書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○さくらんぼ。

2019年05月10日 23時56分31秒 | 写真
山桜の実

この後黒くなるらしい



こっちは川津桜の実




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○ラジコンのハンドル操作。

2019年05月10日 12時05分48秒 | 日記
ラジコンカーの初心者が陥りがちなのが 車体が自分の方向に向かって来ている時にハンドルを切る方向と車体の向きが逆になってしまい どうしても思ったように車を操作出来ないというもどかしさがある

これに慣れるためにオイラがやったのは

先ずレシーバー(コントローラー)のステアリングホイールを水平になるよう持ち

ステアリングホイールの中心から車体の進行方向の部分を意識するようにしておけば 常に車体とステアリングホイールの回転方向が一致することになる

いちおうポンチ絵で描いとくわ



これで解るかな

要は右旋回させるのか 左旋回させるのかを操作するんであって 車体の向きに関わらず右に切れば右旋回 左に切れば左旋回になるってことなんだけど

この話 伝わってる?

あと アクセルやブレーキの操作につられてレシーバー全体の向きが動いてしまい

意図しない方向にステアリングホイールを知らないうちに切ってしまっているケースもある

これはヒトの手の構造に由来する不随意な動きだと思う

アクセルトリガーを引くとレシーバー全体が反時計回りに動いてしまい

右手ではハンドルを固定しているつもりなのに 結果的に右にハンドルを切った状態になってしまう

これを防ぐためには 右手の薬指と小指はレシーバーに添えておくようにすれば レシーバー全体の動きに左右されずに操作出来ると思う

レシーバーの底をお腹に押し当てるように固定するのも効果的



それから ラジコンのアクセルトリガーって感覚的にアクセル開度が把握しづらいので 初心者はどうしてもアクセル全開で暴走させちゃって車を激突させて破壊するっていうパターンに陥りがち

この対策としては硬質スポンジ的なものをトリガーの後ろの空間部分に両面テープで貼付けることで トリガーのトルク感とアクセル開度を近づけるようにしてた

でも 硬質スポンジって圧縮させていると潰れて来て 走行中にトルク感が変わってきてしまうことがあったので 短く切ったスプリングを硬質スポンジに捩込んで潰れないようにもしてたな

本当ならレシーバーのグリップ内部に別途スプリングを仕込んでおいて トリガーにトルク感を持たせるようにしておけば良いんだと思うが メーカーさん何とかならんかな



関係ないけどさっき巨大なハエが部屋に入ってきちゃって 追い出すのに苦労したわ

巨大なハエって春先にしか見ないような気がするんだけど

そういうものなのかしら


Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○輪ゴムって意外と取り扱いが面倒臭い件。

2019年05月10日 10時45分51秒 | 日記
輪ゴムを水道の蛇口にかけておくと 輪ゴムの主成分であるブチルにはカルボン酸の性質があるため 水素ラジカルを発生させて輪ゴムのみならず金属製の蛇口までもを溶かしてしまう

