他人をクソ扱いすることで、あたかも自分や自分達のクソ度が紛らわせると思っている者にとっては。他人をクソ扱いし続けなければ自分や自分達のクソ度を認識してしまうことになるので、ある種強迫観念的に他人をクソ扱いしていなければならない中毒症状だと言える。
これはイジメやヘイトスピーチを行う心理動機でもあり、特定個人や団体を「敵」と見なし悪く言うことで、あたかも自分や自分達が正当化されたような錯覚妄想を得るための暴走である。
これの究極がイスラム国とかオウム真理教などの洗脳であろう。
何せ、元が錯覚妄想に依るものであるため。そこには論理検証的に選択された目的意識というものが存在せず。行き当たり場当たり的に大脳辺縁系が満足するよう、行動バイアスに流されているだけだからだ。
ヒトの多くは、多数派で同じ観念を共有しておけば、気分的に安心であるために。自分達が共有している観念の異常性に対する認識が出来なくなるように出来ている。これはヒトという種の生物における先天的欠陥ということでもある。
イジメや差別を行っている者にとっては、それは気分が良いことであるために問題だという認識が全く働かない。むしろ取り憑かれたように暴走するのはそのためである。
先日のテレビで見た内容に、33人の少年を殺害したジョン:ウェイン:ゲイシーという連続殺人犯の話があって。彼にとっての正義や善とは、「主観的に気分が良い。」ということだった。
こうした話は連続幼女殺人の宮崎勤でも同様であった。
主観的に気分が良くない話を「つまらない」と言い、自分の頭の悪さを棚上げにして「お前はバカだ。」などと規定する。これが狂人の論理である。
イジメやヘイトスピーチを行っている者達にとっては、気分が悪いことを言う奴は「バカ」なのであり、「つまらない」奴なのである。逆に言えば、同調して気分が良くなる話さえしておけば「頭が良い」と勝手に錯覚し、「面白い」と称して満足するのである。
言うなれば、キチガイにとって「頭が良い」という基準自体がむしろキチガイじみているのであり。キチガイ集団にとってはキチガイこそが天才扱いとなるのである。
当たり前の話だが、キチガイには自己論理検証性など働く余地はない。自己論理検証性がないからキチガイという背理も成り立つ。
ヒトの多くは、目先の気分感情を短絡的に「心」だと妄想しているが。その錯覚観念こそが人間としての「心」に対する認識というものを不具にしているのである。
気分感情というものがどこから来るかと言えば、それは大脳辺縁系が促す行動バイアスであるが。大脳辺縁系の構造自体は自己の選択が介在する余地はなく。気分感情そのものは自由意思でも何でもない。
自分の遺伝子を自分で選択することは原理的に不可能である以上、これは反論の余地はない。
そして、脳に刷り込み学習されたあらゆる価値観の全ても。結局は自分では選択していない社会や時代といったものから影響された「結果」でしかなく。これもまた自分の意識的「選択」が介在する余地はない。
ヒトの脳が有限である以上、完全な意識、完全な知能などというものが存在することはないが。逆に言えば、いくら大脳容積が大きくても、自己の意識(論理検証)的選択判断というものが介在しなければ、もはや他者と互換不能な個人としての価値も存在しないのである。
自分の主観的感覚による、気分感情が絶対であると「思って」いる状態こそが、ヒトを傲慢にさせるのであり。何が主観的感覚で、何が客観的論理検証なのかを区別(選択)出来ないからこそ、自己の傲慢さを認識出来ないのである。
イスラム国で暴れている連中も、秋葉原で暴れた通り魔も、「ヒトという種の生物」としては健康であったと言えるであろう。だが、当然ながら人間としては病気である。
ヘイトスピーチで怒鳴り散らしている者達というのは、精神を病んでいるのである。その理由はいくらでも言えるであろう。連続殺人犯のジョン:ウェイン:ゲイシーもまた、幼少期における父親からの虐待が大きな要因であると言えるからだ。だが、要因ではあっても自律責任判断が放棄して良い「理由」根拠にはならない。
厄介なのは、精神を病んでいる者自身には、病気としての自覚が全くないという点である。
ヘイトスピーチに参加していても、「社会的」には生活に支障をきたさない以上。それは臨床的にも病気としては扱われることもない。心理臨床というのは、現在の社会において生活に支障がなければ病気としては扱われることはなく。どんなに非人道的な差別デモに参加していても治療の対象にはならない。
こうした社会そのものが「正常」であると言えるだろうか。
ヘイトスピーチに関しては、役所的には法的規制さえ作っておけば全てが解決したことになると思っているのであろうが。そもそも法的規制などの国家権力による抑圧がなければ、自律的には抑止出来ないという頭の悪さ自体は全く触れていないのである。
精神を病んでいる者を治療するというのは、そんなに短期間に簡単に出来るものではないが。だからといって目先の抑圧だけで全てが解決したと思うのは錯覚や妄想の類に過ぎない。
短期的には法的規制も必要であろうが。法的規制というのは対処療法であって根本治療にはなっていないのである。
自律的に社会的責任判断を下さない者が多い社会というのは、負担の多い社会である。それでいいんですか?っつう話ですよ。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
あと、「クラスみんなと仲良くしましょう。」っていうのが嫌。個人の好き嫌いもそれなりに尊重してもらってこそ、他人への想い遣りも働くのであって、強制的に仲良く振る舞えと言われても逆効果にしかならない。
一人の人が許容出来る我慢というものには個体差もあろうが。容量に限界があることそのものには違いはない。仲の良い相手と、あんまり近付きたくない相手があることも許容してもらえないことには、我慢も許容しずらいものである。
苦手なら苦手だと宣言してもらった方が、むしろ強制的に同じクラスに入れられた者同士としては平和に付き合えるのではないかと、私は思う。
だから友人がクラス内に一人もいないとしても、それはそれなりに許容してもらわないと困る。クラス分け自体に生徒の選択が介在しない以上、「みんなと仲良く」を強要されるのは、反って平穏を乱す。
私は一人でいることが気楽で、他人との関わりが苦手な傾向がある。苦手を強要されている方が精神衛生上よろしくない。それが平均的でないとか、多数派に属していないという理由で「異常」扱いされることの方が、むしろ異常だと思う。
「多数で仲良くする」だけなら、ヘイトスピーチをしている集団でも充分である。そんな基準は人間としての正常さの基準には全くならない。
大衆観念的に多数派が安心なだけの錯覚が作り出した妄想に過ぎない。そんなもん要らんわ。
Ende;
これはイジメやヘイトスピーチを行う心理動機でもあり、特定個人や団体を「敵」と見なし悪く言うことで、あたかも自分や自分達が正当化されたような錯覚妄想を得るための暴走である。
これの究極がイスラム国とかオウム真理教などの洗脳であろう。
何せ、元が錯覚妄想に依るものであるため。そこには論理検証的に選択された目的意識というものが存在せず。行き当たり場当たり的に大脳辺縁系が満足するよう、行動バイアスに流されているだけだからだ。
ヒトの多くは、多数派で同じ観念を共有しておけば、気分的に安心であるために。自分達が共有している観念の異常性に対する認識が出来なくなるように出来ている。これはヒトという種の生物における先天的欠陥ということでもある。
イジメや差別を行っている者にとっては、それは気分が良いことであるために問題だという認識が全く働かない。むしろ取り憑かれたように暴走するのはそのためである。
先日のテレビで見た内容に、33人の少年を殺害したジョン:ウェイン:ゲイシーという連続殺人犯の話があって。彼にとっての正義や善とは、「主観的に気分が良い。」ということだった。
こうした話は連続幼女殺人の宮崎勤でも同様であった。
主観的に気分が良くない話を「つまらない」と言い、自分の頭の悪さを棚上げにして「お前はバカだ。」などと規定する。これが狂人の論理である。
イジメやヘイトスピーチを行っている者達にとっては、気分が悪いことを言う奴は「バカ」なのであり、「つまらない」奴なのである。逆に言えば、同調して気分が良くなる話さえしておけば「頭が良い」と勝手に錯覚し、「面白い」と称して満足するのである。
言うなれば、キチガイにとって「頭が良い」という基準自体がむしろキチガイじみているのであり。キチガイ集団にとってはキチガイこそが天才扱いとなるのである。
当たり前の話だが、キチガイには自己論理検証性など働く余地はない。自己論理検証性がないからキチガイという背理も成り立つ。
ヒトの多くは、目先の気分感情を短絡的に「心」だと妄想しているが。その錯覚観念こそが人間としての「心」に対する認識というものを不具にしているのである。
