書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○バカの哲学。

2019年05月16日 15時29分57秒 | 意識論関連
「雨乞いをしたら 雨が降りました」

その理由とは

「雨が降るまで雨乞いを続けた」からです

ですから 「雨乞いに効果があって雨が降った」わけではないんですね



亀山郁夫は「ドストエフスキーは 現代の社会を予言した」と言いましたが

具体的に「テロや暴力が蔓延する理由」をドストエフスキーが解明していたわけではなく

ドストエフスキーの著作の中の雰囲気を 現代社会の雰囲気に後からこじつけただけなんですね

それって「ノストラダムスの大予言」と一緒で 既に発生した事象に対して 後から予言っぽい話をこじつけているだけなのと同じなんです

*:「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」 オイラてっきり「ドスト:エフスキー」かと思ってたよ まあ 全く興味ないからな



予言をするのは簡単で 「3歳児が自動車に轢かれて死にます」と予言をしておけば たくさん起きる自動車事故の中には3歳児が巻き込まれる事故も発生するかも知れません

「航空機が墜落する」予言しておけば そのうち本当に墜落事故も起きるかもしれません

でも こうした予言には 論理的根拠がありませんから 予防に有効な情報が一切ないんですね



NHK解説委員の室山哲也は 「人類は絶対に絶滅します」と宣言しました

はて この予言は当たるでしょうか 外れるでしょうか

でも 良く考えて下さいね この予言って当たろうが外れようが どうでもいい話なんですよ

人類が絶滅する可能性は確かに無いとは言えませんけど 必要なのは「どういうメカニズム構造によって絶滅するのか」を論理的に解明することで 絶滅を回避することも出来るようになるので それなら有効性もありますよね



フリードリヒ:ニーチェは「人類は超人へと進化する」と予言しました

「で?」

「だから?」

「なんなん?」

実を言うと 分子生物学の観点からは ヒトという種の生物は数百万年先には生殖能力が劣化することが解っています

遺伝的進化が起きるためには 突然変異と苛烈な淘汰圧力が働き続けなければならず

しかも それが必ずしも生存にとって有利である保証もなく 生物の歴史の中では幾度もの大量絶滅も実際に起きているわけです

単に生物として生存に適するだけなら おそらくヒトよりゴキブリの方が有利なんですね

「ヒトが遺伝的進化をするかどうか」を予言したところで 「どう進化するのか」「何のために進化するのか」という目的関数のようなものは そもそも遺伝的進化には存在しておらず もし人為的に遺伝的進化を促すためには動物や植物で行っている品種改良のようなプロセスが必要になるわけです

目的にとって都合の悪い個体は破棄して 目的に適した個体だけを交配繁殖させる

それ ヒトでやって良いことですかね

そもそも疑問すら持っちゃいけないことなんじゃないですかね

こうした品種改良における目的関数の決定って 一体誰がするんですかね

絶対に間違えることのない完全無欠の「ヒト」が決定するんですかね

そんな奴いるんすかね

「人知や理性を超越した 実証不能の謎の英知」みたいなもんを発揮出来るヒトを超越した「超人」が決めるんすかね

それヒトにとって必要性あります?

そもそも 「超人」って何かの役に立つんすかね

何のために「超人」に進化しなきゃいけないんですかね

原発事故の再発防止とか 交通事故の再発防止とか そういう具体的な社会安全性にとって何か応用可能なんすかね

それ 別に遺伝的に「超人である必要性」あります?

そういうこと 今まで誰か考えた人います?

いないでしょ

「考えない人」って どういう人ですかね



Ende;
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○デクノ棒。

2019年05月15日 21時20分53秒 | 意識論関連
車止めポールには設置や強度の基準がなく

自動車の激突に対して効果が必ずしも得られる保証がないという

ガードレールのポールは地面の下に意外と長く埋められているのだが

車止めポールの場合はガードレールのポール程長くは埋められてはいない

あくまで車が入れないよう「抑止」のために設置されるものであって

走行中の車を止めることは特に想定されていないからだそうだ



いや だったら基準を作れ! 今すぐ作れ 3日以内に作って1週間以内に実験しろ!

単に設置しただけじゃ誰も守れないぞ

役所って何でこうバカが多いんだ 当事者意識がなさ過ぎるだろ!

信じらんないわ!

自分達の身内が巻き込まれる可能性だってあんのに 何で傍観してんだ バカが!

言われたこと以外何にもやらねぇよ 警察って 何なんだよ



 ◇追記:またプリウスによるアクセルとブレーキの踏み間違い事故が起きやがった

しかもまた保育園児が遊んでいた公園だよ

不幸中の幸いにも園児にケガはなく 命懸けでかばった保育士さんが足の骨を折る大怪我

運転者はコインパーキングから出庫しようとしてチケットを取ろうとしたら踏み間違えて暴走したという



やることが雑

「ながら」で操作すんじゃねぇ!



Ende;
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○手段の目的化。

2019年05月15日 15時04分58秒 | 意識論関連
信号無視をしちまった事例について もうちょっと詳しく書いておこうと思う



一つ目の事例では 交差点のすぐ脇の駐車場から交差点に入った時に 信号機自体を完全に見落としてしまったのだ

この時は 信号機は見てなかったんだけど どこから誰も来てなかったので 危険性は低かった



もう一つの事例では 山手通りだったと思うんだけど 首都高下の右側からの道路しか交差していない交差点だったので

左側に直交する道路がなくて ガードレールが続いていたため 道路だけ見てたら上にある信号機を見落として侵入してしまった

この時は運よく何もなかったんだけど 下手すると重大事故に陥る危険性があった

「交差点とは こういうものだ」という固定観念というか 固定概念みたいのにそぐわない交差点ってのも時折あるので それ以降 初めて入る交差点はどういう構造になっているのかを慎重に見極めるように心がけている

