松沢哲郎 京都大学霊長類研究所
チンパンジーは「ヒト科。」だそうである。無論生物学上の分類の話であり。所詮は生物学上の分類でしかない。そもそも分類とは、誰かが勝手に規定したものに過ぎず、生物学者だけの正義でしかない。同じヒト科の生物でありさえすれば人間と共通の何かを論理的に立証しているわけでも何でもないのである。
「人間の進化的『心』を詳細を実験的に観察する。」と論ずるが、単なる大脳辺縁系の反射的情動は人間性を持った「心。」とは異なるものである。合理性を持たない観念を振り回しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。
人間の心というものは、そこに意識的行動選択が伴って初めて「心。」と言えるのであって。チンパンジーなりホモサピエンスの動物的感情自体が人間性を保証するわけではない。
社会的知性と称して他人と話を丸めることや、他者のご機嫌をうかがうことは気分的な行動「習性。」であって、これを「知性。」というのはおかしな話である。
「駆け引きや相手をだますという社会的な知性も野外実験場で見ることができる。」これを松沢は「社会的知性。」であると定義する。なぜ、チンパンジーの子供が大人を騙さなくてはならないかというと、チンパンジーの大人は子供に対しての教育ネグレクトを平気でするからである。子供が将来生存における能力を獲得できるかどうかなど全くチンパンジーは「考え。」ないから放置するのであり、子供は仕方なしに大人を騙さなくては生存できない。
そもそも他者を騙すことを「社会的知性。」などと論じている時点で人間としての社会性など全く考慮に入っておらず、最初から本質的人間性など全く興味のないオカルト観念に基づいて「人間とは。」などと論じているのである。
単なる動物的知能は人間としての社会性を持った知能とは異なる。
ホモサピエンスという生物種でありさえすれば人間としての社会性が保証されているわけではない。松沢は「ヒト科ホモサピエンス=人間。」という前提で論じており。これは生物学上の分類しかしておらず、ゲリラであろうと詐欺師であろうと全て同じ「人間。」であるという前提にしか考えておらず。生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任を負う人間との区別をしていない。
単なる生物学上での遺伝的差異をいくら論じても、単なるホモサピエンスであるだけなのか、それとも人間としての社会性を持っているかを論ずることは、最初から原理的にできない。そもそも松沢にとってどうでもいいようである。
地域固有の「文化。」を持ち出すのであれば、オリンパスの役員達の理論は正しいことになる。
ホモサピエンスの子供特有の「誉められたい、認証されたい。」本能欲望があるからといって、この性質が常に人間としての社会性に寄与することの論証にはならない。カルト宗教の幹部が教祖に誉められたいがために地下鉄に毒ガスを撒く行動習性をして「人間固有。」だなどと言う論証にはならない。
ホモサピエンスとチンパンジーの差異を論じても人間としての社会性の言及にはならない。ホモサピエンスでありさえすれば人間であるとは言えないからである。
「人間にはおばあさんがいるが、チンパンジーにはいない。これこそが人間の人間らしいところだろう。」などという話も、単なる「ホモサピエンスとチンパンジーの差異。」を論じているだけであって。「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」とは無関係である。
このように、現在の生物学というのは。単なる生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任行動が採れるかどうかの人間性を全く区別しておらず。全く「人間とは何か。」について論理的正確性を欠いた話しかできていないのである。
「人間とは何か。」「ヒトが人間足りうる所以。」とは何かを論ずるからには、単なる生物種としての差異を枚挙するだけでは論じたことになっていない。松沢は大衆迎合で「人間とは何か。」を論じているだけで、本質的には何ら人間とは何かには興味などないのである。
脳科学分野において、人間の脳における本質的知能とは何かを論ずるにおいても。従来の生物学のパラダイムに基づいた動物的行動習性「結果。」だけを論じても意味がない。詐欺師が他人を騙して「生存価。」に適しておいても「知能。」ということになっているからだ。にも関わらず脳科学研究者の誰も従来の生物学におけるパラダイムの問題点を全く指摘する者はいない。脳科学は生物学に分類されるのである。動物的な脳の機能をいくら論じても人間としての脳の使い方について論じたことにはならない。これを放置しておいて脳科学もすったくれもあったものではない。
ナチスの絶滅収容所の吏官は「健康。」であろうか。生物学上では「健康。」であろう、松沢達が論ずる話とは、生物種としての健全性しか論じておらず。本質的人間性においては全く無視しているのである。
このような状況を放置しておいて、「自律的に社会的責任。」云々について、脳科学も心理学も哲学も原理的に全く糞の役にも立たない。
チンパンジーの瞬間記憶能力の一面的高さだけを論じても、これを「知能。」ということはできない。こうした機械条件反射的能力であれば機械でも簡単に再現可能であり、そこから新しい知見や発見といった知能の拡大が得られるわけではないし。当然「自律的な社会的責任。」とも無関係である。
どんなに一面的な特殊能力を獲得しても、それが知能を拡大するわけでも、自律的な社会的責任能力を立証するわけでもない。
「人間。」において最も重要なのは、一義的には「自律的に社会的責任を負う。」ことであり。また本質的知能とは、一面的な特定能力の高さだけを意味するものではなく、あくまで「教えられていないことを発見。」するからこそ知能を拡大することが可能なのである。拡大できない知能など本質的には知能ではない。機械で充分であるからだ。
教えられていないことに気付くためには、必ず自発的思考が必要であり。どんなに難解な問題で高い成績を獲得しても、自発的に何も考えない者は教えられたことを鵜呑みにする以上の何も「考え。」ないのである。
乳幼児の発達学習の話だけなら動物的な知能論だけで充分である。別に乳幼児に「自律的に社会的責任。」は必要ないからだ。そもそも言語や運動機能というのは無意識機能であって、本質的意識とは直接関係のないものなのである。
シンボル機能としての言語さえ獲得しておけば「人間。」であることの論証にはならない。逆に脳卒中などで言語機能を喪失したからといって突然自律的社会的責任能力を失うわけではなく。シンボルを扱うかどうかは生物種間における差異を挙げているに過ぎない。生物種としてホモサピエンスでありさえすれば人間としての社会性、すなはち自律的な社会的責任能力の証明にはならないのである。
詐欺師が他人を騙す為には、高度な言語機能、シンボル能力によって騙すのである。こんなものが「人間として。」の論証になるわけがないのである。
基本的に現在の生物学はオカルトであることを認識すべきである。生物学者の多くは論理的思考を嫌い、権威者に対しての批判精神を全く持たず。本能的な社会形成習性によって迎合服従する以外に無為無策な集団と化しているのである。こいつらからまともな科学的論証など出てくるわけがないのである。
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1286328830436_02/news/20101007-OYT8T00462.htm
end;
検索キーワードが「オリンパス。」になっちゃっているんだけど、これ変更できないのかな。↓
チンパンジーは「ヒト科。」だそうである。無論生物学上の分類の話であり。所詮は生物学上の分類でしかない。そもそも分類とは、誰かが勝手に規定したものに過ぎず、生物学者だけの正義でしかない。同じヒト科の生物でありさえすれば人間と共通の何かを論理的に立証しているわけでも何でもないのである。
「人間の進化的『心』を詳細を実験的に観察する。」と論ずるが、単なる大脳辺縁系の反射的情動は人間性を持った「心。」とは異なるものである。合理性を持たない観念を振り回しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。
人間の心というものは、そこに意識的行動選択が伴って初めて「心。」と言えるのであって。チンパンジーなりホモサピエンスの動物的感情自体が人間性を保証するわけではない。
社会的知性と称して他人と話を丸めることや、他者のご機嫌をうかがうことは気分的な行動「習性。」であって、これを「知性。」というのはおかしな話である。
「駆け引きや相手をだますという社会的な知性も野外実験場で見ることができる。」これを松沢は「社会的知性。」であると定義する。なぜ、チンパンジーの子供が大人を騙さなくてはならないかというと、チンパンジーの大人は子供に対しての教育ネグレクトを平気でするからである。子供が将来生存における能力を獲得できるかどうかなど全くチンパンジーは「考え。」ないから放置するのであり、子供は仕方なしに大人を騙さなくては生存できない。
そもそも他者を騙すことを「社会的知性。」などと論じている時点で人間としての社会性など全く考慮に入っておらず、最初から本質的人間性など全く興味のないオカルト観念に基づいて「人間とは。」などと論じているのである。
単なる動物的知能は人間としての社会性を持った知能とは異なる。
ホモサピエンスという生物種でありさえすれば人間としての社会性が保証されているわけではない。松沢は「ヒト科ホモサピエンス=人間。」という前提で論じており。これは生物学上の分類しかしておらず、ゲリラであろうと詐欺師であろうと全て同じ「人間。」であるという前提にしか考えておらず。生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任を負う人間との区別をしていない。
単なる生物学上での遺伝的差異をいくら論じても、単なるホモサピエンスであるだけなのか、それとも人間としての社会性を持っているかを論ずることは、最初から原理的にできない。そもそも松沢にとってどうでもいいようである。
地域固有の「文化。」を持ち出すのであれば、オリンパスの役員達の理論は正しいことになる。
