書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

寺島なんとか。

2011年06月10日 22時20分32秒 | 日記
 報道ステーションの解説やってる寺島なんとかって奴の言っていることが意味不明。

 何万人だかの原子力技術者を世に出した。その出した原子力技術者達が福島をセシウムだらけにしたのである。

 どんなに学力が高く、どんなに技術を持った人間を大量生産しても。公益倫理的自律判断ができなかったから、原子炉は暴走したのである。

 要するに、糞の役にも立たなかったということである。

 人文科学と分類される分野というものは、文学という芸術まで含包する。

 芸術は科学ではない。

 芸術は大脳辺縁系に快楽を促すかどうかしか基準にはない。だから北野武の暴力映画であっても、大衆からの多数人気、評価というものが基準の全てである。

 芸術というものは理論的な根拠に基づいて評価されるようなものではない。科学的な根拠に基づいて論理説明によって評価されるようなものではないのである。

 村上春樹がどんなに理想を論じても、所詮は芸術家であって、人文「科学。」でも何でもないのである。

 大衆人気をどんなにたくさん獲得しても、理論的根拠に基づく証明にはならない。

 文学などの芸術とは、ポニョと一緒で「気晴らし。」に過ぎない。

 村上の「理想。」についての演説は、結局おいらのパクリである。

 現状に迎合するだけの「現実主義。」は実際には現実逃避である。その現実逃避によって原発は暴走したのである。

 「未来は選択できる。」という話はターミネーター2でもマトリクスでもメインテーマであった。

 だが、文学芸術は理論的反論をできなかった。

 多くのヒトは未来を選択できず、ヒトという種の生物の習性、傾向性に基づいた行動しかできない。

 多くのヒトが選択できなければ、少数の人が選択できても結果は同じである。

 「文系。」の指向パタンでは、「多くのヒト。」の行動選択の原因が何かを解析し、「多くのヒト。」が陥る過ちを回避するための論理的策定ができない。

 生物学界が結果と目的を厳密に区別できない弊害は、すなはちそういうことである。

 結果と目的の区別ができないということは、無為無策を促すのである。






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アクセス数。

2011年06月10日 13時20分29秒 | 日記
 アクセスIPに対して、閲覧数が5倍くらいある。意識論に関係する話を書くとこの傾向が強くなるのは、何度も同じ人が読み直しているのであろうか。

 ツイッターで私のことを取り上げた記事があったらしいのだが。削除された後だったので内容は不明。Apopysisに関係する記事へのツィートだったらしいので、意識論とは無関係なのかも知れない。

 ツイッターは東芝アンドロイドAZ/05Mではヘルプが開けない上に、何故か日本語システムが重くなるので使いづらく、ほとんどログインすらしていない。もしかするとオペラモバイルでログインすれば違うのかも知れないが。一回140文字という制限が意識に関する話を説明するには不都合。

 今のWebでは、ツイッターやフェイスブックなどが主流を成しているらしく。こちらに何かを書き込んだ方が多くの人が読むらしい。

 以前、gooブログのログイン画面が証明書不良に陥った時に、事務局から「スマホには対応してない。」とごまかされそうになったとき。ツイッターに「NTTはアンドロイド端末の新製品を大量に市場投入しておいて、ブログは書けないというのはふざけてる。」という旨の書き込みをしたら数日後に対応してくれたことがある。

 ソネットブログの方もログインできないのだが、こちらはまだツイッターでは書き込んでいない。書き込んだらどうにかなるのかね。





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くだらなすぎ。

2011年06月10日 12時08分47秒 | 意識論関連
 ヒトという種の生物は、社会を形成する習性があるため。権威や多数に迎合することに対して気分的安心を抱く習性を持っている。

 気分的安心というものは、「多数である。」とか、「今までずっとそうだった。」といった事柄に対して生ずる。

 安心というものは定常安定的なものに対して生ずるようにできている。

 大脳辺縁系というものはそういうふうに出来ている。だから、気分的安心というものには論理的安全性の保障など一切ない。

 だが、日常生活の多くの場面において、気分的安心な行動というものは危険性を伴わない。そのため「気分=行動。」という短絡的選択をしておけば、概ね問題は生じない。

 概ね(おおむね)問題は生じない。

 だから、生物生存という偶発的結果を導くには。「感情=行動。」という短絡的行動選択で充分なのである。

 たとえ生存につながらなくても、生物学は「進化の袋小路。」と称して、のらりくらりと言い逃れをする。

 生物学というのは、種としての存続、遺伝的な保存だけが正義であり。個体の安全性など生物学にとって、どうでもよい話なのである。

 つまり、戦争があろうと放射能を撒き散らそうと、種として存続してさえいれば「適者生存。」だと言い張るのである。それなら人類が引き起こすあらゆる問題行動であっても、結果的に生き残りさえすれば、生物として「正しい。」ことになっている。

 こんなバカげた話を「科学。」的であるとしておいて、個人の尊厳も、安全性も、尊重されるわけがない。

 結果だけを論じているのであれば、合理的に安全性を確保できた結果であったとしても、後から「ヒトの優位性。」などとこじつけることも簡単である。

 生物学系の学者のほとんど全員は、このように何が起きても事後正当化するような、のらりくらりと言い逃れをしてさえいれば、全てが説明できると思っている。

 自分達を絶対だと信じ込んでいるのである。だからオカルトなのである。


 彼等には真実を追求する意思は全くない。その場限りの言い逃れ、素人の丸め込みによる権威性の維持、保身だけが「目的。」なのである。

 生物学系の学者達の誰一人として、こうした指摘、批判をする者が全くいないということ自体が、生物学界の異常性なのである。


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安全ピン。

2011年06月10日 12時06分39秒 | ネタ帳
 安全ピンって、ちっとも安全じゃない。

 幼稚園児のTシャツに安全ピンで名札着けるのやめて欲しい。「安全ピン。」って名前につられて安全だと思い込むバカげた観念要らない。





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