ってぇ話を以前書いたような気がするんだけど

輪ゴムってポリスチレンに触れていても溶けて両方腐ってしまう

輪ゴムを保存するためには厚紙の箱か ポリプロピレンの容器が適している

とか言われたところで一般の人にはどれがポリスチレンで どれがポリプロピレンなのかなんて意識したことないかも知れないけど

製品の表示を良く読めば一応書いてあるはず

食品用密閉容器の多くはポリプロピレン(PP)で 薄く白く濁っている とは言えポリスチレンでも顔料混ぜれば白く濁った仕上げにするこた出来るんだが

透明性が高い場合はポリスチレン(PS)かアクリル(メタクリル/PMMA)だと思う

まあ とにかく輪ゴムを買った時に入っていた容器とか 輪ゴムをかける用途で造られた商品なら大丈夫ってことなんだけど

意外と輪ゴムって取り扱いが神経質なので注意しようねってお話です

一応ググってみたんだけど あんま有効な情報が出てこないのよね

ググり方に問題があるんだか そもそも誰も気にしていないのか

まあ 輪ゴムだからな



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○危険性。

2019年05月10日 09時04分11秒 | 意識論関連
一般大衆が「哲学」というものに求めるのは 人生相談である

人生相談というのは 主観的気分を良くするだけの占い相談のようなものに過ぎず 到底倫理や人間性の論証には全くならない

「主観的に気分が良くなったこと」を短絡的に人間性や倫理だと勘違いして哲学だと錯覚しているのである

ヒトの多くは主観的に気分が良くなると 短絡的に「自分は頭が良くなった」と勝手に妄想し 論理思考を停止させ 何も考えなくなる

そういうペテンを大衆の多くは「哲学」だと勝手に勘違いしているのである



フリードリヒ:ニーチェを読んだ者の多くは 内容の論理客観的精査など一切せず ただ自分の主観的気分が良くなるよう誘導されることで満足し

更に 自分の主観的気分を満足させてくれるニーチェを「頭が良い」とか「人間性に優れている」などと勝手に思い込み 好きになり 何も疑わなくなる

こうした思考停止の中毒症状というのは ニーチェに限ったことではなく マルクス:ガブリエルでも養老孟司でも山極寿一や松沢哲郎でも引き起こされるものである

「ハーメルンの笛吹男」というのは実話だそうで 再現可能な洗脳傾向というものを ヒトという種の生物は先天的に持っている

ヒトは ヒトに進化する以前から 動物的本能習性としての統率的協調性を持っており 実際ヒト以外でもイヌやハダカデバネズミでも統率的な協調性を発揮する習性が見られる

権威と見なした相手を盲目的に信奉し 忠誠忠実であることへの感覚的「美しさ」というものを主観的に「感じ」るのも そのためである

カール:ライムンド:ポパーが激しく批判した「プラトンの呪い」とは こうした先天的な権威服従性への感覚的誘導を促す危険性を孕んでいるためである

生物学では久しく長い間 ヒトの先天的な社会形成習性による統率的協調性を 短絡的に人間としての社会性として「解釈」してきたが 無論 これは科学的には根拠のない生物学者達による勝手な妄想観念に過ぎない

ヒトの統率協調性というものは ナチス政権やポルポト政権 ISILやオウム真理教などのカルト宗教でも発揮されるものであり ヤクザやマフィアなどの反社会的集団組織においては むしろ顕著に発揮されるものである



ニーチェによる「超人」妄想がナチズムを精神的に支えたことは何度も述べたが それでもなを大衆の多くや「哲学者」達はゾロアスター教を哲学だと信じて疑わない

大衆や文系マスコミの多くが養老孟司の言っている内容に意味があると信じて疑わないのも 読み手が主観的に気分が良くなることを 短絡的に「自分の頭が良くなった」と勝手に勘違いしているためである

「自分の頭を良くしてくれた先生様(教祖様)」を主観的に好きになり その主観的な好きを根拠に盲目的に信頼して何も検証しなくなることで 人々はバカに陥るのである

バカとは何かと言えば 何も「考えない」状態を指す

カルト宗教の信者達が自分達の行動が異常かどうかを「考えない」ことと同様に 養老やニーチェやマイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルの「信者」達も その内容に客観的な論理的根拠を伴った「哲学」なのかどうかも「考えない」のである



大衆が人生相談を求めるのは 主観的な「悩み(気分)」を解消するためである

従って 客観的な安全性のための人間性や倫理など 意識の中にはない

自分の主観的気分さえ良くなれば それを「哲学」だと勝手に思い込んでいるのである

それがどれだけ危険であるのかを 多くのヒトは認識していない



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○デクノボウ学。

2019年05月10日 00時50分20秒 | 意識論関連
哲学というのは本来「科学の帝王」であり 論理的根拠に基づいた客観的真理を追求するものである

ところが ヒトという種の生物は主観的に「面白い」とか「安心満足」と感じたことを 短絡的に合理性のある論理的安全性や哲学か何かと簡単に錯覚する習性があり

哲学から逸脱した 論理客観的根拠を伴わない話であっても目先の主観的な「面白さ」で脳が酔うと 簡単に哲学か何かと勘違いするのである

亀山郁夫による「ドスト:エフスキーの読書感想文」を 現状の「哲学者」達は主観的形容に過ぎない「素晴らしい」などという論理客観的根拠のない抽象的評価によって 亀山を哲学権威として取り扱っていた