電車の運転手みたいに「指差し確認」するのも効果的かも



信号の見落としみたいな過失って たまたま何も起きなきゃ良いけど 起きたら重大事故になる可能性も充分にある

何も起きずに お巡りさんに見つからなければ スルー出来るけど

誰かを轢き殺しちゃったら重過失致死で刑罰の対象になる

過失自体は同じものなのに 結果が違うだけで対応が異なるというのは 実は合理性がない

お巡りさんに見つかって罰金というのも 合理性はない

どのようなミスが どこで どのくらいの頻度で発生しているのかを情報共有するためには むしろ罰金みたいのは逆効果で

「信号機を見落としやすい交差点」を情報共有するためには 罰金だの個人情報だのと隠蔽せずに むしろ積極的に開示するようすべきなんだよね

その意味において 現状の警察による取り締まりや罰金制度というのは 「事故を減らす」という目的のためには有効性が低いばかりか むしろ障害にすらなっている

どこに どのような危険性があるのかを むしろカーナビで表示するとか そこまでやっても良いんじゃなかろうかと

オイラは思うよ



あと 警察って「事故を減らす」ことは目的にしてなくて 違反者や犯罪者を処罰することが目的になっている

取り締まりっていうのは本当は「手段(あまり実効性はない)」の一つでしかないんだけど 警察というバカの集団の中では検挙率という数字だけが目的にすりかわってしまっている

極端に言えば 適度に違反者がいた方が「オイシイ」って話になるので 事故が減らなくてもどうでも良いと思っている

これはマスコミが視聴率を目的にしちまっているのと構造が同じで

利己的利益に意識を奪われ 人間としての「目的」を見失っている状態だと言える

こうした機械的条件反射行動化を 大衆観念上は「理性」だと勘違いしているらしいんだが

それ 理性じゃなくて 「目先の欲望」だかんな

カントの純粋理性批判なんぞを鵜呑みにしてっから 何が本当の理性なのかも見えなくなるんだよ

純粋理性批判は実質的な応用性とか実効性はなんもないし

何で人気があるのかと言えば 論理思考が苦手なバカにとって 論理思考を放棄できる錯覚を促してくれるから バカから人気があるだけなのよ



Ende;
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○機械手続き的条件反射。

2019年05月15日 13時32分43秒 | 意識論関連
働き方改革によって 収入が減って住宅ローンが返せなくなっている人が続出しているという

ローンが滞ると手続き上「一括で全部払え」的な手紙が来るそうなんだけど

銀行だって別に借りている人を破産に追い込んで不良債権を増やしたいわけじゃないんだろうから

ちゃんと対処すりゃ良いと思うんだが

家の値段が高すぎるんだったら不動産屋と協力してもう少し安価な家に引っ越せるようにして契約し直すとか

何かもうちょっと丁寧な対応ってのがあるだろうよ

おまえらサービス業なんじゃねぇのか?

裁判所からいきなり競売の通知が来ちゃうとか 何か目的と掛け離れた暴力的というか 脅迫的な対応というのは社会効率上も意味がないと思う

司法裁判所ってのは 極めて機械手続き的な対処しかしなくて とにかく「悪者」を追い詰めるようなことしかしたがらないんだけど それは社会的には無責任な行為なんだよね

悪意があって収入を隠して税金逃れをしようとか そういう相手なら追い詰めてでもお金払わせる対応も必要なんだろうけどさ 単に社会の変化で契約が守り切れなくなってしまった人まで機械的に追い詰めて破綻に追い込んでいたら社会効率は悪くなるだけなんだよね



自動車事故もそうなんだけど ミスは誰にでもあるんだから キチンと丁寧な対応をして ミスをリカバリーするための努力をすべきなんだよね

だけど 法律っていうのは手続きに過ぎないもんだから 機械的条件反射で人を追い詰めるだけになってしまう

運の良し悪しだけで人生が決まっちゃってたら 努力する意欲なんかなくなるだろ

まるで「未来世紀ブラジル」だよ

何でそこには意識が働かないんだろうな

まあ 「バカ」なんだろうな



Ende;
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○全部のせ。

2019年05月14日 23時19分10秒 | 日記
ヒトって哺乳類だからさ

「赤ん坊が丸焦げ」的な話が一番キツイんだよね

もうね 輪ゴム喰ってんだか ペヤング喰ってんだか わっかんなくなっちゃうんだよね

理屈上の持続可能性だの安全性だのすっ飛ばして とにかく子供が元気じゃないのが一番嫌なのよ

近所の子供が自動車に轢かれて死んでたら 写真を撮る意欲も プラモデルに色塗る意欲も 音楽聴くのも何にも意欲の全てが剥ぎ取られちゃう



オートバックスでブレーキ踏み間違い防止装置っての売っているんだそうな

アクセルをいきなりベタ踏みすると 燃料噴射装置がキャンセルされて暴走はしなくなるらしい

完全ではないけれど 無いよりかはかなりマシかも

ただ 高速道路の合流でいきなりアクセルがキャンセルされないか心配ではある

この装置つけたら高速道路には乗らない方が良いかもね

でも サードパーティで作れんなら純正の後づけ自動ブレーキだって作れんじゃねぇのかね



あとさ ブレーキ踏んでいるつもりなのに自動車が動き出したら「とにかくペダルから足を離す」という対処以外にも

○イグニッションを切る *:この対処は危険という話があった

○サイドブレーキを引く

○セレクターをパーキングに入れる (ニュートラルでも効果ある

などの対処も頭に入れておいた方が良いと思う

サイドブレーキとセレクターは運転席以外からでも操作出来るし

出来そうなことは全部やって欲しいわ



恐い予測をすると 運転者がパニックになっている場合 反射的にセレクターをドライブに戻そうとする可能性もあるので

そういう時は問答無用で肘で顔面殴る用意もしといた方が良いかも

いやまじで



スマホアプリで加速度を表示させ 明らかに異常加速を検出したらディスプレイと音で警告するアプリを 公的に作成して無料配布しておくのも良いかも

そのアプリを起動している間は他の機能が使えないようにしておけば スマホ運転防止にもなりそうだし



内閣直轄の交通事故削減委員会的なものを立ち上げて

畑村洋太郎(危険学)とか松尾豊(電子工学)などの知識人や

自動車メーカーの技術研究者や交通事故の研究者を全員集めて

現時点で可能なあらゆる対策の全てをやって欲しい



右折事故だけで年間1万8千も起きているのに有効な対策をしなかった警察にも

無責任の一端はあるぞ

言われたことだけやっときゃ良いってわけじゃないぞ

そういうのを「バカ」っつうんだ



Ende;
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○臭っ!。

2019年05月14日 21時45分29秒 | 日記
家の玄関の扉や 窓の古いアルミサッシの密閉性が悪くて

隙間からゴキカブリ様が侵入してくることがあるので

今年はブラックキャップっての買ったんだけど

開けた途端臭いがキツい

臭いに敏感な人はコンバットの方が良いかも

アース製薬って蚊取り線香も臭いがキビシい

鼻の悪い人が開発しているのかしら



Ende;
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○選択の余地はない。

2019年05月14日 14時58分08秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物は 認知的不協和を解消する形で 事後正当化をしようとする

