限られた集団においては互恵的・共生的行動の方が繁殖の継続において有利に働くとしても
実際の遺伝的進化というものは自然界における生存競争が介入するのであって 限られた環境資源を奪い合う上においては互恵的・共生的である必要性はない
特定の集団組織 例えば「部族」などにおいて 他の部族から土地(縄張り)などの環境資源を奪い合う際にも 部族集団内部での統率的協調性は有利に働くものである
他の部族との共生や利益の調停など考慮に入れず 一方的に環境資源を独占した方が一時的な繁殖においては有利に働くのである
また 統率協調性というものは あくまで封建的な順位序列による服従忖度性によって促される盲目的なものであり 個人の主体的な考えに基づく他部族への配慮や共生性は必ずしも持続可能性に供しない
たとえば 天候不良などの急激な環境資源の枯渇が起きた場合には 限られた環境資源を暴力的に奪い合う能力が高い部族集団の方が生き残りには有利になる
自然界というのは あくまで過酷な生存競争であり 限られた環境資源を暴力などの「力」で奪う能力の方が有利に働くのである
ヒトという種の生物は その集団統率的な協調性によって 大きな「力」を発揮することが可能であるものの それは自然界における過酷な生存競争においては暴力的支配の方が有利に働くことになる
実際に文明から隔絶された土着の民族では 部族同士の争いは絶えることなく 紛争による死亡率は年間1%に達する
年間「1%」というと大した数字ではないような錯覚を促すが 50年生きていれば1/2の確率で紛争で殺されるのである
文明から隔絶されていれば武器にさしたる違いはないので 部族間相互のパワーバランスによって不必要なまでに相手を殲滅駆逐するための損失は必ずしも利得を上回らないために 年間1%程度の犠牲で済んでいるものの
一旦銃や爆弾を手に入れてしまえば大量殺戮が簡単にできるようになるため 殲滅駆逐の相互暴走を招くことにもなるのである
銃や爆弾といった「道具」が問題なのではなく そもそもヒトというのは過酷な自然環境下における生存競争において殺し合いや奪い合いによって生き残った生物の末裔として 先天的本能習性としての封建的服従統率性(生物学上の「社会性」)が組み込まれているのであって 「大量殺戮兵器の開発」という急激な環境変化に適応できなかったからこそ 一方の武器が枯渇するまで殺戮の激化に歯止めがかからなかったのである
なぜ未だにミャンマーのような非武装民衆への弾圧や虐殺が起きるのかと言えば 軍隊という封建的な絶対服従統率を旨とした集団組織を構成する兵隊個人に自律的な社会的責任判断選択の「意思」や「意識」が働かないからである
兵隊は自分で物事を判断したりはしないし 行動責任も負わない
これは日本大学の組織腐敗や 原発事故の原因も同じである
学生や企業でのイジメも同様である
略奪独占の言い訳に良く引き合いに出される話に 「一つのパンを十人で分け合えば全員死ぬ」という理屈があるが 現実の世界は十個のパンを一人で独占している」のが真実である
本当なら分け合えば充分に足りるものを 先天的な遺伝子レベルに組み込まれた貧乏性を発揮して独占するための略奪を正当化するから社会持続可能性が崩壊するのである
日光いろは坂のニホンザルに餌を与えてはいけないという
なぜなら 一度餌を与えてしまうと 与えられることが当たり前になり ヒトに危害を加えてまで略奪をするようになるからだ
最初から餌など与えなければニホンザルは略奪などしないのだが いわば「環境に適応する」形で略奪をするようになるのである
自然界においては 環境資源が豊富な程凶暴な生物への収斂が生じるものであり ヒトもまた農耕技術を獲得したことで環境資源を豊かに出来たが故に暇を持て余して侵略や略奪紛争を拡大を招いたのである
農耕技術の開発というのは 本来なら分け与えるて共生することにも応用可能な「豊かさ」をもたらすはずのものだが ヒトという種の生物が持つ先天的な遺伝子レベルの貧乏性によって必要以上の奪い合いに発展してしまうことに陥るのである
