書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

外発的動機の危険性

2022年04月02日 14時28分16秒 | 意識論関連

心理学者のエドワード・デシも、動機づけには「外発的動機づけ」と「内発的動機づけ」の二種類があり、前者には功罪があると世に問いました。

人間は、もともと内なる欲求で課題に取り組む性質を持っていて、それ自体に喜びや充実感を感じて行動する生き物であるため、外部からコントロールしようとすると、その内なる動機が失われてしまうのです。

デシはリチャード・ライアンと共同で構築した「自己決定理論」において、「自分でやりたい(自律性)」「能力を発揮したい(有能感)」「人々といい関係を持ちたい(関係性)」という3つの心理的欲求が満たされると、人間は動機づけられ、生産的になり、幸福を感じること言及しました。

「自律性」とは「自らの行動を、自分自身で選択したい」という気持ちのことです。外部から人をコントロールしようとする施策は、自律性を喪失させ、興味や熱意が失われる原因となります。

反対に、課題解決を求められた際、「実現方法に対する自由な裁量」が許されていれば、熱心に取り組み、その活動自体を楽しめます。人間は自ら選択することで自身の行動に意味づけし、納得して活動に取り組めるのです

 


 出典:↗新入社員がどんどん辞めていく会社の「残念な上司」たちに共通する"ある口癖" -プレジデントオンライン

 


⇨「環境によって意欲に違いが出る」という主旨の話なのだが 個人の行動動機においても同じことが言える

他人と比較して優位に立とうとする行為というのは 実は本質的には自発性ではなく あくまで「他人」との比較ありきの環境依存的な欲望(外発的動機づけ)に過ぎない

本当の自発性や主体性というものは「他人」との比較に依らずに純粋に楽しめることであり

「有能感」というのも根拠のない優越的な「全能感」とは全く異なり あくまで絶望による「無能感」に陥っていない状態を指すものである

自分の出来ることを提供し 他人から自分の出来ないことを提供してもらえるという互恵的関係によって社会の一員としての自尊心も働くのであり これが社会的責任としての自律としても働くのである

 

軍隊というものは「外発的動機」だけを強要することによって 戦争のようなバカげた命令にも逆らうことなく唯々諾々と盲目的に服従するようにするのである

戦争などの殺し合いが起きる最も根源的原因とは 個人が主体的に行動選択をせずに権力者の命令に唯々諾々と服従することによって引き起こされるものなのである

東京電力福島第一原子力発電所において 「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった(国会原発事故調査委員会報告書)」のも 個人の主体的動機の欠如がもたらしたものであると言える

個人犯罪である通り魔の類いというものも 世間的評価が主観的に「思った」ように得られないことに対する不満が根源にあり 結局は「他人が悪い」「社会が悪い」といった「他人の所為」が動機である

「環境が悪い」と称して自分の無責任性を正当化することはできない

養老孟司のように「世間が許さない」などと称して自分の無責任性を正当化しようとする話の方が衆愚には人気があるが これはバカ同士で身勝手さを共有共感して共鳴的に満足しているに過ぎず 養老に同調して鵜呑みにしているというのは社会的に極めて無責任な大衆迎合というものである

身勝手な独裁者というのも精神構造は一緒で 権力や物質的欲望という本質的には主体性ではない「他人との比較」による優越感が動機になっているため 本質的な自己が満たされない欲求不満から暴力的で身勝手な行動に陥ることになるのである

どんなに物質的に豊かになっても どんなに多数のバカを服従迎合させていても 全く本質的な自己は満足することができないのである

他人から忖度され 媚諂ってもらえば優越感に溺れることは簡単である だが それは幼児が「褒めてもらってうれしい」という外発的動機の延長線上のものに過ぎない

 

犯罪者の多く 刑務所で服役する囚人の多くは幼少期からの苛烈な暴力を伴う虐待を受けているという

虐待というのは 一日中 四六時中親の顔色を窺わなければならない状態であり 当然主体性なんぞ一切認めてもらえない養育環境であるため 行動の動機が全て外的なものだけになり 怖いことはやらないが怖くないことや快楽を感じることでしか行動選択をしなくなるようになる

もはや自分の頭で「本当の目的」「本当に自分が求めているもの」が何なのかを考えることはしなくなり 先天的な本能や欲望のままにシーケンシャルに物質的欲望や他人との比較による権力ばかりを求めるようになることで 外見上は「自己中心的」で身勝手な行動ばかりをするようになるのである

外見的には「自己中心的」に見えるのだが 実際には本質的な自己としての意識(主体的論理検証性)はないので 「自己中心的な者には自己はない」という言語分類上の自己矛盾となるのである

「自己中心的」ではあっても 「的」なだけであって その「自己」とは既に存在しているだけの自己に過ぎず 本質的な目的意識や考えを持った「自己」としての現在における選択可能性は働いていないのである

 

通り魔やテロリストが主張するように 社会というものには欠陥が確かに存在しているのだが

だからといって革命だの懲罰といった「暴力」で社会の欠陥が改善されるわけではなく むしろ刑法懲罰などの「暴力」で他人の行動を抑圧することを「解決」だとみなすヒトの先天的主観や印象こそが 本質的な問題を見誤る「錯覚」なのである

社会のどこに どのような欠陥が存在しているのかを具体的且つ論理的に解明し 実効性のある再発防止につなげてこそ社会は地道に改善するのであって 「主観的に気に入らないから暴力で解決する」というヒステリーは幼稚なワガママに過ぎない

 

イヌにとって服従はアヘン(麻薬)である

自分よりも「上」とみなした権力者に媚びへつらい忖度し 目先の多数派に迎合することによって他人からの評価に無意識に流され続けていると 服従すべき相手を失い自分がボス(最高権力者)の立場になった際には媚へつらう相手を喪失し 本能的欲求が満たすことができなくなり 暴力的な行動で他者への暴力を振るうようになる

イヌの服従性というものは とても「便利」ではあるが シツケ(訓練)を間違えると飼い主の手を噛むような暴力性を発揮する先天的「習性」に過ぎない

プーチンはゴルバチョフやエリツィンへの忠誠忠実さによって評価を得て権力者にはなったものの プーチンの目的は「服従することによる評価」だけであって 評価を与えてくれるはずの「自分よりも上」の対象がなくなった途端に何をすれば良いのかが全く見えなくなってしまっているのである

その結果 多数の民衆をプロパガンダによって騙して評価を得ることくらいでしか服従欲を満たすことができなくなり バカみたいな虚構の評価欲しさに他人に多大な迷惑をかけているのである

これはナチス政権のアドルフ:ヒトラーや 日本軍の東条英機や牟田口廉也などの司令官共と同じ精神状態である

牟田口廉也によるインパール作戦というのは それによって牟田口が軍内部で評価されることを目的としたものであって だからこそ無謀でセンセーショナルな行動に出たのである

無謀な作戦に成功すれば センセーショナルで高い評価が得られる

だから評価のために無謀な作戦を立案したのであって これは連続殺人犯が「歴史に遺る犯罪」を目的にするのと同じバカの発想である

ナチスによるユダヤ人大量虐殺計画を立案したアドルフ:アイヒマンもまた 評価を目的としたものであり 別にユダヤ人を殺したかったわけではなく むしろ死体を見ることは避けたくらいである

 

自分の頭で考え 「本当に求めているもの(自己の真理)」を見極める論理客観性なくして人間性も倫理も発揮されることはない

幼い女子に性的興奮をするとしても 実際に手を出さなければ人畜無害なのであり

サバゲーやフォートナイトが大好きであっても 実際に殺人には及ばなければ人畜無害である

「欲望=行動」ではなく 自分の欲望がどのようなものなのかを客観的に見極め どのような行動で欲望を満たすのかを「選択」できてこその理性であり人間性であり倫理というものである

衆愚観念的には先天的に清廉潔白な全人的人格者が存在していて そいつを盲目的に信頼服従してさえいれば全てが解決するかのような感覚を持っているものだが それは哺乳類としての本能的な「甘え」が作り出した妄想であって 「親」を超越した「超親」としての「神」の幻想への中毒症状である

ヒトである以上は暴力衝動や幼児性愛性があってもおかしくはない

幼児性愛性があったとしても 「かわいい」という感覚があくまで次世代を守ろうとする意欲に働かせ選択できれば 人畜無害どころかむしろ社会持続可能性や安全性への動機としても働くのである

ヒトが人間として機能するために必要なのは 先天的本能や欲望ではなく 選択可能性としての主体的な意思 意識という客観性による真理の追求である

マルクス:ガブリエルだのフリードリヒ:ニーチェだのといった基準や根拠の曖昧な話を 自分の観念にとって都合よくこじつけて主観的に満足することは「哲学」ではなく ただの大衆迎合的「芸能」に過ぎない

「芸能」自体が悪いわけではないが 「芸能」を「哲学」と区別できなければ 宗教と科学を区別できないのと同じであり 主観と客観の区別が出来ないのであれば それはもはや認知症や統合失調症である

相変わらずNHKでは 「お悩み解決」などと称して主観的な「悩み」を紛らわすための都合の良いこじつけを「哲学」として扱っているが 哲学というものは「悩み」を解決する人生相談のためのものではない

「悩み」などというのはあくまで主観的な気分の問題であって 論理客観的根拠や証拠とは無関係な個人の感覚の問題に過ぎない

「Aを選ぶか Bを選ぶか」その基準に論理客観的根拠が伴わず「わからない」のであれば それはいくら「悩んで」も意味はない

結果的に「損な選択」をしたとしても それは所詮「運」でしかないのであれば 選択の時点で「わからない」以上はいくら「悩んで」も意味はなく そこに「科学」や「哲学」が入り込む余地などないのである

ヒトという種の生物は 主観的感覚に過ぎない「悩み」を あたかも深い「考え」か何かと勘違い錯覚する習性があるため マイケル:サンデルによって提示されたトロッコ問題で「悩んだ」ことで「自分は頭を使った」かのような錯覚に陥り あたかも「自分は頭が良くなった」かのような満足感によってサンデルを「好き」になり 盲目的に信じようとしたがるようにもなるものである

実際にはどちらを選んでも倫理的責任なんぞ問うことができない命題であり 何一つ倫理にも正義にも適わない話を鵜呑みにして満足しているバカが大半であり それを「哲学」だと信じて疑わない

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における論理客観的根拠も証拠もない実証不能の謎の「叡智界」なんぞを鵜呑みにし それを「哲学」的な「真理」だと誰も疑わずに鵜呑みにし続けているのが哲学界の現状である

カントを鵜呑みにしていれば 主観的に満足感や安心感は得られるのであろうが それこそがヒトの頭の悪さ 先天的な認知上の著しい欠陥というものである

大学の授業では 成績というインセンティブ(動機)によって教師から教え込まれていることに対して疑念を持たないものである

それは短期的には「成績向上」にはなるものの 本質的には主体性がないために試験が終われば全部忘れ それが本当は「哲学」でも何でもないことには誰も気づくことはないのである

これを「バカ」と言う以外に何か形容詞があるなら 私の方が教えていただきたいくらいである

 

 


Ende;