既に自分が一度信じた事柄に対して 疑いを持つことに対する拒絶反応を示す思考バイアスが ヒトの脳の認知機能には存在するため ヒトは簡単に洗脳されるのである

ヒトは洗脳されていると気分的に安心満足感が得られるため 洗脳というのは簡単で

逆に洗脳を解くことは非常に困難になる

バカというのは難治性が高い



ヘイトスピーチを繰り返す奴に対し 認知行動療法のメソッドを用いて「それは なぜそう思うのですか?」という問いかけをしても

最終的には「だって 悔しいじゃありませんか」などという主観的感想にしか至らないのだが

何せ自分の主観的「感覚」こそが絶対だと思っているパラノイアなので 自分の異常性を自覚することは出来ない

「自分も間違う可能性が充分にある」という自己客観性を失わなければ 特定の他人だけを糾弾懲罰して満足するような短絡安易な方法論には頼らなくなる

同じ「ヒト」という種の生物であれば 同じような間違いに陥る可能性は充分に有り得るという自覚が必要である

だが 自己客観性のない者というのは 自分の主観的「感覚」こそが絶対だと「思って」いるため 実証不能の観念ばかりを信じ込もうとするのである

つまり 主観的な「思い」の強度程度というものは 本質的意識を阻害することはあっても人間としての意識そのものではなく 「動物的なヒトという種の生物としての意識」レベルでしかない

重要なのは ヒトに普遍的に見られる「間違いや欠陥の構造」を知り 自己の思考や行動における同じ間違いに陥らないように教訓知識として理論体系化することである



京大霊長類研究所や養老孟司やマイケル:サンデルの言っていることが嘘であることの論証を根拠に 彼らを糾弾非難するのはトンチンカンな行動である

騙されていた大多数のバカも バカであることに何の違いもないからだ

「目糞 鼻糞」「50歩 100歩」でしかない

私が刑法廃止を主張しているからといって 「死刑制度が気に入らないから 竹下通りをほっつき歩いていた奴を自動車で轢き殺しました」などというのも もうバカ過ぎてどうにもならん

養老孟司は「教えられて知っていることと 気付いたことは 脳の機能として同じだ」と述べたが 自発的に「気付く」ことと 単に他人から教えられて「知っている」ことは 行動結果が同じだとしても 脳の機能自体は全く別のものである

地動説を単に教えられて「知っているだけ」なのと 当時に「地動説に気付く能力」は全く別物なのである

大量の知識を「知っているだけ」では 与えられた情報の中から間違いに「気付く能力」が発揮されるわけではない



論理検証性というものは 自己客観性に基づくものであり 「自己客観性」自体は文字通り自発性 主体性 能動性を意味するものであり

客観的論理検証性がなければ 主観的観念が促す気分感情の強度程度でしか行動選択は働かなくなる それは「ヒト」という動物ではあっても 「人間」性は伴わない

あらゆる「人災」の全ては 「個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が原因である

「人災」を引き起こしておいて人間性もヘッタクレもあるわけがないのだが 実際に被害が起きる以前の「小さな事象」を見逃すことも 「人災」に加担しているのと同じである

言っておくが 私は刑法廃止論者である だから観念的な「罪の意識」なんぞどうでもよろしい

間違いを間違いだと論理的に自覚したら 気分的に凹んだり悔やんだりすることよりも これから間違わないようにするにはどうするべきかを「考える」ことである

既に轢き殺された子供達は どんなに悔やんでも戻らない

遺された我々に出来ることは これから起きる危険の可能性をどうやって潰してゆくかを「考える」こと以外に選択肢はどこにも実在しないからだ



Ende;
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○自己客観視のススメ。

2019年05月14日 11時55分04秒 | 意識論関連
目先のご機嫌取りは人間性ではない

大衆の多くは 主観的気分が良くしてくれる相手を好み 信頼しようとする

言葉遣いが丁寧なだけで振り込め詐欺であることを認識出来なくなるのはそのためである

「詐欺師とは こういうものだ」という先入観には論理的根拠が伴わないのだが

地方公務員など「きちんとした人(だと思う観念)」の言葉遣いでありさえすれば 相手を詐欺師だと見抜くことが出来なくなることがある



「洗脳」というものは ヒトという種の生物の先天的行動バイアスを利用し 気分が良くなるよう誘導することで可能となる

だから洗脳されているヒトは その自覚がなく 安心して盲目的に嘘を信頼するようになる

一度気分的 主観的に「安心」して信用した事柄に対して 「既に自分が信用した」ことを事後正当化(認知的不協和を解消)する形で その事柄にとって不都合(論理的に不都合なのではなく 気分的に嫌なだけなのだが)な話に耳を貸さなくなる習性が ヒトにはある

だから洗脳されているヒトは 洗脳されていることを自覚出来なくなるのである

カルト宗教に洗脳されている信者に対し 「お前んとこの教祖はアタマおかしいぞ」と説明されても 一度信頼しちまった教祖を疑うことは 自分の頭の悪さを認識することでもあるため 「そんなこたない」と言い張るようになる

これは 振り込め詐欺師に騙されているヒトにも見られるものであり 騙されている状態のヒトに「これは振り込め詐欺なんじゃないですか?」なんて言おうもんなら 「そんなことはねぇ!」と怒鳴り返されたりすることがよくある

