蓮さんが言ってた言葉で気になったのは、「どうしろと言うのか。」っていうのがあった。
この言葉の裏には、「命令の応酬」みたいなものが隠れているような気がする。
まあ、おいらの文章がカタいので、命令のような錯覚を促したのかも知れないが。もしかすると指図されることにばかりあまりに慣れすぎてしまっているため、誰かに何かを言われると、のべつまくなし命令とか指図のようなものだという一種の被害妄想が隠れている気がする。
単なる見知らぬオッサンの意見なんだから、「ふ~ん、そんなこと言うオッサンもいるんだな。」っていう引きで見る客観性が失われてしまっていて、とにかくその場で「解答」を出さなきゃいけないという強迫観念に追い立てられていしまっているようにも見える。
物事の真偽というのは、色んな人の意見の中から論理的に自分自身で選択することで見つけてゆくものなのに、とにかく目先の相手から言われたことに対する「解答」を出さなきゃいけないという錯覚に陥ってしまって、とにかく何か言っておかないと気が済まない状態に陥ってしまっているのではないだろうか。
アインシュタインが述べていた、「無知で身勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧」がもたらす若者の心の荒廃というのは、若者が自分で深く考える能力を奪ってしまうことなのではないか。
そう思うのだ。
蓮さんは自分のことを蔑んだように述べていたけど、間違った観念に陥ったのはその場限りの感情に流されちゃった結果であって。おいらが「近所の子供がレイプされていたり、ガソリン飲まされ燃やされたりする社会は望まないでしょ。」っていう問い掛けに対しては素直に「望まない」と自分の言葉で呟いていた。
感情そのものは制御出来ないものではあるけれど、感情と行動や言動の間に理性というブレーキが働いていれば、一人の人間としては制御出来る。
様々な感情が勝手に脳からわき出て来るものではあるけど、その様々な感情を統合的に見る自己客観性に基づいて「本当に永続的に望む理想」とか「目的」行動選択というものが働いていれば、感情の強度程度に流されることなく自己を制御することが出来る。
しかし、感情の強度程度に無為に無意識に流されてしまっていては、その結末は全て「結果」でしかない。
このように「結果」と「目的」を混同していることは、最も重大な間違いの素となりうるのです。
おそらく蓮さんは、見知らぬ変なオッサン(おいらのことね。)に色んなことをいっぺんに言われてしまって、混乱しているのではないだろうか。混乱している時は一度忘れて、好きなことにでも熱中して欲しい。
あくまで1/一億に過ぎないおいらの意見要望にばかり囚われず、意識を奪われず、色んな人の意見を聞いて、本当に自分にとって世の中に求めてゆきたいこととは何なのかを時間をかけてジックリ探して欲しい。
そんなに簡単に答なんて見つかりません。神とか天才じゃないんだから。
「自分を大切に出来ない人が、他人を大切にすることは出来ない。」これは定理です。
まず自分自身を大切に出来るためには何が必要なのか、そこから見つけてゆくことが必要でしょう。
ところが日本の社会では先に「他人を大切にしろ。」と言い出すから、話がややこしくなってしまう。
「誰も自分のことを大切にしてくれないのに、何で他人のことなんか大切にしなきゃいけないんだ。」となるのは、ある意味必然的結果でしょう。
そうした「他人を先に大切にしろ。」という不毛で誰も得をしない観念の「連鎖」が、日本の社会には蔓延しているのだと思うのです。
「無知で身勝手な教師」達というのも、結局は「そう育てられたから。」という被害者の一人に過ぎないのだということを認識しておけば。「ああ、このオッサンもミジメだな。」と哀れむことも可能になるのです。
これが仏教で言うところの「慈悲」の心でしょう。
虐待は連鎖します。虐待されて育った人は、自分が受けた虐待と同じように自分の子供にも虐待をしてしまうように陥るものなのです。
こうした連鎖はどこかで断ち切らないと、永遠に虐待が続くことになってしまいます。
自力で全て背負う必要はありません、自分に出来る範囲で良いので無理せず地道に改善してゆこうとする「意志」は失うべきではないでしょう。
「一人の力は微力です。でも無力ではありません。」そんなツィートを読んだことがあります。
微力を行使する意志だけは失わないよう心掛けて下さい。
心掛けるだけからでも良いですから、一人でこの世のバカの全てを説得しようなどと大袈裟に考え過ぎないようにして下さい。
まず、自分がバカにならないこと。
バカの誘導するバカみたいな土俵に誘われないようにするだけでも良いんです。
バカが提示した泥沼with地雷の中に、うっかり足を突っ込まないようにするだけで良いんです。
誰だって小さなことから始めるんです、いきなり大きなことをやらかそうとするからナチズムのような「最終解決」に陥ってしまうのであって、そんなに簡単に「答」が見つかるなどとは思わないことです。
それはきっと、絶望的に面倒臭いことのように思えるでしょうが、日々の小さな積み重ねこそが大切なのです。
先ずは自分の好きなこと、得意なことから始めましょう。そして、その小さな楽しみを少しだけ他の人にも分けてあげてください。
他人を思い遣るのはその後の話です。
見知らぬオッサンのご機嫌取りなんぞしなくて良いです。オッサンなんつうのはdisるためにいるんだとでも思っておけばよろしい。どうせ先にくたばるハゲた臭いオッサンなんぞのご機嫌取りをしても何の得にもなりゃしません。仲よくなっても臭い思いをするだけですから。
むしろ年下の子供達のために何が出来るかを考えて下さい。
子供達がイジメをせずに済むような社会とはどういう社会なのかを考え、望んで下さい。
子供達が安心して暮らせる社会とはどういうものなのかを考えて下さい。
そうすれば本当にあなたの思う理想というものが、おぼろげにでも見えると思うのです。
綺麗事なんかじゃありません。泥臭い地味な話なんです。
子供達が荒れるのは、環境のせいです。しかし、大人が「世間が悪い。」などと称して暴言を吐いたり、暴力を振るったりして良いわけではないのです。
Ende;