書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

インターネプコンの同時開催展示会にちょこっと行ってみた。

2012年01月22日 16時10分07秒 | ネタ帳

オスラムが出展してたんだけど、サイトの方だと英文しかない。

OSRAM
http://www.osram-os.com/osram_os/JP/Products/index.html

オスラムっていうと三菱の蛍光灯ってイメージだけど、LEDとかレーザー半導体とか作ってるらしい。折角大枚はたいて展示会に出展しているくらいなら、サイトを日本語にすれば良いと思うんだけどな。


ドイツの会社でプラスチックフィルムにアルミとか銀を蒸着した上に更に特殊なコーティングをすることで反射率を98%まで向上させたフィルムっていうのがありました。

alanod miro 反射材

http://www.alanod.co.jp/miro

赤外線領域の反射率まで表示しているのは何かと思ったら、太陽熱利用に応用できることをアピールしているらしい。太陽光で劣化とかしないのかな。


住友ベークライトで貰ったパンフレットの中に、透明導電ポリカーボネートプレートとか発泡ポリカーボネートプレートっていうのがあったんだけど、公式サイトには載ってなかった。良くみたら「開発中」だって。

ちなみに開発中のことは英語で Under Development って書くらしいです。

そういえば熱線カットポリカーボネートプレートは開発中って書いてないけど、サイトからは見つからなかった。展示会で配るパンフレットと同じものをサイトにも掲載しておけばいいのにね。


プラスチックのベアリングっていうのもあった。これもドイツのBNL社の製品らしい。

http://www.bnl-bearings.co.jp/

PEEKっていう耐熱プラスチックにガラスとかセラミックの球を使った耐腐食ベアリングってのもありました。これって磁性もなさそうだね。何に使うのかって?、いや、それはまだ思いつかないです。



億光電子っていう台湾の会社のスペック表を見ると、100ボルト駆動のLED素子ってのもあるみたい。読み間違いだったら申し訳ない。何だか日本の日亜と喧嘩しているみたいだけど。

http://www.everlight.com/



マグネシウム加工の会社で函嶺工業ってのがあったんだけど、公式サイトがなかった。展示会に出るくらいならサイトも整備しておいて欲しいんだけどな。そういうことではないのかな。

Google検索結果。
http://www.google.com/m?hl=ja&gl=jp&source=android-launcher-search&q=%E5%87%BD%E5%B6%BA%E5%B7%A5%E6%A5%AD


おいらはプラスチック試作加工系が専門だったので、電子系とか量産システムとかが多く出展していて、今回は結構ちんぷんかんぷんでした。

自動車整備とかの経験がある人じゃないと自動車関係はさっぱりわからんです。

LED素子とかって、ググると秋葉原の秋月電子通商とかしか出て来ないけど。実際には工業用にいろんなLED素子があるみたい。どっかに半端な余りって出ないのかな、そういう「余り部品。」サイトって作ると便利なのではないかな。


end;
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帰結。

2012年01月22日 13時52分30秒 | 意識論関連
 コミュニティーが大きい程他人に分け与える金額が大きいという帰結はあやしい。

 コミュニティーが小さい場合、一人一人に分け与える金額が小さいのは。分け合う人数が多いことを予測しているとも考えられる。

 コミュニティーが大きい場合、実験室以外の人への配慮が全くないからこそ、P2P以外に意識が働かないために金額が大きくなる可能性もある。

 最終的にコミュニティー全体に分け合う金額まで追跡していないと、「コミュニティーの規模。」と「分け合う金額。」の比例関係性を立証したことにはならない。

 どうも生物学や社会心理学者というのは、一面的事実「立証。」から短絡的帰結を勝手にでっちあげる「習性。」があり思慮が浅い。これは探究心の欠如と言わざるを得ない。


 物と金では分け合う気分が異なるのは。物の場合、その物自体への個人的好き嫌い、個人差が働くためであり。物自体に選択肢がある場合も考慮に入れる必要性があったのではないか。

 金と物によって、分け合う量が異なる「傾向。」性をどんなに抽出してきても。これはヒトの習性、傾向性を立証しているだけであって、何ら人間としての本質的意識的行動とは無関係である。

 どんなに「人間的。」な傾向性だけを抽出してきても、それによってヒトが非人間的な行動を全く採らないことの論証にはならない。

 ヒトの行動習性、傾向性をどんなにたくさん抽出してきても、「全てのヒトが人間としての社会性を持つ。」ことの論証には絶対にならない。アイヒマン実験の反証も、シエラレオネのゲリラの行動の反証にもならないからである。

 どんなにたくさん生物学/社会心理学において都合の良い話を枚挙してきても、戦争や犯罪の発生に対して何の影響も与えることはなく。単なる生物/社会心理学における勝手な自己満足にしかならないのである。マスコミ大衆に迎合するだけであれば、それで充分であろう。しかし、こうした気分的満足による「安心。」こそが論理的社会「安全。」性から意識を逸らせ、無思考に陥る最も根源的な「ヒト。」の行動習性である。

 無意識的な行動習性から「都合の良い結果。」だけを抽出して気分的満足をすることからは、何ら意識の励起を促す行動選択は導き出されることはなく。むしろ無意識的な行動習性によって生ずる「悪い結果。」の傾向性を知ることによってこそ、人間としての行動選択を促すことが可能となるのである。


 私が論じているのは、「良い傾向性。」と「悪い傾向性。」の、どちちらが多いかどうかを論じているのではない。「良い傾向。」が多ければ気分的に「安心。」であるからといって、「悪い傾向。」を無視して良いというような短絡的で安易な帰結に陥ることの危険性を論じているのである。

 傾向として、ヒトという種の生物が概ね安全であることで満足することによって。「概ね。」ではない危険性から意識を逸らし、無視し、何も考えなくなる無思考性こそが、危険性そのものを認識しなくなるヒトの傾向性であることを認識すべきである。

 マスコミは大衆迎合的に、ヒトという種の生物の「良い傾向。」だけを抽出したがるが。これこそが多数大衆から安全性に対する意識を奪う気分的満足「安心。」を促すのである。

 現在の生物学/脳科学/社会心理学/哲学界の全ては、大衆迎合的な気分的満足の追求しかされておらず。何ら論理的、科学的な根拠に基づいた検証性が働いていない。従って、どんなに現在の権威性から多数決的に証言を得ても、科学的論証「裏づけ。」にはならない。

 彼らは既に腐敗体制に頭まで漬かっているのである。マスコミはその加担しかしていない。

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志とは意思である。意思とは本質的意識によって思考された選択のことである。

 「予算や権限を増やした者が評価されるシステムに問題がある。」国土交通省 竹内 現在の評価基準においては省庁同士で不毛な予算の奪い合いを助長するだけ。

 元経済産業省 古賀茂明 官僚が国民のために働けない制度になっている。その原因には。

 ○人事評価が「国民のため。」になっていない。

 ○縦割り。入省すると一生省庁に縛られる。

 ○前例主義。

 があるという。


 前例主義などというのは、まさにドーパミンが作り出す常習性に由来する結果である。いままでやったことのないことに対して気分的な恐怖心を抱く「習性。」によるものであり、本質的合理的思考が働いていないからである。

 縦割りも本能的な社会形成習性が作り出す行動の結果である。本能的な組織的協調性に「目的。」がないために、保身に「走った。」結果として縦割りになるのである。

 そもそもが本能的動機であるから、「目的。」が自己保身になるのは動物として普通の行動である。

 単なる動物は利己的行動選択しか行わない。利他的行動、自律的な社会的責任選択といったものを「人間。」が行うのは、単なる目先の利益を「目的。」とはしないからである。

 文系のバカの多くは、社会的責任というものは他人からの評価がなければ選択しないものであると思い込んでいる。決して自律的に社会的責任などとるバカはいないと思い込んでいる。果たしてどちらが本当のバカであろうか。

 「人間。」が自律的に社会的責任選択をするのは、決して物質的利益を求めるからではない。あくまで自己自身の尊厳として、社会的責任選択をすることこそが自己自身の本質的「心。」の安らぎであるからこその選択なのであり。故に本質的人間性というのは自己の「生存。」価とは無関係に行動選択されるものでなくてはならない。

 しかし、特攻だのテロといったものは。当人自身が選択した行動ではなく、社会環境によって無意識的に誘導された行動に無意識よって促された、動物習性的な献身であり。多数他人からのウケ狙いによるものでしかない。「お国の為。」と称して犠牲を正当化することと、戦争自体に反対することによる犠牲は全く異なるものなのである。

 戦争に反対しても大衆にはウケは良くない。それは多数派ではないからだ。こうした多数の無意識性こそが戦争や犯罪を助長することはあれ、抑制することにはならないことを認識すべきである。


 認識すべきことを認識できないのは、そこに本質的な意識が働いていないからである。意識、認識が変わらなければ行動も思考も変わることはない。錯覚を錯覚であると認識していなければ、錯覚に基づいた行動しかできないのは当たり前のことである。錯覚に基づいた行動をしていても気分的には「恐く。」はないであろう、故に多数の「ヒト。」は錯覚を錯覚であるとは認識「したがらない。」ために、むしろ錯覚を助長する方向にしか意識は働かないのである。

 それこそが無意識というものであることを、多くの「ヒト。」は認識していない。


 ヒトは多数意見に迎合しておけば気分的に「安心。」なため、多数意見を助長する方向にしか意識が働かないようにできている。「ヒト。」とはそういうものである。そういう「傾向性。」「習性。」を持っている。

 こうした無意識的な「傾向性。」や「習性。」を、意識的に論理的に認識できていれば、短絡的に行動習性のままに流されることを回避することも可能となる。

 だが、錯覚を錯覚であると認識することというのは。要するに自分自身の愚かさを認識することと等価でもあるため。これは気分的に「嫌。」なものなので、多くの「ヒト。」は無意識的な気分が促す行動以外に全く意識が働かないのである。


 世の中の論理的間違いのいちいちを、私がこの記事上で懇切丁寧に噛んで含めるように説明することに意味はない。本来なら「言われれば誰でも理解可能な話。」であるならば、自律的に気付いて良いはずのものである。ところが誰も自律的には気付かないのは、多くのヒトには本質的意識が働いていないからである。



 多くのヒトが自律的に社会的責任を負わない理由として、地位や権益を失いたくないという利己的動機が必ず働いている。地位や権益というのは、それを獲得するまでの受験戦争の「努力。」を事後正当化も含まれている。それなら「目的。」のための競争ではなく、社会環境に与えられた価値観に迎合しているだけである。

 エリート競争も構わないのだが、その競争の動機が社会から刷り込まれた無意識的動機である限りにおいて、最終的には利己保身という本能的目的行動に基づいた選択しかされなくなるのは必然というものである。