軍備にかかる経費を 貧困対策に充てれば 貧困なんぞ一気に解消する
客観的に見れば 無駄な相互威嚇のために弱者を切り捨てているのである
「国益」と称して資源や技術の奪い合いばかりに囚われ 地球全体の利益への配慮が蔑ろにされているのである
個人において 他人との比較による劣等感から 茫漠とした社会への報復感情を勝手に抱いて無差別殺人に暴走する事例があるが
これは国家レベルにおいても同じことが言える
独裁国家というのは 国家レベルでの劣等感から武力威圧による優位性を妄想することで無駄な軍拡競争に陥っているのであり
国家であろうとも 結局は国家という集団組織を形成している個人の意識の低さの反映に過ぎず 意識がないから武力威圧(懲罰的報復)が目的にすり替わってしまうのである
中野信子が「頭が良い」とみなす基準は「金儲けに長けている」かどうかである
金儲けという利己的能力を人間としての価値であるかのようにしておけば 衆愚からの人気を得ることは簡単である
金銭的な豊かさというものは人間としての価値基準には全くならず 独裁者であろうと略奪者であろうとペテン師であろうと金銭的には豊かにはなれるのである
人間としての基準とは 自律的な社会的責任判断選択が行えるのかどうかであって 金儲けは人間性の論拠には全くならない
自律的な社会的責任判断選択をしたからといって 衆愚から人気を集められるわけでも 金儲けに成功するわけでもない
原発の津波に対する危険性を回避したところで それは東京電力という組織の利益にはならず 社会的には「当たり前のこと」をしたまでである
その「当たり前のこと」を放棄したのは 「組織の利益を優先し 組織内部での地位権益を保守するという利己的利益も保守したから」である
自分が属する組織集団にとって有利になる行動選択をしておけば 自分が属する集団組織の利益や優位性にもなる
だから 組織に属する個人は集団組織にとって有利になる行動選択をするようになるのであり それこそが社会全体の利益に対する責任判断選択を放棄する動機ともなるのである
衆愚というのは利己的利益追求を社会的な悪だと認識しながらも 自分の利益追求に関しては無罪だと「思って」いる
だから中野信子は衆愚人気が得られるのである
逆に 利己的利益よりも むしろ社会的には不利になり得る可能性もある自律的な社会的責任判断選択こそを人間性の論証だと言えば 衆愚のご機嫌を損ねて人気を失うのは必然的結果である
衆愚は何の責任も負うつもりはない
何の責任も負うつもりがないから「衆愚」なのである
「衆愚」の人気取りや多数決で物事が決定しているからこそ 社会の諸問題は一向に解決しないのである
衆愚が求めているのは 主観的な安心満足だけであって 論理客観的な社会安全性や公平性ではない
だからこそ優生学などというオカルト観念に対する論理反証が全く周知されないのである
自分を優秀な存在だとみなすためには 誰かを劣った存在だとみなしておく必要性に駆られ 弱者を差別排除するためには優生学は都合が良いから遺伝的進化を万能だとみなしておかなければならないのである
これらの「みなし」は論理的根拠がなく ただの衆愚妄想・大衆観念に過ぎず 衆愚の主観的気分を安心満足させるだけであって むしろ「ヒトという種の生物の先天的危険性や欠陥」を無視させる無責任で卑劣なものである
Ende;
遺伝的進化というものは生存と繁殖の継続に適応した個体種の結果だけであり 繁殖の継続さえ達成されれば如何なる「手口」も赦される
寄生であろうと暴力であろうと嘘でも何でもアリなのが生存競争であり 特定条件環境下における断片的な利他行動や道徳性はヒトという種の生物の先天的人間性の論証には全くならない
道徳における「罰すれば赦される」とか「禊(みそぎ)」の概念には合理性が伴わない
赦す赦さないというのは主観であって 道徳というのは個人の主観的な感覚についての「感想」でしかなく 論理的な人間性の論証にはならない
