書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

発電式ライト。

2011年06月06日 19時41分35秒 | 日記
 バリューローソンで発電式ライトを買ったんですが、結構明るくて、使えそうな感じです。



 でも、さすが100円だけあって、内部のエナメル線が隙間からはみ出していました。皆さん買う時は注意してください。

 バリューローソンのものは充電式で、まだ充電された電気を使い切っていないので、何分くらい点いているのかわからないのですが、もう30分くらいは全く充電なしで点灯しています。

 ダイソーにも似たようなものがあったのですが、こちらは充電式ではありませんでした。見た目的には全く同じに見えたんですが、偶然似ただけなんでしょうか、不思議です。

 ◆追記:内蔵電池は使い切りでした。交換も充電もできません、さすが100円。電池が切れない限り本当の明るさもわかりません。騙された。良く読めばよかった。Orz....

 内蔵電池を切った状態でグリップレバーを握れば点きました。でも一瞬しか点灯しないのでなんとも使い難い品物です。停電で真っ暗闇の場合なら、あった方が有り難いですが、あまり便利ではないですね。所詮100円です。

 値段に関わらず、LEDランプっていうのは充電式のものが売ってません。単3電池三本のタイプか、あるいはボタン電池のものがほとんどで、安定的に明るさを保ってくれるLEDランプというのがないんです。

 乾電池、或はボタン電池の場合、使い続けているとどうしても電圧が下がってしまって、急激に暗くなる性質がLEDにはあるので、ランプの種類によっては昇圧回路を組み込んだものもあるんですが、熱が凄かったりして扱い難い感じがします。

 単純に3.7[v]のリチウムイオン電池を定電圧ダイオードで3.2[v]とかに落とすような単純な構造のランプがあるといいなって思うんですが。自転車のライトとかにあるのかな。そか、ググればいいのか、どうもネットの使い方が把握できていないみたいです。でわまた。

 ◆追記2:さっくりとググってみたんですが、充電式ランプの場合は高価なものに限定されていて、LEDライトの場合は乾電池とかCR123Aとかの使い捨て電池のランプばっかりですね。乾電池式ライトに乾電池型のニッケル水素充電池を使うと、電圧が足りなくてふんわりと暗いんですよね。

 今自転車に付けているのは、黄色LEDをニッケル水素充電池2本で点けるように懐中電灯を改造して使っています。黄色LEDは最初から2.4[v]のものなので、ニッケル水素充電池をそのまま使えるってわけです。測ったことはないんですが、連続二日くらいは点いているんではないかと思います。

 結局灯数を増やせばいいんですけどね。

 100均のボタン電池を使うタイプのLEDライトは、連続100時間くらいは点いているらしいので、それなりには使える感じですね。そもそもボタン電池自体が100円じゃ買えないはずですから。とはいえ、使い捨てはもったいないので、電池が切れたら中身のLEDを自転車用のライトに組み込もうかなと思います。もしかすると発電機のマグネットがネオジウムとかだったらラッキーですが、多分フェライト磁石でしょうね。

 やろうと思えばスポークに磁石つけて発電することも可能なんでしょうけど、走行振動に耐えられるようにするのが難しそうです。

 自転車用に何か作ると、走行振動で全部壊れちゃうんですよね。かといってゴツイのも嫌だし、うまくいかないものです。



サンドブラスト。

2011年06月06日 17時24分43秒 | ネタ帳
 Pixivの中に投稿している「muzu」という作家さんが、Apophsisで作成した画像を素にガラスにサンドブラストができないか探しているらしい。

 ガラスにこだわなければインクジェットプリンタを応用することで、キヤノンの透明グロスインクとかをOHP用紙などに多重印刷するとかも考えられる。ただ、プリンタドライバ自体を書き換えないといけないので、個人でやるのは難しそう。もしかするとインクパック自体を違うところに挿して印刷することができるのかな。うーむ。

 ガラスでも、クリスタルの固まり内部にレーザーで点を打ち込む技術は既にあるので。こうした自動化された技術ではないと、とても再現できないような複雑な模様なのです。

 石井表記さんではシルク印刷技術とかで、メタリックシート上にエッチング風味の印刷を施す技術を持っている。石井表記さんは結構大きな会社さんなので、ある程度のロット数が必要になりそうなので、あまり少数で相談するのは気が引ける

 ◆追記:OHPシートとかでなくても、フロントローディングならCD-Rとかの硬いものにも印刷できるはずなので、インク吸着材を塗布したアクリル板にグロスインクを印刷すれば、疑似的にサンドブラストっぽくなるんじゃないかなと。んで、したから照明すればインク部分が光ったりするんじゃないのかなと。綺麗なんじゃないかなと。

 キヤノンに要望してみようかな。










「理性 対 英知。」。

2011年06月06日 12時49分03秒 | 意識論関連
 以前にも、一般的感覚的な「理性。」というものが間違いであることを書いたことはあるが、これがどうしても周知されず、意味不明な下らない観念ばかりが振り回されており。全く不毛である。

 お役所仕事的な機械手続き的条件反射行動というのは、一般感覚的には「理性的。」であるとされているらしいが。これは間違いである。

 役人が与えられた仕事以外をしたがらないのは、与えられた仕事以外をしても評価にならないとか、責任回避のための極めて利己的感情に基づく行動選択であり。これは理性でもなんでもない。理性でもなんでもないが故にヒステリックにお役所仕事に執着するのである。