 社会から刷り込まれた価値観に迎合するのは、そもそも自発的純粋行為ではないからだ。

 自律とは自発の中にあり、他にはない。これは定理である。


 現実には学力であっても自発性を重要視する北欧諸国の方が高い傾向がある。個人が純粋に持った「目的。」意識があれば、教育の具体的「方法論。」に関わらず学力は向上するのである。

 従って、重要なのは個人の自発的純粋行為の重要性を重んじることであって。「学力。」自体を目的とするのではなく、個人の目的の手段としての学力でなければならないのである。ところがバカな親達は他人の子供との比較にしか子供の価値を求めようとはしない。これは「バカの連鎖。」である。親がバカなままであるなら、子供が賢くなるわけがないのである。

 こうしたことを論じると、「じゃあ、どうすれば良いのか。」と聞いてくるバカが後を絶たない。他人の行動の一体何が問題であるのかを、朝から晩まで全て監視して指摘しなくてはならないとでも言うのであろうか。これこそが最もバカげた無意識性に他ならない。

 自分の行動判断の一体何が問題であるのかを、自律的に認識して初めて本質的「意識。」であると言えるのである。それを「そういうことを認識できるように育てられていない。」などと言うのは、単なる言い逃れや取り繕いでしかない。こうした自律の無さこそが、無意識的な「連鎖。」を生み出すヒトの行動習性を作り出しているのである。

 宗教的な「宿業(しゅくごう)。」とは、こうした無意識的な世代間の「連鎖。」によって受け継がれるヒトの習性のことを指しているのである。

 なし崩し的に権威に服従するのも、そこに本質的意識が働いていないからであり。これをオリンパスは「日本の文化。」と言った。日本人にマナーがないのは、自律的な行動判断が働いていないからである。

 成育環境によって無意識的に刷り込まれた行動価値観というものは、本質的的には自分自身で自発的に選択した価値観とは異なるものである。環境依存的な「強迫観念。」といっても良い。イジメに迎合しておいた方が安全であることを動物的に行動「学習。」すれば、多数に迎合するようにしか無意識的には行動できなくなる。そこから「自律。」が出て来ないのは当たり前である。

 子供のイジメの場合、生物/医学的危険性を伴うものでもある。子供というのは大人が観念的に「思う。」ほど純粋無垢な存在ではなく、むしろ自分の子供時代を事後正当化、美化したいという願望によって「子供とは純粋無垢なものである。」と思いたいだけのことである。子供だけで形成する生物本能的な「社会性。」というのは、あくまで生物本能的な社会形成習性に基づく無意識的で目的意識のない気分的安心を追求するだけの封建的ヒエラルキー社会である。それを短絡的に「社会性。」であると言い張る頭の悪さを、誰も自律的に認識できないばかりか。論理的にも理解「したがらない。」というのは精神的な怠慢と言う他ない。

 こうした精神的怠慢の集積によって、社会安全性というのは蔑ろにされるのである。

 多くのヒトは、それを「些細なこと、つまらないこと。」であると認識するようである。子供の行動にいちいち口を挟むことこそが余計なことであると「思う。」であろう。しかし、動物的に行動「学習。」された行動こそが、将来的に社会においての無意識性の根源となるのである。

 戦争を止められなかったことも、原発を止められなかったことも、イジメがなくならないことも、独裁社会がなくならないことも、全てはヒトの無意識的本能習性によって助長された行動であるからだ。

 大衆凡人の観念的価値観に合理的意味など存在しない。存在しないからこそ大衆観念であるからだ。

 大衆観念的には「学力=生存。」だから、最も重要であると言い張るであろう。個体のその場限りの「生存。」選択行動というものが、必ずしも社会的利益には結び付かず。また、個人が生きるに価する社会の在り方に寄与するわけでもない。

 一人の「人間。」としての行動選択とは、「生きるに価する社会。」の為の行動選択を行うことである。それによって個人の自発的尊厳となるのである。そこに単なる目先の「生存。」は価値を持たない。


//---------

社会性、協調性。

 協調性というと、大衆観念的には人間性と同義であるかのように錯覚するが。単に協調行動を採るだけであればヤクザでもカルト宗教でも、またイジメにおいても行われるものであり。短絡的に人間性であるとは論理的には言うことができない。

 シエラレオネの少年ゲリラであっても、その行動には極めて高い協調性が見られる。

 単に多数他人と協調行動を採ることが短絡的に自律的な社会的責任行動選択には結び付くわけではない。

 「協調性がなければ、生きてゆけない。」などと言う話は、要するに文科系生物学者達の言い逃れであって。「生存。」だけを絶対的正義として扱う生物/医学上における観念に過ぎない。生きていさえすれば人間として「正しい。」ことの論証にはならないのである。

 一人の人間において優先すべきは個人の自律的な社会的責任行動選択であって。目先の多数他人との迎合、多数からの人気取り、多数のご機嫌取りではない。

 本能習性的な社会形成習性というものは、イジメにおける協調行動を助長することはあっても、自律的に社会的責任行動選択を促すためには全く役に立たない「行動習性。」でしかない。

 クソゲー、いわゆるモバイルソーシャルゲームにおける「ソーシャル。(社会性)」というのは。本能習性的に協調行動を促したり、本能的な順位欲を利用しているという点において「社会性。」を持つだけであって。どんなにクソゲーで高い得点を得ることができても自律的に社会的責任行動選択が出来るようにはならない。

 一人の互換不能な個人としての価値。本質的な社会性、自律的に社会的責任行動選択を行うためには。単に目先の多数他人との迎合性を絶対的「社会性。」として扱っている限り養われることはなく。むしろ、目先の多数他人との協調性よりも、多数他者からの評価報酬類に左右されない自発的純粋行為を優先すべきなのである。

 文系の観念からすれば、多数他人に迎合しておけば主観的に「安心。」なのであろうが。こうした「気分。」に基づいた行動選択こそが、無意識的な本能習性によるものであり。社会形成習性を助長してしまうことにもなるのである。

 大人、或は衆人環視環境下において。子供が習性による社会形成行動、協調行動を採る場合であれば。イジメなどの反社会的行動にはエスカレートすることはないであろう。しかし、こうした社会形成習性というものは一旦監視制御する大人の目がなくなった途端に暴力性へとエスカレートするのである。「大人の監視による目的。」を失った社会形成習性というものは、自律的には歯止めが効かずに暴走するものなのである。だからイジメというのはなくならない。

 本能習性に従って行動することは、個体にとって気分的に快楽でもあり。自制する本質的意識とは無関係なシーケンシャルな行動習性しか促さない。

 従って、一般的に形容される多数他人への協調性や迎合性を「社会性。」と呼ぶことの間違いを周知しないことには、「本質的な人間としての社会性。」とは何かすら多数の大衆には認知すらされないのである。

 自律的な社会的責任判断の重要性が認識できない状態において、他人に対して自律的な社会的責任判断を要求することは理論的に支離滅裂なのである。

 子供だけで放置することによって養われる「社会性。」というものは、あくまで本能的な社会形成習性だけであって。それは多数他人との迎合や協調行動だけであり。自律的な社会的責任選択を行うようには養われることは原理的にない。

 イジメを行っている集団に対し、それを批判すれば攻撃対象として扱われる場合。無批判に集団に迎合し、むしろ「積極的。」に迎合しておいた方が、その環境下においては自己の安全性が保てる状況である場合。これは生物学的には「生存。」価に適する行動こそが絶対的正義である。こうした行動「学習。」によって、個人が自律的に社会的責任判断を行うようになると言えるであろうか。否、これこそが多数他人への迎合性を助長し、自律的な判断を不具にする最大の原因である。

 ヒトが形成する本能的な社会構造というのは、封建的ヒエラルキーによる統一性だけであり。こうした本能習性に従っている方が個体の気分は「安心。」なのである。この「気分。」がどんなに強くても、論理的な安全性の論証には全くならないばかりか、むしろ個人の自律的な社会的責任判断の欠落を助長するのである。




 懲役刑が再犯防止に何ら寄与しないのと同様。学力学歴学位といったものもまた自律的社会的責任判断に何ら寄与しないことを。多くのヒトは認識したがらない。自分の学力学歴学位が本当は無意味であったことを認識したくないため、事後正当化するためのあらゆる屁理屈を並べて「取り繕う。」のである。

 「取り繕い。」というのは認知症の典型的初期症状である。他人からの外見にばかり意識が働き、他人との関係性における優位性、正当性を保つこと以外には全く頭が働かないからこそ認知症に陥るのである。

 外見上「普通。」で、「一般的。」で、「平均的。」であることが気分的に「安心。」なのである。しかし、これをどんなに追求しても、人間としての社会性である自律的な社会的責任判断が可能になるわけではない。

 文系の学者研究者達が、執拗に生物学上の社会形成習性を「社会性。」として扱おうとするのは。そうしておかないと自分達の頭の悪さが世間に露呈し、地位を失いかねないからである。こいつらの多数決をどんなに集計しても、そこから論理的な検証による科学的判断はされることは原理的にない。

 東京大学情報学環教授 佐倉統は公然と「学会内部で大勢を占めていない。」と論じた。これは何ら自律的判断も、論理的検証も、科学的判断も伴ってはおらず。ただ漫然と体制に迎合していることを論じただけである。こうしたバカが国家最高学府の教授をやっているのが生物学の現状である。



 どんなに「積極的。」であるとしても、その動機が社会的な評価報酬や地位の保守であるならば。これは本質的には自発的純粋行為ではない。振り込め詐欺がどんなに積極的であろうと、カルト宗教の幹部が命懸けで毒ガスを製造しても、これらは本質的には自発的行動ではなく。環境依存的な脅迫観念による行動「結果。」でしかないのである。


 とかくヒトの多くは自分の観念こそが絶対的な価値であると錯覚しがちである。いままで考えたことのないパラダイムを提供されると観念的、気分的拒絶反応しかすることはなく。論理的な検証や自律的判断を放棄しがちである。

 それはいわば、凡庸性に特化された短絡的な無意識的思考に過ぎない。

 凡庸で「普通。」の行動というのは、概ねにおいて危険が少ない場合が多い。だが、論理的に常に安全であることの論証があるわけではない。ヒトという種の生物というのは、環境によっては意図せず他人に危害を加えてしまう習性を持っている。こうした「習性。」に抗うのは、気分によって促されるような無意識的行動ではなく。論理的に検証する自律的判断である。

 「多くの他人も陥りやすい習性。」であれば、気分的に「安心。」して習性のままに行動することも可能である。こうした気分的「安心。」こそが論理的「安全。」性を蔑ろにするヒトの普遍的習性である。