ヒトという種の生物は先天的には公平や平等を嫌う性質があり 神だの王だの教祖だの権威に忖度服従して気に入られようと「甘え」ることで安心する習性がある
道徳の観点からは 多数迎合こそが「正しい」ことであり 少数異端を排除することは正当化されることにしかならない
道徳における尊厳とは 順位序列を受け入れ 多数派に同調迎合することでしかないのである
兵隊の道徳は「上官の命令に絶対服従すること」であり 「自律的な社会的責任判断をすること」ではない
兵隊は上官に逆らうことは「許されない」から逆らわないのであり 罰を恐れる恐怖心から条件反射的無意識に命令に従うのである
従って道徳というものは人間性とは無関係な主観的安心満足を論じているに過ぎない
人間性とは 論理客観的な根拠を伴う安全性や公平性に基づいた判断であって 先天的本能習性に無意識に流されることのない主体的行動選択によって促されるものである
自律なくして人間性を論ずることはできないのであり 「先天的道徳性」なんぞが人間性の論証になどなるわけがないのである
先天的行動習性というものは 複雑な条件反射に過ぎず 意識の本質とは無関係なバイアス(偏り)に過ぎず 到底「適応的」な合理的行動を促すものではない
特定の環境条件下において適応的に進化が促された行動習性だとしても それは環境条件が違う場合には適応できなくなるものでもある
意識とは 環境条件の違いや変化に対して柔軟に対応するために備わったものであり 先天的本能習性という行動バイアス(偏り)は 本質的な人間としての意識とは言えないのである
ヒトの多くは犯罪者に対して報復的懲罰を加えて満足しようとするが これは犯罪に対する合理的な再発防止にはつながらず 結果的に犯罪の再発を傍観放置するという非合理な行動選択を促すものでもある
単なる許容的な「赦し」が道徳的であると言うのであれば 再発防止を優先する犯罪被害者の願いは道徳とは無関係である
主観的な「赦す 赦さない」が再発防止などの「解決」につながるわけではなく 具体的に実効性のある合理的対策にまで言及してこその「人間としての意識(人間性)」だと言えるのである
被害者が加害者を赦そうが赦すまいが そんなことはどうでも良い話であり 被害者側の個人的感想の一面に過ぎない
犯罪や事故の再発防止のための 合理的根拠を伴った「本当の解決」を見極め識別する理性なくして人間性を論ずることは出来ない
「進化的ゲーム理論」というのは予めプログラミングされた条件反射的行動選択だけで道徳性の印象を勝手に妄想しているに過ぎず 行動バイアス(偏り)という条件反射で人間性を論証しようとすること自体が根本的に間違っているのである
行動の「偏り」だけでは何の進歩もなく 知能とは到底言うことはできない
様々な環境条件に適応できる知能なくして人間性もヘッタクレもあったものではない
条件反射的な無意識行動だけで人間性を論証しようなどという時点で発想がバカ過ぎてお話にならない
「赦したから人間性」であることの論拠には全くならない
衆愚の大多数は「ヒトという種の生物には先天的に道徳性が組み込まれている」とでも信じ込んでいれば安心満足感が得られるであろうが
それは現実に起きている虐殺や犯罪などのヒトの暴力性から目を背ける現実逃避であり ヒトという種の生物が持つ危険性を無視した身勝手な「お花畑」である
先天的本能習性というものは常にシーケンシャルな条件反射であり また 主体的選択可能性のないものであり 遺伝的進化という自然現象の「結果」以上の意味を持たない
「欲望そのものを欲することはできない」のであり 先天的本能習性の全ては本質的な選択可能性を持たない機械的シーケンシャルな条件反射である
ヒトは「信じたいものだけを信じようとする」先天的性質があり これもまた選択不可能な思考バイアス(偏り)に他ならない
主観的に信じたいものだけを信じて安心満足しているだけなら これはもはや振り込め詐欺に唆されて喜んで金を振り込む「カモの正義」でしかあるまい