気分感情というものがどこから来るかと言えば、それは大脳辺縁系が促す行動バイアスであるが。大脳辺縁系の構造自体は自己の選択が介在する余地はなく。気分感情そのものは自由意思でも何でもない。
自分の遺伝子を自分で選択することは原理的に不可能である以上、これは反論の余地はない。
そして、脳に刷り込み学習されたあらゆる価値観の全ても。結局は自分では選択していない社会や時代といったものから影響された「結果」でしかなく。これもまた自分の意識的「選択」が介在する余地はない。
ヒトの脳が有限である以上、完全な意識、完全な知能などというものが存在することはないが。逆に言えば、いくら大脳容積が大きくても、自己の意識(論理検証)的選択判断というものが介在しなければ、もはや他者と互換不能な個人としての価値も存在しないのである。
自分の主観的感覚による、気分感情が絶対であると「思って」いる状態こそが、ヒトを傲慢にさせるのであり。何が主観的感覚で、何が客観的論理検証なのかを区別(選択)出来ないからこそ、自己の傲慢さを認識出来ないのである。
イスラム国で暴れている連中も、秋葉原で暴れた通り魔も、「ヒトという種の生物」としては健康であったと言えるであろう。だが、当然ながら人間としては病気である。
ヘイトスピーチで怒鳴り散らしている者達というのは、精神を病んでいるのである。その理由はいくらでも言えるであろう。連続殺人犯のジョン:ウェイン:ゲイシーもまた、幼少期における父親からの虐待が大きな要因であると言えるからだ。だが、要因ではあっても自律責任判断が放棄して良い「理由」根拠にはならない。
厄介なのは、精神を病んでいる者自身には、病気としての自覚が全くないという点である。
ヘイトスピーチに参加していても、「社会的」には生活に支障をきたさない以上。それは臨床的にも病気としては扱われることもない。心理臨床というのは、現在の社会において生活に支障がなければ病気としては扱われることはなく。どんなに非人道的な差別デモに参加していても治療の対象にはならない。
こうした社会そのものが「正常」であると言えるだろうか。
ヘイトスピーチに関しては、役所的には法的規制さえ作っておけば全てが解決したことになると思っているのであろうが。そもそも法的規制などの国家権力による抑圧がなければ、自律的には抑止出来ないという頭の悪さ自体は全く触れていないのである。
精神を病んでいる者を治療するというのは、そんなに短期間に簡単に出来るものではないが。だからといって目先の抑圧だけで全てが解決したと思うのは錯覚や妄想の類に過ぎない。
短期的には法的規制も必要であろうが。法的規制というのは対処療法であって根本治療にはなっていないのである。
自律的に社会的責任判断を下さない者が多い社会というのは、負担の多い社会である。それでいいんですか?っつう話ですよ。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
あと、「クラスみんなと仲良くしましょう。」っていうのが嫌。個人の好き嫌いもそれなりに尊重してもらってこそ、他人への想い遣りも働くのであって、強制的に仲良く振る舞えと言われても逆効果にしかならない。
一人の人が許容出来る我慢というものには個体差もあろうが。容量に限界があることそのものには違いはない。仲の良い相手と、あんまり近付きたくない相手があることも許容してもらえないことには、我慢も許容しずらいものである。
苦手なら苦手だと宣言してもらった方が、むしろ強制的に同じクラスに入れられた者同士としては平和に付き合えるのではないかと、私は思う。
だから友人がクラス内に一人もいないとしても、それはそれなりに許容してもらわないと困る。クラス分け自体に生徒の選択が介在しない以上、「みんなと仲良く」を強要されるのは、反って平穏を乱す。
私は一人でいることが気楽で、他人との関わりが苦手な傾向がある。苦手を強要されている方が精神衛生上よろしくない。それが平均的でないとか、多数派に属していないという理由で「異常」扱いされることの方が、むしろ異常だと思う。
「多数で仲良くする」だけなら、ヘイトスピーチをしている集団でも充分である。そんな基準は人間としての正常さの基準には全くならない。
大衆観念的に多数派が安心なだけの錯覚が作り出した妄想に過ぎない。そんなもん要らんわ。
Ende;