 だが、習性というのはあくまで「傾向性。」でしかなく。習性のままに従う以外に選択の余地が全く存在しないことの論証ではない。「苦手だから。」だとか「自律を出来るように育てられていない。」といった泣き言に耳を貸すつもりは一切ない。バカの論理をいくら並べてもバカげた帰結にしか到達しないことは最初からわかっているからだ。

end:
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解約手続き。

2012年01月19日 14時23分08秒 | 日記
ビックワイマックスの解約手続きをしようと思って電話したら、解約書類を送付してくれた。

書類自体はワイマックスのサイトからPDFでダウンロードできます。

ビックワイマックス解約書類
http://www.bic-ws.net/download/files/0033/m_kai20100201.pdf

こちらから送付する際の「料金受取人払郵便」封筒の宛名もダウンロード出来ます。
http://www.bic-ws.net/download/files/0035/b_huutou_20130531.pdf

些細な話ですけど、ダウンロードした場合の印刷料金や封筒自体はこちら持ちになるので、とりあえず一回送ってもらった方が良いかもです。

さらに些細な話ですが、送付してもらった書類は白黒コピーですが。ダウンロードするとカラーです。別に白黒で出力しても構わないみたいですけど。

解約書類の冒頭部分にある「お申込み日。」の欄なんですが、これが「契約自体の申し込み日」なのか。それとも「解約を申し込む日」なのかがわからなかったので、もう一度電話で確かめたら解約申し込み書類を書いている日にちを書き込むんだそうです。実際に解約が受理されるのは書類が相手に届いてからになるので、解約日自体は特に指定できないみたいです。

おいらは年間パスポートっていう契約だったので、丁度一年を経過した翌日から一ヶ月の間に契約解除書類が届くようにすれば途中解約料金を取られずに済むそうです。

解約書類には「会員契約解約」と「料金プラン解除」の二つの欄がありますが、複数の料金プランの一方だけ解約する場合のみ「料金プラン解除」の欄に書き込むのだそうで。普通に解約する場合は「会員契約解約」欄を使うことになるそうです。なので、再開したい時には再度登録料¥2835が必要だそうです。

あと、署名の右にある捺印を忘れないようにとのこと。ハンコを忘れる人が多いらしいです。



ワイマックスって、それなりに高速なんだけど。実際にネット上で使うサービスのほとんどは、そんなに速度を必要としないものも多くて。大抵、相手のサーバーの応答が悪くて遅いことも多いので、通信速度自体ってそんなに要らないかなって思う。イオンの低速低価格通信サービスとかで再開するかも知れないし、無料のセブンスポットとかもあるので、とりあえず常時接続はお休みします。

でわまた。

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連携。

2012年01月17日 23時40分32秒 | ネタ帳
 ブログとかで、例えば商品とかサービスについて記事を書くことで自動的に口コミとして動作すると良いかなとか思う。ついでに自動的にアフィリエイトになってるとか。

 口コミサイトとかっていちいち探し出して書き込むのとか個人では面倒。自動的にリンクとか張られると嫌なこともあるかもなので一応承認式にして。実際記事の内容とはあまり関係ないワードがついちゃったりするしね。

 ボットで自動的にリンクすると、結構とんちんかんな動作をすることもあるので。リンク判定アルゴリズムが難しそうだな。

 従来の検索エンジン任せだと、どうも欲しい情報に辿り着けないことも多い。とは言っても勝手に連想検索されても鬱陶しいだろうし。

 ハードウエアの進歩に対して、サイトっていうか、コンテンツの進化が遅れているというか。混乱している感じが否めない。

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7SPOTを使ってみた。

2012年01月16日 15時28分39秒 | 日記
近所のイトーヨーカドーから自前のルーターを介さずにネットに接続してみた。

セブンスポット会員に登録すれば簡単に接続できました。


YouTube(ケンブロック)は最後まで滞りなく見れた。

もともと自前のルーターがワイマックスなので、遅い環境ってのが良くわからない。少なくともワイマックスと同等以上の速度はあるみたい。

 イトーヨーカドー店内でマルシンの宇都宮餃子はいくらで売っているかなとか思って探したんだけど見つからなくて、イトーヨーカドーのサイトに店舗内部の陳列棚の案内とかあるかと思ったんだけど見つからなくて。そうこうするうちトイレに行きたくなったのでショッピングモールの中にトイレってどこにあるのかサイト内にあるかなとか思ったんだけど、これも見つからなくて。

 結局店舗内で接続することの利点っていうのをイトーヨーカドーさんも充分活用できていない感じ。

 店内案内みたいなのをサイトに掲載しておいて欲しかったな。食品フロアって普段使い慣れていないと、どこに何があるのかわからない。

 そういえば7SPOT限定サイトってのもあったんだっけ。すっかり忘れてた。

 チラシって大抵FlushPlayerで提供されていることが多いんだけど、イトーヨーカドーの場合はPDFがダウンロードできるので画面全体で表示できて、これは使いやすかった。
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行動「学習。」。

2012年01月15日 14時03分06秒 | 意識論関連
 瞑想などの無意識的感情抑制というものは、あくまで感覚的な無関心性を脳に刷り込むだけであって論理的な思考による本質的客観性が身につくというようなものではない。

 カルト宗教において信者達が教団以外の人の意見に無関心であることからも、瞑想による無関心性というものには論理的客観性も、それに伴う自律判断、社会的責任選択性も伴うことはない。

 実際禅宗の坊主が特に人格者であることの論証もないのである。

 瞑想によって気分的に不安感がなくなるというのは、あくまで気分的に大脳辺縁系が楽になるというだけのことであって。何ら論理的に安全であることには直接的には関係しない。

 カルト宗教の信者が脱退しないことからも、瞑想による感情抑制というのは客観性自体を直接的養うようなものではなく、あくまで目先の感情の起伏を抑制する程度の効果しか持ち合わせておらず。既に刷り込まれている自己の観念的価値観による無意識的行動選択自体には何ら影響を及ぼさない。だからカルト宗教の信者は脱退しないのである。本質的な意識は全く変わっていないので、行動や思考には影響を及ぼさないからである。

 たとえば、瞑想をやった者がアイヒマン実験において権威への服従をしないようになれば良いのだが。むしろ気分的には「安心。」して権威の命令に服従してしまうことになるであろう。無意識的に抑制されているのは意識の極めて表層だけだからである。

 たとえば原発関係者に瞑想をやらせておけば事故の想定範囲が拡がったであろうか。

 根本的な自己の行動に影響を与えるためには、あくまで論理的な「考え。」による自律的な判断が必要不可欠である。決して気分の問題ではない。

 多くのヒトは、権威の命令に忠誠忠実に服従してさえおけば全ては「安全。」であると錯覚する。だが実際にはこれは気分的な「安心。」でしかないということは論理的には誰も認識したがらない。

 原発事故調査委員会の畑村洋太郎は、「一人一人が自律的に判断することが大切。」であると論ずる。この場合における「自律。」的判断というものは固定観念的に刷り込まれた条件反射的な無意識的価値観によって促されるようなものではなく。あくまで論理的に「考え。」ることによって導き出される本質的客観性によって導き出されなくはならない。

 「いままで、ずっと大丈夫だった。」からといって、「これからも永遠に大丈夫である。」という理屈は論理的根拠ではなく実証不能の観念にしかならない。これこそが気分的「安心。」による論理的「安全。」性の放棄を促すのである。

 権威を信用できないとなると、多くのヒトは気分的に「嫌。」になる。気分的価値観だけで判断していると、一体誰を信用すれば良いのかわからなくなるからである。気分的に「嫌。」になると、多くのヒトは行動や思考と気分が直結しているので行動が乱暴になったりする。こうした傾向性を指して「心が荒む。」などと形容し、論理的自律判断の重要性などの気分的に嫌な話を無視しようとするのである。この判断自体が既に本能的拒絶反応にしかなっていない。

 マスコミ関係者のほとんど全員や、生物学系研究者、哲学研究者達というのは自律的判断を行うべき論理的思考が全く機能していない。それは本能的な拒絶反応が働いているからである。

 「文科系。」と分類されるヒト達というのは、論理的に検証することが大嫌いで。観念的、本能的に世間多数や権威に迎合服従することが大好きである。ヒトという種の生物における本能的な社会形成習性に従って無意識に行動選択をしていれば自律的判断は優先されることはない。だからアイヒマン実験では6割もの被験者が最高電圧のスイッチまで押してしまう結果になるのである。実験だけではなく、事実ナチス政権下のドイツ人達はは600万人ものユダヤ人を死体に変換したのである。その原因をただ漫然と「わからない。」と無視しておくことは簡単である。「わからない。」ことにしておけば自分達の自律には言及しなくて済むからだ。

 ナチス政権下のドイツ人だけが特別に異常なヒト達であったと観念的に区別しておけば、「自分だけは大丈夫。」であると勝手に思い込むことによって「安心。」することができるであろう。それによって気分的に平穏でいられるのであれば、「ヒトとしては健康。」であろう。



 半年程前に工業系展示会に行ったのだが、最近の工作機械の精度の高さに驚かされた。ところがこうした工作機械を取り扱っている社員達は「そんなもの、今時当たり前。」といったそぶりであった。

 彼等にとって現在の機械精度というものは、産まれた時からあった「普通のもの。」であるため。その凄さというものを実感として認識していないからであろう。

 甥っ子が5歳頃のことだったろうか。自動車というものを工場で人が組み立てている事実に驚いていたことがある。甥っ子にとって自動車というのは産まれた頃から既にあった普通のものであるため。これは自然生成されたものとの区別ができていなかったのである。

 現代の社会に産まれたヒト達の多くは、社会というものは既に存在していたものであり。これは永遠の昔から存在していた不変のものであるという感覚が刷り込まれている。だから自分の選択によって社会全体に影響を及ぼしたり、変えたりすることはできないと、頭から決めてかかっている。

 「正直者はバカを見る。」ことは非常に多い。だから、「正直でいることは損である。」としか思わない。現在の体制に迎合しさえしておけば、「いままでずっと大丈夫だったから、これからも永遠に大丈夫である。」と気分的観念的に安心して迎合するのである。

 子供の頃にイジメに反対しても、大人は誰も助けてはくれなかった。大人達は徒党を組んでイジメを組織的に遂行する封建的社会形成習性を、「社会性を養う。」などと称して放置したからである。その結果、多くの子供達は「目先の多数他人には迎合しておかないと酷い目に遭う。」という行動「学習。」を刷り込まれることになる。

 行動「学習。」とは無意識的な行動選択、「安心。」のバイアスを作り出すものであり。動物行動的な無意識的選択を司るものである。イジメに参加しておけば自分はイジメられないのであれば、「生存。」価にとっては動物的な行動選択として「正しい。」ことになる。こんな生物学の正義を放置しておいて良い訳がない。



 日本人は規則は守るがマナーはない。これは規則という権威性には従順であるが、自律的に判断するマナーは全くないことの現れである。日本人の多くには意識がないのである。

 暴動が起きにくい代わりに自殺者が多いのでは自慢にはならない。

end;
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大きな画像。

2012年01月14日 21時18分02秒 | 写真
 gooブログだと一定のファイルサイズよか大きな画像をうpできないので、ファイルサイズを問わないヤフージオシティーズの方に画像本体をうpしておいて、そのリンクだけブログに載せるっていう実験です。