 食肉偽装の内部告発を拒絶した役人もそうだが、こうした「本来の目的。」を逸脱した極めて利己的な行動というのは、一般大衆の観念としては「理性。」的であると認識するらしいが、これは本能感情が主体の理性的判断であって、本質的には理性でもなんでもないのである。本当の合理性追求というものは、こうした短絡的な利己的感情に左右され得ない、広い意識に基づいた合理性の「追求。」が伴わなければ本質的合理性とは言えないのである。

 これを「単なる言葉の問題。」だと思うのは、とんでもない間違いである。言葉を間違えておいて議論もすったくれも成立することはないからである。

 ポーランドのアウシュビッツビルケナウ絶滅収容所の吏官、アドルフ:アイヒマンの行動のことも、大衆観念的には「理性的。」であると認識しているのではないだろうか。

 機械手続き的条件反射というのは、合理性を「追求。」する知性が欠落している。機械的に仕事をこなすことというのは、無意識的で反射的な行動であり。だからこそ非合理な行動に邁進することになるのである。

 スタンレー:ミルグラムの服従心理実験における、服従する「習性。」というものは、それ自体がそもそも「理性。」に基づくものではなく。本能傾向という「習性。」なのであって、何ら「理性。」的でも何でもないのである。

 本質的合理性というものは、それ自体を徹底追求しなければ合理的でも何でもないのである。


 利益追求における「合理性追求。」も然りである。

 利益追求というものは、追求しているのは「利益。」であって、それは合理性は追求していないのである。

 この話が何の役に立つのか、それが認識できないのは読者の意識が狭窄で、問題意識自体が浅いからに他ならない。

 本質的合理性追求を忘れ、ただ気分的安心を追求しておけば人間性に到達できると勝手に妄想していて、ヒトが引き起こす問題は何も解決することなどできないのである。

 大衆の観念的理解を放置しておけば、合理性は「追求。」されこともなく、ただ観念的に忌避されるだけであり。大衆は気分的な満足によって思考を停止するだけである。

 だから人類はいつまでもバカなのである。


 「理性 対 英知。」などというのは、大衆観念に基づく「理性。」というものへの観念的理解に基づいた、論理性を欠いた観念でしかない。

 観念をいくら多数決的に枚挙しても、そこから理論的な道筋は導き出すことはできないのである。

 西洋哲学者の言葉を、何ら批判もなく鵜呑みにしているようなバカであっても、大学の哲学教授として採用しているのが現状である。こうしたどうしようもない体制を放置しているのは、大衆が権威に対しての批判精神を全く持たない精神的怠惰によるものである。

 「権威に服従しない社会は崩壊する。」などというのは、実際には「権威に服従していないと不安になる。」という気分の問題から出てくる大衆観念に過ぎない。アイヒマン実験自体が権威に対して自律的に自己の判断を優先する重要性を訴えているにも関わらず、大衆観念的な安心に基づく気分が優先してしまうのは、そこに合理性が欠落しているからに他ならない。

 なぜ、「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと言えるのか。それを全く「追求。」していないにも関わらず、多くの大衆は気分的にそれが安心であるため、何ら合理性のない観念であるにも関わらず鵜呑みにしてしまうのである。論理的根拠が全く存在しない話であっても、多くの大衆、マスコミ、西洋かぶれの哲学マニアは鵜呑みにするのである。

 気分的安心を追求しても、安全性は確立されることはない。安全性というものは理論的に追求されるものであり、気分でどうにかなるようなものではないからである。

 「理性 対 英知。」などという観念を振り回していれば、本質的合理性は追求されなくなってしまう。その結果、単なる気分的満足だけが追求されることになり、支離滅裂な観念が優先することに陥る。「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた。」のは、理性というものの本質を観念的理解しかしてこなかったことによる、合理性の追求への観念的忌避が原因なのである。

 機械手続き的条件反射行動のどこが合理的なのか、利益追求のどこが合理的なのか、何も考えずに漫然と観念のまどろみに陥って満足することで、どうして「英知。」などというものが抽出されることになるのか。

 あまりにバカげていて話にならない。


 ヒトという種の生物は、理論的な話をするのが気分的に嫌である。少なくとも「多くのヒト。」は。

 だからこそ愚にもつかない世間話ばかりして、実証不能の観念を共有して満足するのである。飲み屋で酔っ払いが饒舌なのはそのためである。酔っ払いの観念をどんなにたくさん抽出しても、そこから理論的な解決策が出てくることは絶対にない。

 酔っ払いの「本音。」の全ては、気分感情の羅列でしかないのである。それなら「建前。」とは一体何か、少しは自分でも考えて喋ればよろしい。


 目先の「景気。」という利益追求ばかりをしてきたからこそ、安価なはずの原発を使ってきたはずの日本であるにも関わらず、現実には国は借金だらけではないか。安価なエネルギーを供給しておけば利益になるどころか、とんでもない賠償をしなければならなくなったのである。

 それのどこらへんが合理的なのか。

 利己的には合理的かも知れないが、その利己であっても社会全体が崩壊してしまえば利己ですらなくなる。つまり「その場限り。」の利益追求だっただけであって、自分が生活する社会全体の損失になってしまえば、結局は利益にはならないのである。

 そこまでの意識の広さを促すのは、決してその場限りの気分などではなく、理論的に考えに基づく「理性。」がそれを促すのである。


 公益倫理的な自律判断のことをバカにしておいて、「心。」もすったくれもあったものではないのである。それこそが利己的な観念であることを、多くのヒトは忘れているのである。


 震災後に突然、思い出したように教育関係者達は生徒達に「社会の役に立つ人になって下さい。」などと言い出す。だが、それ以前には学力だの社会的成功ばかりを強制していた自分自身のことを「なかったこと。」にしようとしている。これは生徒に対するペテンである。