ヒトという種の生物は 先天的に洗脳されるシーケンス(条件反射的習性)が存在しているからである

動物的習性というものは 特定環境下において普遍的に見られる行動を指すものであり 「他人を騙すためのメソッド」さえ踏襲すれば 多くのヒトを騙すことは難しいことではない

ただ 逆に言えば こうした「他人を騙すためのメソッド」的なものの構造原理を理解していれば 「あれ 何だかおかしくね?」と気付くことも出来るようになるのである

そのために必要なのは 構造原理を論理的に理解していることが前提であって 観念的猜疑心では何が本当で何が嘘なのかを区別出来なってしまうことになる

構造原理を論理的に理解していれば応用も出来るが 観念的猜疑心というのは主観的気分でしか区別が出来ず 主観的な「信頼感」の強度程度でしか区別が出来ず 結果的に「より嘘の上手い相手の言うことしか耳に入らなくなる」のである

マイケル:サンデルの講義や 養老孟司やマルクス:ガブリエルの著作を 多数の大衆や「哲学者」が鵜呑みにしてしまうのは こうしたヒトの先天的習性という構造原理を論理的に理解していないからである



認知行動療法のメソッドでは 治療者は「それはなぜそう思うのですか?」という問いかけを繰り返す手法を用いる

その理由は 「患者」自身が自分で考え気付いたような感覚を持たせることによって 「患者」自身の思い込みによる錯覚を 錯覚だと気付かせるよう誘導するからである

そもそも 他人から「それはなぜそう思うのですか?」といちいち問いかけをしなければ自律的には自分の思い込みによる錯覚を自覚出来ないバカな「患者」だから いちいち認知療法のメソッドを用いなければならないのであって

本来なら自分自身で「俺はなぜそう思っているのだろうか?」と自問自答を自発的に繰り返しておけば間違った思い込みによる錯覚も自律的に解消出来るのである

そのために必要なのは「自分の主観的感覚が促す価値観に本当に合理的根拠があると言えるのだろうか?」という客観性である

「自分は既に何かを盲目的に信じ込んではいまいか?」という 自分自身を一回疑ってみる客観性がないと 自律的な論理検証には至らない

日頃からそういう自己客観視に馴れていないと どうしても主観的観念によって促される錯覚によって簡単に嘘を盲目的に信頼してしまうことに陥る



Ende;
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○ヤバイ話。

2019年05月13日 11時48分54秒 | 意識論関連
頭の悪さっていうのもスペクトラムで

とんでもない大バカ野郎からほとんどバカじゃない奴までいろいろいるわけだ

だから 結果的に甚大な被害を引き起こしたバカが生じた その陰に無数の小さなバカが隠れている

むしろバカ性が一切存在しない奴なんかいるわけがない

万能の神じゃないんだからね



結果的に重大な被害に至った事象の「加害者(悪者)」を 特別に異常者だと決め付けて差別し 糾弾し 懲罰さえ与えておけば社会安全性が高まると 大衆の多くは錯覚しているようだが

そういう主観的気分にとって都合の良い論理構造や力学が存在するわけではない



何か 得体の知れない「人知や理性を超越」した 訳のわからぬ実証不能の観念を鵜呑みにして満足しておけば安心して思考停止に陥っていられるのが ヒトという種の生物の脳の先天的欠陥である



「日本の原発は絶対に安全だ」などという神話を鵜呑みにし

刑法懲罰制度を鵜呑みにし

マイケル:サンデルを鵜呑みにし

マルクス:ガブリエルを鵜呑みにし

カントの純粋理性批判を鵜呑みにし

遺伝的進化のメカニズムを万能だと錯覚し

しまいにゃフリードリヒ:ニーチェによるゾロアスター教だのハイデガーを「倫理」だと鵜呑みにし

「何が正しいのか わからないわ」等と言っているバカの 何と多いことか



そういう「小さなバカ」の集積によって 甚大な「人災」への対策が放置されているのである



小さな無責任を見逃すことにより 重大な無責任へと発展する原因となる

ところが ヒトという種の生物は 多数派の小さな 被害が実際に出ていない(露見していない)段階での無責任は 多数派によって責任が薄まるような錯覚(感覚)によって 小さな無責任は傍観放置されるのである

サブプライム金融のような「リスクが薄まる」感覚というのは 気分的な錯覚に過ぎず 客観的に見ればそうした感覚こそがリスクを助長しているのである



ヒトという生物は 伝統だの格式形式手続きだのといった保守主義への迎合か

若しくは暴力的破壊革命かのどちらか一方にしかコンセンサスが得られない性質があるが

そういう先天的本能習性が促す目先の気分的行動バイアスだけの選択というものは 非常に幼稚で「雑」である

地道に丁寧に 繊細に精密検証に基づいた選択をすることによってこそ 本当の「目的」意識を発揮することが可能となるのである



「これさえやっときゃ 全ては解決する」という短絡幼稚な論理的根拠のない観念の方が ヒトは先天的に好きなのである

だから宗教やイデオロギーばっかり人気が出て 科学的思考も出来なければ 「本当の哲学」が何なのかすら認識出来なくなる



気分や感情というものは 先天的に決定しているものであって 単にそれ自体では「目的」行動選択にはならない

ヒトという種の生物が 他の野生生物と決定的に異なるのは 先天的本能習性が促す行動バイアスだけで行動が決定するわけではないという「自律」判断選択可能性を持っているという点である

既に存在しているだけの自己の内部に 現時点においてのみ選択可能性を開くのが 自律的な客観的論理検証性である

ヒトの中には様々な感情や欲望があり かわいい女子に厭らしいことをしたいとか 気に入らない相手を殴り殺したいという感情もあれば

一方では東池袋での自動車暴走事故のような悲惨な事象を何とか食い止めたいとか パレスチナの子供達が安心して暮らせる世界を作りたいといった感情もある

様々な感情を 客観的に論理検証し 自分が生き続けるに価する社会とはどのようなものであるべきかを基準にすれば

自ずと社会安全性に基づいた選択に至るものである



人間性というのは先天的本能習性のように環境要因に依存した受動的なものではなく 主体的能動的自律的に発揮されなければ人間性の論証にはならない

そして それは特定のヒトだけしか発揮することが出来ないようなものではなく 誰でも発揮する可能性を持っている

釈迦が言うには 「どんな凶悪狂暴な者であっても仏性(人間性)はある」が 人間性というものを阻害しているものが具体論理的に何なのかを理解認識しないことには 人間性を発揮することは出来ないのである

