書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

松沢哲郎。

2012年01月09日 00時45分29秒 | 意識論関連
 松沢哲郎 京都大学霊長類研究所

 チンパンジーは「ヒト科。」だそうである。無論生物学上の分類の話であり。所詮は生物学上の分類でしかない。そもそも分類とは、誰かが勝手に規定したものに過ぎず、生物学者だけの正義でしかない。同じヒト科の生物でありさえすれば人間と共通の何かを論理的に立証しているわけでも何でもないのである。

 「人間の進化的『心』を詳細を実験的に観察する。」と論ずるが、単なる大脳辺縁系の反射的情動は人間性を持った「心。」とは異なるものである。合理性を持たない観念を振り回しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。

 人間の心というものは、そこに意識的行動選択が伴って初めて「心。」と言えるのであって。チンパンジーなりホモサピエンスの動物的感情自体が人間性を保証するわけではない。

 社会的知性と称して他人と話を丸めることや、他者のご機嫌をうかがうことは気分的な行動「習性。」であって、これを「知性。」というのはおかしな話である。

 「駆け引きや相手をだますという社会的な知性も野外実験場で見ることができる。」これを松沢は「社会的知性。」であると定義する。なぜ、チンパンジーの子供が大人を騙さなくてはならないかというと、チンパンジーの大人は子供に対しての教育ネグレクトを平気でするからである。子供が将来生存における能力を獲得できるかどうかなど全くチンパンジーは「考え。」ないから放置するのであり、子供は仕方なしに大人を騙さなくては生存できない。

 そもそも他者を騙すことを「社会的知性。」などと論じている時点で人間としての社会性など全く考慮に入っておらず、最初から本質的人間性など全く興味のないオカルト観念に基づいて「人間とは。」などと論じているのである。

 単なる動物的知能は人間としての社会性を持った知能とは異なる。

 ホモサピエンスという生物種でありさえすれば人間としての社会性が保証されているわけではない。松沢は「ヒト科ホモサピエンス=人間。」という前提で論じており。これは生物学上の分類しかしておらず、ゲリラであろうと詐欺師であろうと全て同じ「人間。」であるという前提にしか考えておらず。生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任を負う人間との区別をしていない。

 単なる生物学上での遺伝的差異をいくら論じても、単なるホモサピエンスであるだけなのか、それとも人間としての社会性を持っているかを論ずることは、最初から原理的にできない。そもそも松沢にとってどうでもいいようである。

 地域固有の「文化。」を持ち出すのであれば、オリンパスの役員達の理論は正しいことになる。

 ホモサピエンスの子供特有の「誉められたい、認証されたい。」本能欲望があるからといって、この性質が常に人間としての社会性に寄与することの論証にはならない。カルト宗教の幹部が教祖に誉められたいがために地下鉄に毒ガスを撒く行動習性をして「人間固有。」だなどと言う論証にはならない。


 ホモサピエンスとチンパンジーの差異を論じても人間としての社会性の言及にはならない。ホモサピエンスでありさえすれば人間であるとは言えないからである。

 「人間にはおばあさんがいるが、チンパンジーにはいない。これこそが人間の人間らしいところだろう。」などという話も、単なる「ホモサピエンスとチンパンジーの差異。」を論じているだけであって。「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」とは無関係である。

 このように、現在の生物学というのは。単なる生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任行動が採れるかどうかの人間性を全く区別しておらず。全く「人間とは何か。」について論理的正確性を欠いた話しかできていないのである。

 「人間とは何か。」「ヒトが人間足りうる所以。」とは何かを論ずるからには、単なる生物種としての差異を枚挙するだけでは論じたことになっていない。松沢は大衆迎合で「人間とは何か。」を論じているだけで、本質的には何ら人間とは何かには興味などないのである。

 脳科学分野において、人間の脳における本質的知能とは何かを論ずるにおいても。従来の生物学のパラダイムに基づいた動物的行動習性「結果。」だけを論じても意味がない。詐欺師が他人を騙して「生存価。」に適しておいても「知能。」ということになっているからだ。にも関わらず脳科学研究者の誰も従来の生物学におけるパラダイムの問題点を全く指摘する者はいない。脳科学は生物学に分類されるのである。動物的な脳の機能をいくら論じても人間としての脳の使い方について論じたことにはならない。これを放置しておいて脳科学もすったくれもあったものではない。

 ナチスの絶滅収容所の吏官は「健康。」であろうか。生物学上では「健康。」であろう、松沢達が論ずる話とは、生物種としての健全性しか論じておらず。本質的人間性においては全く無視しているのである。

