コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

富部一里塚(甲州街道最後の一里塚)53里~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-08 05:46:40 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

富部一里塚 (甲州街道最後の一里塚)

起点の日本橋から道の中央を計って一里毎(4Km)に、道の両側に大きく土を盛り榎等を植え一里塚として、旅人の便とした。この塚は江戸(現、東京)より53番目。甲州街道中最終のもの。 あと十一町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き。中仙道につながる。

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石投場(高木地区)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-08 05:46:29 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

石投場 (高木地区)

諏訪湖を眼下にした展望に優れた場所。昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられました。明治十三年、明治天皇ご巡幸の折には、ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったといいます。

▲諏訪湖はだいぶ後退したらしい

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片羽の一里塚跡(52里)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-08 05:46:17 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

片羽の一里塚跡 (52里)

長野県諏訪市諏訪

甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より三十六町(一里、約4Km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里塚とした。ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から五十二里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。  諏訪市教育委員会

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吉田のマツ~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-08 05:46:00 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

吉田のマツ

種   名  クロマツ(マツ科)
推定樹齢  270~300年(平成七年現在)
大 き さ  目通り幹周1m45cm  
地上30cm 幹周2m13cm
高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)藩主忠虎の大坂城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。代々吉田家の庭園に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したもので有り、市内の最年長樹である。クロマツの特徴は樹皮が末端まで暗黒色、下部樹皮が亀甲状に割れ、葉は濃緑色で強剛、新芽の鱗片は白味を帯びる。諏訪地方に見られるクロマツは栽植されたものである。  指定昭和五十四年二月十五日 諏訪市教育委員会

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精進湯(諏訪市諏訪)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-08 05:27:49 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

精進湯 (諏訪市諏訪)

精進湯は地元の鎮守である手長神社へ身を清めて参拝にのぼるという意味から名づけられました。創設年月日は定かでありませんが、1756年の文献「諏訪かのこ」に精進湯が名湯として紹介されています。はじめは、精進潔斎の湯として宮座に付属した共有の鍵湯でしたが、後に組合経営となり、昭和53年度からは全国的に数少ない市営の温泉公衆浴場となり、現在まで多くの市民や観光で訪れた人々に親しまれています。

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