書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○default mode network。

2014年09月03日 22時45分25秒 | 意識論関連
 脳のデフォルトモードネットワークについてNHKのサイエンスゼロで取り上げていたことがあるんだけど、NHKには大した情報がなかったので他の人のブログへのリンクを載せておきます。

 実は前の記事で「デフォルトネットワーク」って間違えてたんだけど、正しくは「デフォルトモードネットワーク」でした。




Memo

後部帯状回 前頭葉内側

課題を与えると活動が低下する領域。

デフォルトモードネットワーク

default mode network


Ende;

○連鎖を断ち切る。

2014年09月03日 21時55分34秒 | 意識論関連
 蓮さんが言ってた言葉で気になったのは、「どうしろと言うのか。」っていうのがあった。

 この言葉の裏には、「命令の応酬」みたいなものが隠れているような気がする。

 まあ、おいらの文章がカタいので、命令のような錯覚を促したのかも知れないが。もしかすると指図されることにばかりあまりに慣れすぎてしまっているため、誰かに何かを言われると、のべつまくなし命令とか指図のようなものだという一種の被害妄想が隠れている気がする。

 単なる見知らぬオッサンの意見なんだから、「ふ~ん、そんなこと言うオッサンもいるんだな。」っていう引きで見る客観性が失われてしまっていて、とにかくその場で「解答」を出さなきゃいけないという強迫観念に追い立てられていしまっているようにも見える。

 物事の真偽というのは、色んな人の意見の中から論理的に自分自身で選択することで見つけてゆくものなのに、とにかく目先の相手から言われたことに対する「解答」を出さなきゃいけないという錯覚に陥ってしまって、とにかく何か言っておかないと気が済まない状態に陥ってしまっているのではないだろうか。

 アインシュタインが述べていた、「無知で身勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧」がもたらす若者の心の荒廃というのは、若者が自分で深く考える能力を奪ってしまうことなのではないか。

 そう思うのだ。

 蓮さんは自分のことを蔑んだように述べていたけど、間違った観念に陥ったのはその場限りの感情に流されちゃった結果であって。おいらが「近所の子供がレイプされていたり、ガソリン飲まされ燃やされたりする社会は望まないでしょ。」っていう問い掛けに対しては素直に「望まない」と自分の言葉で呟いていた。

 感情そのものは制御出来ないものではあるけれど、感情と行動や言動の間に理性というブレーキが働いていれば、一人の人間としては制御出来る。

 様々な感情が勝手に脳からわき出て来るものではあるけど、その様々な感情を統合的に見る自己客観性に基づいて「本当に永続的に望む理想」とか「目的」行動選択というものが働いていれば、感情の強度程度に流されることなく自己を制御することが出来る。

 しかし、感情の強度程度に無為に無意識に流されてしまっていては、その結末は全て「結果」でしかない。

 このように「結果」と「目的」を混同していることは、最も重大な間違いの素となりうるのです。


 おそらく蓮さんは、見知らぬ変なオッサン(おいらのことね。)に色んなことをいっぺんに言われてしまって、混乱しているのではないだろうか。混乱している時は一度忘れて、好きなことにでも熱中して欲しい。

 あくまで1/一億に過ぎないおいらの意見要望にばかり囚われず、意識を奪われず、色んな人の意見を聞いて、本当に自分にとって世の中に求めてゆきたいこととは何なのかを時間をかけてジックリ探して欲しい。

 そんなに簡単に答なんて見つかりません。神とか天才じゃないんだから。

 「自分を大切に出来ない人が、他人を大切にすることは出来ない。」これは定理です。

 まず自分自身を大切に出来るためには何が必要なのか、そこから見つけてゆくことが必要でしょう。

 ところが日本の社会では先に「他人を大切にしろ。」と言い出すから、話がややこしくなってしまう。

 「誰も自分のことを大切にしてくれないのに、何で他人のことなんか大切にしなきゃいけないんだ。」となるのは、ある意味必然的結果でしょう。

 そうした「他人を先に大切にしろ。」という不毛で誰も得をしない観念の「連鎖」が、日本の社会には蔓延しているのだと思うのです。

 「無知で身勝手な教師」達というのも、結局は「そう育てられたから。」という被害者の一人に過ぎないのだということを認識しておけば。「ああ、このオッサンもミジメだな。」と哀れむことも可能になるのです。

 これが仏教で言うところの「慈悲」の心でしょう。

 虐待は連鎖します。虐待されて育った人は、自分が受けた虐待と同じように自分の子供にも虐待をしてしまうように陥るものなのです。

 こうした連鎖はどこかで断ち切らないと、永遠に虐待が続くことになってしまいます。

 自力で全て背負う必要はありません、自分に出来る範囲で良いので無理せず地道に改善してゆこうとする「意志」は失うべきではないでしょう。

 「一人の力は微力です。でも無力ではありません。」そんなツィートを読んだことがあります。

 微力を行使する意志だけは失わないよう心掛けて下さい。

 心掛けるだけからでも良いですから、一人でこの世のバカの全てを説得しようなどと大袈裟に考え過ぎないようにして下さい。

 まず、自分がバカにならないこと。

 バカの誘導するバカみたいな土俵に誘われないようにするだけでも良いんです。

 バカが提示した泥沼with地雷の中に、うっかり足を突っ込まないようにするだけで良いんです。

 誰だって小さなことから始めるんです、いきなり大きなことをやらかそうとするからナチズムのような「最終解決」に陥ってしまうのであって、そんなに簡単に「答」が見つかるなどとは思わないことです。