一千万画素の画像をそのまま掲載しているので、ロードに時間がかかるので注意。

 池袋にある車両基地の写真です。空の色が凄いので撮ってみた。で、雨に降られたかというと、ポツリポツリって感じで終了。

 雨が降らないですね。カラッカラです。
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無責任。

2012年01月14日 19時31分18秒 | 意識論関連
 アイヒマン実験のような、大衆ウケの悪そうな前提の研究はお金儲けになりそうにないので誰もやりたがらないのかも知れないが。純粋に「人間とは何か。」を追及するのであれば、「ヒトと人間との違い。」に言及しなくてはならない。

 たとえそれが大衆の気分を害するようなものであっても、言及しなくては本質的には「社会的な要請。」に応えたことにはならないのである。

 美術や芸術であれば、ウケ狙いで金儲けができたかどうかだけが「結果。」であろう。それはそれでどうでもよろしい。問題なのは科学的検証が大衆迎合によって捩曲げられてしまうと科学ではなくなってしまうということである。

 「脳が活性した=頭が良くなった。」などという大衆観念的なペテンを鵜呑みにしてはならない。性行為によって脳が活性が得られるからといって、たくさん性行為をすれば頭が良くなるわけでもないし。脳トレによって脳活性が観測できたからといっても実質的にはテレビゲーム程度の効果しかないのである。

 それなら脳活性と知能とは無関係と考えるべきなのである。脳内マッピングによって何かがわかったような錯覚を促すことが多いようであるが、こうした観念にいつまでもしがみついているべきではない。

 「これさえやっときゃ。」的な、論理的思考を伴わない短絡的「鵜呑み。」が可能な話を大衆が求めるからといって。勝手な観念に基づいて大衆迎合すべきではない。税金で研究する立場の者にとって、こうした短絡性は無責任でしかないからである。

end;
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脳内部での現象論。

2012年01月14日 19時04分54秒 | 意識論関連
 脳地図上での領野特定云々の話で、前の記事に「前頭前野を中心として脳全体の活性。」が本質的意識機能と関連するのではないかって書いたんだけど。

 そういえば性行為中の脳は脳全体の活性が見られる。

 論理的に何かを考えている時に、こうした脳全体の活性が起こるような興奮状態にはならないのではないか。

 どうも脳活性云々という現象からは本質的な意識機能状態を観測するのは、そう簡単には抽出できないのではないかと思う。

 そもそも、「教えられたこと以外に気付く。」とか、「教えられたことの論理的間違いに気付く。」こと自体が非常に稀で、この状態の脳を観測するのは極めて困難であろう。

 それこそノーベル賞を獲得するような大発見というのは極めて稀な現象であるから、こうした稀な現象において脳の活性がどのような状態であるかを観測することはとんでもなく困難であろう。

 脳の特定部位活性の観測といものも、結局は脳内部での現象論でしかないので。心理学的アプローチであっても脳科学的アプローチであっても、それぞれの長所がある。決して脳内活性部位だけでしか意識機能が特定不可能であるかのような観念を持つべきではない。

 むしろ、脳内の特定部位活性というのは、動物的な行動を促すために進化的に獲得した機能であると考えるべきであり。こうしたシーケンシャルな脳の活性からは人間としての脳の使い方、人間としての知能、人間としての自律的社会的責任選択というものを抽出することは反って難しいと思われる。

 自律的に社会的責任選択をする人と、そうでないヒトとの違いを観測するには。脳内部の活性部位の特定よりも、むしろ実際の行動価値観といった、物理的ではない検証方法の方が有効なのではないか。

 MRIなどの物理的観測からは、アイヒマン実験以上に意識の重要性について論じられるような成果は全く上がっておらず、ただ脳科学者達による勝手な決めつけしか出て来ないからである。

 脳活性云々という現象をいくら枚挙しても、具体的に人間としての行動責任に言及可能な成果など全く抽出されてこないのである。そもそも脳トレ類における脳活性はテレビゲーム程度の効果しかなかったことが立証されてしまっているのである。脳活性という現象に対してあまり過剰な期待をするべきではない。

 むしろ、脳内部において特定可能な部位が観測可能であるという、その条件反射的な無意識的思考パタンこそが人間としての知能を阻害していると考えるべきであって。「前頭前野の活性=意識。」といった短絡的な帰結を鵜呑みにすべきではない。

 そもそも現在の脳科学者達は、生物学における根本的間違いについて誰も言及してこなかったポンコツだらけであることを認識すべきである。こいつらに任せておいても本質的な人間の知能や意識といったものに対しての論理的考察はできないと考えるべきである。

 脳内部の現象を観測することで、あたかも脳の活動自体を「直接。」観測したような錯覚に陥って。これを「実証。」だと言い張るようなバカが脳科学者の代表みたいに扱われているのが現状である。こいつらを権威であると錯覚してアテにしてはいけない。澤口俊之の言っていることには論理整合性とか論理検証性といったものが欠落しているのである。そもそも澤口は養老孟司を「理解できないが、素晴らしい。」とか言っていたバカでしかないのである。あんなものは「ホンマでっかTV。」とかでさらしものにでもしておけばよろしい。あんな番組に出ていること自体が大衆迎合でしかないのである。

end;
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まあ、いいや。

2012年01月14日 14時06分05秒 | 意識論関連
 脳内部において特定可能な領野というものは、それが特定の条件に対して反射的に反応しているからこそ領野が特定できるのであり。領野が特定可能であるということは、それが条件反射的な無意識処理であることを指し示している。

 本質的な意識機能というものは、このような特定条件下において反射的に演算されるような処理ではなく。環境条件といいったものに依存しない高次普遍的な演算でなくては本質的には「意識。」ということはできない。

 背内側前頭前野の機能というものは、価値観全体を客観的に見るための機能であるとは言えない。普段「通常。」において客観性を司っている機能であるとしても、特定条件において客観性を失う原因となっているということは、これは客観性自体を司っているのではなく、「概ね客観的に機能する主観。」機能であると考えるべきである。

 ヒトは普段通常条件においては客観性というものが働く「傾向性。」がある。だから背内側前頭前野の機能も通常は客観的に機能する。

 だが、通常以外の条件になった場合に客観性を喪失してしまうということは。客観性自体自体を司っているわけではなく、「通常は客観的に動作する主観。」としてしか機能していないということである。

 そもそもこうした脳内における特定可能な機能部位というものは、常習性によって行動「学習。」された条件反射的無意識機能に「整理。」されているからこそ部位が特定可能なのである。

 自己客観性を喪失してしまうということは、その機能自体が客観性を司っているのではなく。背内側前頭前野は主観を司っており、その主観が暴走することによって客観性を喪失してしまうと考えられる。

 ヒトは通常概ね特定の価値観だけに囚われずに客観的視点を喪失しない「傾向性。」がある。主観的に無意識的に判断していても、概ね客観性は自動的、条件反射的に機能するのである。

 問題は通常とは異なる条件下になった場合。それまで無意識的条件反射だけで充分に発揮された客観性が喪失してしまうことであり。こうした客観性喪失の原因は、通常条件下においてのみ「特化。」されてしまった主観によってシーケンシャルに引き起こされるものなのである。


 「意識。」というと、一般的には無意識的条件反射的な意識や、感情のことを「意識。」と形容する。強い感情が伴い何かに囚われている意識狭窄状態に陥っている場合。それが意識の全てであるとヒトは思い込む。強い感情が伴う事柄「実感。」を伴う意識こそが、自分の本当の意識であると錯覚するのである。

 振り込め詐欺に引っ掛かっている被害者の意識状態というのも、感情的な意識によって本質的意識である論理的思考が喪失している状態であり。詐欺によって特定の価値観だけに意識狭窄状態に陥れられているからこそ論理的思考ができなくなるのである。

 背内側前頭前野の機能というのは、結局前頭核の機能と類似した無意識的な感情優先的な主観機能に過ぎず。何ら論理的思考を伴う本質的客観性自体を司ってはいない。


 ヒトはデフォルトでは動物であるから、主観的な感情によって行動が決定するようにできている。そして概ねにおいては通常ヒトは客観的に物事が判断できるものである。

 「概ね。」「通常。」可能であるからといって、それが常に可能であるというわけではない。「概ね。」とか「通常。」ではない条件下においても客観性を失わないためには、普段の生活においても通常不要なまでの注意深さが必要となる。

 しかし、ヒトの多くは概ね安全でありさえすれば気分的に満足し、通常条件以上に安全性を追及することはない。

 「概ね安全であれば、常に安全である。」と錯覚するのである。こうした錯覚は気分的な「安心。」と論理的「安全。」性を論理的に区別していないことによって引き起こされ、錯覚を錯覚であると認識できていないことが問題なのである。

 無意識的な気分というものは、シーケンシャルに錯覚を促すものである。アイヒマン実験においても普段権威に服従しておけば自分に責任はないものである場面が多いことから、シーケンシャルに服従してしまうことによって、当人が意図しない暴力に至ってしまうことになるのである。

 常習性というものは、いわば脳内におけるループ処理を作り出す機能である。ループがループを作り出し、再帰呼出しを誘発することによって、感情的な行動というものは自己増殖的に意識狭窄をも発生させる原因ともなる。

 脳というのは常習性が作り出す感情によって暴走するような構造を最初から持っているのである。

 特定の感情に意識を奪われないようにするためには、自分自身を自律的に制御することを習慣づけておく必要性がある。これに最も有効なのが本質的に自発的な純粋行為への熱中である。誰に褒められるわけでもないのに好きで熱中する生き甲斐というものがあれば、その行動は社会とか時代には左右されることなく自分自身で自分を制御しなければならず。結果的に自律的な自己制御を身につけることにつながるのである。

 「他山の石。」の解釈には諸説あるようだが。外見上無駄に「見える。」ことであっても当人の徳にとって重要なことでであるという解釈もある。

 まあ。いいや。


 普段から論理的思考を行うためには、何かに集中して頭を使っていることが必要である。大抵のヒトは暇だと「人生なんてつまらない。」だとか、「自分はダメな人間だ。」とか、社会全体からみればどうでもいいような無意味な主観的価値観に意識を奪われ勝手に鬱だのパニックだのに陥るように出来ている。「ヒト。」とはそういうものなのである。

 これは脳の余剰の使い方を間違っているからである。

 「自分はダメな人間だ。」などというのは「考え。」ではない。これは勝手な「思い込み。」であって、論理的に自己自身がダメであることの論証など伴わないからである。

 他人と自己を比較しても無駄である。上を見ても下を見てもキリがないからである。むしろ「自分だけは振り込め詐欺には絶対騙されない。」とか勝手に思い込んで満足している方がよっぽどダメなヒトであって。重要なのは気分的に凹むことなどではなく、自分のダメな部分をきちんと理解し、把握し、対策を立てて失敗の再発防止策を「考え。」ることが本当の意味で「自分を磨く。」ということなのである。

 純粋行為にはこれがある。好きでやっていること、趣味に手抜きはないからだ。

 多くのヒトが無意識的な漫然とした脳の余剰の使い方しかできないのは、自発的に自分の脳を使っていないから、どのように脳を使えば「考え。」が成立するのかがわからないのである。逆に普段「思い。」だけで行動が左右されていることによって、感情的な「思い。」だけでしか行動選択ができなくなってしまうことになる。

 本能的な社会形成習性によって多数他人への迎合や権威への服従といった行動に反射的に従っているだけだと気分的な「思い。」が優先してしまうことになるのである。

 錯覚とか「思い込み。」というのは本能習性が作り出すものである。

 意識狭窄が生じて特定の心配事に意識を奪われている状態において、背内側前頭前野の活動が見られるのであれば。背内側前頭前野はそもそも客観性自体を促す機能ではない。

 瞑想などによって感情を抑制するというのは、個人的関心事全てを抑制してしまう「傾向性。」「癖。」を作り出しているだけであって、論理的思考による客観性自体を強化することにはならない。

 つまり、のべつまくなし無関心になる「癖。」、「傾向性。」を行動学習するだけのものである。これでは自律的に行動選択ができるようにはならない。

 単なる傾向性としての無関心であれば、これは結局「感情=行動。」であること自体に影響を与えない。だからカルト宗教の信者達は感情的な優先順位だけで行動が選択されるため、カルト宗教はやめずに気分的に嫌な話だけに無関心なのである。

 瞑想の持つ危険性というのは、論理的思考による感情抑制ではなく。あくまで環境依存的に「傾向性。」を行動学習して思考や行動を「整理。」しているだけだからであり。これでは自律的な自己感情抑制にはならないからである。

 無意識が引き起こす問題行動を、無意識的な行動学習によって一面的、表面的に改善しても、これはバランス問題にしかなっておらず。バランス自体を一体どうやって制御するのかが全く配慮されていない。

 大衆観念的にはバランス問題にしておくと気分的に「安心。」らしい、バランス問題にしておけば自分で何でもバランスをとることが可能だと勝手に思い込んでいるからであろう。普段日常的にバランスがとれているからといって、それが常に発揮できる保証など論理的に全く確保されていないにも関わらず、気分的に「普段できることであれば、常に絶対できるものである。」と錯覚しているだけであることは、多くのヒトは認識していないのである。




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 脳科学者達が一面的な観念に基づいて勝手に規定した基準に「○○認知能力。」とか名前をつけたからといって、それを鵜呑みにするべきではない。

 IQ、EQ、SQといった基準も同様である。IQというのはそもそも兵隊として使えるかどうかを測るためにつくられた基準であって、これが知能というものの本質であることの論理的根拠など最初からないのである。

 兵隊として優秀であることが人間として優秀であることの論証にもならないし、一級建築士の試験に合格したからといって人間として自律的に社会的責任を負うことができる論証にもならない。

 従って、「○○認知能力。」という基準でどんなに高い得点を得ることができたとしても、これは極めて一面的な能力基準でしかないことを忘れてはいけない。得点という抽象化された評価数値によって順位付けをされることが多くのヒトにとって気分的に「うれしい。」という快楽を与えることを利用して、これを単なる検定ビジネスに応用しているだけの場合が非常に多い。「褒められてうれしい=自分の頭が良くなった。」という短絡的大衆観念に意味などない。


 意識が変わらなければ行動や思考は変わらない。個人の行動に影響を与えないのであれば、多数の個人によって構成されている社会全体も変わることはない。多数他人の悪口を並べる前に、まず自分自身の意識、行動、思考の何が間違っているのかを「意識的。」に検証することが重要である。

 ヒトの大衆観念に基づけば、本論は「滅多に自分の身の上には起こることのない小言、つまらないこと、重要ではないこと。」であると「思う。」のであろう。その「思い。」がどんなに強くても、それは「考え。」に基づいた論理的判断ではない。

 論理的判断を伴わないから大衆観念なのである。

 こうした無意識性こそが人類社会を暴走させ、崩壊への無意識な「流れ。」を作り出すのである。


 ヒトという種の生物の多くは論理的に「考え。」ることが嫌いである。主観的に気分が悪くなるからだ。その代わりに観念的に強く「思う。」ことを「考えた。」と勝手に錯覚して満足する。

 「思考。」という熟語には「思う。」ことと「考える。」ことの両方が含まれている。「思った。」ことが論理的にどういうものであるのかを「考え。」なければ、これは「思考。」ではなく単なる「思い込み。」「固定観念。」にしかならない。

 「考え。」ることを習慣づけるためには、日頃から自発的に何かに集中、熱中しておくことが重要である。酒やパチンコやクソゲーに溺れ、他人の迷惑に意識が働かなくなるのは、他人からの見た目、外見にばかり意識を奪われているからである。

 ヒトの多くがなぜ「他人からの外見。」に固執するのか、それこそが本能的な社会形成習性によって促される反射的行動であるからだ。

 クソゲーが流行する原理とは、数値を用いた他人との順位欲を利用して、本能的競争心を煽るからである。これはギャンブルの中毒性や常習性と全く同じ構造である。資本主義社会においては金さえ儲ければ全ては正義であると価値づけられるが、これは本質的には「社会の要請。」には応えていない。

 大衆の欲望を利用して儲けることは、本質的には「社会の要請。」ではない。

 クソゲーを流行らせているのは、大衆の無意識的な行動である。それはヒトという種の生物が持つ本能習性、傾向性という「既に存在しているだけの自己。」という無意識性に流されているだけであるからだ。


 初めて経験するものに対して、脳は前頭葉を中心として全体が活性する。わからないものが一体何であるかを認識しようとする時には、脳全体を使うものなのである。従って、単に部分的活性が前頭前野で生じているとしても、それはむしろ無意識的な動物的反射行動を促すだけの活動であると考えるべきである。

 前頭前野で起こることの全てが意識活動であるとは言うことができない。ましてや脳地図上に特定可能な領野であるならば、これは既に反射的思考として「整理。」されてしまった「凡庸性に特化。」した「普通の反応。」でしかない。

 実験において、あれこれと興味のままに楽しむ姿勢は必要である。それによって意外な発見というものが導き出されることが多いからだ。しかし、論理的検証において大衆迎合的なウケ狙いで短絡的帰結を導き出すのは科学者として許されるものではない。今の脳科学者達の多くは大衆迎合的なウケ狙いばかりが「目的。」になっており、脳というものの動作についての純粋な考察検証といったものが欠如しており、無責任である。

 最悪なのは、予め立てた観念的な予測に対し、都合の良い結果だけを抽出してくるご都合主義である。「前頭前野に特定可能な領野があれば、それは全て意識機能である。」という勝手な観念に価値はない。それは大衆を丸め込んで金儲けをするには便利な観念かも知れないが、科学的には何の価値も存在しないのである。


 現状において、生きた脳の活動を測定するためには脳血流の観測程度しかない。澤口俊之は「心理学は現象論で、脳科学は実証だ。」などと勝手な順位付けをしたように、脳科学者達は自分達の測定こそが「実証。」であると勝手に勘違いする。脳の血流増加や、それに伴う領野特定であっても、所詮は脳内部における現象論であることに変わりはない。脳内部の現象と、実際の入出力行動における現象との関連性を論理的に考察しなければ、脳の本当の動作を知ることにはならない。

 現象と現象の相関関係を論理的に説明できなければ科学的論証にはならないのである。特定の現象だけを取り上げて実証だと勘違いするべきではない。これは典型的な観念主義者の実証方法である。養老孟司が「死体を担ぎ出す。」のと同じである。これこそが「このスワンは白い。」と論じているだけの短絡的オカルト観念の根源である。

 起こった現象の一面だけを取り上げて実証であると言い張るのがオカルトの典型的手法である。それこそが「思い込み。」という感情的な意識の狭窄状態なのである。



 背内側前頭前野にせよ、前頭核にせよ。その働きは程度に違いはあれど意識狭窄を促す原因になるという点において似たような動作であると考えられる。

 ヒトの意識の9割以上は無意識であることを考えると、意識が働いている状態というのは、脳の動作全体を見渡した上で考えれば、脳全体に活性が働いている状態こそが「1割以下。」であり。これこそが本当の「意識。」が働いている状態と考えるべきある。(*:後の記事で訂正。少なくとも「1割以下の稀な現象こそが本質的な意識機能である。」という考え方は間違っていないと思う。)

 どのような状態において脳全体が活性し、逆にどのような状態において特定領野に「整理。」されてしまうのか。それを研究すべきである。簡単に特定領野に活性が「整理。」されやすい脳ほど短絡的であると考えられる。

 背内側前頭前野などの特定領野だけに「整理。」されてしまうことこそが、思考が短絡的で無意識なのである。だから客観性を喪失することにもなる。

 本質的な客観性を保つことができれば、特定領野に「整理。」されることなく前頭前野を含む脳全体で統合的な思考探索が行われるはずだからだ。

 特定領野に「整理。」されているということは、こうした思考の探索性が失われていることも意味する。

 「凡庸でありきたりな形式的な考え。」に「整理。」されているということである。形式化された「考え。」、パタン化された「考え。」というものは、本質的には思考探索が伴わず。予め用意された固定観念に基づいた帰結しか出力されることはない。こうした無意識的な反射的思考には、本質的な「考え。」が働いていない。

 「考え。」が働いていないから「思い込み。」にしかならないのである。

 こうした無意識的な「思い込み。」こそが原発を暴走させ、戦争を引き起こし、イジメの原因になったりするのである。

 愚かであることは罪なのである。とは言っても学習障害などの先天的な認識能力のことを論じているのではなく。あくまで「理解可能でありながら、気分的に理解することを拒絶する愚かさ。」が罪であると言っているのである。

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副作用。

2012年01月12日 16時40分56秒 | 日記

 こういうのって副作用はないのかな。LDLが大量に血中に回ったりしないのかな。こわいわー。

 太るっていうのは動物的行動習性が現代社会に適応できてないからシーケンシャルに太るのであって、逆に自転車とかにハマったりするとみるみる痩せてみたりする。

 自転車っていうのは大発明なんだから、社会体制として優先するようにすればいいんだと思う。別に疋田智の肩持つわけじゃないけどさ。
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凡庸性。

2012年01月12日 16時11分05秒 | 意識論関連
 以前にも言ったことがあるんだけど、脳内において特定可能な領野というのは、いわば汎用的でパタン化された動作回路であるからこそ領野が特定できるのであって。領野が特定可能であるということは機械条件反射的な無意識機能であることの論証でもある。

 生物学/医学系しか知らない研究者だと、このことは感覚的に掴みづらいのかも知れないが。電子工学系の知識も持つ研究者ならわかるのではないか。

 シーケンス演算回路というのは、特定の演算においては高速で高機能を発揮できるが。これは特定演算に特化されているからこそ高速高機能なのであり、回路自体は非常に単純に「整理。」洗練されたものだと言える。だが、それゆえに条件反射的でもあり、短絡的でもある。

 シツケを間違えたイヌが飼い主の手を噛むという条件反射的行動習性というものも。いわば環境の変化に対して対応することができず、予め組み込まれた本能習性のままに「暴走。」しているのである。

 背内側前頭前野の働きが原因で意識狭窄が生ずるというのも、この領野の条件反射性による「暴走。」が原因であり。対処対応能力の欠落を意味する。

 予め組み込まれた条件反射的な処理機構というものは、汎用的な特定機能に特化したものでしかない。


 汎用なのか特化なのか、と問われそうであるが。汎用的に「普段使用する機能」として特化されたという意味であり。あらゆる条件において常に本質的な汎用性を発揮できるようなものではない。

 言い換えれば「凡庸性。」に特化されているのであって、本質的には「汎用性。」にはなっていないということである。


 イヌは特定環境状況下においては、従順で扱い易い性質も発揮することが可能ではあるが。特定環境以外においては対処対応するという意味において汎用性を持つことができず。本能習性の「暴走。」を自律的に止めることはイヌの脳にはできない。

 つまり、「概ね汎用的。」な機能だけに「特化。」されている場合。「概ね。」という普段普通の一般的状況環境下においては高速高機能を発揮できるので。普段普通の一般的状況環境下においてのみ「特化。」学習され、神経回路が「整理。」されている状態が無意識状態なのである。


 脳内部において特定可能な領野というものは、常に無意識的条件反射演算しかしないからこそ、無意識行動的に神経回路に「整理。」され、それ以外の演算に対応する機能の喪失も伴う。

 本質的意識機能というものは、おそらく特定の領野によって条件反射的に動作するような演算回路ではなく。状況に応じた本当の意味における汎用的演算能力というものは、脳全体のどこで演算されているのかを特定することは不可能であると考えられる。故に本質的意識機能というのは遅くて重たい処理なのである。

 本質的客観性としての論理的思考能力というものは、感情本能のバイアスとは全く異なる演算処理であり。これはそもそもドーパミンの常習性などによる「整理。」とか「行動学習。」とは全く異なる演算処理である。従って脳内部の特定領野によって論理性を伴う意識的思考が行われるようなものではなく。「より広い意識。」を保つ本質的客観性というものは、むしろ特定領野などによって意識狭窄的に囚われるような演算処理とは正反対のものである。

 こうした本質的意識機能、論理的客観性というものは。感情本能やそれによって作り出された無意識的条件反射に左右されないからこそ発揮されるものであり。自己自身の感情を自律的に抑制することによって実現可能となるものである。

 無意識的な条件反射行動というのは、その危険性を論理的に認識していなければ気分的には「安心。」なものである。「今まで、ずっとそうだった。」ことというのは気分的には「安心。」なものなのであり、論理的合理性を伴うようなものではない。イヌが服従対象を求めるのも、既に本能的に組み込まれた行動習性の機械条件反射的な反応であって、これに論理的合理性など存在しない。後天的な行動「学習。」による無意識的条件反射であっても同様である。

 コンピュータ回路における汎用性(凡庸性)というのは、あくまで機械条件反射演算における汎用性であって。人間の知性のような本質的汎用性を持った対処対応能力とは全く異なるものである。だからコンピュータは高速短絡的で「バカ。」なのである。CPUにおける汎用性というものは、あくまで機械条件反射的演算における汎用性でしかなく。本質的な人間の知能のように、知能自体を自発的自律的に創出することは原理的にできないし、設計上想定されてもいない。だから未だにプログラミングは人間が手作業でコーディングしているのである。現在のコンピュータは自律的には自分の動作を決めることはできないのである。

 コンピュータは人間が行う全てのことを代行できるわけではない。教えたこと以外を自律的には全く行えないからである。そうした「汎用性。」しか持ち合わせておらず、これはヒトの場合には「凡庸性。」と言わざるを得ない。


 普段の日常生活において「概ね。」危険を伴わない状況が長く続くことによって。その「普段の日常生活。」上においてのみ「特化。」されてしまえば、「普段の日常生活。」以外の状況や環境への対処対応能力は喪失することになる。

 権威に服従しておけば「概ね。」危険性はない。それをあたかも絶対的に危険性が存在しないかのような錯覚に陥らせるのが無意識的な気分的「安心。」による行動バイアスの「学習。」や「整理。」というものである。アイヒマン実験における被験者の行動「結果。」というのは、こうした無意識的な行動によって作り出されたものなのである。

 日常生活における行動「学習。」によって「整理。」された思考というものは。あくまで大脳辺縁系によって無意識に作り出された機械条件反射的行動でしかない。ドーパミンの常習性によって作り出された気分的「安心。」でしかないのである。アイヒマン実験の被験者のような状況というのは、日常生活上はあまりない特殊な状況である。権威者の命令に従わず無視するというのは、気分的な嫌悪感を伴うものである。それでもヒトは自分自身の自律的判断によって社会的責任を優先すべきであり。それで初めて「人間。」としての社会性を発揮することが可能となるのである。

 「そんな特殊な場面には自分は陥らない。」と勝手に決め付けることも簡単であろう。振り込め詐欺の被害者達のほとんど全員も「自分だけは大丈夫。」だと勝手に論理的根拠もなく決め付けていたからこそ簡単に引っ掛かったのである。

 背内側前頭前野の機能による意識狭窄、不安感で意識が奪われる状態に陥るのも。その条件反射的な機能によるシーケンシャルな「流れ。」によって、不安感自体によって意識狭窄がさらに暴走するような自己増殖暴走性を持っているからである。こうした「特殊な場面。」に対応する機能は背内側前頭前野には組み込まれていない。

 耳鳴りというのも、いわば脳内における共振、発振現象である。耳鳴りは意識するとなかなか消えてくれないが、他のことに集中しているとすぐに消えてなくなる。

 感情的意識(無意識)を逸らす。意識的に感情的集中を解くといった脱集中として、他の自発的に熱中できることに集中してみるというのは効果がある。うるまでるび氏の「仕事のヘビーローテーション。」というのは、無意識的意識としての感情を抑えるためには有効な手法だと思われる。

 感情というものは自己増殖的な暴走癖というのがあり、感情的に特定の価値観に囚われると客観性を失うことになる。客観性というものは、こうした感情的暴走を自律的に抑制するための手法手段を持つことによって獲得することが可能である。コンピュータが暴走するのも、コンピュータが純粋に機械であり条件反射的な無意識動作以外をできないために、自律的には暴走を止めること、客観的に自己動作を抑制することができないのである。バカというのは本質的な客観的がないからバカなのである。

 感情を優先しないことを「冷酷。」であると、一般的には「思われ。」るらしい。これは「合理性=利己的欲望。」という大衆的固定観念による思い込みであり、自分の気分的「安心。」を追及する本能的反射行動を事後正当化するための屁理屈でもある。「自分だけは常に正しい。」と、ヒトは思い込むのである。

 「いままでずっと大丈夫だった。」ことをいくら抽出枚挙しても、それによって「これからも永遠に大丈夫である。」ことの論証にはならないのである。

 
 脳科学者の多くは、脳内部の特定領野の現象論だけで全てを説明することに囚われているようである。無意識的条件反射ではない本質的意識機能というものは、構造的に特定領野の血流増加によって説明されるようなものではないと考えられる。現象によって立証されるのは傾向性の抽出だけである。本質的意識機能というのは決して傾向性を持つようなものではなく、むしろヒトにおいては非常に稀な現象であって。傾向的現象から抽出しようとするのは間違いの素にしかならない。

 何か機械条件反射的に「特定領野=意識。」といった図式によって意識が抽出可能であるという観念に囚われているとしか思えない。そのパラダイムは捨てるべきである。

 傾向的現象から抽出可能な特定領野から説明される無意識性のほとんどは、むしろ「悪い結果。」を導くものであることを前提に考えるべきである。これはウケ狙いでやっている純粋さのないエセ研究者には難しいのかも知れないが。科学的研究においては大衆からのウケを求めず、論理的にも純粋に「考える。」ことを避けてはならない。特定領野から何かを説明できると大衆を観念的に説得するのには効果的ではあるが、こうした「手口。」に溺れるべきではない。

 「瞑想さえやっときゃ健康だ。」などという短絡的結論を導き出すようでは、科学者として出来損ないである。考えが浅過ぎて話にならない。こうした短絡的結論の方が大衆ウケは良いことはわかっている、こうした大衆ウケを求めてしまうというのは研究自体に純粋な興味、自発性が欠落している証明であり。極めて不純と言わざるを得ない。


 「ヒトというのは、デフォルトでは騙されやすく、間違いに陥りやすいものである。」ことを前提に考えなければ、ヒトが起こすあらゆる過ちについて検証することはできない。ヒトの「傾向性。」や「習性。」といったもの、無意識的条件反射行動の全ては「悪い結果。」「間違いの素。」であることを大前提にすべきである。それは世間的にはウケが良くないのかも知れないが、無意識性を排除する方向性を提示できなければ意識的な自律判断は促されることはないのである。

 マスコミは何が何でも気分的「安心。」と論理的「安全。」性をセット販売にしたいらしいが。これもまた世間的ウケ狙いであり、大衆迎合である。論理的「安全。」性を追及するためには気分的な「安心。」だの「不安。」といったものは意識的には無視するという客観性が必要不可欠である。

 マスコミ文科系観念として、多数の科学者の意見を多数決的に集めてくれば、それで科学的裏付けになると思っているようであるが。現在の脳科学、生物学というのは実証不能の観念を全く認めていないオカルト学会であることを認識すべきである。オカルト学者の多数決から論理的裏付けなど取れるわけもなく。それは「科学的論証。」にはなっていないのである。

 「多数の要望に応えること=社会的責任を負うこと。」という短絡的なものではないのである。科学的論理的に安全性を追及するためには、大衆の観念的意識に異を唱えなければならないこともある。それを忘れて目先の大衆迎合に溺れていて「自律的な社会的責任判断。」にはならない。



 反論風味な話で「多くのことを説明できる理論は、危険である。」などと言い出すバカもいるらしい。それなら「多くのことを説明できない実証不能の観念は安全である。」論証などどこにある。

 文科系の者というのは、相手の言っていることを論理的に検証することを嫌い。すぐに観念的に迎合して思考を停止させてしまう。「なぜ危険であると言えるのか。」といった論理的追及を全くしたがらない。こうした雰囲気主体の迎合性こそが最も科学的客観性を失う原因なのである。

 客観性を喪失する原因となる脳機能を指して、「客観視くん。」などと形容するのは間違いであるという客観性が欠けている。客観性を喪失する原因となる機能であるなら、それは「主観くん。」であることくらい自律的に気付いて頂きたいところである。

 権威者の言っていることを鵜呑みにすることしかできないなら、報道としての社会的役割を果たしていない。だから「マスゴミ。」とか呼ばれてしまうのである。

 頼むから少しは「考え。」ておくれ。

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下手な鉄砲。

2012年01月11日 22時23分14秒 | 意識論関連
 シツケを間違えた小型犬が飼い主の手を噛むのはなぜか。イヌは服従する対象を喪失することによってシーケンシャルに暴力性を発揮するからである。

 イヌが服従対象として認識する基準は論理的な根拠に基づくものではなく。シツケの方法や飼い主の態度に依存するような極めて主観的好き嫌いによるものである。

 「偉そうな雰囲気。」を「演出。」することでイヌは簡単に服従対象として認識するようになる。イヌの価値観は極めて短絡的な「雰囲気。」だけで決定するものであって、服従するに値するかどうかを論理的には検証していない。

 イヌのシツケにおいては、「散歩の際にイヌの目を見ない。」とか、「イヌが自発的に行動しそうになったら、意図的に違う方向に引っ張る。」などといったものであり。イヌが持つ服従欲を満たすためにはイヌ自身の自発性を無視することが必要となる。

 ヒトにおいても権威性や暴力、強制性を用いて服従させることによって、イヌと同様に簡単に従順なヒトに「教育。」することも可能である。「簡単。」なのは、それが本能習性だからである。習性というのは傾向性であり、位置エネルギーのごとく「流れ。」のままに「陥る。」ようなものであるからだ。

 こうした本能的な社会形成習性に「流される。」場合。自然発生的にはシエラレオネの少年ゲリラのような結果を導くことになる。ヒトが抱く暴力に対する魅力とは、本能的な服従欲を満たすことが可能であるからであり。「カッコイイ。」からである。

 権威や力、権威性といったものに服従することが、ヒトという種の生物にとっては快楽であり。「安心。」であるからこそ暴力的な反社会的集団に服従する者というのが発生してしまうのである。

 DV、ドメスティックバイオレンスの発生においても。要は女性側が暴力的な男に魅力を感じてしまうという本能習性的な行動判断が根底にあり。無意識的にDVに陥るような相手を選択してしまう傾向性があるからだ。

 性的行動と暴力性は、本能的行動として密接に関連している。しかし、この関連性に論理的根拠は必要ない。なぜなら本能的行動の「結果。」として特定環境下において「生存。」してさえいれば構わないからである。本能というのは「結果。」的に淘汰によって偶発的に選択「された。」だけのものであって、そこには何らかの論理的判断だとか目的意識のようなものが介在する余地など存在しないからである。

 生物学者がやたらとこじつけたがる「種の存続のためには。」といった目的論は、論理的には実証不能なのである。

 「より優秀な遺伝子を選択するため。」などという観念においても、それぞれの個体自体は本能的には何ら選択「して。」などおらず。あくまで結果的に選択「された。」結果として優秀であるかのように見えるだけなのである。本当にその種が環境に最も適合しているという論理的証明などなく、あくまで特定環境下において結果的に生存しているだけなのである。

 暴力を用いてオス同士が喧嘩をするという行動は、個体においてはメスを独占したいがゆえに行う結果的行動であって。個体においては「どちらの遺伝子がより優秀であるのかを測る。」必要性など全くない。個体はただ自己の欲望のままに行動するだけであって、種の存続だの生存といった個体の本能欲望を超越した目的意識が存在することは立証不能である。

 イヌが飼い主の手を噛むのは、イヌの本能欲望のままに行動した「結果。」である。イヌ自身には本能以上の「目的。」意識など存在しないが故に、シーケンシャルに本能のままに暴力性を発揮する。その結果がどうなろうとイヌ自身は全く選択できない。

 スピッツが無駄吠えをするのも、先天的本能によるものである。ところが最近のスピッツは無駄吠えをしなくなったのだという。これは無駄吠えをするスピッツを人為的に淘汰した結果であり。無駄吠えをするタイプのスピッツを絶滅させた結果である。

 生物学者達ならこう反論するであろう。「種としては存続した。」と。それなら無駄吠えをするタイプのスピッツの「目的。」とは一体何であったのか。無駄吠えをするタイプのスピッツの遺伝的優位性が全く立証されていないのである。それなら「目的。」とは一体「誰。」が持っているというのであろう。

 大多数のスピッツは無駄吠えをしたことを考えれば、存続できたスピッツは圧倒的少数の遺伝的要因を持った個体の子孫である。これは遺伝的要因自体のランダム性によって偶発的に無駄吠えをしない個体が発生した「結果。」として存続できたからであり。この選択過程においてどこにも個体の意図が働いた論証などできない。

 そもそも遺伝的要因自体はヒトであっても現在選択不可能なものなのである。

 大多数が淘汰された結果として存続できたのであるから。これは個体には結果に対して全く選択の余地など存在せず。種の方向性自体においても、大多数が淘汰された以上生存の方向性すら存在していないのである。

 「下手な鉄砲も、数撃ちゃ当たる。」

 大量の「犠牲。」に基づいて進化(変化)した結果として、偶発的に生存したのが現在の生物相を形成しているのである。生物にとって生存は「目的。」ではなく、「結果。」的に生存していたものを生物と分類しただけのことである。この大前提を忘れていては全く科学的理論など組み立てられるわけがない。

 生存を絶対的な目的に仕立て上げたのは従来の生物学であって、生物の個体自体には本質的「目的。」は存在しない。

 本能を満たすための行動選択であっても、それは元々自然選択の結果として組み込まれた行動習性に従っているだけであり。これは本質的には個体の「目的。」意識に基づく行動選択などではない。

 そこに多少の「想像力。」「予測力。」が介在しても、それもまたヒトという種固有の習性の範囲内でしかない。

 本能的なシーケンシャル、機械条件反射的な習性のおもむくままの行動がどのような結果になるかについて、個体当人には選択の余地など最初からない。

 本質的「目的。」とは、こうした機械条件反射的な本能習性だけではない意識的な行動選択によって導き出されるものであり。その意識の広さこそがより高次の目的行動を導き出すことが可能となる。

 人間としのて知能として一義的に挙げられるのが、「自律的な社会的責任行動選択。」である。自律というものは、まず基礎として自発的行動選択がなければならない。多数他者や権威の評価報酬に服従迎合していては自律にはならないからである。


 単なるヒトではない、「人間。」がなぜ自律的に社会的責任選択を行うことが可能であるのか。それは目先の欲望によって行動が左右されないからである。人はいつか必ず死ぬ、従って目先の生存欲を優先して延命を優先しても。自分が生きるに価しない社会になるような選択は、自ずとしなくなるのである。

 そこに生物学的な「生存。」を絶対的「目的。」とするような観念は必要としない。

 「死んだら、それで全部終わり。」であると生物学者は言うであろう。逆に、「生きていさえすれば、何かが始まる。」論証でもあるのか。別に自殺を推奨しているわけではないが、逆に自殺が絶対悪である論証もないのである。

 他人に危害が及ぶような選択をしてまで生存、或は世間的成功をしても。残りの人生は自分の選択の誤りを抱えたまま「生存。」しなければならないのである。それで何かが「始まる。」とすれば自己の良心の呵責に耐える苦しみだけであろう。

 「人間。」であろうとする選択を放棄した時点で、それは「人間。」としては終わっているのである。

 「人間。」としての存在価値を放棄してまで生物/医学的な生存を維持しても、後に残るのは動物的な「ヒト。」でしかないのである。それは個人が他者と互換不能な個人である存在価値の放棄でもあり、生物的には「生存。」していても、人間としては死んだも同然である。

 しかし、本当の意味において自発的に自殺を選択する者の多くは現状の社会に迎合することを拒絶した者である。動物的本能行動しか望まないモンスター、キチガイ類というのは、動物と一緒で自発的に自殺を選択することはなく。警察に確保されたり悪事が露見した場合など、状況が悪化してから環境依存的に自殺することくらいしかできないのである。

 ヴァルター:ベンヤミンがナチス批判をしたことによって服毒自殺に追い込まれたことを、環境依存的行動とは言うことはできない。そもそもナチス政権という社会体制に迎合せず、批判したことが原因だからである。

 しかし、多くの大衆凡民は、「ナチスに反対したのはご立派だが、自分は体制に反対してまでご立派にはなりたくない。」のであろう。それは既に組み込まれた無為無策な本能がそう「思わせ。」るのである。より多くの者がナチス政権に反対していれば、特定の人物だけを「ご立派。」扱いにしなくても良いのだが。逆に特定の個人を特別な「ご立派。」扱いにすることによって、自分達の凡庸さの免罪符になると。多くのヒトは「思って。」いるのである。

 そこには何の「考え。」も介在してはいない。

 こうした本能や気分優先の無意識性こそが、ヒトが冒すあらゆる人為的問題行動の根源なのである。


 畑村洋太郎が論ずる、「自律的に社会的責任を負う。」選択というのは。原発技術者だけに必要なものなどではなく。程度の差こそあれ全ての人に必要な素養である。特定の仕事に就く人だけに丸投げしておけば良いという、個人の無責任性の集積によってヒトの習性が及ぼす社会の問題点を助長することはあれ、改善に寄与することはないのである。

 ヒトはその本能的社会形成習性によって、自律的判断を放棄することが気分的に「安心。」なのである。権威に服従し多数他者に迎合していないと「不安。」なのである。こうした本能的感情バイアスに無意識に流されていれば、何が起きようとも文句を言えた義理ではない。そこには意識的な「目的。」がないからである。

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背内側前頭前野。

2012年01月11日 22時06分09秒 | 意識論関連
 NHKの「ためしてガッテン。」が言うところの「客観視くん。」というのは、どうも「論理的思考。」を無視した気分的解消方法を提示しているだけである。背内側前頭前野の機能というものは、気分的な不安による行動選択を促しているだけであって、これは動物的行動選択機能の一種に過ぎない。

 つまり、背内側前頭前野というのは「客観視くん。」ではなく、むしろ「主観くん。」或は「観念くん。」であって、論理的客観性とは異なるものである。だからこそ客観視を阻害する意識狭窄を招く原因ともなるのである。

 気分的に不安であるかどうかと、論理的に安全であるかどうかを区別できないことには、ただバカになっているだけであって、これは論理的行動選択とは無関係である。

 認知行動療法的に、論理的思考によって気分的な「安心。」と論理的「安全。」の区別を自律的にできないことには、ただ気分だけ解消するだけならカルト宗教と何の違いもなくなってしまう。