 このような状況を放置しておいて、「自律的に社会的責任。」云々について、脳科学も心理学も哲学も原理的に全く糞の役にも立たない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力の一面的高さだけを論じても、これを「知能。」ということはできない。こうした機械条件反射的能力であれば機械でも簡単に再現可能であり、そこから新しい知見や発見といった知能の拡大が得られるわけではないし。当然「自律的な社会的責任。」とも無関係である。

 どんなに一面的な特殊能力を獲得しても、それが知能を拡大するわけでも、自律的な社会的責任能力を立証するわけでもない。

 「人間。」において最も重要なのは、一義的には「自律的に社会的責任を負う。」ことであり。また本質的知能とは、一面的な特定能力の高さだけを意味するものではなく、あくまで「教えられていないことを発見。」するからこそ知能を拡大することが可能なのである。拡大できない知能など本質的には知能ではない。機械で充分であるからだ。

 教えられていないことに気付くためには、必ず自発的思考が必要であり。どんなに難解な問題で高い成績を獲得しても、自発的に何も考えない者は教えられたことを鵜呑みにする以上の何も「考え。」ないのである。


 乳幼児の発達学習の話だけなら動物的な知能論だけで充分である。別に乳幼児に「自律的に社会的責任。」は必要ないからだ。そもそも言語や運動機能というのは無意識機能であって、本質的意識とは直接関係のないものなのである。

 シンボル機能としての言語さえ獲得しておけば「人間。」であることの論証にはならない。逆に脳卒中などで言語機能を喪失したからといって突然自律的社会的責任能力を失うわけではなく。シンボルを扱うかどうかは生物種間における差異を挙げているに過ぎない。生物種としてホモサピエンスでありさえすれば人間としての社会性、すなはち自律的な社会的責任能力の証明にはならないのである。

 詐欺師が他人を騙す為には、高度な言語機能、シンボル能力によって騙すのである。こんなものが「人間として。」の論証になるわけがないのである。

 基本的に現在の生物学はオカルトであることを認識すべきである。生物学者の多くは論理的思考を嫌い、権威者に対しての批判精神を全く持たず。本能的な社会形成習性によって迎合服従する以外に無為無策な集団と化しているのである。こいつらからまともな科学的論証など出てくるわけがないのである。


http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1286328830436_02/news/20101007-OYT8T00462.htm

end;

 検索キーワードが「オリンパス。」になっちゃっているんだけど、これ変更できないのかな。↓

隠蔽。

2012年01月07日 22時51分54秒 | 意識論関連
 英国の大規模実験において、脳トレ類にはテレビゲーム程度の効果しか実際にはないことが立証されたにも関わらず。未だにマスコミは脳科学者の論ずる「脳血流=脳活性=頭が良くなる。」という観念を垂れ流しにする。

 脳トレ類において脳科学者達が「頭が良くなる。」ことの論拠としたのが脳血流増加である。従って、脳トレ類の効果が反証されたということは、同時に脳血流増加が「頭が良くなる。」という論証自体も否定されたということである。

 英国の大規模実験による脳トレ類の効果の反証について、未だにマスコミは一切触れた形跡がない。これは既に獲得した脳トレ類の既得権益を保守するための隠蔽工作である。

 脳トレ類を「頭が良くなる。」と称して推奨しておけば、大衆凡民から多数決的「人気。」による利益が得られることを、今更手放したくないという利己的判断によって脳トレ類の反証は隠蔽されたままなのである。


 大脳前頭前野の血流が増加しているということは、何らかの脳活性や「学習。」になっているのは確かであるが。その「学習。」した内容の全てが「頭が良くなる。」ような「学習。」内容であることを証明することは、今のところできない。

 「学習。」というのは、実際にはほとんどが無意識的な行動「学習。」であり。論理的思考を促すような意識的行動を自律的に選択する方向性を持った行動「学習。」というのは、短絡的に「これさえやっときゃ。」的な安易な方法論で獲得できるようなものでもなく。また、こうした安易な方法論を鵜呑みにしている短絡性自体が、論理検証性の欠落そのものを実証しているということでもある。

 「パブロフの犬。」というのは、イヌの条件反射的行動「学習。」についての傾向性を論じたものである。「ベルが鳴ったら、エサが出る。」という環境下に長くイヌを置いておくと、イヌはベルが鳴っただけでヨダレを大量に垂れ流すという機械条件反射を「学習。」する。

 ヒトにパチンコをやらせておくと、自分の赤ん坊を炎天下の車内に放置してまでパチンコをし続ける性質がある。パチンコの場合は既にドーパミンによって行動が「学習。」されていることが科学的に立証されている。クソゲーに何十万円もつぎ込む場合においても同様である。