亀山はドスト:エフスキーを「現代の社会を予言した」などと述べていたが 具体的な論理的予測や推論が伴うわけではなく 単に「ノストラダムスの大予言」ヨロシク雰囲気だけに基づいた事後的こじつけにしかなっておらず 実際に何かの応用性があるわけではなく 要するに「亀山の勝手な妄想観念」以上の意味はないのである

にも関わらず放送大学では亀山が脂汗をタラタラ流しながらの熱弁を 繰り返し放送していたのである



マイケル:サンデルの講義では 倫理の本質が存在しない「トロッコ問題」で気分的(主観)な「悩ましさ」を あたかも論理的な「考え」だと錯覚させ 講義を受講した大多数のバカ学生達は「自分は頭を使った 考えた」と錯覚し その上傲慢にも「自分は頭が良くなった」などと勝手に勘違いすることで かえって自分の頭の悪さを見失い バカになることで 何の疑問も持たない痴呆状態に陥っているのである

これに対しても 現状の「哲学者」達の誰一人として反論疑議を呈せず ほぼ全員デクノボウしかいないのである



更には「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」などと言っているマルクス:ガブリエルにまで誰も反論しないばかりか むしろ多くの「哲学者」から多数人気を得るというトンデモない大ペテンを展開し

終いには保守主義による「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」なる非科学的妄想話まで傍観放置してきたのである



フリードリヒ:ニーチェを 多くの大衆や「哲学者」達は哲学だと勘違いしているが そもそも優生学の基礎ともなった遺伝的進化万能論に基づいた「超人」幻想には 論理科学的根拠は何もなく 「雰囲気」という主観的感覚を利用した文芸(脳のハック)に過ぎず 到底「哲学」にはなっていないのである

雰囲気的な「カッコイイ」という感覚を利用した大衆迎合や人気取りという文芸(芸術)を 文芸だと認識していれば人畜無害であるが これを論理的客観性に基づいた哲学や科学だと錯覚していれば社会安全性にとって重大な欠陥となる

主観的に「カッコイイ」と感じた相手の言っている内容を 哲学だと錯覚して盲目的に信奉している状態というのは 主観と客観の区別がついてない状態であり 妄想と現実(真理)の区別がついていない寝言レベルの話である

ナチス政権によるユダヤ人や障害者の絶滅計画は 遺伝的進化万能論に基づいた優生学が論拠であり ニーチェによる「超人」妄想はこれを精神的に支えたと言える

ナチス政権下の多くのドイツ人同様 ヒトという種の生物は主観的な「カッコイイ」という感覚によって 非合理な観念を簡単に鵜呑みにするという重大な先天的欠陥を持っているのである



科学や哲学というのは 「カッコイイ」だのといった気分的安心満足を得るためのものではなく 「何が間違いなのか」を知ることによって客観的真理に近づくためのものである

むしろ哲学や倫理というものは「絶望(キェルケゴール)」や「吐き気(サルトル)」を伴う精神的に過酷なものであり 多数大衆人気が得られるような安易で幼稚なものでは断じてない