 臨床においては目先の日常生活における不自由だけ取り除ければ良いのであって。座禅などの瞑想によって、論理的思考までをも喪失してしまったのでは、気分的に楽になると同時に論理的思考すら失いかねない。これでは「人間。」として出来損ないである。

 瞑想という手法はオウム真理教でも使われていたものであり。気分的な精神疾患に対しての効果を持つとしても、論理的思考までも喪失してしまう可能性が有り得る。従って、瞑想などの手法を用いることを絶対的有効性のように論じるのは臨床心理学における精神衛生上の問題を対処療法的に解決しているだけである。

 精神疾患において重要なのは、論理的に考えれば些末な気分的「不安。」に意識の全てを囚われてしまうことが問題なのであり。背内側前頭前野の活動云々といった表面的な現象論だけを絶対的正義のように論ずるのは間違いである。物事の重要度をその場限りの気分によって優先度を決定してしまっては「ヒト。」としては健全であろうが「人間。」としては出来損ないである。

 原発や高速バスの運転において気分的な「安心。」を追及されては困るのである。

 気分的に「安心。」して飲酒運転をされても困るし、気分的に「安心。」して「自分だけは振り込め詐欺には引っ掛からない。」と思い込まれても困るのである。

 そもそも、「感情=行動。」という短絡性こそが問題なのであって。論理的思考による気分に依らない感情制御ができれば、余計な気分的「不安。」になど意識を奪われたりはしないのである。

 認知行動療法的に、自己の気分的不安というものを一つ一つ丹念に合理性に照らし合わせるという丁寧さが、瞑想類には欠如しており。短絡的で安易過ぎる。

 そもそも「気分(感情)=行動。」という意識の欠如こそが精神疾患や論理的思考停止の原因であり。この基本構造を無視して、その場限りに気分だけ良くなれば良いというような短絡的解決方法は容認できない。

 「気分=行動。」であれば、既に存在しているだけの自己の機械条件反射行動に対して、本質的には自己自身の選択が介在していないのである。

 臨床的な解決策だけを論ずるのであれば、カルト宗教にも精神衛生上の改善効果はあることになる。気分的に「安心。」することばかりに意識を奪われ、論理的に「安全性。」を求める思考までも失ってしまったのでは話にならない。原発推進派の者達が気分的に「安心。」して原発を正当化しているのは、彼等が気分的「安心。」だけでしか行動判断をしなくなってしまっているからである。

 ヒトという種の生物というのは、目先の気分さえ良くなれば、それで満足して何も考えなくなってしまう性質がある。気分だけの問題で全てが解決したと「思う。」のがヒトの習性なのである。

 別に「不安に陥れ。」と論じてるのではない。行動や思考が気分的な不安や安心でしか働かないことこそが無意識であると論じているのである。気分的にどんなに不安に陥っても問題の解決にはならない、放射能をどんなに「恐がって。」も放射線の影響が無くなるわけではないのである。重要なのは物事の危険性を論理的に認識し、どのようにすれば解決できるかどうかを「考え。」ることである。物事の優先度を気分だけで決定しない意識の広さが人間性の論証でもあるからだ。

 何に「怖がるか。」が重要なのではない。「恐い。」かどうかは大脳辺縁系の反射に過ぎないことを論理的に認識することによって、気分に左右されずに論理的に「考え。」るようになることなのである。しかし、こうした論理的思考を身につけるためには、瞑想のような短絡的で簡便な方法論ではどうにもならない。ましてやある程度の年齢に達してしまっていると頭が堅くなってしまって柔軟な適応能力、自由度が失われてしまい「今更できない。」などと称して、絶対に不可能であるかのような錯覚に勝手に陥る者も少なくない。「難しい。」というのであれば容認できるが、論理的に絶対不可能であるかのように論ずるのは、身勝手な固定観念による感情的拒絶反応に過ぎないからである。

 瞑想などによる気分的改善効果というものには、のべつまくなし無関心に陥る危険性が避けられない。あくまで副作用が伴うことを認識すべきである。

 教団による重大事件が発生したにも関わらず、オウム真理教信者の多くが無関心に続けるのは、彼等の脳がバカになってしまっているからである。そりゃ信者達は精神的には「安心。」だろうし、また精神衛生上も教団に迎合しておいた方が精神医学的には「健康。」というものであろう。



 やはり、些末なことに意識を奪われ不安に陥る精神疾患に対しては。自発的な純粋行為に「熱中。」できるようになることが最も副作用も少ないと考えられる。

 どこの馬の骨とも知れぬウケ狙いの臨床医などより。小柴昌俊や多くのノーベル賞受賞者や天才達の勧めることを優先すべきである。別に社会的成功云々の話をしているのではなく、純粋行為の持つ個人の人生における価値、生き甲斐というものを優先することによって、結果的に「自律。」的な社会的責任判断もできるようになることも人間として必要不可欠なことであるからだ。

 別にNHKで放送することが常に正しいという保証など、どこにもないのである。それこそ「メディアリテラシー。」というものである。

 精神的にあまりに苦痛で、急場しのぎで瞑想などの手法を用いるのも場合によっては仕方ないのかも知れないが。あくまで副作用の危険性を無視すべきではない。毒の類というのは少量なら薬にもなるが、限度を超えればただの毒にしかならないことを、忘れるべきではない。

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想像力。

2012年01月09日 14時14分00秒 | 意識論関連
 松沢哲郎は想像することがホモサピエンス特有の性質であると論じる。

 しかし、想像するだけであれば、これは単なる生物種としての「習性。」を論じているだけであって、「ヒトが人間たりうる所以。」の論証とは無関係である。

 詐欺師が相手を騙す時、「相手を信用させることができれば金が儲かる。」という想像力が存分に働いているのは間違いない。

 オウム真理教の幹部、林郁夫がテロを実行する際に。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをしても良いのか。」と思いながらも実際にはテロを実行したのはなぜか。テロを実行するような教団に反目すれば自分も命を狙われるかも知れないという「想像。」もあったに違いない。

 ヒトの生物学的社会形成習性として本能的に多数他者からの気分的拒絶を忌避するのも。これもまた「想像力。」による予測によって多数他者に迎合するのである。

 ヒトは、その本能的社会形成習性によって、誰も論じようともしないことを論じると、多数他者からの気分的拒否反応や排除を恐れる性質がある。大衆観念的には「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手に思い込んでいるのである。実際には「権威に服従していると、本能的、条件反射的に安心。」なだけなのだが、こうした気分的「安心。」と論理的「安全。」性の区別が大衆凡民にはできない「習性。」がある。

 多くのヒトは、気分的バイアス、感情が促す「大きさ。」だけが行動選択の基準であり。論理的に正しいことであっても気分によって意識から外したり、無視したりすることによって。その場限りの精神的安定を得て、これを「心が休まる。」などと称して正当化したがるのである。

 カルト宗教の信者にとって、信仰を続けることこそが精神的安定だからこそやめることができないのであり。これは依存症の類と全く同じ本能習性的な機械条件反射行動でしかないのである。

 ヒト科のチンパンジーとホモサピエンスとの差異をいくら論じても、そこから「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」を論証することは原理的に不可能である。松沢に限らず生物学者のほとんど全員は、「ホモサピエンス=人間。」という方程式に基づいた話しかしておらず。生物種自体の行動習性自体が人間としての論証になるという前提でしか論じていないのである。これが異常だとは生物学者達も、また一般大衆凡民マスコミも、全く気付く「認識。」していないのである。

 想像力が働くのは生物種としての本能習性的な動物性知能に過ぎず。何ら「人間。」としての論証にはならない。チンパンジーとホモサピエンスの差異をどんなにたくさん抽出枚挙しても、「人間とは何か。」を論じたことには全くならないことを、生物学/脳科学者達は意図的に無視しているのである。これをオカルトと言わずして何と形容すべきであろう。

 アイヒマン実験において、被験者の6割は最大電圧のスイッチを押してしまう結果に陥るのだが。しかし、そこに至る過程においては権威との葛藤による感情的やりとりがある。

 にも関わらず、多くのヒトは最終的には権威の命令に服従してしまう「習性。」があるのだ。これはオウム幹部の林の心理と同じものであり。自律的判断が多数他人や権威体制への迎合性に「負けて。」しまい、自律的個人の判断を不具にしてしまう「ヒトの習性。」として、あらゆるヒトに組み込まれてしまっているものなのである。

 ヒトは初期的には生物である。従ってその行動選択というものは感情による本能的バイアスによって左右されがちな習性がある。

 爆笑問題の会社社長太田光代の母親は、一式50万円の布団セットをいくつも購入していると言う。爆笑問題の会社社長であれば、数百万円の散財など痛くも痒くもないのであろうが。これによって結果的に暴力団への資金源を提供していることにもなるのである。

 太田光代の母親は、「話相手が欲しかった。」などと自分の行動を事後正当化するが。実際には執拗に感情的訴えを繰り返すことによる「丸め込み。」であり。いわゆる「観念した。」という行動である。

 ヒトという種の生物は、一度無意識的に「学習。」した行動への気分的「安心。」によって、行動を「整理。」されてしまい。その行動の論理的価値を「考え。」る余裕を失う傾向がある。「執拗なまでの感情的訴え。」というのは、要はパチンコをやっている時の脳の働きと同じような状態に陥っており、前頭葉の鎮静化が生ずることによって押し売りや詐欺というのは成立するのである。

 モンスター、キチガイというのは、基本的に文章ではなく、口頭でのやりとりで異常に長い時間を必要とする。従って、振り込め詐欺の特徴というのは普遍的に「話が異常に長い。」傾向が見られる。相手の大脳辺縁系を興奮状態に陥れるためには、ある程度の時間「話。」を続けないとならないのである。

 「立て板に水。」な話というのは、結局記憶や意識から「流れて。」しまい。最終的には気分的な行動だけに「整理」学習されてしまうことに陥るのである。

 良く考えたら養老とか茂木とか松沢の話もそうだね。


 個人の「自律的な社会的責任判断。」を行うためには、生物習性的なバイアスをいくら抽出枚挙しても意味がない。従って、生物種としての習性傾向性を枚挙するだけの従来の生物学からは「人間とは何か。」について原理的に言及不可能なのである。これを放置しておいてヒトが冒すあらゆる人為的重大事象において根本的解決に結び付く帰結には到達することができない。

 脳科学というのは生物学の一分野であり、脳科学が「人間。」について論ずるためには生物学におけるオカルト性に言及しなければならないのである。ならないのだが、既得権を失いたくないために学者研究者としての社会的責任は放棄されているのである。

 大衆マスコミはそれに気付くこと、認識することができないのは。それに対する「意識。」が低いからである。

 誰にも問題意識がない状態であるなら、これは洗脳状態であって。誰にも責任を追及することなど最初からできないのである。

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