ホセ・オルテガ・イ・ガセット(以下「オルテガ」)というスペインの哲学者は 野蛮な大衆による超民主主義(バカの多数決主義)を批判したが
彼はバカ主義がなぜ暴走するのかを正確に分析できていなかった
オルテガの言い回しを用いると「衆愚はパンを求めてパン屋を破壊する」という合理性のない野蛮行為を批判しているわけだが
残念ながらオルテガは「大衆の愚かさは型や形式を持たないことが原因である」と結論づけており この分析が間違っているのである
衆愚がパン屋を破壊するのは 破壊することが先天的(動物的)に快楽であるという欠陥に由来するものであり 型や形式とは関係がない
型や形式に則(のっと)りさえすれば破壊にはつながらないというものではない
衆愚が衆愚足りうるのは 衆愚というものが先天的な自己の野蛮性を自覚していないが故であり
ヒトの野蛮性 自己の野蛮性をなぜ自覚出来ない原因とは 先天的行動バイアスが促す感情の強度程度を短絡的に意識の本質や自由意思だと勘違いしているためである
◇
先天的行動バイアスとは祖先が生存にとって結果的に有利だった行動として遺伝的に残された性質に過ぎず 先天的行動バイアス自体には目的がなく あくまでその行動が快楽として組み込まれているだけなのである
先天的行動バイアスが促す感情のままに行動するからこそ 合理性のない野蛮な動物的行動に陥るのであって 目先の感情を自己の意識や自由意思だと錯覚していることが根源的間違いなのである
先天的行動バイアスというのは 自己自身では選択不可能である なぜならば祖先が死ななかったという「結果」以上の意味がなく 意識的に合理性に基づいて能動的に選択したものでは一切ない
つまり 先天的行動習性バイアスが促す情動行動というものは ヒトという種の生物に限らずあらゆる動物にも存在する「低次の意識」であって 人間としての合理性のある目的行動選択としての本質的意識ではない
◇
オルテガの時代には 科学技術が大衆の野蛮行為に大量に利用されていたため オルテガは科学者を批判していたが 科学技術というのは道具であって 野蛮行為に利用されたことが問題なのであって 道具自体には罪はない
現状においては養老孟司だのマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのといった非科学的オカルトを信じ込んで浮かれている無責任性こそが罪なのである
「極悪人(罪人)なら死刑だな」などという短絡的発想は幼稚である 罪は自覚し改めることが必要なのであって 死刑などの懲罰を唯一絶対的解決策だと信じ込んでいる短絡性こそが大衆的な野蛮性の一つなのである
大衆が「パン屋を破壊」したがるのは 懲罰を用いた他者への暴力的抑圧こそを唯一絶対の「解決」策だと勘違いしているからである
ヒトという種の生物(衆愚)は 合理的根拠に基づいた目的行動選択を論理的に検証するよりも 目先の気分的安心満足を優先するという動物的(先天的)行動習性が優先してしまう
なによりおぞましいのは 先天的行動習性が促す快楽を事後正当化して あたかも「自分だけは先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという非科学的オカルト妄想で満足してしまうことである
だからこそ生物学や社会心理学による「先天的人間性の立証」的なもの(実際には原理的に不可能なこじつけでしかない)を何の論理検証もせず「素晴らしい」などという主観的快楽だけで鵜呑みにして満足してしまうのである
◇追記:
オルテガは大衆が同質性を求めることで差別排除が助長されることを指摘したが
養老孟司は「安心して同じを求めれば良い。」と真逆のことを述べることで大衆人気を得た その論拠は「皆さん同じを求めるでしょ」という統計的多数である
バカを多数抽出してきたからといって 「ヒトはバカが治らない」ことの論証にはならないのに 養老などのペテン師達は「多数派に迎合しておけば安心だ」という大衆への迎合によって人気を得たのである
さらに 養老は同質性を求めることを正当化する(理論的には全く出来ていないが)ことで 個性というものを否定した
これを詐欺ペテンと言わずに何と言うのであろうか
自律とは自発性の中にあり 自発性とは個性と同義でもある
養老は「(精神病患者が)自分の糞で壁に自分の名前を書く」ことを「個性」だと述べたが
それを言うなら相模原障害者施設やまゆり園虐殺を行った植松聖の行動も「個性」ということになる
植松による虐殺行為は「個性」かと言えば 虐殺なんてのは歴史書をひもとけば山ほど出てくる「よくある話」であり 何ら画期的でもなければ先進的でもなく 全然「個性」とは言えない行為である
糞で壁に名前を書く精神病患者の行動はわからないが 植松の行動には評価承認欲求中毒の徴候がかなり明確に見られる
◇
ヒトが同質性を求めるのは 先天的な社会形成習性に起因するものであり より大きな規模の集団組織に同調迎合することが 気分的に安心だからである
その気分的安心を過剰に求めることで 誰も求めていない「評価」欲しさに暴力的破壊行為に暴走するようになるのである
ここで話に矛盾点が出てくる 他人からの評価が欲しいにも関わらず なぜ「誰も求めていない」ことを行うのか
それは 評価承認欲求患者には主観的感情と客観的合理性判断の区別がつかないからである
主観的に「カッコイイ」と思ったものこそが「多数派も同じように求めているものだ」という身勝手な決め付け(思い込み)に直結しており 自己客観性が全く働かないため 他人に多大な迷惑行為をかけるようになるのである
平たく言えば考えが浅く 幼稚なのである
衆愚が同質性を求めながらも「パン屋を破壊する」のはそのためである
目先の欲望だけで行動が決定してしまい 普遍的価値に基づいた合理的行動選択が出来ないためである
◇
オルテガは大衆が型や形式といった手順手続きを踏襲しないことが原因だと分析したが 法的手続きを踏んだところで刑法懲罰の不毛性が解消するわけではない
型や形式 つまり 機械的手続きを踏めば外見上は理性的には見えるのだが 「見える」ことが錯覚ではない前提の話である
司法裁判や宗教というのは形式に異常にこだわるが それは何も論理的に検証することのない大衆の気分的安心感を与えるためのものであって 警官が警官の制服を着ることで拳銃を持っていても不安に陥らないようにするための「形式」に過ぎない
ヒトの多くは一見そう「見える」ことを短絡的に鵜呑みにしがちだが その短絡性こそが真理を見失う大きな要因となる
武力を用いた「安全保障」が 結局は軍拡競争によって安全性を損なうジレンマを持っているのは そもそも武力こそが安全保障だという気分的安心感が作り出した幻想に過ぎないのである
自国の軍隊や自衛隊が強固になれば 自国民は安心感を得られるだろうが それは相手国からすれば脅威にしかならない
日本は米国の「核の傘」を安全保障だと勘違いしているが 北朝鮮の核兵器は全然アジア地域の安全保障にはならないのであり 北朝鮮政府からすれば米国の核兵器は脅威でしかないからこそ核武装に邁進することになるのである
植松聖を死刑にしておけば気分的には安心かも知れないが 植松のようなトンチンカンな狂人が 一体どのようにして出来上がるのかというメカニズム構造を論理的に解明しておかなければ 似たような虐殺事件に対する合理的な再発防止策にはならないのである
◇追記2:
オルテガは 「大衆はパンを求めてパン屋を破壊する」と述べたが
梅沢富美男が相模原障害者施設やまゆり園虐殺犯の植松聖について「こんな奴は死刑にしちまえ」と述べたことに大衆人気が得られたこととの類似点に気付かないだろうか?
死刑という司法裁判で どんなに複雑な手続き(型、形式)を踏んだところで 所詮は大衆の気分的満足感を与えるばかりで 具体性のある合理的防止策にならないことからも 型や形式に人間性や倫理があるわけではない
たとえどんなに複雑怪奇な手続き形式を採ったところで 「パン屋を破壊」しても問題の解決にはならないのである
「パン屋のパンがまずかった」ことと「虐殺事件の犯人」は同じではないが 「多数派で同調して怒りに任せた懲罰感情の正当化」という点では酷似しているのである
◇
大衆は暴力的懲罰さえ与えれば その場限りに満足する
それが具体的に再発防止対策につながらなくても である
具体的な再発防止策につながらないということは つまり「社会安全性など知ったことではない」と言っているのと同じであり 非常に無責任な判断なのであるが 多数で同調している気分的満足感がそれを見えなくさせているのである
SNS上での「私刑」やヘイトスピーチの蔓延も その場限りに罰しておけば満足感が得られるという ヒトの先天的習性が促す無意識行動なのである
誰かを寄ってたかって叩いておけば「自分が正義を貫いた」という満足感が得られるため ヒトは集団組織的に個人や少数派を攻撃したがる
こうした先天的習性は 極めて動物的な野蛮性であり 大衆の愚かさの源でもある
従って オルテガの分析が間違っているために 具体的にポピュリズムに対する対策につながらないのである
どんなに複雑な手続き形式を採ったとしても やっていることが「主観的感情の多数決」である限り 手続き上民主主義制度を導入していても「バカ主義」にしか陥らないのである
そもそも民主主義制度自体が型や形式ではないか
倫理や人間性というものは 決して制度的な手続き形式で得られるようなものではなく あくまで個人の自律的な社会的責任判断選択の多数決によってこそ成立するものなのである
◇追記3
オルテガの言う型や形式とは「丁寧なマナーや作法」であり 政治的「根回し」や 大衆への「ご機嫌取り」も含むことになる
根回しやご機嫌取りというのは ヒトの先天的習性に則った手続きに過ぎず イヌが相手のケツの匂いを嗅ぐようなものに過ぎない
丁寧に挨拶さえしておけば人間性が保証されるわけではなく むしろ連続殺人犯の多くは形式に過ぎない挨拶はキチンと出来るからこそ 誰からも疑われることなく連続殺人が可能となるのである
それこそ「マナー産業」のでっちあげたデマの如く「形式や形こそが人間性である」と見なすものであり 到底人間性や倫理の論証にはならず こんなものを真理だと言うのはとんでもない大間違いである
マナー産業による「ご苦労様と言うのは上から目線だ」などというデマをでっちあげることも簡単であり むしろ多数派同調を促しヒトの大衆性を増長させることにもなる危険なものである
大衆が大衆足りうるのは マナーや作法の欠如ではなく むしろマナーや作法などの型や形式を鵜呑みにしてしまう非合理性であり 自律的な論理検証性が欠けているために 大衆は合理性のない暴走破綻へと陥るのである
◇
大衆がなぜ多数派と同調し迎合することが 単なる安心だけではなく「気持ち良い」快楽を感じるのは ヒトという種の生物には先天的本能習性として多数派同調バイアスが組み込まれてしまっているからである
オルテガに限らず ヒトというのは型や形式という外見に簡単に惑わされる性質があり これが原因でヒト(大衆)は真理を見失い デマに惑わされて暴走破綻に陥るのである
「ヒトは見た目が9割」と言われ 電話口で丁寧な口調で語られると簡単に善人だと思い込むため 特殊詐欺の類いが全く減らないのである
オルテガは専門分野以外に何の興味関心を持たない専門家も「大衆」であると分類したが 倫理や人間性の何たるかに全く興味のない生物学者や哲学者達による非科学的オカルト観念ほど無知な大衆から人気を得ているのは 洗脳や扇動以外の何物でもない
振り込め詐欺にカモられる前から 生物学者や哲学者達に大衆の多くは既にカモられていることに気付くべきである
Ende;
彼はバカ主義がなぜ暴走するのかを正確に分析できていなかった
オルテガの言い回しを用いると「衆愚はパンを求めてパン屋を破壊する」という合理性のない野蛮行為を批判しているわけだが
残念ながらオルテガは「大衆の愚かさは型や形式を持たないことが原因である」と結論づけており この分析が間違っているのである
衆愚がパン屋を破壊するのは 破壊することが先天的(動物的)に快楽であるという欠陥に由来するものであり 型や形式とは関係がない
型や形式に則(のっと)りさえすれば破壊にはつながらないというものではない
衆愚が衆愚足りうるのは 衆愚というものが先天的な自己の野蛮性を自覚していないが故であり
ヒトの野蛮性 自己の野蛮性をなぜ自覚出来ない原因とは 先天的行動バイアスが促す感情の強度程度を短絡的に意識の本質や自由意思だと勘違いしているためである
◇
先天的行動バイアスとは祖先が生存にとって結果的に有利だった行動として遺伝的に残された性質に過ぎず 先天的行動バイアス自体には目的がなく あくまでその行動が快楽として組み込まれているだけなのである
先天的行動バイアスが促す感情のままに行動するからこそ 合理性のない野蛮な動物的行動に陥るのであって 目先の感情を自己の意識や自由意思だと錯覚していることが根源的間違いなのである
先天的行動バイアスというのは 自己自身では選択不可能である なぜならば祖先が死ななかったという「結果」以上の意味がなく 意識的に合理性に基づいて能動的に選択したものでは一切ない
つまり 先天的行動習性バイアスが促す情動行動というものは ヒトという種の生物に限らずあらゆる動物にも存在する「低次の意識」であって 人間としての合理性のある目的行動選択としての本質的意識ではない
◇
オルテガの時代には 科学技術が大衆の野蛮行為に大量に利用されていたため オルテガは科学者を批判していたが 科学技術というのは道具であって 野蛮行為に利用されたことが問題なのであって 道具自体には罪はない
現状においては養老孟司だのマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのといった非科学的オカルトを信じ込んで浮かれている無責任性こそが罪なのである
「極悪人(罪人)なら死刑だな」などという短絡的発想は幼稚である 罪は自覚し改めることが必要なのであって 死刑などの懲罰を唯一絶対的解決策だと信じ込んでいる短絡性こそが大衆的な野蛮性の一つなのである
大衆が「パン屋を破壊」したがるのは 懲罰を用いた他者への暴力的抑圧こそを唯一絶対の「解決」策だと勘違いしているからである
ヒトという種の生物(衆愚)は 合理的根拠に基づいた目的行動選択を論理的に検証するよりも 目先の気分的安心満足を優先するという動物的(先天的)行動習性が優先してしまう
なによりおぞましいのは 先天的行動習性が促す快楽を事後正当化して あたかも「自分だけは先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという非科学的オカルト妄想で満足してしまうことである
だからこそ生物学や社会心理学による「先天的人間性の立証」的なもの(実際には原理的に不可能なこじつけでしかない)を何の論理検証もせず「素晴らしい」などという主観的快楽だけで鵜呑みにして満足してしまうのである
◇追記:
オルテガは大衆が同質性を求めることで差別排除が助長されることを指摘したが
養老孟司は「安心して同じを求めれば良い。」と真逆のことを述べることで大衆人気を得た その論拠は「皆さん同じを求めるでしょ」という統計的多数である
バカを多数抽出してきたからといって 「ヒトはバカが治らない」ことの論証にはならないのに 養老などのペテン師達は「多数派に迎合しておけば安心だ」という大衆への迎合によって人気を得たのである
さらに 養老は同質性を求めることを正当化する(理論的には全く出来ていないが)ことで 個性というものを否定した
これを詐欺ペテンと言わずに何と言うのであろうか
自律とは自発性の中にあり 自発性とは個性と同義でもある
養老は「(精神病患者が)自分の糞で壁に自分の名前を書く」ことを「個性」だと述べたが
それを言うなら相模原障害者施設やまゆり園虐殺を行った植松聖の行動も「個性」ということになる
植松による虐殺行為は「個性」かと言えば 虐殺なんてのは歴史書をひもとけば山ほど出てくる「よくある話」であり 何ら画期的でもなければ先進的でもなく 全然「個性」とは言えない行為である
糞で壁に名前を書く精神病患者の行動はわからないが 植松の行動には評価承認欲求中毒の徴候がかなり明確に見られる
◇
ヒトが同質性を求めるのは 先天的な社会形成習性に起因するものであり より大きな規模の集団組織に同調迎合することが 気分的に安心だからである
その気分的安心を過剰に求めることで 誰も求めていない「評価」欲しさに暴力的破壊行為に暴走するようになるのである
ここで話に矛盾点が出てくる 他人からの評価が欲しいにも関わらず なぜ「誰も求めていない」ことを行うのか
それは 評価承認欲求患者には主観的感情と客観的合理性判断の区別がつかないからである
主観的に「カッコイイ」と思ったものこそが「多数派も同じように求めているものだ」という身勝手な決め付け(思い込み)に直結しており 自己客観性が全く働かないため 他人に多大な迷惑行為をかけるようになるのである
平たく言えば考えが浅く 幼稚なのである
衆愚が同質性を求めながらも「パン屋を破壊する」のはそのためである
目先の欲望だけで行動が決定してしまい 普遍的価値に基づいた合理的行動選択が出来ないためである
◇
オルテガは大衆が型や形式といった手順手続きを踏襲しないことが原因だと分析したが 法的手続きを踏んだところで刑法懲罰の不毛性が解消するわけではない
型や形式 つまり 機械的手続きを踏めば外見上は理性的には見えるのだが 「見える」ことが錯覚ではない前提の話である
司法裁判や宗教というのは形式に異常にこだわるが それは何も論理的に検証することのない大衆の気分的安心感を与えるためのものであって 警官が警官の制服を着ることで拳銃を持っていても不安に陥らないようにするための「形式」に過ぎない
ヒトの多くは一見そう「見える」ことを短絡的に鵜呑みにしがちだが その短絡性こそが真理を見失う大きな要因となる
武力を用いた「安全保障」が 結局は軍拡競争によって安全性を損なうジレンマを持っているのは そもそも武力こそが安全保障だという気分的安心感が作り出した幻想に過ぎないのである
自国の軍隊や自衛隊が強固になれば 自国民は安心感を得られるだろうが それは相手国からすれば脅威にしかならない
日本は米国の「核の傘」を安全保障だと勘違いしているが 北朝鮮の核兵器は全然アジア地域の安全保障にはならないのであり 北朝鮮政府からすれば米国の核兵器は脅威でしかないからこそ核武装に邁進することになるのである
植松聖を死刑にしておけば気分的には安心かも知れないが 植松のようなトンチンカンな狂人が 一体どのようにして出来上がるのかというメカニズム構造を論理的に解明しておかなければ 似たような虐殺事件に対する合理的な再発防止策にはならないのである
◇追記2:
オルテガは 「大衆はパンを求めてパン屋を破壊する」と述べたが
梅沢富美男が相模原障害者施設やまゆり園虐殺犯の植松聖について「こんな奴は死刑にしちまえ」と述べたことに大衆人気が得られたこととの類似点に気付かないだろうか?