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験が ヒトの盲目的権威服従性を「立証可能」なのは それが実験室という特定条件環境下であるが故にシーケンシャルに「立証可能」なのであり これは同時に服従心理実験環境下において被験者の大半は自律的な社会的責任判断選択を行わないことをも「立証」しているのである
繰り返すが ヒトは環境条件によっては簡単に自律的な社会的責任判断選択をしなくなるという 人間性としての欠陥も同時に立証しているのである
実験室という特定環境下における行動なら 利他的行動も抽出可能であるが 実験室で利他的行動を抽出してもヒトが常に自律的な社会的責任判断選択を行うことの立証にはならぬ上
服従心理実験環境下においてはむしろ自律的な社会的責任判断選択を放棄することが立証されているのである
実験室などの特定環境下の行動からは自律的な社会的責任判断選択を常に行わないことが「立証」されている以上 ヒトの先天的行動習性からは「人間性の反証」しかされていないのである
もっと単純に考えて もしヒトという種の生物に先天的な人間性が組み込まれているのだとすれば 独裁的腐敗組織体制による虐殺や差別弾圧が起きることへの説明が一切つかないのである
利他的だの協力的だのといった行動を抽出しても それは集団組織内部における統率協調性の立証にはなっても むしろ統率協調性こそが盲目性を発揮させ独裁腐敗組織の温存や虐殺の根源的要因として働いているのである
ヒトという種の生物は 別に「人間性」を目的として進化したわけではなく あくまでヒトという種の生物において結果的に「人間性」を発揮すること「も」可能になったというだけの話に過ぎず
「ヒトという種の生物でありさえすれば自動的自然に常に人間性が発揮される」ような都合の良い衆愚が望むような「お花畑」的現実逃避の論拠にはならない
ある環境では利他的行動を採ったとしても 環境が変わったら虐殺をするのであれば これは人間性の論証どころか むしろ反証にしかならない
人間性とは何かと言えば 環境条件に左右されることなく 「自律」的に社会的責任判断選択を行う「本質的意識(自己客観性を持った論理検証性)」に拠るものであり これはヒトという種の生物の先天的本能習性とは全く別のものであり
むしろ先天的本能習性こそが個人の「自律」性を喪失させてしまう最も大きな要因であり
「自律」的な社会的責任判断選択を行う上においては主観的気分が悪くなる判断選択も行わなかればならないものでもある
衆愚がナチズムに傾倒している環境においてナチス政権に反対を表明することも
東京電力社内において原発の津波に対する脆弱性を主張することも
暴力的な生徒による集団的なイジメを諌めることも
決して主観的安心満足感が得られるようなものではない
人間としての社会的責任判断選択というものは 必ずしも主観的に気分が良くなるとか 利益になるような保証のない判断である
先天的本能習性という行動バイアス(偏り)というものは あくまで大脳辺縁系が気持ちよくなる安心満足への偏りによって促されるものであって 自律的な社会的責任判断選択を抑制することはあっても 促すことはないものである
イジメを止めることで自分がイジメの標的にされる「恐怖」に抗うことが 「自律的な社会的責任判断選択」には求められるのであり これは先天的行動バイアスで促されるようなものではないばかりか むしろ積極的に自律判断を放棄する方向にしか働くことはない
日本大学における組織腐敗が傍観放置温存されたのも その内部において左遷される「恐怖」心という先天的行動バイアスが働いていたからであり 本能習性こそが個人の自律的な社会的責任判断選択を放棄させ続けた根本原因でもある
ミャンマー政府軍兵士による民衆弾圧や虐殺も 軍隊内部における恐怖心こそが暴力的独裁を支えているのである
何でこんな簡単な理屈が理解できないのか よっぽど頭の悪いバカしかいないとしか考えられない
Ende;