コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

高島城(長野県諏訪市高島)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 08:49:45 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

高島城 

長野県諏訪市高島

高島城は別名「浮城」とも呼ばれ、400年ほど前の慶長3年、豊臣秀吉の家臣「日根野織部高吉」により築城され、諏訪氏の居城としてその威容と要害堅固を誇ってきました。 昭和45年5月に天守閣が復興され、その美しい姿を再び堀の水に映すようになりました。(諏訪市ホームページより)

 

冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫(ぬき)を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門(ろうもん)あるいは高麗門(こうらいもん)と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。
おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。

▲ キハダ:高島城内にあるキハダの大木。キハダは諏訪市の市木である。ミヤマキハダ、ミカン科、樹齢推定約120年。

▲ フジ:高島城跡が公園となった明治9年(1876)ごろ、植栽されたと思われる。諏訪市内では最古のフジで、春には紫色の蝶形花をたくさんつける。マメ科、樹齢推定約130年。

      

 

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すずめ踊り~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 08:38:07 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目 

すずめ踊り 

長野県茅野から下諏訪で見かけたものです。「すずめおどし」等と呼ばれる場合もあるらしい。棟飾りの一種

長野県茅野・上諏訪・下諏訪

     

  

   

 

 

     2012年3月4日撮影

 

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甲州道中・中山道合流之地石碑~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:17:22 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

甲州道中・中山道合流之地石碑

▲旧中山道ウォークでは写真奥から歩いてくることになる。

▲甲州道中・中山道合流之地石碑で旧中山道は右に向きを変え京に向かいます。

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下諏訪本陣(岩波家)長野県諏訪郡下諏訪町横町~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:17:08 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

下諏訪本陣(岩波家)

長野県諏訪郡下諏訪町横町

街道が盛えた頃には下諏訪宿本陣を務めた岩波家。現在も建物の主な部分と庭園が保存され、公開されている。数寄屋造りの建物は素晴らしく、築山庭式石庭園は中山道随一の名園といわれる。

▲温度計 当時のものとのこと
 

 ▲蔵
 

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綿の湯(群馬県吾妻郡草津町草津)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:13:18 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

綿の湯

群馬県吾妻郡草津町草津

神話と伝説 綿の湯

その昔、上社の地にお住まいの諏訪明神建御名方神のお妃八坂刀売神が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。 神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。 下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。

▲ここには宿場問屋場もあった。

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承知川橋の記(一枚石)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:11:04 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

承知川橋の記(一枚石)

この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。輝石安山岩 重量約拾参屯 伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。 昭和五十二年 久保海道町

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