「自分の何が間違いなのか」を認識して気分が良くなることはないからだ

「自分の頭の悪さ」を自覚認識してこそ 頭の悪さを脱することが出来るのである

それは気分的な救済(主観)ではなく 論理的安全性の追求という人間性(倫理)が目的である



安物のアイドル崩れの主観的感想文を哲学だと思っていたら 勘違いも甚だしい



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○サブプライム無責任。

2019年05月09日 21時43分04秒 | 意識論関連
交差点での右折事故は年間1万8712件あり うち死亡事故は130件だという

なるほど航空機事故の方がリスクが低いって話ではあるのだが 車輌事故の方が圧倒的に多すぎる

警察は「充分に注意して」などと言っているが 具体性のある合理的再発防止策には全くなっておらず 単なる「頑張れ」的な精神論にしかなっていない

そもそも交通過失事故というのは悪意がない場合がほとんどであり これに刑罰だけで「解決」だとみなす制度そのものに合理性がまるで無いのである

しかし 司法警察というのは罰を目的とした制度である以上 構造的に合理性のある再発防止策を立てるための手続きすら存在しないのである

本当に事故を減らし 被害者を減らすために最も優先されるべきなのは 論理的検証による原因究明と それに伴う再発防止策であるのだが

現状の司法制度上では「悪者探し」に終始し 裁判官の気分で刑が確定 これを「解決」だとみなして それ以上の具体性のある対策にはほとんど手をつけていない

こうした無責任な手抜き制度を「解決」だと思っているのは 国家権力を絶対だと思う感覚が促す「錯覚」によるものである

司法裁判所は 実質的に社会安全性にとって意味のない懲罰を決定しているだけであって 具体性のある再発防止策にならなくても管轄外であり「どうでも良い」のである



犯罪者の中には 死刑が確定していながらも自分の主観的好き嫌いを主張する傲慢極まりないトンデモない大バカ野郎がいるが ここまでくると明らかに病気である

乖離性同一性障害(多重人格)や統合失調のような精神疾患があったとしても 現在の臨床心理学上では「責任能力がある」とみなすのだが 明らかに自律的責任判断をしようとする自覚や意志が存在していなくても 現在の司法裁判では刑罰を「解決」だとみなし 他に似たような身勝手な者がいたとしても 犯罪や被害の程度が低いうちや犯罪が認知されなければほとんど野放しにされてしまう

こうした いわゆる犯罪者予備軍に対する予防的対策も 「どうして自律的な責任を負おうとしない無責任な人格になってしまっているのか」についての具体的で合理的な原因究明もなされないのが 現状の司法裁判制度の正体である

明らかに人格に異常があっても 実際に重大犯罪を起こして被害者が出なければ 予防的な拘束や治療を行う制度もないのが現在の刑法制度なのである



ヒトという種の生物の脳というのは ドーパミンの常習性が促す中毒によって 馴れたものに疑いを持たなくなる習性がある

論理的に検証すれば 司法刑罰には合理性がないにも関わらず 「産まれてからずっと存在していたもの」に対して 盲目的信頼(執着)をしてしまうことで 安心して何も疑問を持たなくなっているのである

これもまた一種の集団洗脳なのだが 洗脳というのは洗脳されている当人にはその自覚がない

刑罰という国家権力による暴力代行を解決だとみなし 具体的な社会安全性にとって優先されるべき行動を一切しなくなることを 大衆の多くは「多数である」ということだけで無責任性という罪が薄まっているという錯覚に陥っているに過ぎない



松尾豊は「人間は間違える権利がある」と述べたが 「原発を暴走させる権利」も「交通事故で他人を轢き殺す権利」もない

だが ヒトは間違えることを誰も避けることは出来ないのである

たまたま間違いによって大きな被害が出た場合にのみ大騒ぎし 「悪者」と見なした相手を差別排除しても 具体性のある再発防止策には一切ならない

一つの大きな過失の陰には 無数の小さな過失が隠れているのであって 被害が出ないほど小さな過失を見逃さず 丹念に再発防止のための対策を周知共有することこそが 本当の意味での「社会人(人間)としての責任」である



「刑罰が無くなれば 何をしても怖くない」などと言っているバカがいるとしたら そいつは充分に「治療対象」である

怖いか怖くないかという主観的安心恐怖だけでしか行動が決定しないという 理性の欠落がどのようにして生ずるのかを徹底的に調べ上げ 再発防止のために教訓として公に周知徹底する必要がある

しかし それは差別排除を旨とした個人攻撃(懲罰)のためではなく あくまで社会安全性 社会防衛の立場から自己自身の行動規範や教訓として扱うことが「目的」である

それが出来ない時点で 既に人間性(自律的な客観的論理検証性)は欠落しているのである



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○蛍光灯器具に取り付けるLED管がややこしい件。

2019年05月09日 13時05分39秒 | 日記
蛍光灯の器具に対応していないLED管をつけてしまうと火災の危険性がある

電気を流した瞬間にショートして死んでくれればまだしも 数時間から一年くらい普通に点灯してから時限発火することもあるという

で LED管が対応しているのかどうかってのが物凄いややこしくて

蛍光灯器具の種類も

○グロースターター方式

○ラピッドスターター式

○インバータ方式

など様々あって それぞれに対応したLED管じゃないと危ない

更に言うと 業者に蛍光灯をLEDに交換してもらった場合には 器具の回路接続を変えてしまっていることもあって この場合には専用のLED管を使わないといけないらしい

でも普通の人だと 何が何だかさっぱり判らないと思うので 器具についている表示と LEDの表示を撮影してSNS上にアップロードして「これで良いのかな?」ってのべつまくなし聞いてみれば誰か判る人が「危ないぞ!」って言ってくれるかも知れない

