洗脳というと、あたかも誰かの謀略、陰謀に基づいて、用意周到に準備された行動だと多くの人は勘違いしているが。ナチズムにしても太平洋戦争時の日本政府にしても、オウム真理教にしても、本当は誰の意思や目的なんぞ働いていなくて。単に指導者のカリスマ性に心酔して組織的に暴走している状態が洗脳状態。
洗脳状態では、支持者達は集団で指導者の正当性を共有し、指導者はそういう観念的で盲目な支持者からの支持を得ることばかりに専念し。結果的に何の目的もなく暴走破綻する。
「社会が悪い。」と喚き散らすのは、とても簡単で。そんなことなら誰にでも言えることであり、オウム教祖麻原でも、通り魔にでも言える簡単なことである。
具体的に社会の一体なにが間違っているのかを具体的、論理的に検証し、間違いが繰り返さないように再発防止対策を立てないことには意味がないのだが。多くの大衆は誰か特定の人物の陰謀だと決め付け観念的猜疑心だけで非難したり、誹謗中傷することを仲間内で共有して満足しようとする。
ニーチェだのプラトンだの養老孟司だのを鵜呑みにしておいて、自分達の頭の悪さを認識していない時点で、他人を非難する資格はないのだが。「自分達だけは絶対に大丈夫。」という錯覚妄想を認識しないからこそ、根拠のない観念的猜疑心だけで誹謗中傷して満足してしまい。結果的に問題の論点がうやむやになるという無駄で不毛な事態に陥るのである。
現在「哲学」として分類されている書籍のほとんどは、実際には論理的根拠とか論理整合性のない芸術「文学」でしかないのだが。読み手が気分的に満足安心することで、短絡的に「素晴らしい」などという主観的感想だけで盲目的に信用してしまうことで、オカルト観念が哲学扱いされてしまうのである。
哲学というのは、本来論理的で科学的考えに基づいたものでなければならず。これを端折って「カッコイイ」だの「素晴らしい。」だの、実際には何の考えも出てきていないのに「考えさせられた。」だのと称して大衆人気だけで哲学だと勘違い分類されている書籍は大変多い。
多分、他人を疑って誹謗中傷するのは気分的に満足が得られても。自分自身の異常性とか間違いを検証することは気分的に嫌なのが原因であろう。しかし、これは先天的構造という「結果」に過ぎない。
「自分だけは絶対に大丈夫。」とか、「自分だけは先天的に善人。」だとでも思っておけば、さぞかし気分的に満足なんだろうけども。そうした先天的思考バイアスが自己論理検証性を喪失させる最大の原因。
自分達の行動や思考が、常に絶対的に自分自身で制御出来ているという錯覚を、錯覚として認識していないから、トンチンカンな陰謀論という洗脳に陥る。
オウム真理教においても、「日本政府、国家権力の陰謀だ。」なんていう話はしていた。
本当は、社会の様々な問題の多くは陰謀的に特定の誰かが引き起こしているわけではなくて。大多数の大衆の無意識な行動の結果として暴走破綻に陥っているから問題がいつまでも解決しないのである。
多数というのは力がある。その力の方向性を多くの場合個人が制御していないから莫大な力が暴走し、結果的に社会を逼迫させているのである。
他人を観念的猜疑心で疑う前に、先ず自分自身が間違っていないかを検証する必要性がある。東大学長が新入生達に述べた「全てを疑え」とは、あくまで「自分自身も含めて論理検証的に洗い直してみよ。」という意味である。
おそらく、副島ナントカっつうのも、一部の観念主義的支持者達のヒステリックな同調に乗っかって思想家面をしているだけであろう。
だからこそ副島支持者は感情的でわけのわからぬコメントをしてくるのである。
暴力というもの、怒り狂うことが脳に満足を与えることはわかっている。だからヒステリックに誹謗中傷しておけば気分が良いので、一種の誹謗中傷中毒に陥っているのであろう。こうなると誰か特定の個人団体を誹謗中傷していないと不安で仕方ないという枯渇状態に陥り、危険ドラッグ的に病みつきになってしまうのであろう。
それを「洗脳」状態というのです。
Ende;