書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○洗脳の構造。

2014年09月10日 15時14分11秒 | 意識論関連


 洗脳というと、あたかも誰かの謀略、陰謀に基づいて、用意周到に準備された行動だと多くの人は勘違いしているが。ナチズムにしても太平洋戦争時の日本政府にしても、オウム真理教にしても、本当は誰の意思や目的なんぞ働いていなくて。単に指導者のカリスマ性に心酔して組織的に暴走している状態が洗脳状態。

 洗脳状態では、支持者達は集団で指導者の正当性を共有し、指導者はそういう観念的で盲目な支持者からの支持を得ることばかりに専念し。結果的に何の目的もなく暴走破綻する。

 「社会が悪い。」と喚き散らすのは、とても簡単で。そんなことなら誰にでも言えることであり、オウム教祖麻原でも、通り魔にでも言える簡単なことである。

 具体的に社会の一体なにが間違っているのかを具体的、論理的に検証し、間違いが繰り返さないように再発防止対策を立てないことには意味がないのだが。多くの大衆は誰か特定の人物の陰謀だと決め付け観念的猜疑心だけで非難したり、誹謗中傷することを仲間内で共有して満足しようとする。

 ニーチェだのプラトンだの養老孟司だのを鵜呑みにしておいて、自分達の頭の悪さを認識していない時点で、他人を非難する資格はないのだが。「自分達だけは絶対に大丈夫。」という錯覚妄想を認識しないからこそ、根拠のない観念的猜疑心だけで誹謗中傷して満足してしまい。結果的に問題の論点がうやむやになるという無駄で不毛な事態に陥るのである。

 現在「哲学」として分類されている書籍のほとんどは、実際には論理的根拠とか論理整合性のない芸術「文学」でしかないのだが。読み手が気分的に満足安心することで、短絡的に「素晴らしい」などという主観的感想だけで盲目的に信用してしまうことで、オカルト観念が哲学扱いされてしまうのである。

 哲学というのは、本来論理的で科学的考えに基づいたものでなければならず。これを端折って「カッコイイ」だの「素晴らしい。」だの、実際には何の考えも出てきていないのに「考えさせられた。」だのと称して大衆人気だけで哲学だと勘違い分類されている書籍は大変多い。

 多分、他人を疑って誹謗中傷するのは気分的に満足が得られても。自分自身の異常性とか間違いを検証することは気分的に嫌なのが原因であろう。しかし、これは先天的構造という「結果」に過ぎない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」とか、「自分だけは先天的に善人。」だとでも思っておけば、さぞかし気分的に満足なんだろうけども。そうした先天的思考バイアスが自己論理検証性を喪失させる最大の原因。

 自分達の行動や思考が、常に絶対的に自分自身で制御出来ているという錯覚を、錯覚として認識していないから、トンチンカンな陰謀論という洗脳に陥る。

 オウム真理教においても、「日本政府、国家権力の陰謀だ。」なんていう話はしていた。




 本当は、社会の様々な問題の多くは陰謀的に特定の誰かが引き起こしているわけではなくて。大多数の大衆の無意識な行動の結果として暴走破綻に陥っているから問題がいつまでも解決しないのである。

 多数というのは力がある。その力の方向性を多くの場合個人が制御していないから莫大な力が暴走し、結果的に社会を逼迫させているのである。

 他人を観念的猜疑心で疑う前に、先ず自分自身が間違っていないかを検証する必要性がある。東大学長が新入生達に述べた「全てを疑え」とは、あくまで「自分自身も含めて論理検証的に洗い直してみよ。」という意味である。




 おそらく、副島ナントカっつうのも、一部の観念主義的支持者達のヒステリックな同調に乗っかって思想家面をしているだけであろう。

 だからこそ副島支持者は感情的でわけのわからぬコメントをしてくるのである。

 暴力というもの、怒り狂うことが脳に満足を与えることはわかっている。だからヒステリックに誹謗中傷しておけば気分が良いので、一種の誹謗中傷中毒に陥っているのであろう。こうなると誰か特定の個人団体を誹謗中傷していないと不安で仕方ないという枯渇状態に陥り、危険ドラッグ的に病みつきになってしまうのであろう。

 それを「洗脳」状態というのです。






Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○無意識が促すもの。

2014年09月10日 11時56分57秒 | 意識論関連
 自転車が車道を走るとなぜ「恐い」のか。

 それは自転車のスレスレを無理矢理追い抜く自動車がいるからであって、それは自転車が車道を走るのが悪いのではなくて、「無理矢理追い抜く自動車の運転者」の脳が危険だからである。

 日本では、どういうわけか先の信号が赤だったり、先の交通が滞っていたりしても、車間距離を開けると後ろから「煽る」奴が時折いて。こういうキチガイに煽られるのを嫌うんだか何だか異常執着、強迫観念的に前の自動車に「詰め」ようとしてやたらと速度を上げたがる自動車運転者が結構多い。

 自転車に乗っていると、おいらを無理矢理追い越していった自動車を、赤信号やプチ渋滞で追い越すことが時折ある。

 バイクに乗ってるときに、やたらと煽ってくるバカが一体何を急いでいるのか知りたくて、何度か追跡したことがあって。やたらと煽って加速する奴はコンビニの駐車場に自動車を停めてクソゲーをやっていたり。あるいは路肩で漫画を読んでいる事例しか見たこたない。

 なので、本当は急ぐ用事なんてなくて、暇なのにやたらと急いでいたのだ。

 暇なんだけど、何かやたらと加速したがる。これは「急いでいる」のではなくて「慌てている」だけ。こういう奴が自転車が車道を走ることを邪魔扱いしている。

 時間は経済学的にはリソース(資源)ではある。しかし、クソゲーや漫画を読むために二酸化炭素を無駄に排出しながら他者に迷惑(社会的負荷)をかけてまで「有効活用」するのは身勝手極まりない。

 社会的責任を放棄していては、どんなに経済的に自立していても、社会的にはむしろ邪魔な存在なのである。



 先日、「合理性を追求し過ぎると時間的資源を無駄にするので、合理性は万能ではない」といった趣旨の記事をハフィントンポスト日本版で読んだのだが。こいつの言っている「時間的資源」とは、要は金目の問題であって。「金儲けをするのに合理性は邪魔だ。」などという主張は根源的に間違っている。

 金儲けという経済活動は、あくまで社会持続可能性や安全性といった「人間としての目的」を達成するための「手段」や「手法」のひとつに過ぎない。

 手段や手法が目的に対して「万能ではない。」などと言っていること自体が本末転倒で、非合理的な主張なのである。

 合理性の追求とは、社会の中において責任ある行動を採るために必要不可欠な人間性、倫理の問題であって。目先の欲望を叶えるための万能の魔法ではなく。個人が自分自身の行動を主体的に選択する「目的」意識の問題を論じているのである。

 時間という資源を、目先の利益(欲望)のためだけに使っていれば、正に「時間泥棒(ミヒャエル:エンデ)」に他ならない。

 経済学では特定の「顧客」や「利益」といった単純化したモノサシばかりを挙げて理論を展開するが、これは要するに単純化された話しか理解できないバカの論理に過ぎず、社会的責任といった統合的視点を欠いた論理展開しかしたがらない。

 基本的に経済学者達は単純な思考の大衆ウケ、大衆迎合のための利己的利益回収の話ばかりをしたがるが。これは経済学者としての本当の意味での社会的責任を全く無視した悪質な洗脳のようなものである。




 方便としては、ピーター:ドラッカー的に「社会的責任や顧客の本当の要望に応えなければ、企業は生き残れない。」と述べることも出来るが。ナチズムなどの暴力集団に反対して命を落とした賢者達というは数知れず、必ずしも社会的責任判断が個人の社会的成功や持続可能性を保証する根拠はない。

 社会を構成する個人の多数がバカで、自分達がどういった洗脳状態であるのかを認識していないからこそ、正しい選択が社会的に認められないという結果を招くのであり。手段と目的の区別がつかないようなバカしかいないからこそ、「正直者がバカを見る。」ことに陥るのである。

 正直に生きられないのであれば、多数が嘘つきになるのも必然である。

 ましてや、自分が常に正しいと思い込んでいるのであれば、これは暴走しか促さない。これは「人類の救済。」と全く同じ構造である。

 振り込め詐欺にカモられる被害者と同様、愚かさゆえに結果的に暴力団に資金提供をしてしまっているのであれば、これは社会的には加害者に加担しているのと同じである。

 振り込め詐欺でも基本的には騙す方が悪いのだが。経済学上のモノサシで人間性や倫理を語るような支離滅裂な話も詐欺や洗脳の一種に過ぎないことは認識すべきである。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする