書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○危険性の認識拒絶。

2014年09月04日 16時27分31秒 | 意識論関連
 オウム真理教には「目的」がなかった。

 地下鉄サリン事件の被害者や遺族達は、教祖麻原がなぜテロを起こしたのか、その目的を知りたいと述べていましたが。残念ながら教祖麻原にも、麻原に従った信者や幹部達にも目的意識なんて全くなかったのです。

 麻原本人は、信者達が自分の都合の良いようにお布施をくれるよう誘導、気分的に満足させることで信用してしまうヒトの性質を利用していただけであって。それ以上の何の目的もなかったのです。

 麻原にとっては教団の持続可能性とか、信者の幸福なんてどうでも良くて、ただ自分にとって都合の良いように信者達を動かすことが出来れば満足だっただけであって。それ以上の何の考えも持ってはいなかったのです。

 「洗脳」と聞くと、あたかも誰かが目的意識を持って他者を誘導しているかのように錯覚しがちですが。最初から目的が明確にあれば洗脳でも何でもないんです。

 これはナチズムにおいても、シエラレオネの少年ゲリラにおいても同じことです。

 様々な洗脳による「暴走」というのは、そこに目的意識が全く存在していないからこその「結果」であって。これは子供達のイジメの延長線上にあるものだと言えるでしょう。

 子供のイジメとシエラレオネの少年ゲリラでは程度があまりに違うと思うかも知れませんが。一言でイジメと言ってもその程度は一概に規定出来るようなものではありません。




 私の提示する理論というのは、今まで誰も論じてこなかった理論であるため。馴染みがなく、「慣れて」いないので根拠のない不安感を抱く人がいるようですが。

 私の理論はいわば「オープンソース脱洗脳」なので、間違いがあれば誰でも訂正することが出来るようにしてあります。決して「金払って買って読め。」的閉鎖性は持っていません。

 日本人全体が若者達を抑圧するような軽い「虐待の連鎖」状態に陥っているのも、ある種の洗脳状態であって、目的がありません。

 オウム信者に対して「お前さんの信じている教義や教祖は間違っている。」などと言えば、信者達は条件反射的に拒絶反応を示し、何が何でも自分達が正しいと強弁するでしょう。

 それと同じで日本人に対して「精神論は間違っている。」と述べればヒステリックに拒絶反応を示すのです。




 世の中には様々な意見がありますが。マスコミを含めて文科系の人達というのは、「あんな意見もあるな。こんな意見もあるな。でも難しくてどれが本当かわかんないや。 それぞれ好きなもの選んで自己責任でやりゃ良いんじゃねぇの。」的に当たり障りのない結論で満足しておきます。

 その方がヒステリックな観念論者のご機嫌を損ねずに済むため、外見上「大人」にも見えるわけです。

 でも、これは本当は単なる日和見主義、大衆迎合でしかないのです。

 こうした日和見主義はナチズムの暴走をも放置します。

 ハイデガーのナチス迎合も、結局は外見的「大人」風味の日和見主義の結果でしかないのです。

 世にある様々な意見の中から、何が正しくて何が間違っているのかを論理的に検証し。たとえ「今の大衆の観念」に従わないとしても、間違っていることは間違っていると言うのが、本来の社会的責任を持った「大人」としての判断なのです。

 ハンナ:アーレントがアドルフ:アイヒマンに抱いた「凡庸さ」というのは、分析的に間違ってはいません。

 スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」においても、「普通の人」の危険性は立証されているのです。

 しかし、普通の「ヒト」の中にある危険性こそが、本当の危険性であることを、多くのヒトは信じようとはしませんが。これは「自分だけは、常に意識的に全ての行動や言動を論理的に選択出来ているものである。」という身勝手な妄想がもたらす錯覚に過ぎないのです。

 むしろ、こうした妄想錯覚こそがヒトという種の生物の危険性をマスキングしてしまうことで、何度もバカげた残虐行為が繰り返されているのです。

 それがとても無責任なことであることすら、多くの人は認識していないのです。



 進化生物学では、生物の目的は生存で、全ての生物は生存のための行動を採るように予め作られているものであると言い張ります。

 昆虫の擬態なども、従来は「生存のために、自らの外見を何かに似せた。」などというオカルトが通用していたのはそのためです。

 自分の遺伝子は、構造原理的に自分では並べることが出来ません。従って先天的形態を自分自身でコントロールすることなど出来るわけがないのに、進化生物学上では従来本気で信じ込まれてきたのです。

 進化生物学界というのは、自然がもたらすあらゆる結果の全ては常に正しいものであるという盲信がまかり通っていました。今でもそれはあまり変わっていないように思えます。

 こうした盲信の延長線上に、「ヒトは先天的には正しい行動を常に採るものである。」というオカルトが、社会心理学では通用してしまっているのです。

 ある特定環境下においてヒトという種の生物が利他的行動を採ったことを立証しても、ヒトという種が常に人格者として振る舞うことの論理的証明には一切ならず。ただ単に「自分は常に正しい、大丈夫だ。」という観念妄想錯覚に陥っている文科系大衆のご機嫌取りにしかなっていないのです。

 科学は多数決ではありません。民主主義も市民がバカならバカ主義にしか陥らないのは必然的結果というものです。

 市民の一人一人が自律的に社会的責任を負わなければ、社会の持続可能性も安全性も高まることはないのです。



 すぐに「受け入れろ。」とか「信じろ。」とは言いません。むしろ、じっくりと時間をかけて、時にぼんやりとしながら検証して下さい。

 本当にあなたが望んでいる社会というのは、その場限りの気分感情で決定するような短絡的で安易なものではないからです。



Ende;
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○客観性。

2014年09月04日 13時45分31秒 | 意識論関連
 イジメをしている時、その集団の状態という環境要因に無意識に流されている状態なのですが。この時に客観的に自分の行為を冷静に検証する自己が失われています。

 自分や自分のおかれた状況といったものを分析する統合的判断能力が失われ、その場の「課題」に意識を奪われている状態であると考えて良いでしょう。

 これは振り込め詐欺師に被害者が騙されている時と同じで、その場において促された強い感情によって、「振り込むこと。」という「課題」が自己客観性を喪失している状態と同じような状態だと言えるでしょう。

 イジメなどの差別排除というのは、本当は誰にも「目的」がありません。

 その場の「空気」、その場限りの状況に対して、「自分がイジメられないようにするため。」とか、「どうやったら他人より目立つことが出来るか。」といった「課題」に意識が奪われており。その結果差別排除に加担してしまっているだけなのです。

 自己客観性を取り戻すには、一度こうした「課題」に集中してしまっている自分というものを一歩引いて見る必要性があります。

 自分が人間としてクズに陥っていないのか、それを多数が客観的に自己検証できればイジメは収まります。

 理屈で言えば簡単ですが、それを実行に移すのは困難です。

 自分一人で冷静になっても、お祭り騒ぎ的な集団興奮状態では、反って興奮している相手の感情を逆なでして自分がイジメの対象になるのが大体のシナリオですから。

 シナリオというのは、予め決まったシーケンシャルな行動です。だからこそ無意識なのであり、「目的」がないのです。



 また、先天的本能である暴力は快楽中枢が活性化するはずです。

 機能性MRIの中に頭を突っ込んだまま暴力を振るうなんて器用なことが出来る奴はいないので調べようがないかも知れませんが。DV男がパートナーに散々暴力を振るった後には、脳内にセロトニンという安息物質が分泌されるため、「急に優しくなる。」というチグハグな行動を採ることが知られています。

 脳は暴力を振るうと満足するように出来ているのです。

 テストステロンなどの男性ホルモンは、暴力衝動を引き起こすようになっていて。これが自然界においては摂食行動のトリガーとなって、結果的に生存に結び付いた「結果」として。ヒトという種の生物の脳にも残されています。

 ヒトの大脳辺縁系の構造は、実は獰猛なワニなどの爬虫類とさしたる構造の違いがないそうです。

 言い換えれば、ヒトの脳の中には野生生物と同じように狂暴な獣が棲んでいるようなもので。ヒトが暴力を振るうというのは、その意味においては「自然な行動」だと言えるのです。

 「自然な行動」とは、「結果」です。これは「目的」とは言えません。

 目的もなく漫然と先天的本能習性に無意識に流されていて、それで本当に「自分」の選択だと言えるでしょうか。

 イジメが発生しているときに、「本当に攻撃すべきはコイツなのか?。」と引きで見て下さい。

 冷静に客観視すれば「そんなわけねぇだろ。」と気付くことが出来るはずです。



 他人を比較して順位をつけたがる習性というのも脳にはあります。イヌの順位欲というのがその典型で、大好きな飼い主に対しては異常な興奮を示して、あまりに興奮し過ぎて室内で放尿したりすることもある程です。

 いわゆる「うれション。」ってやつですね。

 その一方で、イヌは見知らぬ怖い相手には異常なまでに吠えかかります。(厳密に言うとイヌの場合は遺伝的に改造されまくっているために個体差が大きくなってしまっているので、オオカミのように純血な種で考えた方が良いのかもしれませんが。イヌは馴染みがある生物なので理解しやすいとも言えるでしょう。)

 イヌは他の個体に順位をつけます。自分より上なのか、下なのかを明確にしておかないと気が済まないように脳が出来上がっているからです。

 そしてこうした順位欲というのは、ヒトでも同じように見ることが出来ます。

 誰でも良いので特定の誰かを蔑み、集団で攻撃排除しておけば、自分達が優位に立ったような錯覚に陥るのも、こうした順位欲も一因となっているのです。

 スタンレー:ミルグラムらによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」では。ヒトの多くが権威と見なした相手の命令に従い他人に危害を加える習性が存在することを実証しました。

 アイヒマン実験の被験者の中には、自分が危害を加えた「理由」として、「危害を加えてしまったが、それは相手が悪い。」という発言をする例がありましたが。これはイジメにおける「イジメられる方も悪い。」という、子供じみた言い逃れと同じで。自分が既に行ってしまった行動「結果」を、事後正当化するという形の「取り繕い」なのです。

 なぜ、ヒトは無意識に流されて行ってしまった行動を事後正当化するのでしょうか。

 それは、その人が「自分の行動というのは、自分自身で常に意識的に選択出来ているものである。」という錯覚がもたらした妄想に由来する錯覚なのです。

 人の意識の9割以上は無意識です。人の行動や言動の多くは、その場限りの条件反射に過ぎず。自分がおかれた状況や環境に対して、その場限りに反応した「結果」に過ぎないことを、多くの人は認識していません。

 むしろ、「人は9割は見た目で判断する。」ことを利用した金儲けの手口をもてはやし、欲得勘定による世間的な成功ばかりを「目的」だと錯覚しているバカげた新書類が書店には蔓延しているのです。

 利己的な金儲けというのは欲望主体の行動です。決して「理性」などではないのです。ところが文科系の人達というのは論理的理解力が乏しいため、習慣的に「理性=利己的欲望」という論理的根拠ない観念を信じて疑うことがないのです。

 「自分は絶対大丈夫。」という錯覚によって、間違いを認識したがらない習性も、こうした観念に論理的根拠がないことへの認識が働かなくなる原因なのです。

 本当の意識とは何でしょう。それは一切の無意識を排除した状態であって、絶対的完全意識というような状態は有限の脳しか持たない「ヒト」の脳では構造原理的に不可能であることが証明可能でもあります。

 しかし、より無意識を排除するよう心掛けるという「意志」を持つことが不可能であることの論理証明には一切なりません。

 無意識のままに流されることに抗おうとする自己は、少なくとも無意識のまま条件反射的に流されている状態よりは自己が存在すると言えるでしょう。




 一人の「人間」として、本当に望むべき「目的」とは。目先の金儲けやその場限りの享楽などではなく、持続可能性を持った安全な社会であることを、多くの人は忘れがちです。

 忘れがちだからといって忘れて良いという根拠にはならないので、時折忘れないように思い出すことが必要なのです。

 脳のデフォルトモードネットワークというのは、特定の「課題」に意識を奪われない状態でなければ働くことがありません。

 しかし、ここで矛盾が生じます。何の「課題」も考えずに自分の過ちに気付くことが可能なのでしょうか。

 実は可能です。要するに自分が何かの「課題」に意識を奪われて客観性を失っていることが気付けば、その「課題」を解決しようとすることの不毛さに気付くことが出来るからです。

 「何の課題も与えられていない。」状態であっても、寝ているとか意識不明の昏睡状態ではないので、目の前で起きている事象に対して客観的に分析することは、ある意味自動的に行える状態ではあるのです。



 オウム真理教の修行に「十万回マントラを唱えなさい。」的なものがありましたが、これは信者の脳に常に「課題」を課すことで、脳のデフォルトモードネットワークを働かせないように「学習」させ、客観的に自分の行動を検証するという本質自己を破壊させる手口なのではないかと思います。

 カルト宗教の洗脳手法でなくても、「自分より先に他人を大事にしろ。」だとか「好きなことをやるより苦手を先に克服しろ。」などといった日本人特有の精神論というのも。いわば「文化」という形をとった軽い「虐待の連鎖」なのではないかと思うのです。

 虐待の連鎖はどこかで断ち切らないといけません。客観性を持った本質的自己というものを取り戻さないからこそ、無知で自分勝手な教師、親大人というのがいなくならないのです。

 若い人達は、これから親大人として子供達を導いていかなければならない社会的責任というものがあります。「目上に責任取らないバカが多いから、俺も取らねぇ。」というのは子供の言い逃れに過ぎません。

 もちろん臭いヲヤヂ達やクソババア達にも社会的責任はあります。そのための啓蒙はこれからも続けてゆきますが、バカのまま歳だけとったバカ達も、結局は日本という社会の「文化」に毒された憐れで惨めなヒステリー(心理拘束)に陥った病人に過ぎないことを認識しておけば、ムキになって怒る必要性がないことに気付いて欲しいのです。(おいらは腹立ってしょうがないけどね。)



 人は他人のヒステリーに感化されがちな性質があります。

 そうした条件反射的感情論に流されないよう、「しっかりする。」ためには。従来の観念のような精神論ではなく、むしろ「一旦落ち着いて、ぼんやりと客観視する。」ことの方が大事なのです。



Ende;
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○加里酒石酸。

2014年09月04日 09時44分06秒 | 日記
ワイン樽の内側に付着する酒石酸にカリウムを化合させた加里酒石酸には圧電効果があるそうで、戦時中には音波探知機のセンサーに用いられたとのこと。

音や振動で電気が発生するのと同時に、電気信号を加えても音が発生するんだそうだ。

透明な結晶から音楽が聴けたら素敵なんじゃないかと思ったりする。

高いのかな、加里酒石酸の大型結晶って。


他の人のブログ


Ende;
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○default mode network。

2014年09月03日 22時45分25秒 | 意識論関連
 脳のデフォルトモードネットワークについてNHKのサイエンスゼロで取り上げていたことがあるんだけど、NHKには大した情報がなかったので他の人のブログへのリンクを載せておきます。

 実は前の記事で「デフォルトネットワーク」って間違えてたんだけど、正しくは「デフォルトモードネットワーク」でした。




Memo

後部帯状回 前頭葉内側

課題を与えると活動が低下する領域。

デフォルトモードネットワーク

default mode network


Ende;
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○連鎖を断ち切る。

2014年09月03日 21時55分34秒 | 意識論関連
 蓮さんが言ってた言葉で気になったのは、「どうしろと言うのか。」っていうのがあった。

 この言葉の裏には、「命令の応酬」みたいなものが隠れているような気がする。

 まあ、おいらの文章がカタいので、命令のような錯覚を促したのかも知れないが。もしかすると指図されることにばかりあまりに慣れすぎてしまっているため、誰かに何かを言われると、のべつまくなし命令とか指図のようなものだという一種の被害妄想が隠れている気がする。

 単なる見知らぬオッサンの意見なんだから、「ふ~ん、そんなこと言うオッサンもいるんだな。」っていう引きで見る客観性が失われてしまっていて、とにかくその場で「解答」を出さなきゃいけないという強迫観念に追い立てられていしまっているようにも見える。

 物事の真偽というのは、色んな人の意見の中から論理的に自分自身で選択することで見つけてゆくものなのに、とにかく目先の相手から言われたことに対する「解答」を出さなきゃいけないという錯覚に陥ってしまって、とにかく何か言っておかないと気が済まない状態に陥ってしまっているのではないだろうか。

 アインシュタインが述べていた、「無知で身勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧」がもたらす若者の心の荒廃というのは、若者が自分で深く考える能力を奪ってしまうことなのではないか。

 そう思うのだ。

 蓮さんは自分のことを蔑んだように述べていたけど、間違った観念に陥ったのはその場限りの感情に流されちゃった結果であって。おいらが「近所の子供がレイプされていたり、ガソリン飲まされ燃やされたりする社会は望まないでしょ。」っていう問い掛けに対しては素直に「望まない」と自分の言葉で呟いていた。

 感情そのものは制御出来ないものではあるけれど、感情と行動や言動の間に理性というブレーキが働いていれば、一人の人間としては制御出来る。

 様々な感情が勝手に脳からわき出て来るものではあるけど、その様々な感情を統合的に見る自己客観性に基づいて「本当に永続的に望む理想」とか「目的」行動選択というものが働いていれば、感情の強度程度に流されることなく自己を制御することが出来る。

 しかし、感情の強度程度に無為に無意識に流されてしまっていては、その結末は全て「結果」でしかない。

 このように「結果」と「目的」を混同していることは、最も重大な間違いの素となりうるのです。


 おそらく蓮さんは、見知らぬ変なオッサン(おいらのことね。)に色んなことをいっぺんに言われてしまって、混乱しているのではないだろうか。混乱している時は一度忘れて、好きなことにでも熱中して欲しい。

 あくまで1/一億に過ぎないおいらの意見要望にばかり囚われず、意識を奪われず、色んな人の意見を聞いて、本当に自分にとって世の中に求めてゆきたいこととは何なのかを時間をかけてジックリ探して欲しい。

 そんなに簡単に答なんて見つかりません。神とか天才じゃないんだから。

 「自分を大切に出来ない人が、他人を大切にすることは出来ない。」これは定理です。

 まず自分自身を大切に出来るためには何が必要なのか、そこから見つけてゆくことが必要でしょう。

 ところが日本の社会では先に「他人を大切にしろ。」と言い出すから、話がややこしくなってしまう。

 「誰も自分のことを大切にしてくれないのに、何で他人のことなんか大切にしなきゃいけないんだ。」となるのは、ある意味必然的結果でしょう。

 そうした「他人を先に大切にしろ。」という不毛で誰も得をしない観念の「連鎖」が、日本の社会には蔓延しているのだと思うのです。

 「無知で身勝手な教師」達というのも、結局は「そう育てられたから。」という被害者の一人に過ぎないのだということを認識しておけば。「ああ、このオッサンもミジメだな。」と哀れむことも可能になるのです。

 これが仏教で言うところの「慈悲」の心でしょう。

 虐待は連鎖します。虐待されて育った人は、自分が受けた虐待と同じように自分の子供にも虐待をしてしまうように陥るものなのです。

 こうした連鎖はどこかで断ち切らないと、永遠に虐待が続くことになってしまいます。

 自力で全て背負う必要はありません、自分に出来る範囲で良いので無理せず地道に改善してゆこうとする「意志」は失うべきではないでしょう。

 「一人の力は微力です。でも無力ではありません。」そんなツィートを読んだことがあります。

 微力を行使する意志だけは失わないよう心掛けて下さい。

 心掛けるだけからでも良いですから、一人でこの世のバカの全てを説得しようなどと大袈裟に考え過ぎないようにして下さい。

 まず、自分がバカにならないこと。

 バカの誘導するバカみたいな土俵に誘われないようにするだけでも良いんです。

 バカが提示した泥沼with地雷の中に、うっかり足を突っ込まないようにするだけで良いんです。

 誰だって小さなことから始めるんです、いきなり大きなことをやらかそうとするからナチズムのような「最終解決」に陥ってしまうのであって、そんなに簡単に「答」が見つかるなどとは思わないことです。

 それはきっと、絶望的に面倒臭いことのように思えるでしょうが、日々の小さな積み重ねこそが大切なのです。

 先ずは自分の好きなこと、得意なことから始めましょう。そして、その小さな楽しみを少しだけ他の人にも分けてあげてください。

 他人を思い遣るのはその後の話です。

 見知らぬオッサンのご機嫌取りなんぞしなくて良いです。オッサンなんつうのはdisるためにいるんだとでも思っておけばよろしい。どうせ先にくたばるハゲた臭いオッサンなんぞのご機嫌取りをしても何の得にもなりゃしません。仲よくなっても臭い思いをするだけですから。

 むしろ年下の子供達のために何が出来るかを考えて下さい。

 子供達がイジメをせずに済むような社会とはどういう社会なのかを考え、望んで下さい。

 子供達が安心して暮らせる社会とはどういうものなのかを考えて下さい。

 そうすれば本当にあなたの思う理想というものが、おぼろげにでも見えると思うのです。

 綺麗事なんかじゃありません。泥臭い地味な話なんです。

 子供達が荒れるのは、環境のせいです。しかし、大人が「世間が悪い。」などと称して暴言を吐いたり、暴力を振るったりして良いわけではないのです。




Ende;
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○Twitterの仕様。

2014年09月03日 14時50分11秒 | 日記
おいらもやらかしたことあるんだけど、ユニコードってコピペしただけだとダメらしい。


 ◇追記:これユニコードだよね。違うかな。


Ende;
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○半透明人間。

2014年09月03日 11時53分36秒 | 日記
なんじゃこりゃ。



Ende;
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○自然とは恐ろしいもの。

2014年09月03日 00時07分09秒 | 意識論関連
 ノーベル賞受賞者の多くは生徒個人の自主性を重要視するんだけど、実際の教育現場では進学率とか偏差値といった数字を追求したり恐怖権威で抑圧しようとするバカ教師が多過ぎて、なかなかノーベル賞受賞者の思うようには改革出来ない。

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益川敏英 嫌いなことはそんなにやらなくていいから、好きなこと、得意なことを伸ばすことを考えた方が良い。

小柴昌俊 「これなら一生続けられる」、そういうものを見つけなさい。

アルバート:アインシュタイン

無知で自分勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧は、若者の心に荒廃をもたらす。荒廃はけっして元には戻らず、しばしば後に悪影響を及ぼす。

特定の職業にたいする生徒の性向を無視してはいけません。(なぜなら)とくに、そのような性向は早い時期に現れるからです。きっかけとなるのは、個人の才能、家族らが示す手本、他のさまざまな境遇でしょうが。

おおかたの教師は、生徒が何を知らないかを発見することを意図した質問をして時間を無駄にしています。しかし、本当の質問の技とは、生徒が何を知っているか、あるいは、知りうるかを発見することを目的としているのです。


(「アインシュタインは語る」 大月書店刊より抜粋。)

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 益川理論(?)に基づけば、与えられた特定の限定的学科での成績が平均的に高くなければならない必要性はないはずで。大学入試においてペーパーテスト以外の合格基準を採用するなどのすんごい微妙な改革は進められてはいる。

 何故進学率や偏差値といった数字を追求しようとするイカレた教師がいるのかと言えば。彼らは学生時代に進学率や偏差値の向上ばかりを求められて育ったからである。これは明らかに一種の「虐待の連鎖」である。

 そもそもアニメファンの若者達をdisるバカ祭りにノーベル賞受賞者は出て来ることはない。






○1次元。

 集団や組織の中ではどのようなメカニズムで危険性放置が発生するのかを社会心理学的手法で解明しようとする必要性があるでしょう。それは「アイヒマン実験」の追試のような形を採ることになりかねないため、コンセンサスは得られ難いかも知れないが、科学的に検証して明確にしておく必要性はあるかも知れない。

 個人的には必要性は感じていないのだが。頑固な実証主義者を説得する必要性があれば、致し方あるまい。




 ヒトはとかく感情的に陥ると、右か左かといった1次元的思考しか出来なくなる習性傾向がある。

 たまたまバカヲヤジ達がよってたかってアニメファンをdisったからといって、社会の全てがアニメファンを排除しようとしていると勘違いすべきではない。そうした錯覚に陥らないことこそがメディアリテラシーというものでもあるからだ。

 そもそも問題だと思ってすらいないヲヤヂ達はそんな番組には興味すら持っていない。(おいらもタイムラインから「何かバカ番組をやっているみたいだな。」程度。)

 ですから、ヲヤヂの全ては敵といった短絡的な帰結に陥って思考停止(オッサン個人の特性を無視)して敵味方といった1次元論は、原理主義の思考パターンの基本構造と全く同じものなのです。

 論理的にも統計的にもさしたる根拠のない観念的なdisりというのは、そもそもが1次元的価値観に基づくものであって。こうした1次元的原理主義者に対して気分的反感や嫌悪感だけで全面的にdisり合ってしまうと、その1次元上での議論に乗っかっちゃっているのと同じことなのです。

 そもそも議論自体がトンデモなく低次元であることを認識していれば、語るに足らない変態ヲヤヂの勝手な妄想でしかないのです。

 相手が提示したチンケなモノサシの上だけの議論に相手を引き込む手口は、詐欺師とか占い師の常套手段です。

 乗っかってはいけません。

 そこにこそ暗黒面ダークサイドが隠されているからです。

 蓮@残響さんが言ってた「土俵」と例えてもいいかも知れない。相手がそそのかした土俵というものが、キチンと論理的土台がしっかり出来ているのかを確かめずに、迂闊に「売言葉に買い言葉」で乗っかってしまうと二度と出られない泥沼に陥ったり、場合によっては地雷が埋まっていることもある。

 詐欺師、あ、じゃなくて。占い師が「他人の言うことを信用しないのは、心の狭い態度です。」なんて頭ごなしに決め付けたりすることがありますが。冷静に考えれば「じゃあ何かい、他人の言うことを何でも疑わずに鵜呑みにして、あんたに金を払うような、あんたにとって都合の良いカモこそが心が広いってことなのかい。」って話になるわけです。

 そんなわけねぇだろ。\( ~∇~)/



 脳のデフォルトモードネットワークというのは、課題を与えられている間には活性が低下します。これは街角で見知らぬ他人に道を聞かれた時に相手の服の色を全く覚えていないのと関係があるのではないかと思います。

 「道を聞かれた」という「課題」によって。意識注意が「道を説明する。」ことだけに整理され、結果的に話の途中で相手の服の色が変わっても気付かないとか、それこそ相手自体が入れ替わっていても気付かないなんてことにもなるのです。

 手品も、こうした意識誘導を用いてタネがわからないようにします。

 「他人を騙そうとする者にとって、カモを見つけるのは簡単である。」とはマキャベリの言葉ですが。

 ヒトという種の生物の脳というのは、騙すためのツボというかコツのようなものが存在していて、これを利用すると相手を意図しない錯覚状態に陥れることが簡単に出来るものなのです。この前提を忘れてその場限りの感情気分のままに無意識に流されていると、うっかり変な考えに引き込まれてしまうことがあるのです。

 「自分だけは大丈夫。」そう思っている人ほど、振り込め詐欺の被害に遭うものなのです。

 こういった説明をすると、もしかすると蓮@残響さんは「自分はそんなことにも気付かなかったのか」と落ち込むこともあるかも知れませんけど、こういった錯覚というのはヒトという種の生物全般に見られる普遍的性質なので、何ら落ち込んだり歎いたり、恥ずかしがったりする必要性は全くありません。

 むしろハインリッヒの法則でいうところの「ヒヤリ、ハッと」事象でしかないのですから、気付いたことを教訓に騙されないよう気をつけるキッカケとなれば財産ともなるのです。

 脳のデフォルトモードネットワークを働かせるためには、いちど「ぼんやり」する必要性があります。これは「脱集中」とも呼ばれ、一息ついて引きで見る客観性を働かせることで問題点に気付くことが出来るようになるコツです。

 なので、感情的になってその場限りの勝ち負け論に引き込まれ、相手を攻撃することばかりに意識を奪われていると、問題の本質を見失ったまま不毛なdisり合いにしかならないのです。

 感情というものは、単にそれだけでは意志ではありません。統合的に論理検証することで、本当に重要なのが何なのかを見極める客観性が伴って、初めて意志とか自己とか意識だと言えるのです。

 自分の脳は自分が作ったものではありません、そもそも自分の脳というのは自分では選択不可能な遺伝要素から出来ているものであり。また、その脳に刷り込み学習された様々な価値観もまた、それだけでは自分の価値観とは言えないのです。

 自分が育った社会環境というものは自分では選択していないのですから、その社会から「学習」された価値観が自分自身の価値観だと思うのは実は間違いなのです。

 その場限りの勝ち負け論に執着してしまう性質というのも、ヒトの先天的習性でもあるのですが、他者との過度な競争を強いられることで強化されてしまうものでもあるのです。アインシュタインが危惧した「心の荒廃」も、無知で愚かな教師によって植え付けられた「陳腐な土俵」の弊害なのです。

 もしかすると、こうした話は得体の知れない不安感を抱くこともあるかも知れませんが。それは今まで誰も触れて来なかったという「慣れ」ていないことに由来する感覚だと言えます。

 慣れないことはすぐには馴染めないのは当たり前ですから、時間をかけてじっくり慣れる必要があるのでしょう。

 先ずは「ぼんやり」しておきましょう。「ぼんやり」している時にしか見えないものがあるからです。

 無理に急いで「最終解答」をひねり出してはいけません、それこそが原理主義の構造(暗黒面)だからです。




Ende;
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○自然とは怖いもの。

2014年09月02日 15時44分47秒 | 意識論関連
 ツイッター上で気になったツィートがあったので、少し掘り下げてみる。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
良心や罪悪感なんて存在しないよ
法律が怖いから、みんなそれらしく振る舞うだけだ。
アニメヲタクがどーたらこーたら言ってるおっさん連中も、法律がなかったら小学生レイプするだろ

蓮@残響
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 「法律が怖いから、犯罪を犯さない。」というのは、当人に社会的責任の意識がなく。「怖い」という気分感情が行動に直結している短絡的帰結です。

 小さな子供に対して、「道路に飛び出してはいけない理由」を論理的に理解させることが困難である場合。便宜的に「叱る」ことにより、「道路に飛び出すと、怒られるのが怖いからやらない。」といった行動抑制(他律)を植え付ける手法が採られます。

 しかし、この手法は論理的説明が理解出来ない幼児に対しての便宜的、方便としての手法でしかありません。

 「怖い=法律に従う」という短絡的行動抑制というのは、国家権力を親と見なして服従する形での他律的行動抑制であって。こうした気分感情が行動抑制と直結していれば、「法律がなければ何をしても許される。」という帰結に至ります。

 中東由来の一神教においても、「神がいないのであれば、何をしても許される。」という観念を良く耳にしますが。「法律さえ守らせておけば、全てがうまくゆく。」というのも結局は宗教と同じ観念に過ぎないのです。

 神だの法律国家権力による抑圧、人工的権威や恐怖、力によって行動抑制をさせるという手法こそが。むしろ「自分がそう育てられたから、同じことをする。」という一種の「虐待の連鎖」と同じ短絡的帰結なのです。

 良心というのは、先ず自分自身が自律的に社会というものを大切にしようとする意欲がなければ働くことはないでしょう。親大人達から「あれはダメだ、これもやるな。」と規則で縛り上げて抑圧ばかりされた人にとって、社会とは「自分にとって都合の悪い嫌なもの。」としてしか認識出来ず、結果的に「法律がなければ、何をしても良い。」という帰結に陥りがちです。

 しかし、自発的に「これなら一生続けることが出来る。」ような純粋行為を持っている人にとっては、社会というのは安全で持続可能なものであって欲しいと願うようになるのです。

 ですから蓮@残響さんに対してのリプライ(返事)は140文字制限下の便宜的な説明でしかありません。

 こうした便宜的説明というのは、仏教では「方便」と呼び、自発的考えを促すための認知行動療法的手法のようなものであると思って頂けると良いと思います。



 「自律とは、自発の中にあり、他にはない。」

 これは定理です。自発的に社会を守りたいと思わなければ、持続可能性も安全性も「糞喰らえ。」だと思うに違いありません。

 それは、むしろヒトという種の生物において自然なことであると考えた方が良いでしょう。

 自分自身がこの世界において楽しいと心から思えることがなければ、社会を守ろうとは思わないでしょう。

 この場合における「楽しい」とは、単なるその場限りの興奮や熱狂のようなものではなく。あくまで他人からの評価や比較に依存せず、個人が持続的に楽しむことが出来るような楽しみでなければなりません。

 宗教家達は「自分を必要としてくれる人に感謝しろ。」と言い張ります。それならブラック企業の社畜達はブラック経営者に感謝しなければなりません。そんな短絡的でバカみたいな話は聞きたくもありません。

 東京電力というブラック企業では、「津波の影響を考慮に入れたら、日本のどこにも原発など造れないんだよ。」と称して社畜達に原発の危険性を放置するよう促したそうです。

 保身だけを考慮すれば、この就職難の昨今いつ起きるかもわからぬ災害を考慮して上司のご機嫌を損ねてプー太郎になるよりも、「素直」に服従しておいた方が気分的にも「怖く」ありませんし、その場限りには安全性だったと言えるでしょう。

 しかし、こうした服従というものは、本当の意味での「素直」だと言えるでしょうか。

 ナチス政権下のドイツにおいては、ユダヤ人を迫害することが求められました。ポーランド アウシュビッツ ビルケナウ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは、600万人のユダヤ人を殺鼠剤で死体に変換する計画を立案し中佐という階級を得ることに成功しました。

 環境に流されて、環境から受けた価値観を鵜呑みにし、自律的に物事を考えない人が行き着くある種の究極的終着点だと言えるでしょう。

 環境から受けた価値観を鵜呑みにしているというのは、自分自身の内部に主体的価値観を持たないことによる思考停止が促す錯覚や妄想の類に過ぎないのです。



 では、どうしたら主体的価値観である、「これなら一生続けられる。」ものが見つかるのか。それには実際に自分自身でやってみないとわからないのです。

 しかし、主体的価値観を持たない人の多くは、「どうせ一生続けたいと思うものなんか、自分には見つからない。」と短絡的に決め付けてしまうでしょう。こうした「決め付け」や「諦め」といったものは、脳に思考停止を促し、その場限りに脳に快楽を与えることが出来るための、一種の逃避に過ぎないのです。

 こうした自分自身の主体的価値観が何かも考えなくなることで、それ以外のあらゆる自発的論理検証性も同時に喪失することに陥ります。

 この場合における論理検証性とは、あくまで自発性を伴う論理検証性を指すのであって。ペーパー試験の論理検証性テストの成績とは無関係です。テスト試験の場合には、成績順位という「他者から与えられる脳への報酬。」に対する条件反射であり、テストで成績が良ければ他人より優位に立てたような錯覚によって気分的に満足しているだけであって。本質的な自発的論理検証性とは無関係だからです。

 「他者から与えられる脳への報酬」という、環境依存的結果に流されていることには、主体性も自由も存在しません。

 なぜ自由ではないのか、それは「結果」だからです。

 本当の意味で自由だと言えるのは、主体的「目的」意識を持って、自発的に選択することであって。その場限りの気分的感情や欲望に流されることではないのです。



 東南アジアや南米の熱帯雨林や、アフリカのサバンナに住む原住民達には、さしたる法律や規則というものはありませんが。彼らは彼らなりに自分達の社会に責任を持ち、社会を持続させてきたからこそ、現存するのであって。「法律がなければ何をしても許される。」という短絡的なものではないのです。

 空キレイだな。

 猫かわいいw

 蝶捕まえたった。

 唐揚げんまい。

 そんな些細な幸福を、幸福であると感じるためには。近所の子供達がレイプされていたり、ガソリン飲まされて燃やされたりしない社会である必要性が自ずと出て来るものなのです。

 欲望というのはその場限りにコロコロ変わるものであって、そうしたその場限りの脳の行動バイアスに流されていては、本当の意味での自由などというものは論じることが出来ないのです。





Ende;
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○本質的自発性。

2014年09月01日 22時34分08秒 | 意識論関連
 黒子バスケ事件の犯人が「勝ち負け」に執着して自律的な社会的責任判断を喪失しているように。秋葉原通り魔事件の犯人も外見容姿といった他人との比較に執着していました。

 ボストンマラソン爆発テロの犯人も、ボクシングの成績が伸び悩んだことが原因でテロという無差別殺人に走った経緯があります。

 純粋に主体的な動機を持たない人物の場合、他人からの評価報酬が望んだように得られなくなると欲求不満に陥り、簡単にぶちギレて無差別な暴力手段に訴える傾向があるのです。


 本当の意味で自発的、主体的意欲を持った人物の場合。社会という多数他人からの評価報酬に左右されず、どんなに失敗しようと認めてもらえなくても研究を続けようとします。ですから原理的に無差別暴力に走ることがないのです。

 ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授は、「何度でも失敗して下さい。」と述べているにも関わらず、「成功体験」などと称して評価してもらえることばかりを体験させようとする教育方法は。本当の意味での主体性、自発性というものをマスキングしてしまい、生徒子供達を「評価してもらえること」や「他人と較べること」ばかりに意識を奪われてしまうように洗脳してしまうことに陥るのです。

 実社会では「これさえやっときゃ、評価が得られる。」とか「努力は必ず報われる。」という単純なものではありません。ですから努力が報われないことも少なくなく、それでも簡単に諦めたり、ぶちギレたりしない本当の意味での「自己」や「意志」といったものを育むことが教育には必要なのです。

 学力成績というものが知能と無関係なだけでなく、むしろ無差別殺人犯などのパラノイア程学生時代の学力成績が高い傾向が見られます。しかし、入学試験ビジネスの既得権を持った学力ビジネスに関わる人達にとって、こうした事実は都合が悪いので隠蔽対象にしかならないのです。

 脳科学者と呼ばれる人達も、その場限りの大衆迎合に邁進しており。「これさえやっときゃ、頭が良くなる」的な非科学的オカルト妄想をマスコミで陳列するばかりで。学力成績を短絡的に「成果」として扱っており、これも大変悪質です。

 茂木健一郎が散々プロパガンダした脳トレ類も、イギリスの大規模実験によってほとんど効果がなく、「ゲーム脳を鍛える」だけだったことが既に実証されているのですが。これも茂木健一郎の人気に便乗していたマスコミの問題とされるために隠蔽対象となっているのです。


 ですから本当の意味で恵まれた教育というのは、他人との学力成績競争に邁進させることではなく。生徒自身が自主的、主体的、自発的に研究出来るような「何か」を見つけられるよう促すことであって。これはノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏が述べていることです。小柴さんは「これなら一生続けられる、そういうものを見つけなさい。」と述べ、「そのためには、実際にある程度やってみないとわからない。」とも述べています。何が生徒自身にとって一生大切に続けられるものなのかは、生徒自身にしかわからないものであり、それを探せるだけの精神的余裕を持たせることが必要なのです。

 それは「ゆとり教育」のように教える「量」を減らすことが重要なのではなく、むしろ大量の情報の中から生徒自身が興味を持てるものを見つけられるようにすべきだと、私は思っています。

 しかし、現在の公的教育機関では、「成果」としての「学力成績」を全ての生徒に万遍なく強制するようになっているため。成績に偏りが出ることを異常に嫌い、個人の興味、好き嫌いといったものを逆に蔑ろにしてしまう構造になっているのです。


アインシュタインもまた、教師や親が人工的権威、力を用いて抑圧することによる弊害を述べています。こうした教育は生徒の純粋な好奇心を喪失させ、他人を蹴落とし自分だけが得をするよう競争心ばかりを「刷り込み」学習させてしまうことになり。非人間的で自己中心的な人物へと陥れてしまうからです。



Ende;
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