ホモサピエンスの子供特有の「誉められたい、認証されたい。」本能欲望があるからといって、この性質が常に人間としての社会性に寄与することの論証にはならない。カルト宗教の幹部が教祖に誉められたいがために地下鉄に毒ガスを撒く行動習性をして「人間固有。」だなどと言う論証にはならない。
ホモサピエンスとチンパンジーの差異を論じても人間としての社会性の言及にはならない。ホモサピエンスでありさえすれば人間であるとは言えないからである。
「人間にはおばあさんがいるが、チンパンジーにはいない。これこそが人間の人間らしいところだろう。」などという話も、単なる「ホモサピエンスとチンパンジーの差異。」を論じているだけであって。「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」とは無関係である。
このように、現在の生物学というのは。単なる生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任行動が採れるかどうかの人間性を全く区別しておらず。全く「人間とは何か。」について論理的正確性を欠いた話しかできていないのである。
「人間とは何か。」「ヒトが人間足りうる所以。」とは何かを論ずるからには、単なる生物種としての差異を枚挙するだけでは論じたことになっていない。松沢は大衆迎合で「人間とは何か。」を論じているだけで、本質的には何ら人間とは何かには興味などないのである。
脳科学分野において、人間の脳における本質的知能とは何かを論ずるにおいても。従来の生物学のパラダイムに基づいた動物的行動習性「結果。」だけを論じても意味がない。詐欺師が他人を騙して「生存価。」に適しておいても「知能。」ということになっているからだ。にも関わらず脳科学研究者の誰も従来の生物学におけるパラダイムの問題点を全く指摘する者はいない。脳科学は生物学に分類されるのである。動物的な脳の機能をいくら論じても人間としての脳の使い方について論じたことにはならない。これを放置しておいて脳科学もすったくれもあったものではない。
ナチスの絶滅収容所の吏官は「健康。」であろうか。生物学上では「健康。」であろう、松沢達が論ずる話とは、生物種としての健全性しか論じておらず。本質的人間性においては全く無視しているのである。
このような状況を放置しておいて、「自律的に社会的責任。」云々について、脳科学も心理学も哲学も原理的に全く糞の役にも立たない。
チンパンジーの瞬間記憶能力の一面的高さだけを論じても、これを「知能。」ということはできない。こうした機械条件反射的能力であれば機械でも簡単に再現可能であり、そこから新しい知見や発見といった知能の拡大が得られるわけではないし。当然「自律的な社会的責任。」とも無関係である。
どんなに一面的な特殊能力を獲得しても、それが知能を拡大するわけでも、自律的な社会的責任能力を立証するわけでもない。
「人間。」において最も重要なのは、一義的には「自律的に社会的責任を負う。」ことであり。また本質的知能とは、一面的な特定能力の高さだけを意味するものではなく、あくまで「教えられていないことを発見。」するからこそ知能を拡大することが可能なのである。拡大できない知能など本質的には知能ではない。機械で充分であるからだ。
教えられていないことに気付くためには、必ず自発的思考が必要であり。どんなに難解な問題で高い成績を獲得しても、自発的に何も考えない者は教えられたことを鵜呑みにする以上の何も「考え。」ないのである。
乳幼児の発達学習の話だけなら動物的な知能論だけで充分である。別に乳幼児に「自律的に社会的責任。」は必要ないからだ。そもそも言語や運動機能というのは無意識機能であって、本質的意識とは直接関係のないものなのである。
シンボル機能としての言語さえ獲得しておけば「人間。」であることの論証にはならない。逆に脳卒中などで言語機能を喪失したからといって突然自律的社会的責任能力を失うわけではなく。シンボルを扱うかどうかは生物種間における差異を挙げているに過ぎない。生物種としてホモサピエンスでありさえすれば人間としての社会性、すなはち自律的な社会的責任能力の証明にはならないのである。
詐欺師が他人を騙す為には、高度な言語機能、シンボル能力によって騙すのである。こんなものが「人間として。」の論証になるわけがないのである。
基本的に現在の生物学はオカルトであることを認識すべきである。生物学者の多くは論理的思考を嫌い、権威者に対しての批判精神を全く持たず。本能的な社会形成習性によって迎合服従する以外に無為無策な集団と化しているのである。こいつらからまともな科学的論証など出てくるわけがないのである。
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1286328830436_02/news/20101007-OYT8T00462.htm
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検索キーワードが「オリンパス。」になっちゃっているんだけど、これ変更できないのかな。↓