書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○バカバカしい話。

2019年02月03日 22時57分25秒 | 意識論関連
マルクス:ガブリエルは「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分解すれば無くなる」などと言っているが

天文学者や物理学者がそんな話を受け入れるわけがない

哲学というのは本来「科学の帝王」である 天文学や物理学を無視した身勝手な妄想を陳列していたのでは到底哲学とは言えない

物理学的真理を無視した訳のわからぬ妄想を 何の疑いもなく受け入れている「哲学者」と呼ばれている奴らは 本当は何も「考え」てなどいないのである

奇をてらった話で大衆の脳を酔わせ人気取りをすることを哲学だと勘違いしているバカが多過ぎる

だから真理を見失う

真理を必要とするのは それが社会安全性と直結しているからであるが

なぜ 安全性を追求しなければならないのかと言えば それはあらゆるヒトの欲望の最も根幹であるからだ



ヒトには様々な欲望がある

寒い暑いを避けたいとか

静かに眠りたいとか

キレイなおねいちゃんの裸が見たいとか

旨い飯が喰いたいとか

いちいち挙げていたらキリがないのだが これらの目先の欲望を満たす上において「社会が安全である」ことは大前提なのである

安全でない社会では 暑いも寒いも眠たいもヘッタクレもあったもんじゃない

戦争状態なら生きた心地すらしない

毎日のように近所の子供が丸焦げにされていたら 目先の欲望にも何の輝きもなくなるだろう

どんなに豪華な食事も味などわからなくなる

プラモデルに色を塗ることもバカバカしくなるだろう



サルなら そんなことは考えたりしないし 思いもしない

そんなことを「考える」だけの脳の能力が存在しないからである

しかし ヒトの場合はそうはいかない

それは ある意味において不条理である

だがこの不条理性というものは 本質的知能や本質的意識との引き換えに獲得せざるを得ないものでもある

本質的知能があるが故に ヒトは苦しみ絶望する

サルの苦しみというのは 興奮してケツを振れば収まるような簡単なものに過ぎない

マルクス・ガブリエルだのマイケル:サンデルだの養老孟司でも読んで満足しているのと同じことである

そういうのを「バカ」という





大量の既知の情報をひけらかしておいて「俺様は頭が良いんだぞ」的な演出をしておいてから

「世界は存在しない」だの「時間は無限に分解すれば無くなる」などといった 非科学的オカルト観念を結論に持ってくる

こうした手口は養老孟司と良く似ていて 養老の結論も「客観的事実などない」という結論を公然と述べていた

何が一番怖ろしいかと言えば そんなオカルト話を大多数の大衆やマスコミが鵜呑みにして「何かの役に立つのではないか」と勝手に期待して多数人気が出てしまうことである

「世界は存在しない」だとか「客観的事実などない」などといった 科学を逸脱したセンセーショナルな「結論」ほど 大衆の多くは喜び 多数人気を得ることが出来る

もはや「酔っ払いの寝言」レベルの話が 哲学や科学として扱われることの危険性を 多くの大衆やマスコミは認識していないのである



Ende;
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○世界は存在する。

2019年02月03日 10時01分07秒 | 意識論関連
構造主義は構造という結果を述べているに過ぎない

ヒトという種の生物に普遍的に見られる構造を どんなに大量に抽出してきても

それは「ヒトという種の生物の結果」以上の何も論証しない

レヴィ:ストロースは結果と目的を区別出来ておらず 多くの生物学者と同じ間違いをしている

 ◇

時間を無限に分解すると時間は無くなる」 なくならないよ

世界は存在しない」 するよ

「誰も見ていない月は存在しない」的な話ってやたらと哲学者達が言いたがるんだけど それじゃ地球上の誰も月を見なかったら月の重力の影響も無くなるとでも言うのかしら

こういう訳のわからない話の方が大衆の脳は気分が良くなるのかもね それ洗脳だけどな

「哲学者の中で人気がある」っていうのは 言い換えれば「哲学者の多数決」に過ぎず 亀山郁夫による「ドスト:エフスキーの読書感想文」を哲学的に意味のあるものだと勘違いして誰も無意味さを提示しなかったバカ哲学者達の多数決なんぞ今更信用に値しないだろ

しょうもない

 ◇

自己とは他者との関係性の中にある」 この話を根拠に「自意識」という言葉があるんだけど 他者との関係性の中にしか自己がないなら東京電力社内に於ける「原発の津波に対する脆弱性放置」も致し方ないの一言で片付けられちまうぞ

そういうバカみたいな話をどうして鵜呑みに出来るのか意味がわからない

環境(他者)に左右されない個人の自律こそに人間性や倫理が存在するのであって 「自己とは他者との関係性の中にしか存在しない」ことの論証にはならない

大衆の多くは「他人からの見た目」「外見」に意識を奪われがちだが 奪われている時点でそれは無意識であって どんなに強く外見に囚われたとしても それは意識の本質であることの論証には全くならない

 ◇

文化産業は否応なく形式に則った画一的価値観を作りあげた」 いや 画一的価値観というのは未開の民にもあるので 文化産業に特有のものではなく ヒトという種の生物に普遍的に見られる

 ◇

全体を見渡す神の視点など期待できない」 いや もちろん有限の脳しか持たないヒトに全知全能など期待できないことは確かなのだが より多くを知り より多くを考えようとする試み自体に意味がない論証には全くならない

思考の手抜きをするための言い逃れに利用されかねない話は危険性が高い

「出来そうにないことは やらない方が良い」的に手抜きや思考停止を促されて満足するのが哲学じゃないぞ

何を勘違いしてんだろうな

意味がわからない

 ◇

ヒトの多くは目先の欲望を満たすことを自由だと 意思や意識だと錯覚している

より広い意識 視点に基づいた 統合的欲求なくして 倫理も人間性もヘッタクレもない



 ◇追記:

マルクス・ガブリエルっていうドイツの哲学者がおるんだが

言っている内容が「感じる」という主観ばっかりで

客観性を持った論理的根拠のない決め付けばっかり並べている

「理性が重要」とか言いながら 言っている内容の多くに論理的根拠が伴っておらず

言っている内容に論理的整合性がないなら哲学者としてはポンコツだろ

何でこう論理整合性のない話を哲学だと勘違いするのか

その頭の悪さが問題解決の糸口を見失う最大の原因



Ende;
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