書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○主観的感覚は意識そのものではない。

2014年09月15日 11時44分23秒 | 意識論関連
 親教師が子供や生徒を服従させるためには、子供や生徒よりも親教師の方が圧倒的に優れているという観念を植え付ける方法論がある。

 これはアインシュタインが懸念した「無知で自分勝手な教師」の典型的手口である。

 人工的権威、威圧的な態度を用いて子供や生徒に服従を強要することで。子供や生徒達は自分自身の自律的判断というものを封じられ、「怖いからやらない。」という、感情を用いた条件反射的シーケンスによって行動抑制を強いられるようになる。

 「怖いから、やらない。」ということは、「怖くなければ何でもやる。」ということでもある。

 「生徒にナメられる。」などと称して、恐怖や威圧的態度によって生徒を服従させるというのは、生徒に対しての誠実さが欠けており。「自律した社会的責任判断能力を持った一人の人間」を育てるという、教師としての社会的責任を放棄した身勝手で無責任な行動である。

 厄介なのは、当人にその身勝手であるという認識がない場合が非常に多いということである。

 「怖い」かどうかで行動が決定してしまっているというのは、要はその場限りの「気分」によって行動が決定してしまっているということでもある。こうした気分感情と行動が直結している状態には、個人の自律というものが介在する余地がない。

 個人が自律的に社会的責任判断選択を行うためには、その場限りの気分感情に左右されることのない自発的思考というものが不可欠であるが。人工的権威や威圧的抑圧という短絡的服従の強要は、これを不具にしてしまうのである。



 イジメなどの差別排除における発生においても。イジメのターゲットとなる特定個人を蔑むことによって、自己が威圧的権威に服従していることに対する気分的事後正当化が可能となるため。ある意味、強迫観念的、心理拘束(ヒステリー)的に差別排除を「しなくてはならない」心理状態に陥れられているとも言えるのだ。

 そこに先天的本能習性としての順位欲が差別排除を加速させることにもなる。

 威圧的権威に対して無為に服従するのは、「怖い」からである。しかし、単に「怖い」から服従しているのであれば、服従している自己が憐れな服従者でしかなくなるため、これを「なかったこと」にするためには、権威服従性そのものに迎合しなければならない。

 権威が「上」で、服従する対象であり。同時に誰かは「下」で服従させる対象でなければならなくなるのである。そういうことにしておかないと、自分が無為に権威性に服従している事実を気分的に正当化出来なくなるからである。

 ヒトは、暴力的だったり威圧的な相手に対して逆らうことが面倒臭いため、比較的簡単に服従迎合する性質がある。

 チンパンジーが牙を剥き出して威圧しあうことで相手を服従させるのと同じように。威圧的態度で権威性を演出しておくことによって、気分的に逆らうことを諦めさせることは難しいことではない。

 形式的に「ヒト」らしい権威性の演出をしていたとしても、それは野蛮さの否定には全くならない。ナチズムがどんなにカッコイイ制服に身を包んでいたとしても、むしろそうした外見によって人格を妄想するヒトの無意識性こそが、最も野蛮さを助長するのである。

 権威性というのは科学的根拠はない。

 「科学的権威」という言い回しはあるが、本来科学というのは権威性に頼るようなものではなく。誰にでも平等に開かれたものであって、たとえノーベル賞だの文化功労賞を受賞していたとしても、論理的に常に正しいことしか言わないことの証明には一切ならず。誰でも論理的指摘はして良いし、また、しなくてはならないものでもある。

 ヒトという種の生物は、先天的に権威に服従することが安心である。

 気分的に安心な服従対象のことを「権威」と分類しているだけであって、盲目的に服従しておける「権威」に対して判断責任を依存することが可能だという妄想をアプリオリに抱いている。

 「先天的に安心」な対象が、どうして科学的に立証可能であろうか。そこに進化生物学の神が作り出した「目的」でも存在するとでも言うのであろうか。

 利根川進はノーベル賞を受賞したことがあるが、生物進化における「結果」と、意識的に選択された「目的」との区別も出来ない、いわば科学者としてはポンコツである。

 左側頭葉の一部に磁気刺激を与えると神を「感じる」ことがあるというが、そこに進化生物学的な「目的」のこじつけをすることも可能ではあるが、こじつけ以上の価値は一切存在しない。

 ヒトは哺乳類であるから、産まれてくれば、ほぼ無条件に親に服従するという習性が先天的に組み込まれていても不思議はない。その結果として親を超えた「スーパー親」として、神的存在を「感じる」としても何の不思議もない。

 それらの行動習性というのは、単に「生存に適した」という「結果」以上の何の説明も本来理論的には全く必要としないものである。



 ヒトの多くは権威に対して疑問を抱こうとはしない。権威の発言内容に対しては疑問を持ってはいけないものであるかのような錯覚があるからだ。

 こうした習性を利用すれば、アイヒマン実験のように他者に危害を加えさせるよう行動を誘導することも非常に簡単なのである。

 60年代安保闘争などというのも、要は特定の「敵」を集団協調的に攻撃することで満足していただけであって。本当は何の理念もすったくれも存在していなかったからこそ、時代の流れの中に簡単に消えていったのである。「あれは一体何だったのか。」という問い掛けが時折されるが、あれは単なる集団暴走、「暴動」に過ぎなかったのである。

 安保闘争に参加していたことを「政治活動」などと言い張るバカは今の政治家には多いのだが。それは事後正当化のための取り繕いに過ぎないことすら、当人達は気付いていないのであろう。

 バカという症状は非常に難治性が高いのである。



 ヒトという種の生物は、権威に対して盲目的に信頼信用していたいのだが。逆にその信頼信用に値しないとなった途端に、権威に対して暴力的に反逆をする。

 シツケを間違えたイヌが飼い主の手を噛むのと同様、服従対象として充分に気分的安心満足が得られない場合には、暴力による最終解決手段しか選ぶことが出来ないケースは非常に多い。「革命」という言葉に対する満足感、快楽というものや過剰な期待といったものは。ヒトの短絡性が生み出した妄想錯覚であって、快楽というものは論理検証性を必要としないばかりか、むしろ邪魔なものなのである。

 「リーダーシップ」などと称して、特定の誰かに先導してもらおうとする奴隷根性こそが、個人の自律的な行動選択を不具にしていることを、多くのヒトは認識していない。

 「リーダーシップ」という言葉に対する過剰な期待感というのは、要するにハリウッド映画や子供番組に登場する「ヒーロー」観と同じものであり。自分達個人が社会を支え、自ら構築してゆくという責任意識の欠如の現れでもある。



 イジメの話に戻すと、イジメをしても「怖くない」からやるのであって。そこに自律的責任判断とししての意志が働いていないからこそ、周囲の環境や状況に無意識に流される形でイジメは暴走するのである。

 規則や法手続き的に、「イジメをしたら過酷な懲罰が何年も課せられる。」ことにしておけば、イジメが露見するような場所でのイジメは減るであろう。なぜなら「怖い」からである。

 しかし、こうした懲罰というのは、懲罰を施行する権威の存在が不可欠であり。また、イジメが露見しないような場所、権威の目が届かない場所では懲罰による抑止というのは無効となる。

 平たく言えば、「見つからなければ怖くない。」からである。

 こうした「権威による懲罰」という暴力的抑圧というのは、むしろ個人から自律的な社会的責任意識を奪い。無責任に「法律さえ守っておけば良い。」とか、「見つからなければ良い。」といった、無責任なヒトを大量生産することに陥るのである。

 こうした権威依存性というのは、いわば社会的な「甘え」行動なのである。



 イジメが止められないというのは、要するに個人に自律的な責任意識がないからであり。「甘え」ているのである。

 イジメなどという行動は、精神年齢が低いからこそ発生するのであり。感情や気分が行動や言動と直結しているからこそ、モンスターペアレントも出てくるのである。



 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと思っている時点で、既にモンスター予備軍である。だからこそ振り込め詐欺に騙されている被害者達は頑なに振り込もうとヒステリーを起こすのである。



 自己存在とは、そもそも自らの意思選択に基づいて存在しているわけではなく。生物の本能習性の「結果」として存在しているに過ぎず。自己の内部にある様々な感情を統合的、且つ論理的に検証し、選択判断することでしか、本当の自己とは言うことが出来ないのである。

 何を主観的に「感じ」たかは本質的には意識そのものを論証しない。なぜなら残虐なゲリラやテロリスト達の主観においては、その残虐性は主観的には「感じ」ていないからである。

 単なる想像力の程度強度も同じことである。どんなにカルト暴力集団が身勝手な妄想をでっちあげても、そこに人間性や本質的な意識というものは介在しないからである。

 人類(文科系大衆観念的に)は今まで、主観的「感じ」こそが意識の本質だと錯覚してきた。

 「自意識」などと称して、「他人からの外見」を意識の本質だと錯覚しているのも、その主観的感覚の強度程度だけで判断していたからである。

 主観的な「感じ」というものには論理的保証がない。「怖い」かどうかで行動が決定しているからこそ、様々な無責任による「人災」が生じるのであって。自発的な客観的論理検証性というものが介在しなければ、本質的な人間性や自由意思も働くことはないのである。

 フロイトが提唱した「超自我」などというものも、単なる強迫観念的に刷り込み学習された行動バイアスに過ぎず。こうした気分的行動抑圧を自我の本質だと錯覚しているのは、他律こそが自分の行動を抑制するという「甘え」がもたらす妄想錯覚に他ならない。

 アウシュビッツ絶滅収容所の吏官達にとって、ユダヤ人殺害計画書の作成は「怖くない」ものであった。むしろナチス体制に迎合しないことの方が「怖い」からこそ、異常執着的にまで残虐行為を行ったのである。そこに超自我などというフロイトの妄想錯覚は何の価値もないことは明らかである。



 ヒトは目先の欲望を充たすことを自由だと錯覚しているが。そもそも欲望自体が自分の選択の介在していない脳の先天的構造から出てくる行動バイアスに過ぎないことを認識していないゆえの錯覚妄想に過ぎない。

 先天的行動バイアスに流されていて、一体何が「自由」だと言うのであろうか。

 先天的行動バイアスに流されていた方が、それは気分的には満足で安心であろうが。その安心満足こそが先天的行動バイアスそのものを作り出しているのであって、そりゃ当たり前の話である。

 その場限りの安心満足という「感覚」を、自由や意思だと勝手に妄想錯覚しているからこそ、子供はイジメをしていて自由だと錯覚しており、その錯覚ゆえに暴走を止めることが出来ないのである。



 主観的な感覚を自我や意識の本質だと錯覚している以上、イスラム国のメンバー達の感覚も自我や意識の本質だということになる。これは通り魔や銃乱射などの無差別殺人でも同様である。

 彼らには自己の感覚を疑うという、自己論理検証性というものが働いていない。

 ヒトという種の生物の主観的感覚は、ヒトの傾向性の論証にはなっても。人間性の論証には全くならない。このことを論理的に認識していないからこそ、バカが大量生産され続けることに陥るのである。

 ヒトという種の生物は、デフォルトでは人間ではない。ヒトという種の生物は全知全能の神の創造物のような完全なものではなく、単なる野生生物の淘汰の結果として偶発的に発生した獣の一種に過ぎないのである。このことを忘れて、その場限りの気分的感覚を意識だと錯覚しているというのは、あらゆるヒトの無責任を放置する無責任なのである。




 ヒトの多くは多数派に属しておけば気分的に安心満足であろうが、その気分自体が意識を阻害している無意識性であることにまでは意識が働いていない。

 論理的に間違っていないにも関わらず、単に少数派であるというだけで無視しておいて良いというバカげた観念こそが、ヒト(人類)の愚かさを助長するのである。






Ende;
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« NHK立花隆 臨死体験 | トップ | ○怒活。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

意識論関連」カテゴリの最新記事