書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○社会的責任。

2014年09月05日 10時20分11秒 | 意識論関連
 文科系大衆観念者というのは、自分のご機嫌取りをしてくれる相手に人間性を「感じ」てしまいがちだが。これは極めて主観的な錯覚に過ぎない。

 オウム真理教信者達が教祖麻原に「感じ」た人間性も、論理的根拠が全くない無責任な盲目性の結果に過ぎない。

 ニーチェの人気などというのも、要するに「読んだ者が気分的に満足した。」という話に過ぎず。何一つニーチェの人間性を立証出来ていない。

 ニーチェを読んで「カッコイイ」だの「心が震える」などという主観的感想を述べたところで、気分的満足以上の何も論じていないにも関わらず。主観的満足を人間性と勝手に錯覚して「深遠な思想だ。」などと言い出すのはバカ特有のトンチンカンな妄想に過ぎない。

 ニーチェの言っていることには論理整合性がなく、その場限りに読者の気分的満足を与えているだけに過ぎないのだが。こうした錯覚を自覚せずに、カルト宗教を批判する権利はない。

 バカであることにおいて基本的に違いがないからだ。

 芸術やスポーツなどの「文化」的なものであれば、主観的気分感情の満足を論ずるのは勝手だが。科学や哲学といった領域で個人的主観を基準に判断するのは、人間として社会的に無責任極まりない。

 人間性というものの本質は、その場限りに話を丸めて多数のご機嫌取りをすることではなく。社会的責任判断を自律的に行えるかどうかであり。

 無責任に個人的な主観的観念感想に基づいて人間性を錯覚していたのでは他人を評価する資格すらないのである。



 物理工学系研究者は、文科系哲学者達の無責任にもっと言及すべきである。「専門外だから。」などと無責任に放置しておいて良いレベルの話ではない。



Ende;
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