19人もの障害者を殺害した植松聖にまで人間性が具わっているとは 私も到底信じられないのだが

それでも 「なぜ植松聖はバカになったのか?」という構造やメカニズムを検証する「素材」としては利用価値が存在しているのではないだろうか



私は別に「刑法廃止」とは言っても「犯罪者の全てを無条件で釈放してしよう」と言っているわけではなく あくまで犯罪者が犯罪者になるメカニズム構造を科学的に解き明かし これから大人になってゆく子供達の中から犯罪者になる可能性を丁寧に排除してゆくことで 社会安全性を高めるための論理的対策につなげるべきだと言っているのである

懲役刑でタダ食いさせておいても半数は治らない上に 論理的対策も全く構築出来ない現状の司法制度というのは社会安全性において重大な欠陥がある

「くさい臭いは素から絶たなきゃダメ」なのであって 現状の司法刑罰制度というのは「強烈な香料(雰囲気)でごまかしている」だけに過ぎない

現状の司法刑罰による懲役罰では 服役者の半数以上は「自分の何が悪いのか」を論理的には理解自覚していないし 自覚させる構造には最初からなっていない

「罰が嫌で怖いから 法律に触れることはやりたくない」というのは 自律ではないし これは同時に人間性でもないのだが 現状の司法刑罰制度というのは こうした主観的気分で犯罪者を誘導しようとしているに過ぎず

刑務所から一歩釈放されれば 自律がないので再犯が半数近くある

半数は「更正」かと言えば もしかすると最初から悪意や自覚のない「うっかりミス」が結果的に重大被害に至ってしまった割合が一定数あるかも知れないのだ

だとすると 刑罰って更に無効だって話になる

それ ヤバイでしょ



Ende;
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○定義。

2019年05月13日 09時12分19秒 | 意識論関連
「エピジェネティクス」という言葉の定義は そんなに明確なわけではないようだ

歴史的な用法や研究者による定義の違いもあり、その内容は必ずしも一致したものではない -Wikipediaより抜粋

まあ 後天的であれ先天的であれ 個体の目的意図や努力などがそのまま個体の形質に反映されるわけではない

2世代前に起きた大豊作がその後に循環器系疾患を増やすという結果をもたらしたわけだが

それなら過食を何世代にも渡って繰り返しておけば自動的に過食に対する耐性が遺伝要素に組み込まれるわけではない

もし 遺伝的要素に過食に対する耐性が組み込まれるとしたら それは過食に対して耐性の低い個体の大量死滅という強力な淘汰圧力が必要である

当然ながら そこに個体の目的意図も努力も意味を全く為さない

遺伝的に適応してなければ死ぬだけであるし 果たして耐性を持った変異が起きるのかどうかも「運」次第である



なんにせよ 大衆や 大衆迎合的な大多数の生物学者達は「個体の目的意図や努力が個体の形質に都合良く反映されるはずだ」という非科学的妄想観念に多数人気が集まってしまい

その多数人気を基にリチャード:ドーキンスによるお伽話が本気で信じ込まれてしまっているのである



ヒトは漫然と失敗を繰り返していても 決して自動的に失敗を繰り返さないような能力が獲得出来るわけではなく あくまで意識的目的意図を持って論理客観的な根拠に基づいた知識や教訓にまで形にしなければ 社会や文明の進歩にまでは至ることはない

ヒトの先天的欠陥というものは それ自体を無くすことは今のところ不可能である

将来的に可能かどうかは不明であり ヒトの子供達を集団で放置してしておけば自動的にイジメ差別や暴力は発生するものである

「先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などというお伽話を鵜呑みにしていれば その場限りに気分的に安心は出来るのだろうが 先天的欠陥を認識しようとはしなくなる

ヒトという種の生物には 先天的に人間性(仏性と形容しても良いだろう)存在しているとは言えるのだが 仏教的には「十界互具」であり 何も考えずに本能的欲望のままに行動しているだけでは非人間性しか発揮されることはない

マイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルや養老孟司による非科学的 非論理的お伽話を鵜呑みにし 思考停止に陥っているバカでは人間性は発揮されることはないのである

ヒトという種の生物には 思考停止によって洗脳され 自発的には論理検証しなくなるという先天的欠陥が存在しているため 非科学的なお伽話で脳が酔っ払い(中毒) 何も考えなくなる

何も考えない状態を「バカ」という 他に形容詞は知らないし 知りたくもない



サンデルがやたらと取り上げる「トロッコ問題」というのは 危険学や失敗学において何の意味も存在しない

伊勢崎賢治の紛争学にも何の意味を為さない

なぜなら人間性や倫理の本質が「トロッコ問題」の中には存在していないからである

にも関わらず 学力偏差値が高いだけのバカ学生のほぼ全員はサンデルの講義で「自分は頭が良くなった」などと勝手に妄想し サンデルの講義自体に存在する洗脳性には誰も気付くことがない

どこぞの病理診断医も サンデルの洗脳に簡単に引っ掛かっていた 未だにそのままかも知れないが

医者免許を取得出来る程記憶力が良くても バカはバカである 医者や教師など責任ある職種の人物が不祥事を引き起こすことは珍しいことではなく 医者免許や教員免許などの国家試験は人間性そのものを測る基準には全くならないのである



リチャード:ドーキンスが提唱した「ミーム」なるものとは 遺伝的要素に依らない知識や教訓によって社会としての進歩(進化)の可能性を分類したものだが

そもそも遺伝的進化のメカニズムが自動的に意図目的に沿った都合の良いものであると錯覚していれば 知識教訓までもが自動的に意図目的に沿って獲得出来ると錯覚することになる

一体何をどう勘違いしているのかは知らないが 何も考えないバカが呆然と目先の欲望を満たしておけば自動的(自然)に進歩が促されるわけではない

アダム:スミスが「見えざる神の手」なるものを提唱すれば 大多数のバカは鵜呑みにして利己的利益さえ追求しておけば自動的(自然)に社会が良くなるという妄想を抱くことも可能である



「人知や理性を超越」した実証不能の謎の英知など存在しないのだが

何か見えない力学によって自動的に人間性が発揮されるかのような妄想錯覚に酔いしれ 「虜」になっていれば満足するのがヒトという種の生物の先天的欠陥である

原発の危険性が放置された原因にも「原発は絶対に安全」という「神話」による思考停止が大きな要因となっていたのである



道路交通法に基づく司法刑罰さえ実行しておけば 自動的(自然)に交通事故が減るとでも思っているのであろうか



何か 説明していてウンザリするわ

主観的に気分が乗らないのでとりあえず終わりにする



Ende;
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○エピジェネティクスの概念定義。

2019年05月12日 23時40分24秒 | 意識論関連
スェーデン エベルカーリクス村では一時期心筋梗塞や糖尿病の割合が増えた

祖父の世代が大豊作を経験したことでDNAスイッチの状態までもが遺伝したらしく

脂肪を貯める 食欲を増進 DNAスイッチの一部がリセットされない可能性が出てきている

男の場合は食事や運動によって次世代に伝わるDNAスイッチの状態を良い状態にすることが出来る らしい

 *:ただし 女性の場合は妊娠中に過度なダイエットをすると子供が50代になった時に心筋梗塞などの循環器系疾患が増えるという



こうした現象も「エピジェネティクス」と分類されるらしいのだが これは以前に批判したエピジェネティクス幻想とは構造原理が異なる

「後天的な努力や目的行動が遺伝的要素が目的に沿った変異を促す」という非科学的妄想を批判したのだが

DNAスイッチの状態も遺伝する以上 それもまた遺伝的要素の一つであり 従来の「遺伝子以外は子孫に遺伝的影響を与えない」という常識を覆したに過ぎず

後天的な努力や目的行動が遺伝的要素に目的に沿った変異を促さないことに違いはない

個体の意図目的や努力や願いや呪いが遺伝的要素に都合良く変異を促すことを論証しているわけではなく

あくまで「精子のDNAスイッチの状態も遺伝する(らしい)」ことが明らかになってきただけであり

先天的遺伝要素を超越した能力や機能を後天的に新たに獲得出来ることが証明されたわけではない



まあ 論理的思考が苦手だと区別がつかないかも知れない



Ende;
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○バカヨケ。

2019年05月12日 13時58分23秒 | 意識論関連
最近被害の甚大な交通事故が多いもんだから

ちょっと思い出したんだけど

オイラは赤信号を無視したことが何度かある

もちろん意図的なもんじゃないんだけど

交差点に入っちゃってから

ハゥッ

ってビックリ急停車したことが何度かあるのよ

過失としては重大だけど 結果的に何の被害も及ぼさなかったから結果的には何の被害にもならなかったとは言え

こうした被害の出ない段階から有効な防止策を構築してゆくことで 重大事故に発展するリスクを下げることになる



たまたまやっちまったウッカリミスの結果が重大だったかどうだかで罰の程度が変わっちゃうのが現在の司法制度なんだけど それって到底有効な対策にはなってないんだよね

被害が出なくても たまたまおまわりさんに見つかって罰金払ったからって やっぱりウッカリミス自体の有効な対策にはならない

ましてや金持ちと貧乏人だったら同じ罰金だと不公平でもある

とんでもない金持ちだったら数万円くらいの罰金なんか痛くも痒くもないかも知れないでしょ



失敗学的な「ポカヨケ」対策こそが失敗に対する最も有効だと言えるんだけど

司法刑罰制度だと判決が出ちゃうとそれで「解決」になっちゃって それ以上の対策が全然進まない



司法裁判というものを あたかも唯一絶対的な解決策か何かだという錯覚が 一般人にはあって

被害が繰り返しても司法刑罰以上の何も制度的に存在していないという事実から目を背けちゃっている部分がある

報道も報道で 被害者がどんな人だったのかばっかり取り上げ お涙頂戴的に悲しみを煽ることしかしないんだけど

そういう観念論ばっかりに終始して もっと有効性のある論理的で具体的効果のある対策には関心を持ちたがらない

それもまた本当は社会的には無責任なんだけど 大半のヒトが気付かない無責任には罪の意識(無意識な観念)としては働かないという 先天的欠陥がヒトという種の生物にはあるもんだから

加害者糾弾ばっかりがネット上に溢れてしまう

そりゃ まなりこペアの父親の記者会見が悲痛なのはわかるけど

その「わかる」っていうのは感覚的共感であって 論理的理解とは異なるものなのよね

共感というものが常に正しいとは限らなくて ヘイトスピーチに共感されても迷惑にしかならない

ナチス政権だって 当時のドイツ人の多数派の共感によって 民主的に選ばれたものだという事実を忘れてはいけないと思う



テクノロジーを用いた事故軽減対策っていうのも有効ではあるんだけど

運転する「ヒト」の心理状態に関わる対策っていうのも大事で

アオリ運転みたいのをされた直後に 気持ち的に「焦って」しまって事故につながることもあるんだと 認識しておくべきだと思う

つまり 主観的気分感情というものが 本質的には合理性がないという事実をちゃんと認識しておく必要がある

ヒトって 先天的には人間としては欠陥品なので 意識的(合理的)に行動選択をすることで 先天的本能習性によって促される感覚的錯覚に惑わされないようにしておくことでも失敗を避ける対策につながる

テクノロジーとか鋼鉄製のポールやガードレールによる対策も重要だけど 出来る対策は全部やっておくってのが 本当の再発防止だと思う

だからね カントの「純粋理性批判」なんて論理整合性のないあやふやな話を鵜呑みにさせるような「哲学」は要らないのよね

一応ここでも説明しとくけど カントが批判しようとしていたのは利己的利益追求性であって これは本当は理性が根源じゃなくて 本能や欲望が根源なので 純粋理性を批判している時点で的外れなのよ

こういう論理的には的外れなことを 単に「伝統的」だとか「古典的」だと称して あたかも倫理か何かに役立つかのように教え込んでいる現在の学校って あまりにバカ過ぎて話にならない

嘘教えるために700万円もの奨学金を貸し付けておいて それで「学生がかわいそうだ」とか言っているのは 頭がおかしいんだよね

学生自身もバカだから気付かないんだろうけど それじゃ一体誰が問題に気付かなきゃいけないのかと言えば 本来なら研究者や教授達のはずなんだよね

その役割ってものを 生物学も哲学も経済学も 一切果たしていない

それで良いわけないんだけどね



Ende;
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○ヒトの遺伝的進化に目的はないけど人間には目的がある。

2019年05月11日 19時44分11秒 | 意識論関連
アオリ運転って程ではなかったんだけど やたらと急加速で他の車を抜くことに必死になってる奴がいて

先の交差点信号が赤なのにも関わらず 異常なまでに前に詰めることに異常執着しているバカがおったので

「コイツ何でこんなに急いでるんだろう?」って思って そん時は暇で自転車だったので後をつけてやったら

コンビニに入って漫画読んでたのだ



まあ ありていに言ってバカなんだけど

何か急いでいるフリをしていないと不安になるような精神病なんじゃなかろうか

そういう奴って時折いる

こういう一部の病人の観念に煽られることで 他の人まで「焦らされ」てしまうことで 右折事故みたいのを誘発する要因になってんじゃなかろうかと

オイラは懸念しておる



「焦り」というのは論理思考を停止させてしまう性質があって 振り込め詐欺に騙されているヒトも「焦り」を煽られることで 冷静に考えればわかるような嘘にも簡単に騙されてしまう

「焦り」というのは感情の一つで 「怖い」とか「安心」とか「不満」とか「好き嫌い」といった主観的感覚なので 時に客観的事実と異なる錯覚の原因となる

冷静に考えれば安全性を優先してゆっくり走ることの方が社会的に考えて合理的なんだけど 利己的利益の観点からは「時は金なり」とばかりに乱暴な運転をしてコンビニで漫画読んでいることの方が「合理的」だと勝手に錯覚しているフシがある

これは 利己的利益追求というものを短絡的に「合理性」だと勘違いしている妄想錯覚の一種であり

こうした錯覚に対して 大多数の哲学者も経済学者も疑問を持ってこなかった



「安全第一」っていうのは 工場などの生産現場では常識なんだけど

どういうわけか日常生活においては優先順位が低く見積もられる傾向がある

(電気通信大学ではない方の)広告代理店の電通における「鬼十則」みたいのも 従業員の健康を後回しにして会社の利益を優先するというバカみたいな社畜観念を誰も疑わなかった



何か「金持っている方や 賃金を支払っている方が偉い」的な盲目的観念みたいのがあって

従業員であれば会社から任された仕事以外をやったら「背任」になるからといって 原発の津波に対する脆弱性放置までをも正当化出来ると錯覚してしまう性質がある



「天は人の上に人を作らず」とかって 諭吉っちゃんだっけか?

本来人は順位序列なんぞありゃしないし 各自の能力の違いがあることを前提として社会全体を構築すべきなんだけど 大衆の多くは遺伝的進化のメカニズムにおける淘汰圧力さえかけておけば 自動的(自然)に何でもかんでも進歩や進化をするはずだとでも思っているフシがある

だから競争「したがる」んだけど 「したい」ってのは先天性の欲望であって そこには人間としての目的関数みたいなものは存在しないのよね

順位序列への執着心というのは 先天的な社会形成習性が促す統率行動バイアスであって それは遺伝的進化とは関係がないんだけど 脳が昭和だと過酷な競争に勝ち続ければ自動的(自然)に民族として優秀に進化するかのような妄想観念が働いているもんだから インパール作戦みたいな無謀な行為にも誰も疑問を持たずに迎合してしまう

何せ兵隊だから逆らわないよう訓練によって行動「学習」的に盲目的服従性を発揮することになる



もしかすると 国家権力が決定した刑法懲罰司法制度にさえ服従しておけば自動的(自然)に社会安全性が担保されるはずだという 論理的根拠のない錯覚が刑法懲罰司法制度に疑問を持たなくなる原因なんじゃなかろうか

右折事故で被害が甚大だったからといって 罰を重くしても右折事故に対する再発防止策には有効性が薄過ぎるんだけど

みんな 何か勘違いしてないか?

年間1万7800件もの右折事故が発生している段階で 有効な対策をしてこなかったから 甚大な被害にまで発展したんであって 論理的に有効な対策が全く進まないのは現在の司法刑罰制度の構造的問題なのに

その集団勘違いというか 集団洗脳みたいなもんのために安全性が後回しにされているんだとしたら それは「バカ」としか言いようがないんじゃないのかね



自分達の頭の悪さを認めたくないからといって「バカのままで良い」って無責任になげやりなことを言うのは簡単だけど

それによって本来回避可能性があったはずの対策がされないことが原因で 身内に「人災」被害が及んでから嘆いても遅いんだよ



Ende;
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○だってヒトだもの。

2019年05月11日 15時15分21秒 | 意識論関連
以前にアオリ運転というのを受けたことがあったのを思い出した

細い曲がりくねった一方通行の路地で 制限速度が20キロだったので ゆっくり注意しながら運転していたら

後ろから やたらとエンジンを吹かしながら車間距離を詰めてくるワゴン車が来た

まあ オイラは軽いアスペルガーなので そういうのはあんま気にしないので 「うるさいなぁ」と思いながら 逆にわざとノロノロ運転をしてやっていたのだが

信号機のある交差点にさしかかったところで こちらが青信号なのにも関わらず 小さな子供が自転車でフラフラ飛び出して来たので急ブレーキをかけたら

後ろのアオリ野郎は車間距離を詰めてたもんだから追突寸前になっていた

窓を開けて 後ろを睨んでやったら アオリ烏賊野郎は所在なさげに目を逸らしていた

 ◇

普通一般的なヒトの多くは 後方から煽られると 焦ってしまうことが多く

まるで 安全を優先してゆっくり走ることが悪いことであるかのような錯覚に陥ってしまうことがある らしい

滋賀県での右折事故でも 右折を焦るあまり対向車への注意が疎(おろそ)かになってしまったのではかなろうか



高圧的な態度というのは あまり道を歩いていて受けることはないのだが どういうわけか自動車の運転中とか エスカレーターでは 「邪魔だ退け」とばかりに急いでいることがあたかも偉いかのような態度を採る奴が出てくる



高圧的な態度を採る相手に対し ヒトは「関わりたくない」という感情が働くんだか とりあえずは高圧的な奴に逆らわずに優先したり 同調しておいたりする傾向がある

ところが 常日頃から高圧的な相手に同調し続けていると あたかもそれこそが「正しい」とか「正常」とか「常識」であるかのような感覚を植え付けられてしまうらしい

オラは軽いアスペルガーなので 「ナンダコイツ」としか思わないのだが アスペルガー傾向のない大多数の「普通のヒト」は 多数派同調こそが「正常」であるという感覚が促す錯覚を 錯覚だとすら認識できなくなるらしい

これが つまり「脳の過剰整理」状態である

「みんなが そうしている」ことは 短絡的に「正しいこと」だという認識区別の仕方を 何ら自発的には論理検証することなく鵜呑みにしてしまう

こうしたAIの機械「学習」的な区別というのは MicrosoftのTwitterAIみたいに「ヘイトスピーチに同調」することもある危険性がある

脳が整理されやすい「普通のヒト」というのは 自分のしている判断に論理的根拠が伴っているのかどうかを検証する余裕がないんだか 何だか

それとも強迫観念的に多数派同調をしていないと不安で仕方ないんだか

オラようわからんのだが 高圧的な態度を採る奴に同調してしまう傾向というのが「普通のヒト」では顕著に見られる

ような気がする

イジメに対する同調や傍観放置というのも 気分的に「逆らうと面倒臭い」という主観的感覚によって歯止めがかからなくなるんであって

客観的に論理検証すれば 「そんなのおかしいだろ」って理屈では解っていても 感覚的に嫌なことは「普通のヒト」には出来ないらしい

まあ 主観的に嫌なことは 「そんなにしなくて良い」って益川敏英さんも言ってたけどな

あいだみつを的に「まちがったって いいじゃないか にんげんだもの」なんつう話に人気が出たりするのは 間違えたことを事後正当化することによって認知的不協和を解消する形で 気分的 主観的に安心満足することができるからであって

でも本当は「ヒトである以上 間違えることは避けられない」とは言えるものの 「間違える権利がある」とか「間違ったって良い」わけじゃないんだよね

間違えること自体は仕方ないことなんだけど 間違えていることを「ええじゃないか」的にはぐらかして 「なかったこと」にしてしまい 結局同じような間違いに対しての具体的再発防止への取り組みをしないという頭の悪さこそが ヒトの本当の間違い(先天的欠陥)なんだよね

でも 先天的欠陥なんだから誰のせいにも出来ないので それは自分でナントカせんとアカン訳よ

ナントカしてこその「人間」性だもの



「人間は 即自存在でないが故に 即自存在化を求むる(ジャン:ポール:サルトル)」んだけれども

ヒトという種の生物なだけでは「人間」としての行動を採れるわけじゃないのよね

ヒトという種の生物は ただそれだけでは人間ではないのよ



「まちがえることは しかたない だってヒトだもの」なら とりあえず間違ってはいないんだけどね



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○A級戦犯。

2019年05月11日 11時45分30秒 | 意識論関連
養老孟司の著作の中には以下の件(くだ)りがある

そこには意味があったんだ そう思わなきゃやってられないじゃありませんか

30年間安月給で好きでもない解剖学の教師を勤めたことを事後正当化するため 認知的不協和を解消する形でこう述べているのである

一体何を「やってられない」と述べているのかと言えば 要は主観的気分の問題に過ぎない

養老が述べているのは主観的気分こそが絶対的な基準で 論理客観的な視点は全く考慮に入れていない



ヒトは 好きでもないことを他人から強要されていると 主体的に物事を客観視する意欲を喪失する

何でもかんでも「他人からの評価」という主体性のない動機だけでしか判断をしなくなるのである

すると 客観的論理検証性を喪失し 個人の主観的「感覚」だけが絶対的な価値観になってしまうようになる

当然自律的な社会的責任判断選択能力も喪失する

これは あらゆる犯罪者全般に見られる無責任さの構造であり

また こうした無責任さというのは既に犯罪を犯した者だけに見られるものではなく あらゆる一般人の中に潜む無責任さにも見られるものである

重大犯罪という結果だけに注目して人間性云々を語るのは そこに至るまでの構造に潜む小さな事象である「ヒヤリ、ハッと」を見逃しているのである



自己の無責任さを意識(無意識な感覚)から「なかったこと」にするのに 最も簡単な方法は 大きな被害を出した加害者を糾弾することである

過失事故における加害者を よってたかって悪者扱いして糾弾しておけば 自己の無責任さを過小評価することが出来る「感覚(錯覚)」があるからだ

過失 すなはち「間違い」というものは ヒトでありさえすれば不可避なものである

「絶対に間違えないヒト」など存在しないのである

「間違える権利」は存在しないかも知れないが 人間性においては「間違いを繰り返さないようにする義務」はあるのだ

それが気分的に「不条理だ」と感じたとしても それは誰のせいでもない

自然災害で被害に遭ったからといって 「不条理だ」とどんなに思っても意味がないのと同じで

ヒトという自然の産物が持つ先天的欠陥を補うことは 人間としての逃れざる義務なのである

その義務を果たそうともしないということは 「私は人間ではない」と主張しているのと同義である

ヒトという種の生物でありさえすれば 自動的(自然)に人間性が発揮されるメカニズム構造は存在しないのである

にも関わらず 京大霊長類研究所は「あるはずだ」などという大嘘を主張し続けているのである

これを「A級戦犯」以外に何と形容すればよろしかろ



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