二部定理四九備考の当該部分について,スピノザが第二部定理三五の参照を促しているのは,備考Scholiumでいわれている偽りfalsitasというのが,僕が虚偽と誤謬を区別した場合の誤謬errorを意味するからだと考えられます。よってこの部分を,真verumなるものを真として肯定する力potentiaは,誤謬を真として肯定する力より大きいという意味に僕は解します。
                                   
 第二部定理三五の文章は,このこと自体は正しいことを示しています。なぜなら,誤謬というのが混乱した観念idea inadaequataが含む認識cognitioの欠乏にあるのだとしたら,その欠乏している分だけ力も欠乏していると解するべきだからです。逆にいえば,それが欠乏していないのであれば,それは真なるものを真として肯定するのと同じだけの力を有していることになるでしょう。僕は実際にそのように解するべきだと考えます。したがって,知性intellectusが事物を混乱して認識したとき,それが混乱した認識であるという認識が欠乏している場合,つまりこれがその知性が誤謬を犯している場合に該当しますが,この場合にはその知性の力,この点だけをみた場合のこの知性の力は,真なるものを真であると肯定する力よりも欠乏しているのです。すなわち同等の力ではありません。ですが,ある知性が事物を混乱して認識したとき,それが混乱した認識であるということを同時に知っている場合,これは知性は虚偽falsitasを認識しているけれども誤謬を犯してはいない場合ですが,この場合には欠乏している認識はないので,真なるものを真として肯定するのと同等の力を有していることになるのです。よってこの意味においては,十全な観念idea adaequataが含んでいる肯定も,混乱した観念が含んでいる肯定も,同等の力を有しているとみなければなりません。ですから備考のこの部分と,意志作用が思惟する力一般を超越することはないといっている同じ備考の別の部分は,矛盾なしに両立すると僕は考えるのです。
 そしてこのような解釈は,『エチカ』のほかの部分との整合性も高いと僕は考えます。
 第二部定理四三は,知性のうちに真の観念idea veraがあるならば,その知性はそれが真の観念であることを疑うことはできないといっています。よってこの場合は,認識の欠乏は起こりようがありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典東京盃&第二部定理四九備考

2019-10-03 19:09:54 | 地方競馬
 昨晩の第53回東京盃
 ニホンピロタイドは加速が鈍く1馬身の不利。内からコパンキッキングが先手を奪いきっての逃げ。控えたクルセイズスピリツは2番手に。3番手はポッドギル,キャンドルグラス,サクセスエナジーの3頭。6番手にショコラブラン。7番手はブルドッグボスとグランドボヌール。9番手がゴーディーで10番手にニホンピロタイド。11番手にイノデライト,エイシンユニコーン,ヒザクリゲの3頭。マッチレスヒーローとマイネルルークスが最後尾で併走という隊列。前半の600mは34秒3のミドルペース。
 3コーナーでサクセスエナジーがクルセイズスピリツの外まで上がって2番手で併走。クルセイズスピリツはコーナーで一杯になり,サクセスエナジーが逃げるコパノキッキングを単独で追う形に。ただ,サクセスエナジーが手を動かしながら追っていたのに対してコパノキッキングはこの時点でまだ楽な手応え。直線に入るとコパノキッキングがまたサクセスエナジーとの差を広げていき,楽に逃げ切って優勝。大外から追い込んできたブルドッグボスが4馬身差の2着。サクセスエナジーが4分の3馬身差で3着。
 優勝したコパノキッキングは1月の根岸ステークス以来の勝利で重賞3勝目。その後の3戦は勝てませんでしたが,ここは相手関係が格段に楽になっていたので,圧勝まであり得ると思っていました。逃げるとは思っていませんでしたが,着差は能力差を反映したものだと思います。末脚勝負型の馬でしたから,逃げて結果を出したのは収穫といっていいでしょう。母の4つ上の半兄に2005年のNARグランプリの最優秀ターフ馬のモエレジーニアス
 騎乗した藤田菜七子騎手はデビューから3年7か月で重賞初勝利。管理している村山明調教師第49回以来4年ぶりの東京盃2勝目。