 それはきっと、絶望的に面倒臭いことのように思えるでしょうが、日々の小さな積み重ねこそが大切なのです。

 先ずは自分の好きなこと、得意なことから始めましょう。そして、その小さな楽しみを少しだけ他の人にも分けてあげてください。

 他人を思い遣るのはその後の話です。

 見知らぬオッサンのご機嫌取りなんぞしなくて良いです。オッサンなんつうのはdisるためにいるんだとでも思っておけばよろしい。どうせ先にくたばるハゲた臭いオッサンなんぞのご機嫌取りをしても何の得にもなりゃしません。仲よくなっても臭い思いをするだけですから。

 むしろ年下の子供達のために何が出来るかを考えて下さい。

 子供達がイジメをせずに済むような社会とはどういう社会なのかを考え、望んで下さい。

 子供達が安心して暮らせる社会とはどういうものなのかを考えて下さい。

 そうすれば本当にあなたの思う理想というものが、おぼろげにでも見えると思うのです。

 綺麗事なんかじゃありません。泥臭い地味な話なんです。

 子供達が荒れるのは、環境のせいです。しかし、大人が「世間が悪い。」などと称して暴言を吐いたり、暴力を振るったりして良いわけではないのです。




Ende;

○自然とは恐ろしいもの。

2014年09月03日 00時07分09秒 | 意識論関連
 ノーベル賞受賞者の多くは生徒個人の自主性を重要視するんだけど、実際の教育現場では進学率とか偏差値といった数字を追求したり恐怖権威で抑圧しようとするバカ教師が多過ぎて、なかなかノーベル賞受賞者の思うようには改革出来ない。

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益川敏英 嫌いなことはそんなにやらなくていいから、好きなこと、得意なことを伸ばすことを考えた方が良い。

小柴昌俊 「これなら一生続けられる」、そういうものを見つけなさい。

アルバート:アインシュタイン

無知で自分勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧は、若者の心に荒廃をもたらす。荒廃はけっして元には戻らず、しばしば後に悪影響を及ぼす。

特定の職業にたいする生徒の性向を無視してはいけません。(なぜなら)とくに、そのような性向は早い時期に現れるからです。きっかけとなるのは、個人の才能、家族らが示す手本、他のさまざまな境遇でしょうが。

おおかたの教師は、生徒が何を知らないかを発見することを意図した質問をして時間を無駄にしています。しかし、本当の質問の技とは、生徒が何を知っているか、あるいは、知りうるかを発見することを目的としているのです。


(「アインシュタインは語る」 大月書店刊より抜粋。)

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 益川理論(?)に基づけば、与えられた特定の限定的学科での成績が平均的に高くなければならない必要性はないはずで。大学入試においてペーパーテスト以外の合格基準を採用するなどのすんごい微妙な改革は進められてはいる。

 何故進学率や偏差値といった数字を追求しようとするイカレた教師がいるのかと言えば。彼らは学生時代に進学率や偏差値の向上ばかりを求められて育ったからである。これは明らかに一種の「虐待の連鎖」である。

 そもそもアニメファンの若者達をdisるバカ祭りにノーベル賞受賞者は出て来ることはない。






○1次元。

 集団や組織の中ではどのようなメカニズムで危険性放置が発生するのかを社会心理学的手法で解明しようとする必要性があるでしょう。それは「アイヒマン実験」の追試のような形を採ることになりかねないため、コンセンサスは得られ難いかも知れないが、科学的に検証して明確にしておく必要性はあるかも知れない。

 個人的には必要性は感じていないのだが。頑固な実証主義者を説得する必要性があれば、致し方あるまい。




 ヒトはとかく感情的に陥ると、右か左かといった1次元的思考しか出来なくなる習性傾向がある。

 たまたまバカヲヤジ達がよってたかってアニメファンをdisったからといって、社会の全てがアニメファンを排除しようとしていると勘違いすべきではない。そうした錯覚に陥らないことこそがメディアリテラシーというものでもあるからだ。

 そもそも問題だと思ってすらいないヲヤヂ達はそんな番組には興味すら持っていない。(おいらもタイムラインから「何かバカ番組をやっているみたいだな。」程度。)

 ですから、ヲヤヂの全ては敵といった短絡的な帰結に陥って思考停止(オッサン個人の特性を無視)して敵味方といった1次元論は、原理主義の思考パターンの基本構造と全く同じものなのです。

