「自分を含めたヒトという種の生物が先天的に欠陥品であるならば もはやあらゆる努力は無駄である」
↑このような軽薄な決めつけというのは あくまで気分(先天的バイアス)が促す思考停止であり 何ら論理的根拠を持たない逃避によるその場限りの満足安心を求めた結果である
絶望するからこそ人間でもあるのだが キェルケゴールはこうした軽薄な絶望を罪であると論じた
絶望とは所詮気分的なものであり 真理探求の不可能性が論理的に証明された訳では一切ないからである
ヒトはすぐに思考停止して諦めようとする
深く物事を考えるのが面倒臭いので 考えないよう言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかし開き直りをすることで論理的真理探求を放棄する先天的習性があるからだ
哲学者と呼ばれる研究者の多くは 単に過去の論説を引用して「誰それは こう述べた」と知識をひけらかしてその場限りに煙に巻いているだけで その内容に合理性のある弁証法的証明が存在するかどうかなど誰一人として一切検証していない
だからこそフランシス:ゴルトンの優生学が130年以上にもわたり傍観放置されてきたのである
怠慢にも程がある
社会的に肝心な検証は一切せず 亀山郁夫による「ドスト:エフスキーの読書感想文」を あたかも哲学的に意味があるかのように珍重していたのが現在の哲学界の現実である
カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにしていたのも同様である 論理整合性のない話でありながら あたかも動物的「情動」の方にこそ人間性が存在するかのように解釈出来るため バカな衆愚は純粋理性批判を簡単に鵜呑みにするのである
理性を悪者にしておけば 論理的に真理を探求することを放棄しても良いと錯覚し 何も考えなくても済むと勝手に解釈出来るからであろう
自律的に論理検証することを放棄して 先天的に組み込まれた感情のままに行動してさえおけば自動的に常に正しい結果が得られるはずだという妄想に囚われていれば 何も考えず 何も悩まず 何も絶望せずに済むのである
その妄想が促す錯覚こそが ヒト(人類)を愚かにせしめている最大の原因である
その上今度はマルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」などというオカルト観念を鵜呑みにする始末である
頭が悪いにも程がある
◇
主観的に「死にたくない」ことを多数抽出してきても それは科学的普遍性の論証にはならない
科学というのはバカの多数決で決定されるものではないからである
生存というのは結果であって どんなに「死にたくない」と強く思ったところで死なない奴はいないし そもそも永遠に生きながらえたところで 「で?」っていう話である
「死にたくないから 生きていたい」というだけであれば これは先天的な本能習性に受動的無意識に流されているだけであり 何ら自発的主体性などないではないか
それとも何か? 長生きを他人と競争するために生きているだけなのか?
それなら先天的疾患などで20歳にもなれない内に寿命を迎えてしまう人は「負け犬」だとでも言うのであろうか?
もはや それは「キチガイの勝利」「犬の価値観」であろう
その競争に「勝った」ところで 社会安全性という最も基礎となる価値には全く結びつかないのである
そればかりか むしろ格差や差別を助長してしまい 人間性の喪失にしか結びつかない
バカ同士の多数決に同調しておけば バカは満足なのである
満足慢心は思考停止を促し バカは益々バカに陥るのである
バカの臨界(暴走)状態
その炉心に私は一人バケツで水を汲み上げている気分である
最近は教育に「自律」が重要視されてきた点においては光明はあるが 哲学界や生物学界は相変わらずバカが権威を振るっている状態にあまり変化が見られない
それでも「絶望は罪である」とキェルケゴールにケツを叩かれているので 諦めることはしないつもりである
Ende;
↑このような軽薄な決めつけというのは あくまで気分(先天的バイアス)が促す思考停止であり 何ら論理的根拠を持たない逃避によるその場限りの満足安心を求めた結果である
絶望するからこそ人間でもあるのだが キェルケゴールはこうした軽薄な絶望を罪であると論じた
絶望とは所詮気分的なものであり 真理探求の不可能性が論理的に証明された訳では一切ないからである
ヒトはすぐに思考停止して諦めようとする
深く物事を考えるのが面倒臭いので 考えないよう言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかし開き直りをすることで論理的真理探求を放棄する先天的習性があるからだ
哲学者と呼ばれる研究者の多くは 単に過去の論説を引用して「誰それは こう述べた」と知識をひけらかしてその場限りに煙に巻いているだけで その内容に合理性のある弁証法的証明が存在するかどうかなど誰一人として一切検証していない
だからこそフランシス:ゴルトンの優生学が130年以上にもわたり傍観放置されてきたのである
怠慢にも程がある
社会的に肝心な検証は一切せず 亀山郁夫による「ドスト:エフスキーの読書感想文」を あたかも哲学的に意味があるかのように珍重していたのが現在の哲学界の現実である
カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにしていたのも同様である 論理整合性のない話でありながら あたかも動物的「情動」の方にこそ人間性が存在するかのように解釈出来るため バカな衆愚は純粋理性批判を簡単に鵜呑みにするのである
理性を悪者にしておけば 論理的に真理を探求することを放棄しても良いと錯覚し 何も考えなくても済むと勝手に解釈出来るからであろう
自律的に論理検証することを放棄して 先天的に組み込まれた感情のままに行動してさえおけば自動的に常に正しい結果が得られるはずだという妄想に囚われていれば 何も考えず 何も悩まず 何も絶望せずに済むのである
その妄想が促す錯覚こそが ヒト(人類)を愚かにせしめている最大の原因である
その上今度はマルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」などというオカルト観念を鵜呑みにする始末である
頭が悪いにも程がある
◇
主観的に「死にたくない」ことを多数抽出してきても それは科学的普遍性の論証にはならない
科学というのはバカの多数決で決定されるものではないからである
生存というのは結果であって どんなに「死にたくない」と強く思ったところで死なない奴はいないし そもそも永遠に生きながらえたところで 「で?」っていう話である
「死にたくないから 生きていたい」というだけであれば これは先天的な本能習性に受動的無意識に流されているだけであり 何ら自発的主体性などないではないか
それとも何か? 長生きを他人と競争するために生きているだけなのか?
それなら先天的疾患などで20歳にもなれない内に寿命を迎えてしまう人は「負け犬」だとでも言うのであろうか?
もはや それは「キチガイの勝利」「犬の価値観」であろう
その競争に「勝った」ところで 社会安全性という最も基礎となる価値には全く結びつかないのである
そればかりか むしろ格差や差別を助長してしまい 人間性の喪失にしか結びつかない
バカ同士の多数決に同調しておけば バカは満足なのである
満足慢心は思考停止を促し バカは益々バカに陥るのである
バカの臨界(暴走)状態
その炉心に私は一人バケツで水を汲み上げている気分である
最近は教育に「自律」が重要視されてきた点においては光明はあるが 哲学界や生物学界は相変わらずバカが権威を振るっている状態にあまり変化が見られない
それでも「絶望は罪である」とキェルケゴールにケツを叩かれているので 諦めることはしないつもりである
Ende;