 スピノザは同じ第二部定理四九備考の中で,次のようなこともいっています。それを手掛かりにします。
                                   
 「我々が真なるものを真として肯定するのに偽なるものを真として肯定するのと同等の思惟能力を要するということを私は絶対に否定する」。
 スピノザはこのことを,十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,有と無の関係であるということと関連させて記述しています。これでみると,意志voluntasが思惟する力potentiaより広くわたることを否定するといっている,同じ備考の別の部分ときわめて矛盾したことをいっているかのようです。ですが僕はそのように解する必要はないと考えます。真verumなるものを真として肯定する力と,偽falsitasなるものを真として肯定する力とは同等のものではないということを主張しているこの部分の論旨については,岩波文庫版の訳者である畠中尚志が注釈を与えているのですが,僕はその注釈とは異なった仕方でそれを説明していきます。
 真なるものを真として肯定する力と,偽なるものを真として肯定する力が,同等の力ではないということが,十全な観念と混乱した観念が有と無の関係にあるということと絡めていわれているのは,真なるものを真として肯定する力は有esseとみなされるのに対し,偽なるものを真として肯定する力があるならそれは無であるという意味を有していなければならないことになります。ところがこの解釈はたぶん全面的に採用することはできません。というのはスピノザはこのことを主張するときに,第二部定理三五の参照を促しているからです。
 僕は虚偽と誤謬をこのブログでは明確に区分して用います。すなわち虚偽falsitasとは混乱した観念そのものであるのに対し,誤謬errorとは混乱した観念を十全な観念と思い込むこと,ないしは混乱した観念であることに気付かないことだと区別するのです。したがってある知性intellectusのうちに虚偽が存在するだけではその知性は誤謬を犯していません。虚偽が虚偽であると知らない限りにおいてその知性は誤謬を犯すのです。むしろある知性の中に虚偽が含まれていても,同時にそれを虚偽であると知っているのであれば,その知性は何の誤謬も犯していないのです。これがこのことを考える前提になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王座戦&力と無能

2019-10-02 19:07:07 | 将棋
 神戸で指された昨日の第67期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢叡王の先手で斎藤慎太郎王座の急戦矢倉に類する将棋になりました。後手の攻めに先手が徹底抗戦する進展で,矢倉の場合は受けきって勝つというのは難しいので,そのあたりは後手の方がよかったのだろうと思います。しかし先手の粘りの前に決定打がなく,いつしか攻め合いの将棋に。
                                        
 先手が飛車を打った局面。このまま☗5二飛成を許すわけにはいかないので受ける必要があります。☖4一金と打ちましたが,これがあまりよくなく,強く角取りに☖6一金と打つべきだったようです。当たりになっていないので先手は☗9二飛成で香車を補充。
 手番を得た後手は☖4九飛と反撃。これは☗5九金と打たせて☖2九飛成とし,先手の戦力を削ぐ狙いもありました。
 そこで☗5三香と打ったのが非凡な好手。取るわけにもいかずまた☗5二香成も許せないので先手は☖4三王と上がりました。先手はさらに☗6二角成と5二の地点に駒を足し,☖5一銀の受けに☗7三馬で今度は桂馬を補充しました。
 再び手番を得た後手は☖5六桂から反撃。先手は☗8八玉と早逃げし☖4八桂成☗同金☖5九龍のときに☗8三龍と引きました。
                                        
 これが間接的に4三の玉を睨む好手。ここでは先手の攻め合い勝ちが見込める局面となっています。
 3連勝で永瀬叡王が王座を奪取。今年度の叡王戦に続き通算で2期目のタイトル獲得となり,同時に八段昇段を決めました。

 真の観念idea veraと誤った観念idea falsa,十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係が,有と無の関係にあるということを踏まえて,再びペガサスの例を考えてみます。
 翼がある馬,すなわちペガサスは,実在する生物ではありません。ですから何らかの知性intellectusがペガサスを認識するcognoscereということがあれば,それは誤った観念でありまた混乱した観念です。なぜなら真の観念ならびに十全な観念は,観念されたものideatumと一致するのですが,この場合は一致するといわれるような観念対象ideatumが非実在的であるとされているからです。分かりやすくいえば一致するその対象というものが存在しません。このような観念はそのすべてが誤った観念でありまた混乱した観念であることになります。
 ですが,ペガサスの観念には,馬に対して翼を肯定する意志作用volitioが含まれています。そしてこの関係が,真verumなるものを真として,また十全adaequatumなるものを十全なものとして肯定する意志作用と,観念と意志作用との間にだけ注目すれば,一致するということはすでにみた通りです。よってこれでみれば,真なるもの,実在的なものを肯定する意志作用と,真ではないもの,非実在的なものを肯定する意志作用は,同じだけの力potentiaを有するといわなければなりません。しかしこれは不条理に思えます。
 事物が実在するということはそれ自体が力なのであって,それが実在し得ないとするならそれは力と反対の意味で無能impotentiaといわれなければなりません。したがって,たとえば馬とペガサスを比較するなら,馬は力ですがペガサスは無能の筈なのです。ところがそれらが観念対象となったときに,馬を肯定する意志作用もペガサスを肯定する意志作用も同等の力があるというのはおかしいのではないでしょうか。実在的なものを肯定する意志作用,真なるものを肯定する意志作用が力であるというのは当然ですが,非実在的で無能な誤ったものを肯定してしまうような意志作用は,力というよりも逆の意味で無能といわれてしかるべきではないのでしょうか。これは当然の疑問だと思います。誤った観念あるいは混乱した観念でしかあり得ないような観念を肯定する意志作用は,果たしてどのような意味で無能ではなく力といい得るのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする