書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

選択不可能性

2021年12月03日 22時48分44秒 | 意識論関連

自分以外の大多数と同じでないと不安になる

ヒトとは そういうものである

その不安には 実は根拠がない

同じヒトなんて本当はいないので 同じである必要性は何もない

「隣の芝生は蒼く見える」ものであり 他人は幸福そうに見えるものなのである

自分は幸福か?

原発事故帰還困難区域の酪農家と比べて自分は幸福なのか

家も息子も漁船も全て津波に流され たった一人で残された年老いた母親と比べて自分の方が不幸なのか

一族全員虐殺され 乳飲み子の妹を連れて逃げてきたロヒンギャの難民の娘と比べて 自分は恵まれていないのか

ナチス政権に反対してスイス山中で自決を余儀なくされた哲学者程の絶望が 本当に自分にはあるのか

 

ヒトは多数で同じ観念を共有しておけば安心する先天的習性がある

イジメというのは特定の標的を協調的に攻撃することで仲間意識を満足させられ 嗜虐性も満足させることができるので「楽しい」のである

多数で一人を攻撃することは卑劣であり とても悪趣味で非人道的な享楽だが 仲間同士で同じ観念を共有しておけば安心して楽しむことができる

その一時的な満足感のためにイジメは実行される

だが 残念ながら イジメというのは誰を標的にしても「楽しい」ので イジメ集団から仲間外れにされると自分が標的にされかねないので 誰彼構わずとにかくイジメ続けていなければならない

イジメ集団の内部には相互信頼関係など本当はなく その場限りの虚構の仲間意識を満足させることだけが「目的」となる

自分が被害者にならない最も簡単安易な方法は 自分が加害者に回ることである

自分から率先して酷いイジメをする者こそが 仲間内での高い順位序列を得られる競争が始まる

歯止めは効かない

誰も止めてはくれない

誰もが自分の生活で手一杯で 他人の行動のいちいちを全て把握することなど到底不可能である

児童相談所の職員も人員は限られている

優先順位が高いのは 乳幼児の虐待であって 学生のイジメの優先順位は決して高くはない

イジメをしている者というのは 暇なのである

本当に自分がやりたいことがわからないため 虚しい暇を仲間同士で悪趣味な享楽に溺れ それ以外の選択肢が何もないのだ

選ぶことができないという地獄

純粋に個人的な楽しみなんぞを持てば 仲間内からバカにされ イジメの標的にされるだけである

相互に仲間の個人的な楽しみをバカにされるので 誰も純粋に楽しめることを選べなくなる

そもそもイジメをするような者というのは 親から主体的選択を一切させてもらえない不満を 自分以外の他人にも八つ当たりする形でストレスを解消しようとしているのである

親本人には逆らえない

家庭内ヒエラルキーを受け入れている現実を 学級内でもヒエラルキーをでっち上げておくことで 自分だけが不理不尽な封建的独裁に服従している事実が正当化できると思っているのである

自分が抑圧されていることを正当化するために 他人を抑圧する快楽で補おうとしているのである

他人をイジメて抑圧しておけば 自分の方が優位に立ったような感覚が得られるが イジメをしているような奴のことを尊敬できるわけもなく 結局自己自身は肯定感が削がれるばかりである

親ガチャに大ハズレしている以上 イジメ以外には何の楽しみも感じられないので 逃げ場がないのである

「逃げられない」のはイジメられている被害者ではなく 本当は加害者の方である

自分が逃げ場所がないことを 他人に八つ当たりする形で「逃げたつもり」になっている

世の中には 本当はいろいろな楽しみがあるのだが 他人との比較競争でしか物事の価値を「感じ」られない者にとっては 他人の楽しみを奪うこと以外には何も「選ぶ」ことはできなくなっているのである

それはとても虚しい人生である

その虚しさを直視しないためには 他人を貶め続けることだけしか選択することができない地獄

自己肯定感の低い者が暴力的なイジメや差別に邁進するのは それ以外に何も選べないからである

大多数の衆愚の価値観を鵜呑みにし 他人との比較による優位性以外には何も感じられない虚しい人生を 自分ではどうすることもできない憐れな者が 他人を攻撃して 他人を従わせれば「自由」だと思っている

他人をどんなに暴力で服従させても 「他人を暴力で服従させている自分」以外は何も選べない

選択不可能とは 「自由ではない」という意味である

選べないものに自由はない

当たり前の話である

 

 

Ende;

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青門の頭に草

2021年12月03日 15時12分48秒 | 日記

岩淵水門(青門)の上に草生えてるように見える

放置しとくと建物に悪影響を及ぼさないかと心配している

#心配性

 

Ende;

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嫌な相手とどう付き合うか

2021年12月03日 12時39分47秒 | 意識論関連

「嫌い」とか「ウザい」なんていうのは個人的な主観や印象に過ぎないので 基準としてあやふやで普遍性に欠ける

「攻撃的」というのも主観が介在し 社会的に無責任な奴を攻撃的に批判しているからといって人格に問題があるわけではない

糞DQNの主観からすれば 正しいことを主張してくる相手は「嫌い」で「ウザい」奴ということになる

カルト宗教の信者なら 「お前さんが信じ込んでいる教祖は頭がおかしいぞ」と言ってくる相手は「嫌い」で「ウザい」奴という話になる

振り込め詐欺師に騙されてコンビニでプリペイドカードを大量に買おうとしているボケジジイに「騙されていませんか?」などと言えば ボケジジイは「そんなことはない!」と怒り出すものである

主観的な感覚や印象を基準にするから自己客観性が失われるのであって 重要なのは論理的根拠が伴う真実なのかどうかを判別する能力の方である

NHKの番組制作者達は生物学における遺伝的進化に対する誤謬に耳を貸さずに「○○を目的として進化を選択した」といった非科学的オカルト観念に基づいた「説明」を一切やめようとしないが これもまたNHK番組制作者達が「学術権威の多数決」を「科学的真理」だと主観的に「思って」いるからである

厄介なことに 学力偏差値が高い奴というのは 「自分は他の奴よりも頭が良い」と勝手に勘違いしているフシがあり 自分が学校で教わったことには一切の間違いなど存在しないはずだという盲目性を発揮しているために 都合の悪い気分の悪くなる話を平気で無視するのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に論理客観的根拠が示されていないことにも気づかず

マイケル:サンデルの「トロッコ問題」には倫理が含まれていないことにも気づくことなく鵜呑みにするのが「学力偏差値が高いだけのバカ」というものである

「多数が正しいと言っているのであれば それは正しいとみなしておいて構わない」と「思って」いるのである

だから自分の頭では論理的に検証(考える)しないため 間違ったことを多数が信じていれば気分的に安心満足して一切疑うことをしなくなる

「嫌な相手と どう付き合うか」については養老孟司も述べていたことがあり その解決策は「意識から外す 無視する」といった短絡的なものであった

カルト宗教の信者がこれを鵜呑みにすれば 自分が信じ込んでいる対象への批判は全て「意識から外し 無視」されてしまうことになる

ナチス政権に迎合していても ミャンマー政府軍の兵士でも 北朝鮮政府高官達であっても 日大事業部の組織腐敗であっても同じことである

大学でニーチェを教え込まれ 何の疑いも持たずに鵜呑みにしたバカ学生は 後に「基準に客観的根拠がない」と指摘されても理解しようとはしないものである

逆に 指摘されて理解した学生の大半も「自分はバカだった」と気分(主観的印象)的に落ち込むだけで 「どうして鵜呑みにしちゃったんだろう」と客観的に自己検証することはしないものである

「禊(みそぎ)」と称して自分に懲罰を加えて「解決した」と勝手に勘違いしているバカも多いが 自己であれ他人であれ懲罰報復は主観的満足に過ぎず 客観的には「解決」になどならない

ヒトという種の生物は 基本(先天)的にバカなので 間違うことがままある

間違ったことが悪いのではなく 間違った時に原因を究明して再発防止の知識教訓として周知することこそが再発防止に最も有効な対策となるのである

自分の間違いを周知することは 主観的に「恥ずかしい」と思うものであるが 「恥ずかしい」というのは恐怖心であって 「衆人から排除される恐怖」という主観的感覚や印象に過ぎない

衆人から排除されるかどうかは人間としての価値にはならない ナチスに反対して自決を余儀なくされても 地動説を主張して火炙りにされそうになっても イジメに反対してイジメの標的にされたつぃても 真理(人間として正しい行動)かどうかは無関係である

目先の多数に迎合する形で組織は腐敗する それは日大を見れば明らかである 「怖い相手には逆らわない」からこそ マスコミは上司からの命令に唯々諾々と服従する形で菅義偉元首相や尾身茂分科会会長への密集囲みぶら下がり取材を強行していたのである

私が数回に渡って指摘しても 一切耳を貸さなかったのは 自分達集団内部の「正義」が絶対的なものだと主観的に「思って」いたからである

現場で取材をしている記者達にとって 都合の悪い指摘をしてくる相手は「嫌な相手」であり 無視して意識から外しておいても構わないと「思って」いたからである

自分が所属する組織内部での評価を優先する形で「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが 原発も含めあらゆる「人災」の根本原因なのである

 

 

 

Ende;

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