書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

欠陥

2021年12月25日 15時34分00秒 | 意識論関連

ヒトもイヌも哺乳類であるため 産まれてくると初期的に親を盲目的に信頼し服従する先天的習性がある

これが成体になるに従い群れ集団の内部へと信頼服従対象が転移することで 生物学上の「社会性(封建的順位序列による社会形成習性)」を発揮するようになる

生物学上の「社会性」というのは 順位序列による封建的な社会を形成するだけであり これは狩猟などにおいて有利に働くことで繁殖の継続に適した結果 先天的な本能習性として組み込まれたものである

ヒトであれイヌであれ 怖い相手に忖度服従し 多数で迎合同調しておくことで安心満足する習性が見られ これが組織腐敗の大きな要因ともなるのである

イヌはその場限りに怖い相手に服従忖度し 勝てそうにない相手には簡単に腹を見せて服従忖度(甘え)する態度を採る

ヒトの場合にも同じ習性があるため 軍隊のような厳しい訓練をさせれば兵隊は独裁者の民衆弾圧や虐殺にも便利に利用できるようにもなるのである

こうした行動バイアスが促されるのは 盲目的に服従忖度することに快楽を感じるように脳(大脳辺縁系)が出来ているからであって 洗脳状態のヒトというのは洗脳状態こそが快楽であり 「信じたい」というバイアスが働いているからこそ安心満足感によって盲目性を発揮するのである

すなはち ヒトという種の生物には先天的に「盲目的に怖い何かを信頼していたい」という行動習性が存在しており それゆえ個人が自律的な社会的責任判断選択を行うという人間性の根幹を簡単に放棄するようにもなるのである

服従信頼対象は何でも構わなくて 自分が属する集団組織のトップでありさえすれば テロリストであろうと独裁者であろうと日本大学の理事であろうと学級内のイジメの首謀者であろうとヤクザや暴力団のボスであろうと 結局何でも構わないのである

 

スタンフォード監獄実験が「ヤラセ」だったという説が浮上しているが それはむしろ被験者達が権威の指示に従って統率協調的に不誠実な嘘をついたことの証明でもあり むしろスタンレー:ミルグラムの服従心理実験の結果と合致するものでもある

ミルグラムの服従心理実験を読んだ「感想文」の中には 根拠も示さずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手な決めつけをしているものもある

衆愚というのは科学的な論理客観的根拠なんぞどうでも良くて 主観的に安心満足で「信じたい話」ばかりを信用したがるだけなのである

真実と嘘やデマの区別がつかないから「衆愚」なのである

ミルグラムの服従心理実験の被験者は 自分の頭で物事を考え判断することの重要性を訴えているのであり これは国会原発事故調査委員会報告書における「根源的原因」としての「個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」と同じである

ヒトの多く 衆愚というのは自分で物事を考え判断することを忌み嫌い 多数派や 多数派によって承認されている権威肩書の意見を唯々諾々と鵜呑みにし 盲目的に信頼して安心満足する習性がある

こうした本能的習性というものは 狩猟採集生活をしていた祖先の生息環境下においては 環境資源としての「縄張り」の奪い合い紛争において有利だったという「結果」である

ヒトは紛争によって 他人を暴力的に攻撃することが先天的に快楽習性として組み込まれているのである

そういう習性を持った個体は 何の疑いも持たずに他人集団を攻撃することができるため 生存や繁殖の継続において有利に働いた結果である

フォートナイトなどの銃撃戦殺人ゲームが流行るのも 銃乱射事件や放火殺人事件などが流行してしまうのも 他人に危害を加えることに快楽を感じるという感覚的な欠陥が存在しているためである

これは 「刑罰で解決だ」という発想にも共通するものである

論理客観的には犯罪者に懲罰を与えても 原因究明にも再発防止にもならないことは当たり前の話なのだが 報復や懲罰こそが主観的満足感を得られる先天的習性による錯覚が あたかも論理客観的根拠を伴った真実であるかのように「感じ」られてしまうからである

ノルウェーの「リゾート刑務所」における再犯率の激減からも 懲罰というものの非合理性は統計的に「立証」されているのであり こうした客観的事実を無視して既存の制度に執着したがるのは 自分の主観的感覚こそが意識の本質だと錯覚している「無意識な傲慢さ」に因るものである

犯罪者に懲罰を与えないということに対し ヒトの多くは不安を「感じる」ため 主観的に「感じる」ことを拒絶する安心感を 論理客観的安全性と勘違い錯覚することで刑法懲罰という「因習」への異常執着(中毒)をするのである

それこそ自暴自棄な無差別殺人者であれば 死刑はむしろ「願ったり叶ったり」にしかならない

「俺のような奴は死刑になったら良いんじゃ!」などと主張している通り魔を 望み通りに死刑にすることが「解決」になるわけがないのである

 

梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」とでも主張しておけば衆愚人気を得ることは簡単であろう

そういう短絡的で安易な「解決」の方が 何も考えない衆愚にとっては安心満足感を得やすいからである

司法裁判における判事の判決というのは 判事の主観的「心象」 すなはち気分的安心満足感によって更生の余地があるかどうかを判断しているだけであって 何か科学的な根拠に基づいた統計的証明に基づいて判決を下しているわけではない

もし統計的証明に基づくのであれば 幼児性愛犯罪の再犯率の高さに基づけば社会復帰は困難であると判定すべきであって 「強盗殺人よりも罪が軽い」かどうかと「更生するかどうか」は関係がないのである

無差別殺人犯が更生するか しないかは 実際にはほとんどが死刑になっているために統計的根拠は全くないのである

「へずまりゅう」や田代まさしのように釈放されれば平気で再犯を繰り返すバカも後を絶たないが 司法手続き上は一旦決まった判決は覆ることがない

なぜ他人の迷惑に配慮が出来ないのか その原因究明と再発防止こそが あらゆる迷惑で不公平な犯罪行為において共通する「本当の解決策」であって 厳罰化で満足するというのは社会的責任を放棄した身勝手な満足でしかないのである

「禊(みそぎ)」などと称して自分に罰を科せば罪が解消するかのような感覚も 実際には錯覚に過ぎず 合理性が何もない

間違えたのであれば それは「悔やむ」ことが重要なのではなく 間違えた原因を論理客観的に徹底究明して再発防止に役立て 「教訓」知識としてむしろ共有すべきことなのである

勝手に自分を罰して満足しても 間違いの再発防止にはならない

「ヒトである以上間違えないヒトなどいない」という観点からは 「誰しもが間違える可能性を持っている」という謙虚な態度で他人の「失敗」から学ぶ必要がある

 

ヒトは他人に罰を与えると満足する

それは 他人を蔑むことによって自分が正当化できたかのような錯覚を「感じる」からである

自然界の過酷な生存競争において 「勝つ」ことは生き抜く上においての必要性は存在するが それは「生存」においての必然的結果だけであって 「生存」や「繁殖の継続」以上の結果以外は何ももたらさない

殴り合いで「勝て」ば それは相手よりも強いことにはなるため 殴り合いで勝った方が繁殖した方が より強い遺伝子を遺すことになるため 生存競争においては有利に働いた結果として ヒトも含めて動物は争う本能習性が存在するのである

集団組織的に犯罪者などを差別排除しておけば満足安心できるのは それが「勝った」という快楽によって「正義を全うした」ような錯覚を得られるからである

オバマ政権はビンラディン容疑者を 容疑者のまま殺害して「正義の鉄槌を下した」と主張したが ビンラディン容疑者を殺害してもテロの根源的原因や再発防止には全くならない

テロリスト達は自分達の個人的で方向性のない報復感情を満たすためにテロリストに志願するのであって 特定の首謀者を殺害しても首謀者の代わりはいくらでも出てくるのである

個人の通り魔もまた同じことであり 放火殺人を模倣する形で通り魔同士で共感共鳴することで満足感を得ようとするのである

集団組織的テロリストにせよ 個人による通り魔にせよ 彼らは社会に対する茫漠とした報復感情を 無差別殺人という「懲罰」によって「解決」できるという錯覚によって実行するのである

「自分が生きていて楽しくないのは 社会が悪いからだ」という身勝手な観念から 無差別殺人に暴走するようになるのである

個人的に楽しいと思えることがあるならば 世間的評価や報酬は求めない

「個人的に楽しい」という脳内麻薬の自給自足ができていれば 外見的には禁欲的でいることもできるからである

 

衆愚の大半は「ハーメルンの笛吹き男」に追随しておけば満足で安心できるものだが 人間性や倫理の本質とは「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 衆愚迎合や権威服従は人間性の論拠には全くならないのである

読書猿だのPhaだのといった衆愚「人気」の多数は真実の論理客観的論証には全くならない

単に「気分が良くなる 信じたい話」に同調している衆愚の多数決こそが 嘘やデマであることの方が圧倒的に多いのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」や フリードリヒ:ニーチェの「迷言」の数々が 未だに国立大学で「哲学」として分類され リベラルアーツと称して一般教養過程で教えられても 学力偏差値が高いだけのバカ学生共は誰も疑問に思うことなく唯々諾々と鵜呑みにするだけである

偏差値の高い「一流大学」でありさえすれば 教えている内容の全てが論理客観的根拠に基づいた真実であるはずだという「感覚(錯覚)」によって バカ学生共は簡単に鵜呑みにするようになるのである

これは「哲学」に限ったことではなく 生物学における遺伝的進化の説明においても 「○○のため」という「目的」に基づいて遺伝的進化を「考えた」「選んだ」と「説明」している形式の全ては チャールズ:ダーウィンの進化論を逸脱した非科学的観念でしかない

ダーウィンの進化論というのは 生物やその遺伝的進化には目的があるわけではなく あくまで生存や繁殖の継続において必然的に適した結果以上の意味はないというものであって 遺伝的進化に「目的」だの「意図」だの「戦略」だの「考え」だの「選んだ」だのといった「説明」の全ては科学的には「典型的な間違い(遠藤秀紀)」なのである

遠藤秀紀は「ヒトという種は生物として欠陥品」だと主張しているが そもそも「生物としての欠陥」が存在しない生物など存在しないのであり 単に特定生息環境下において生存や繁殖が継続できて現存生物種でありさえすれば「生物」なのであり ライオンが西表島では生きられないことからも 「一切の欠陥を持たずに あらゆる環境下において繁殖を継続可能な生物」など存在しないのである

その意味においては遠藤秀紀もまたダーウィンの進化論を完全には理解していないのである

 

 

 


Ende;

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