ただ 中には悪意のある奴がいて 本当は危ないのに「大丈夫だよ」って言ってくる奴もいる可能性もあるので注意して

悪意がなくても勘違いして「大丈夫」って言ってくる人もいると思うし

「危ないぞ!」って言ってくる人が一人でもいたら一時使用を中止して販売店に聞いてみると良いと思う

ってかパナソニックとか東芝とか三菱とかメーカーのSNSアカウントで対応出来ないのかしら

即時に回答しなくても良いから24時間以内とかなら誰か担当者が回答出来ると思うんだが…

いっそのこと大手電器メーカー共同のアカウントみたいの作って 常に誰かが対応出来るようにしても良いんじゃなかろうかと思ってみたりもする



 ☆追記:電球型LEDの場合にも調光器に対応していないものがあったりするので こちらも注意が必要



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○ハインリッヒの法則。

2019年05月03日 11時58分33秒 | 意識論関連
自己が生き続ける上において「生きるに価しない社会」では意味がない

だが それは「目先の自己の欲望ばかりを追求すること」だけでは人間性を伴うことはない

他人からの評価や報酬に依らずに主体的に純粋に好きなことがあれば それを続ける上において社会安全性を求めるようになるが

しかし 他人からの評価や報酬ばかりを追求しているからこそ本質的には自己が満たされず 際限なく評価報酬を求めるようになり 自律は失われ無責任な行動もするようになる



人間性の論証において「生きるに価する社会を求める」とは言っても その前提に自律が必要であり 自律には自発的主体性が必要なのである

主体性や自律なしに「生きるに価する社会」を求めてしまうからこそ 目先の主観的欲望感情気分ばかりが優先し 身勝手で自己中心的な行動に陥るのである

その違いは 本質的な人間としての「意識(自律的な客観的論理検証性)」の有無を意味する

自己の欲望の全体像を客観的且つ統合的に検証し 論理的に「人間として生きるに価する社会」とは何かを自覚してこその人間性や倫理である

人間性の源とは 自発的主体性なしに成立することはないのである

「社会から生かされている」などという主体性の欠落した「謙虚さを装った」綺麗事は 単なるバカな大衆への迎合や同調を唆(そそのか)すだけの 洗脳ペテン詐欺でしかない

個人が主観的に「好き」かどうかと 論理客観的に「安全」かどうかは関係がないのである

江戸川乱歩が描く猟奇殺人の妄想を主観的にいくら「好き」でも それが短絡的に「人間性の欠如」にならないのと同様 ペドフィリア(幼児性愛)であっても芸術空想の範疇であれば社会的には人畜無害なのである

問題なのは目先の主観的好き嫌いが社会的行動に直結してしまう自律の欠落であって 個人的趣味趣向の問題ではないのである

今では江戸川乱歩は文学賞の冠に使われる程の評価があるが 当時は「猟奇殺人を助長する」などと称して文科系大衆観念的に拒絶されていたのであり こうした時代に左右されるような主観的観念には普遍性がないのである

どんなに多数派の同調や迎合があっても それは論理的普遍性の論証にはならないのである

世間や時代に左右される多数決では 論理的普遍性の証明にはならない

科学が多数決ではないのと同様 哲学もまた多数決で真理が求められるわけではない



ところが ヒトという種の生物は先天的に統率的協調性を発揮する本能習性があるため 多数派同調性や権威迎合性によって簡単に自発的主体性を喪失する傾向が非常に高いという先天的欠陥を持っている

順位序列への異常執着というものも 要するに「権威に誉めて欲しい」「多数派にカッコイイと思われたい」という評価承認欲求が根底にあり 結果的に「他者を蹴落としてまで優位に立とう」としたがるだけであって 本当はそこに「目的関数」のようなものは存在しないのである

「他者よりも優位に立つことが生存価にとって有利」というのは大嘘で ヒトという種の生物は本来1個体だけよりも多数他者とリソースを共有した方が生存にかかるコストを減らすことの方が合理的なのである