死刑という司法裁判で どんなに複雑な手続き(型、形式)を踏んだところで 所詮は大衆の気分的満足感を与えるばかりで 具体性のある合理的防止策にならないことからも 型や形式に人間性や倫理があるわけではない
たとえどんなに複雑怪奇な手続き形式を採ったところで 「パン屋を破壊」しても問題の解決にはならないのである
「パン屋のパンがまずかった」ことと「虐殺事件の犯人」は同じではないが 「多数派で同調して怒りに任せた懲罰感情の正当化」という点では酷似しているのである
◇
大衆は暴力的懲罰さえ与えれば その場限りに満足する
それが具体的に再発防止対策につながらなくても である
具体的な再発防止策につながらないということは つまり「社会安全性など知ったことではない」と言っているのと同じであり 非常に無責任な判断なのであるが 多数で同調している気分的満足感がそれを見えなくさせているのである
SNS上での「私刑」やヘイトスピーチの蔓延も その場限りに罰しておけば満足感が得られるという ヒトの先天的習性が促す無意識行動なのである
誰かを寄ってたかって叩いておけば「自分が正義を貫いた」という満足感が得られるため ヒトは集団組織的に個人や少数派を攻撃したがる
こうした先天的習性は 極めて動物的な野蛮性であり 大衆の愚かさの源でもある
従って オルテガの分析が間違っているために 具体的にポピュリズムに対する対策につながらないのである
どんなに複雑な手続き形式を採ったとしても やっていることが「主観的感情の多数決」である限り 手続き上民主主義制度を導入していても「バカ主義」にしか陥らないのである
そもそも民主主義制度自体が型や形式ではないか
倫理や人間性というものは 決して制度的な手続き形式で得られるようなものではなく あくまで個人の自律的な社会的責任判断選択の多数決によってこそ成立するものなのである
◇追記3
オルテガの言う型や形式とは「丁寧なマナーや作法」であり 政治的「根回し」や 大衆への「ご機嫌取り」も含むことになる
根回しやご機嫌取りというのは ヒトの先天的習性に則った手続きに過ぎず イヌが相手のケツの匂いを嗅ぐようなものに過ぎない
丁寧に挨拶さえしておけば人間性が保証されるわけではなく むしろ連続殺人犯の多くは形式に過ぎない挨拶はキチンと出来るからこそ 誰からも疑われることなく連続殺人が可能となるのである
それこそ「マナー産業」のでっちあげたデマの如く「形式や形こそが人間性である」と見なすものであり 到底人間性や倫理の論証にはならず こんなものを真理だと言うのはとんでもない大間違いである
マナー産業による「ご苦労様と言うのは上から目線だ」などというデマをでっちあげることも簡単であり むしろ多数派同調を促しヒトの大衆性を増長させることにもなる危険なものである
大衆が大衆足りうるのは マナーや作法の欠如ではなく むしろマナーや作法などの型や形式を鵜呑みにしてしまう非合理性であり 自律的な論理検証性が欠けているために 大衆は合理性のない暴走破綻へと陥るのである
◇
大衆がなぜ多数派と同調し迎合することが 単なる安心だけではなく「気持ち良い」快楽を感じるのは ヒトという種の生物には先天的本能習性として多数派同調バイアスが組み込まれてしまっているからである
オルテガに限らず ヒトというのは型や形式という外見に簡単に惑わされる性質があり これが原因でヒト(大衆)は真理を見失い デマに惑わされて暴走破綻に陥るのである
「ヒトは見た目が9割」と言われ 電話口で丁寧な口調で語られると簡単に善人だと思い込むため 特殊詐欺の類いが全く減らないのである
オルテガは専門分野以外に何の興味関心を持たない専門家も「大衆」であると分類したが 倫理や人間性の何たるかに全く興味のない生物学者や哲学者達による非科学的オカルト観念ほど無知な大衆から人気を得ているのは 洗脳や扇動以外の何物でもない
振り込め詐欺にカモられる前から 生物学者や哲学者達に大衆の多くは既にカモられていることに気付くべきである
Ende;