オウム真理教には「目的」がなかった。
地下鉄サリン事件の被害者や遺族達は、教祖麻原がなぜテロを起こしたのか、その目的を知りたいと述べていましたが。残念ながら教祖麻原にも、麻原に従った信者や幹部達にも目的意識なんて全くなかったのです。
麻原本人は、信者達が自分の都合の良いようにお布施をくれるよう誘導、気分的に満足させることで信用してしまうヒトの性質を利用していただけであって。それ以上の何の目的もなかったのです。
麻原にとっては教団の持続可能性とか、信者の幸福なんてどうでも良くて、ただ自分にとって都合の良いように信者達を動かすことが出来れば満足だっただけであって。それ以上の何の考えも持ってはいなかったのです。
「洗脳」と聞くと、あたかも誰かが目的意識を持って他者を誘導しているかのように錯覚しがちですが。最初から目的が明確にあれば洗脳でも何でもないんです。
これはナチズムにおいても、シエラレオネの少年ゲリラにおいても同じことです。
様々な洗脳による「暴走」というのは、そこに目的意識が全く存在していないからこその「結果」であって。これは子供達のイジメの延長線上にあるものだと言えるでしょう。
子供のイジメとシエラレオネの少年ゲリラでは程度があまりに違うと思うかも知れませんが。一言でイジメと言ってもその程度は一概に規定出来るようなものではありません。
私の提示する理論というのは、今まで誰も論じてこなかった理論であるため。馴染みがなく、「慣れて」いないので根拠のない不安感を抱く人がいるようですが。
私の理論はいわば「オープンソース脱洗脳」なので、間違いがあれば誰でも訂正することが出来るようにしてあります。決して「金払って買って読め。」的閉鎖性は持っていません。
日本人全体が若者達を抑圧するような軽い「虐待の連鎖」状態に陥っているのも、ある種の洗脳状態であって、目的がありません。
オウム信者に対して「お前さんの信じている教義や教祖は間違っている。」などと言えば、信者達は条件反射的に拒絶反応を示し、何が何でも自分達が正しいと強弁するでしょう。
それと同じで日本人に対して「精神論は間違っている。」と述べればヒステリックに拒絶反応を示すのです。
世の中には様々な意見がありますが。マスコミを含めて文科系の人達というのは、「あんな意見もあるな。こんな意見もあるな。でも難しくてどれが本当かわかんないや。 それぞれ好きなもの選んで自己責任でやりゃ良いんじゃねぇの。」的に当たり障りのない結論で満足しておきます。
その方がヒステリックな観念論者のご機嫌を損ねずに済むため、外見上「大人」にも見えるわけです。
でも、これは本当は単なる日和見主義、大衆迎合でしかないのです。
こうした日和見主義はナチズムの暴走をも放置します。
ハイデガーのナチス迎合も、結局は外見的「大人」風味の日和見主義の結果でしかないのです。
世にある様々な意見の中から、何が正しくて何が間違っているのかを論理的に検証し。たとえ「今の大衆の観念」に従わないとしても、間違っていることは間違っていると言うのが、本来の社会的責任を持った「大人」としての判断なのです。
ハンナ:アーレントがアドルフ:アイヒマンに抱いた「凡庸さ」というのは、分析的に間違ってはいません。
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」においても、「普通の人」の危険性は立証されているのです。
しかし、普通の「ヒト」の中にある危険性こそが、本当の危険性であることを、多くのヒトは信じようとはしませんが。これは「自分だけは、常に意識的に全ての行動や言動を論理的に選択出来ているものである。」という身勝手な妄想がもたらす錯覚に過ぎないのです。
むしろ、こうした妄想錯覚こそがヒトという種の生物の危険性をマスキングしてしまうことで、何度もバカげた残虐行為が繰り返されているのです。
それがとても無責任なことであることすら、多くの人は認識していないのです。
進化生物学では、生物の目的は生存で、全ての生物は生存のための行動を採るように予め作られているものであると言い張ります。
昆虫の擬態なども、従来は「生存のために、自らの外見を何かに似せた。」などというオカルトが通用していたのはそのためです。
自分の遺伝子は、構造原理的に自分では並べることが出来ません。従って先天的形態を自分自身でコントロールすることなど出来るわけがないのに、進化生物学上では従来本気で信じ込まれてきたのです。
進化生物学界というのは、自然がもたらすあらゆる結果の全ては常に正しいものであるという盲信がまかり通っていました。今でもそれはあまり変わっていないように思えます。
こうした盲信の延長線上に、「ヒトは先天的には正しい行動を常に採るものである。」というオカルトが、社会心理学では通用してしまっているのです。
ある特定環境下においてヒトという種の生物が利他的行動を採ったことを立証しても、ヒトという種が常に人格者として振る舞うことの論理的証明には一切ならず。ただ単に「自分は常に正しい、大丈夫だ。」という観念妄想錯覚に陥っている文科系大衆のご機嫌取りにしかなっていないのです。
科学は多数決ではありません。民主主義も市民がバカならバカ主義にしか陥らないのは必然的結果というものです。
市民の一人一人が自律的に社会的責任を負わなければ、社会の持続可能性も安全性も高まることはないのです。
すぐに「受け入れろ。」とか「信じろ。」とは言いません。むしろ、じっくりと時間をかけて、時にぼんやりとしながら検証して下さい。
本当にあなたが望んでいる社会というのは、その場限りの気分感情で決定するような短絡的で安易なものではないからです。
Ende;
地下鉄サリン事件の被害者や遺族達は、教祖麻原がなぜテロを起こしたのか、その目的を知りたいと述べていましたが。残念ながら教祖麻原にも、麻原に従った信者や幹部達にも目的意識なんて全くなかったのです。
麻原本人は、信者達が自分の都合の良いようにお布施をくれるよう誘導、気分的に満足させることで信用してしまうヒトの性質を利用していただけであって。それ以上の何の目的もなかったのです。
麻原にとっては教団の持続可能性とか、信者の幸福なんてどうでも良くて、ただ自分にとって都合の良いように信者達を動かすことが出来れば満足だっただけであって。それ以上の何の考えも持ってはいなかったのです。
「洗脳」と聞くと、あたかも誰かが目的意識を持って他者を誘導しているかのように錯覚しがちですが。最初から目的が明確にあれば洗脳でも何でもないんです。
これはナチズムにおいても、シエラレオネの少年ゲリラにおいても同じことです。
様々な洗脳による「暴走」というのは、そこに目的意識が全く存在していないからこその「結果」であって。これは子供達のイジメの延長線上にあるものだと言えるでしょう。
子供のイジメとシエラレオネの少年ゲリラでは程度があまりに違うと思うかも知れませんが。一言でイジメと言ってもその程度は一概に規定出来るようなものではありません。
私の提示する理論というのは、今まで誰も論じてこなかった理論であるため。馴染みがなく、「慣れて」いないので根拠のない不安感を抱く人がいるようですが。
私の理論はいわば「オープンソース脱洗脳」なので、間違いがあれば誰でも訂正することが出来るようにしてあります。決して「金払って買って読め。」的閉鎖性は持っていません。
日本人全体が若者達を抑圧するような軽い「虐待の連鎖」状態に陥っているのも、ある種の洗脳状態であって、目的がありません。
オウム信者に対して「お前さんの信じている教義や教祖は間違っている。」などと言えば、信者達は条件反射的に拒絶反応を示し、何が何でも自分達が正しいと強弁するでしょう。
それと同じで日本人に対して「精神論は間違っている。」と述べればヒステリックに拒絶反応を示すのです。
世の中には様々な意見がありますが。マスコミを含めて文科系の人達というのは、「あんな意見もあるな。こんな意見もあるな。でも難しくてどれが本当かわかんないや。 それぞれ好きなもの選んで自己責任でやりゃ良いんじゃねぇの。」的に当たり障りのない結論で満足しておきます。
その方がヒステリックな観念論者のご機嫌を損ねずに済むため、外見上「大人」にも見えるわけです。
でも、これは本当は単なる日和見主義、大衆迎合でしかないのです。
こうした日和見主義はナチズムの暴走をも放置します。
ハイデガーのナチス迎合も、結局は外見的「大人」風味の日和見主義の結果でしかないのです。
世にある様々な意見の中から、何が正しくて何が間違っているのかを論理的に検証し。たとえ「今の大衆の観念」に従わないとしても、間違っていることは間違っていると言うのが、本来の社会的責任を持った「大人」としての判断なのです。
ハンナ:アーレントがアドルフ:アイヒマンに抱いた「凡庸さ」というのは、分析的に間違ってはいません。
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」においても、「普通の人」の危険性は立証されているのです。
しかし、普通の「ヒト」の中にある危険性こそが、本当の危険性であることを、多くのヒトは信じようとはしませんが。これは「自分だけは、常に意識的に全ての行動や言動を論理的に選択出来ているものである。」という身勝手な妄想がもたらす錯覚に過ぎないのです。
むしろ、こうした妄想錯覚こそがヒトという種の生物の危険性をマスキングしてしまうことで、何度もバカげた残虐行為が繰り返されているのです。
それがとても無責任なことであることすら、多くの人は認識していないのです。
進化生物学では、生物の目的は生存で、全ての生物は生存のための行動を採るように予め作られているものであると言い張ります。
昆虫の擬態なども、従来は「生存のために、自らの外見を何かに似せた。」などというオカルトが通用していたのはそのためです。
自分の遺伝子は、構造原理的に自分では並べることが出来ません。従って先天的形態を自分自身でコントロールすることなど出来るわけがないのに、進化生物学上では従来本気で信じ込まれてきたのです。
進化生物学界というのは、自然がもたらすあらゆる結果の全ては常に正しいものであるという盲信がまかり通っていました。今でもそれはあまり変わっていないように思えます。
こうした盲信の延長線上に、「ヒトは先天的には正しい行動を常に採るものである。」というオカルトが、社会心理学では通用してしまっているのです。
ある特定環境下においてヒトという種の生物が利他的行動を採ったことを立証しても、ヒトという種が常に人格者として振る舞うことの論理的証明には一切ならず。ただ単に「自分は常に正しい、大丈夫だ。」という観念妄想錯覚に陥っている文科系大衆のご機嫌取りにしかなっていないのです。
科学は多数決ではありません。民主主義も市民がバカならバカ主義にしか陥らないのは必然的結果というものです。
市民の一人一人が自律的に社会的責任を負わなければ、社会の持続可能性も安全性も高まることはないのです。
すぐに「受け入れろ。」とか「信じろ。」とは言いません。むしろ、じっくりと時間をかけて、時にぼんやりとしながら検証して下さい。
本当にあなたが望んでいる社会というのは、その場限りの気分感情で決定するような短絡的で安易なものではないからです。
Ende;