そんな論理的合理性を持ち出すまでもなく 近所の子供が血まみれで死んでいたら自分の人生までもが味気ないものになるものである

連続幼女誘拐殺人犯の宮崎勤のように 「子供を殺害して喰う」などという異常性の原因とは 目先の主観的欲望だけが短絡的に「正しいこと」になってしまっているからであり 自己に対する客観的論理検証性が全く働いていないことが人間性の欠落の原因なのである

これは女子中学生監禁犯の寺内樺風の身勝手さにも共通するものである

こうした極端な異常者が発生してくるのは何故かと言えば 世間一般人の多くも主観的観念と客観的論理検証性の区別がついていないという「小さな事象」 つまり「ヒヤリ」「ハッと」事象を著しく見逃しているために起こる必然的重大事象(結果)でもある



梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得ることを 短絡的に人間性や倫理だと錯覚していれば 合理的原因究明や再発防止策が進まないのは当たり前の話である

私からすれば凶悪殺人犯も大衆の多くも「五十歩百歩」であり 主観的には「お前らも死ね」と「思って」いるが 誰の主観であっても主観には社会的には意味がないことに違いなどない

だから 面倒臭くてもアホらしくても 懇切丁寧に噛んで含めるように説明を尽くしているつもりである

「少しは有り難いと思え このバカ共が」と「思う」のも 所詮は私の主観に過ぎないので 客観的にはどうでもよろしい 「勝手に思っておけ」で良い話である

私が個人的にどんなに強烈に「思った」ところで人畜無害である

それが多数大衆にとって主観的に好きかどうかは関係がない

論理的に理解出来るかどうかを区別出来ないからこそ 主観的好き嫌いが優先してしまうのである

それは程度の違いこそあれ 凶悪犯罪者の身勝手さと共通するものなのである



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○夕暮。

2019年05月02日 23時23分01秒 | 写真

千住新橋より




綾瀬水門付近より


岩淵水門(青門)より


北赤羽駅付近より 川口方向

風が強いと雲がカッコイイ



再び飲んでみたが

やっぱりまずい

まあ 薬だな


Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○文系観念者には自己客観性がない。

2019年05月02日 22時56分59秒 | 意識論関連
NHK「フランケンシュタインの誘惑 E+」の中で「科学者とは実に興味深い生物だ 時に現実を見失う」などと形容していたが

現実を見失うのは科学者に限ったものではなく 荒唐無稽な妄想で現実を見失う大半はむしろ科学者ではない

「実に興味深い」などと偉そうに上から目線で形容しているが 優生学や超人幻想や「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」などというトンデモオカルト哲学を鵜呑みにしている文科系大衆マスコミの方がよっぽど「興味深い」存在である

一体どうやったら遺伝的進化を完全無欠の万能なものであることを前提に「ヒトには先天的に人間性しか組み込まれていないはずだ」などという荒唐無稽なオカルト観念を鵜呑みに出来るのか

もはやあきれるばかりである



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○考えないヒト。

2019年05月02日 14時57分48秒 | 意識論関連
罪も罰も結局は主観的感覚に過ぎない

罪というのは「感じる」ものであって 科学論理的に立証出来るような普遍性があるわけではない

サバイバーズギルトのように 当人に過失がないにも関わらず罪を「感じる」こともあり

たとえ法手続き上合法であろうとも 法律の主旨を逸脱した脱法迷惑行為もあれば

逆に法手続き上犯罪に該当しているとしても 情状酌量の余地があるケースもある

裁判における「情状酌量」などというものも 要するに感覚的な程度問題に過ぎず 何ら論理的対策にはつながらない観念論でしかない

人間社会において最も重要な「目的」とは 安全性の追求であり これは客観的論理検証によって導き出されるべきものであって 司法刑罰という主観的観念はこれを阻害するものでしかない

「感じ」という主観的な感覚というものは ヒトの脳の動物的行動習性バイアスに過ぎず 進化の過程で結果的に残された性質であって そこには何の「目的」も存在しないのである