 論理的にも統計的にもさしたる根拠のない観念的なdisりというのは、そもそもが1次元的価値観に基づくものであって。こうした1次元的原理主義者に対して気分的反感や嫌悪感だけで全面的にdisり合ってしまうと、その1次元上での議論に乗っかっちゃっているのと同じことなのです。

 そもそも議論自体がトンデモなく低次元であることを認識していれば、語るに足らない変態ヲヤヂの勝手な妄想でしかないのです。

 相手が提示したチンケなモノサシの上だけの議論に相手を引き込む手口は、詐欺師とか占い師の常套手段です。

 乗っかってはいけません。

 そこにこそ暗黒面ダークサイドが隠されているからです。

 蓮@残響さんが言ってた「土俵」と例えてもいいかも知れない。相手がそそのかした土俵というものが、キチンと論理的土台がしっかり出来ているのかを確かめずに、迂闊に「売言葉に買い言葉」で乗っかってしまうと二度と出られない泥沼に陥ったり、場合によっては地雷が埋まっていることもある。

 詐欺師、あ、じゃなくて。占い師が「他人の言うことを信用しないのは、心の狭い態度です。」なんて頭ごなしに決め付けたりすることがありますが。冷静に考えれば「じゃあ何かい、他人の言うことを何でも疑わずに鵜呑みにして、あんたに金を払うような、あんたにとって都合の良いカモこそが心が広いってことなのかい。」って話になるわけです。

 そんなわけねぇだろ。\( ~∇~)/



 脳のデフォルトモードネットワークというのは、課題を与えられている間には活性が低下します。これは街角で見知らぬ他人に道を聞かれた時に相手の服の色を全く覚えていないのと関係があるのではないかと思います。

 「道を聞かれた」という「課題」によって。意識注意が「道を説明する。」ことだけに整理され、結果的に話の途中で相手の服の色が変わっても気付かないとか、それこそ相手自体が入れ替わっていても気付かないなんてことにもなるのです。

 手品も、こうした意識誘導を用いてタネがわからないようにします。

 「他人を騙そうとする者にとって、カモを見つけるのは簡単である。」とはマキャベリの言葉ですが。

 ヒトという種の生物の脳というのは、騙すためのツボというかコツのようなものが存在していて、これを利用すると相手を意図しない錯覚状態に陥れることが簡単に出来るものなのです。この前提を忘れてその場限りの感情気分のままに無意識に流されていると、うっかり変な考えに引き込まれてしまうことがあるのです。

 「自分だけは大丈夫。」そう思っている人ほど、振り込め詐欺の被害に遭うものなのです。

 こういった説明をすると、もしかすると蓮@残響さんは「自分はそんなことにも気付かなかったのか」と落ち込むこともあるかも知れませんけど、こういった錯覚というのはヒトという種の生物全般に見られる普遍的性質なので、何ら落ち込んだり歎いたり、恥ずかしがったりする必要性は全くありません。

 むしろハインリッヒの法則でいうところの「ヒヤリ、ハッと」事象でしかないのですから、気付いたことを教訓に騙されないよう気をつけるキッカケとなれば財産ともなるのです。

 脳のデフォルトモードネットワークを働かせるためには、いちど「ぼんやり」する必要性があります。これは「脱集中」とも呼ばれ、一息ついて引きで見る客観性を働かせることで問題点に気付くことが出来るようになるコツです。

 なので、感情的になってその場限りの勝ち負け論に引き込まれ、相手を攻撃することばかりに意識を奪われていると、問題の本質を見失ったまま不毛なdisり合いにしかならないのです。

 感情というものは、単にそれだけでは意志ではありません。統合的に論理検証することで、本当に重要なのが何なのかを見極める客観性が伴って、初めて意志とか自己とか意識だと言えるのです。

 自分の脳は自分が作ったものではありません、そもそも自分の脳というのは自分では選択不可能な遺伝要素から出来ているものであり。また、その脳に刷り込み学習された様々な価値観もまた、それだけでは自分の価値観とは言えないのです。

 自分が育った社会環境というものは自分では選択していないのですから、その社会から「学習」された価値観が自分自身の価値観だと思うのは実は間違いなのです。

 その場限りの勝ち負け論に執着してしまう性質というのも、ヒトの先天的習性でもあるのですが、他者との過度な競争を強いられることで強化されてしまうものでもあるのです。アインシュタインが危惧した「心の荒廃」も、無知で愚かな教師によって植え付けられた「陳腐な土俵」の弊害なのです。

 もしかすると、こうした話は得体の知れない不安感を抱くこともあるかも知れませんが。それは今まで誰も触れて来なかったという「慣れ」ていないことに由来する感覚だと言えます。

 慣れないことはすぐには馴染めないのは当たり前ですから、時間をかけてじっくり慣れる必要があるのでしょう。

 先ずは「ぼんやり」しておきましょう。「ぼんやり」している時にしか見えないものがあるからです。

 無理に急いで「最終解答」をひねり出してはいけません、それこそが原理主義の構造(暗黒面)だからです。




Ende;