 「学習。」の全てが「頭が良くなる。」わけではない。

 脳内物質ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を「整理。」する。「慣れる。」「ハマる。」「癖になる。」といった性質は、全てドーパミンの持つ常習性によって作り出される。動物習性的な行動学習というものの全ては常習性によって「学習。」されたものであり、人間が意識的に行動選択する論理的思考とは直接関係のない無意識行動学習でしかない。

 脳科学者達がやたらと取り上げたがる、どんなに珍しい特定能力に長けているとしても、それが「人間としての社会性の証明=自律的に社会的責任を負う。」ことの論証とは無関係なのである。

 ところが大衆凡民にとって、「特殊能力=社会的成功。」という「エサ。」の臭いがする話や、「相手の気分的信頼関係性=コミュニケーション能力。」といった感情的誘導にばかり意識を奪われ。気分的に面倒臭い自律的社会的責任能力といった話とは無関係な観念の世界で満足して何が優先される重要な話であるのかが撹乱されているのである。

 「人間である前にヒトとして健康であることが重要。」であると言うのであれば、それは一人の人間としての行動責任よりも動物的、利己的に健康であることが優先されているということである。それはキチガイの論理でしかないことを、多くのヒトは認識するつもりはないらしい。

 ヒトは「自分の気分が良くなる=頭が良くなる。」と錯覚しがちである。「相手の手を握ると信頼関係性が改善する。」などという話も、あくまで無意識的な感情の話であり。政治家が選挙活動の時にやたらと握手を求めるのも、こうしたヒトの「習性。」を利用した「手法。」の一つであって。応用によっては詐欺にも使える「結果。」論でしかない。ところが無思考な大衆凡民にとって、気分的「信頼。」を得ることと、論理的「安全。」性の確立を区別できず。漫然と気分だけ満足して思考を停止するのである。

 北大の山岸俊男らが行うような社会心理学実験においては、結果的な「ヒト。」という種の生物における習性しか抽出することはできない。衆人環視下におけるヒトの行動習性の枚挙からは、一人の人間として自律的に社会的責任を負う行動については原理的に言及することができない。特定環境下において特定の集団内部における行動抽出によって導き出される傾向性を立証したところで、現実のヒトの全てが常に正しい行動選択が可能であることの論証になどならないからである。

 これはチンパンジーの行動習性をどんなにたくさん抽出枚挙してきても、チンパンジーの行動習性の全てが利他的行動であることの証明にはならないのと同じことである。

 チンパンジーの代わりにシエラレオネの少年ゲリラ、或は振り込め詐欺の集団を鋼鉄とポリカーボネートのケージに監禁しておいて一体彼らがどのような行動を採れば、「ヒトという種の生物は、常に利己的行動を採らず。常に社会全体にとって公益的な責任行動を選択するものである。」ことの論証になるであろうか。山岸の実験というのは、結局チンパンジーの行動結果の抽出と同様に。ヒトという種の生物における行動の結果以上の何も抽出することはない無駄な浪費にしかなっていないのである。

 人間としての社会性というものは、何かの実験だとか、何かの成績指標によって立証されるようなものではなく。一人の人が自律的に、意識的に広い意識を保とうとすることによって、その場の感情に左右されずに選択する責任行動によって導き出されるものである。

 実験だの成績指標を与えられると、ヒトは気分的に安心するのかも知れないが。こうした気分的安心ことが論理的思考を阻害し、結果として行動責任を採ることができなくなるのである。

 SQだとか言う基準で高い得点を得ても、それは無意識的な社会的責任意識を評価しているだけであって。論理的に社会の安全性に寄与できることを証明していない。気分的に無意識的な「他人や社会全体のことを考えているような気分の程度。」をどんなに測定しても、それが常に他人や社会にとっての安全性や持続可能性につながる選択が可能であることを証明しない。アイヒマン実験の被験者達の誰も他者に危害を加える意図などなかったにも関わらず、無意識的に危害を加える結果に陥っているのである。

 むしろ、気分的に安心することこそが最も安全性にとって有害な結果をもたらすのである。

 大学の研究者といった権威的な肩書があれば、そいつの言っていることの全ては有益であると大衆凡民は「思う。」であろう。現在の脳科学者達のほとんど全員は脳トレ類の人気による利益にしか興味はなく、短絡的に「これさえやっときゃ。」的な一面的傾向性の枚挙しかやっていない。マスコミは論理的思考が全く働かないばかりか、脳トレ類による既得権益の保守のために、英国の大規模実験の脳トレ反証結果すら報道しないのである。

 こうした利己的行動が正当化されるのは。生物学における無意識的行動の結果には超自然的な目的意識が存在するかのようなオカルト的観念が蔓延しているからであろう。

 野生動物が本能のままに行動した結果、「生存。」だの「種の保存。」といった個体の本能とは無関係な「結果。」が勝手に作り出されるものであると信じ切っているのである。

 それならマスコミも生物/脳科学界も、その場限りに大衆迎合して利己的追求さえしておけば全ては社会にとって良い影響になるものであると勝手に思い込んでいられるであろう。こうした無為無策を放置しておけば、「人類は絶滅する。」などというオカルト観念も科学的証明として扱えるであろうし、また実際に絶滅したとしても誰も責任を負うつもりもないのである。


 無意識とは、感情や習性によって撹乱された機械的条件反射行動のことである。どんなに強く「思って。」も、むしろ「思い。」が強ければ強い程、それは感情であって「考え。」ではなく、また本質的意識でもない。

 ヒトは、その本能的な社会形成習性によって、権威や多数派の言っていることにしか意識が働きづらい性質がある。「みんな同じ。」でありさえすれば「安心。」して何も考えなくなるのである。これがヒトの「コミュニケーション能力。」というものであるが、これを大衆凡民は「社会性。」であると錯覚する。これこそが生物学における本能的社会形成習性と、人間としての自律的社会的責任能力の混同の源なのである。科学者でありながら大衆に迎合するというのは、本来の科学者としての社会的責任を負っていないというのは、別に取り立てて論ずる程のことでもなかろう。

 多数大衆に迎合しておけば気分的には「安心。」であろう。それさえ満たしておけば世間においては安全性が確保されていると「思う。」のであろう。「あろう。」としかおいらは言うことができない。なぜならおいらは全く「思わない。」からだ。

 通常ヒトは「赤信号、皆で渡れば恐くない。」であろう。世間の全員で間違った選択をしていれば気分的には安心して間違った選択を続けることが簡単にできるのである。


 畑村洋太郎が論ずる「自律的に社会的責任を負う。」という行動選択は、本能的な社会形成習性が作り出す感情のバイアスからは原理的に行われることはない。多数や権威が作り出す「体制。」に迎合してさえおけば気分的には「安心。」だからである。権威や多数に迎合しておけば、ヒトの多くは自分が責任を負う必要性はなくなるものであると「思う。」ものなのである。

 多くのヒトが権威や多数に迎合しておけば、結果的に誰も自律的には責任を負わないことに陥る。それなら、どんな人為的重大事象が発生しても、誰も文句を言えた義理では最初からないのである。

end;

超プライスセンターに行ってみた。

2012年01月06日 22時00分13秒 | 日記
 以前テレビで紹介していたので、実際に行ってみた。

 要するに倉庫です。店内を電動フォークリフトが移動します。ちっちゃい子供がいるとかなり恐いです。

 価格についてはいろいろでした、卸屋さんらしく物凄く安いものもあれば、近所のスーパーと一緒じゃんってものまでいろいろです。

 チラシをもらってきたんですが、チラシに書かれていた地図には最寄り駅としてJR南浦和駅が書いてあって、徒歩での距離を調べたら片道6880mありました。ちょっと徒歩だと絶望的な距離ですね。

南浦和駅から超プライスセンターまでの道順↓
http://space.geocities.jp/srand4000/mitijyun2.html

 よくよく地図を見てみたら、武蔵野線の東川口駅が最寄です。とか言っても片道2029mですから近くはないですね。

東川口からの道順↓
http://space.geocities.jp/srand4000/mitijyun3.html

 今回おいらは自転車で行ったんですが、外環道の川口ジャンクション付近が若干ややこしかったです。

 乾物ばっかりかと思ってたんですが、実際にはヨーグルトとかチルド食品とかもありました。距離が若干遠めなので保冷ケースとか持って行かないと要冷蔵の食品は買いづらいかもです。

 ちなみに賞味期限1/7のナチュレ恵が¥50ーでした。スプーン持っていって駐車場で食べちゃうとか。時期的にお腹が冷えちゃうかな。

 あと、店内は基本的に寒かったです。倉庫なので日差しは全く入らない構造な上に、冷蔵棚まで完備されているので防寒はしっかりして行った方がいいと思います。

 確かトイレとかもなかったと思います。途中のコンビニとかで借りるしかないかもです。そういえば県道沿いにやたらとマクドナルドがあったような...。