「判決さえ出れば解決だ」というのは司法制度上には それ以上の原因究明や再発防止策を立てるための制度が存在していない上に 大衆観念上「罰さえ与えておけば気分的に満足感が得られる」という感覚が促す一種の錯覚に過ぎない

目先の満足感を優先し 社会安全性を蔑ろにすることが人間性や倫理において最適である訳ががないのだが 現在の司法制度上では社会安全性よりも罰という感覚的満足感を優先する社会制度しか存在していないのである



ヒトの多くは 自分の主観的感覚に過ぎない満足感や安心感を 短絡的に人間性か何かであるかのように錯覚しているが それこそが自己過信による傲慢であり 論理客観性を見失うヒトの先天的欠陥でもある

多数大衆のご機嫌取りを 短絡的に人間性か何かと勘違いしているのも 主観と客観の区別が出来ていないことに起因する誤謬(ごびゅう)である

自分の主観的気分にとって不都合な話を嫌うのは勝手だが 主観的に嫌いだからといって論理客観的に間違っていることの論証になるわけではないのだが

ヒトの多くは自己の主観的感覚を優先して 論理客観的な検証判断を簡単に放棄する無責任さを平気で発揮するのである

それは 自己の主観的感覚を「絶対的人間性に基づいたものである」という身勝手な錯覚に基づいた傲慢さによるものであり こうした錯覚を錯覚であると多くのヒトは認識出来ない程にバカであり 人間として欠陥品なのである



亀山郁夫のドスト:エフスキーの読書感想文が なぜ読書感想文以上の意味がないのかと言えば ドスト:エフスキーの著作の内容は主観的感覚しか描かれていないからである

主観的感覚としての罪だの罰だのをいくら論じても そこから導き出されるのは主観的感想文以上の何も出てこないのは必然である



松尾豊は「人間は間違える権利がある」と述べたが 権利があるかどうかは知らないが ヒトである以上間違えることは避けられないものであり 他人の間違いのアゲアシ取りで糾弾しても 間違いというものの論理客観的原因究明にも 再発防止にもつながらず ヒトの先天的差別排除バイアスを満足させているだけの大衆迎合にしかならないのである

多数大衆のご機嫌取りをしたところで それによって社会安全性が蔑ろにされている現実を無視しているというのは 何ら人間性を伴わないのである



ヒトは産まれてくれば初期的には全て子供であり 成育過程において個人が自律的な社会的責任判断選択を出来るようになることで人間性や倫理として機能するのであって

多数派の同調圧力に屈する形の強迫観念的な「超自我」では自律に一切ならない

「怖いか安心か」とか「好き嫌い」とか「カッコイイかどうか」などといった主観的観念というものは 何ら自律には結びつかず これら主観的観念を客観的に論理検証する本質的な人間としての意識が働かないことには人間性も倫理もスッタクレもあったものではないのである



お育ちのおよろしいお坊ちゃまお嬢ちゃまの主観的観念に基づいた「恩返し」的美談で大衆人気を得るのは簡単であろうが 人間性や倫理というものは たとえ「社会から殺されて」でも自発的自律的に社会安全性を追求する意思が必要であり 「社会に生かされている」などという謙虚さを演出することで多数人気を得ることは人間性の論証には一切ならない

それは大衆迎合以上の何の意味もないのである

それとも何か? ナチス政権下ではナチスに反対したら「生きられない」からといって反対しないことの方が正当化出来るとでも言うのであろうか?

どんなに生存に固執したところで 所詮ヒトは誰しもが必ず死ぬのであり そもそも生存への執着とはドーパミンの常習性が作り出した動物的行動バイアスに過ぎず 「死にたくない」というのは主観的感覚以上の意味はないのである

「死にたくない」などというのは 所詮は主観的好き嫌いの範疇に過ぎない

たとえ自己が永遠に生きられるとしても 東池袋の路上で3歳児が母親もろとも暴走車に轢き殺されてしまうような社会が続いてしまうのであれば それは無間地獄でしかないのである

養老孟司は「自分が死ぬことは人生の一大事」だとか言っていたが これこそが大衆観念に迎合した強迫的多数派同調に過ぎず 本当に人生にとって重要なのは自分の利己的生存などではないのである

自己の主観的感覚をも客観視し 何が錯覚で何が真理なのか 何が本当の人間性なのか 人生にとって最も重要なものが何なのかを統合的に判断出来なければ 人間性も倫理もスッタクレもありゃしないのである

ヒトの多くは目先の多数派に同調し迎合しておけば人間性か何かだと簡単に錯覚妄想しがちだが そうした多数派迎合性こそがナチス政権を作り出したことを他人事として無視しているご都合主義に他ならない



最近の民族主義的差別の流行は 養老の著作人気によって多数の大衆が主観と客観の区別が出来なくなったことが要因ではないだろうか

かつてニーチェ人気によって超人幻想を鵜呑みにし 優生学などという大嘘によって大衆がバカになったのと同じように 養老による「安心して同じを求めれば良い」などという訳の判らぬ実証不能の観念を大衆が鵜呑みにしたことが昨今の差別の流行の大きな要因であろう

一度バカになると バカというのは中毒であり難治性が非常に高いため カルト宗教の信者に何を言っても聞く耳を持たないのと同様 ニーチェや養老による洗脳も バカな大衆にとっては「神のお言葉」になってしまい 疑うことを誰もしなくなる



論理客観的な安全性の追求というものは 主観的観念にとっては気分が悪く 面白くもないが

多くのヒトにとっては主観的観念による洗脳や陶酔程気分が良く 面白いのである

だから簡単に流行し 大衆は何も「考え」なくなるのである

「考え」ない状態を「バカ」と言う

他に形容詞を私は知らないし 知りたくもない




*:サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○脳のハック。

2019年05月02日 00時53分34秒 | 意識論関連
松尾豊の生徒曰く「ゲームとは報酬系のハック」であると

それを言うのであれば 文芸だろうと音楽だろうと報酬系のハックであることに違いはない

「報酬系のハック」とはすなはち主観的に「好き」とか「楽しい」とか「カッコイイ」という感覚の制御操作である

科学分野が芸術分野と区別される部分とは 理論に客観性が伴うかどうかであり

科学というのは論理的真理を追求するものであって 客観的普遍性が伴わなければ科学ではなくなる

これは哲学においても同様で 哲学理論は客観性が伴わなければ哲学ではなく それは単なる文芸に過ぎないのだが

現状の哲学界というのは主観に過ぎない「カッコイイ」だの「素晴らしい」だの「面白い」といった感想を根拠に人気評価をしているに過ぎず

故に「世界は存在しない」などと言い出したマルクス:ガブリエルなんぞを鵜呑みにしているのである

マイケル:サンデルによるトロッコ問題には倫理の本質が存在しないことにも誰も気付かず 大多数の「信者」達は自分の頭が良くなったかのような錯覚すら認識することなく鵜呑みにし 人気を集めている

養老孟司による非科学的オカルト観念を 哲学者の誰も批判しないことからも 現在の哲学界というのは誰一人として客観的論理検証をしないバカの集団に他ならない

原田まりるはニーチェを哲学だと勘違い錯覚しているが その根拠は「センター性がある」だの「人生を豊かにしてくれる」「カッコイイ」などという極めて主観的感想に基づいたものであり 何ら客観性を伴う論理的検証根拠が成されていない

松尾豊は電子工学が専門であるため ニーチェがどういう内容なのかを知らず 番組制作者によってあてがわれたお飾りアシスタントに過ぎない

一応ニーチェとは何かを述べておけば 生物学において優生学の論拠となった進化万能論に基づいた「超人」幻想や 論理的根拠の著しく乏しい身勝手な決め付けの陳列に過ぎないゾロアスター教で大衆人気を集めているだけであり 哲学とは到底言えないただの大衆迎合に過ぎない

「闇もこちらを見ている」だとか言っているが そもそも極めて抽象的な比喩であって 見ているからどうだとか一切論じておらず 何一つ論理的応用性のない雰囲気話でしかない

 ◇

「人間は失敗する権利がある」松尾豊

権利かどうかは知らないが ヒトである以上失敗は避けられないものであり 小さな失敗の段階で論理的な再発防止策を構築しておくことで 取り返しのつかない重大な失敗へと発展する可能性を引き下げることにつなげられるのであって 懲罰というのは合理的分析から遠ざける観念論 精神論でしかない

 ◇

ダニエル:デネットは結局何も言ってないよ





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする