コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

太田宿の町並み(岐阜県美濃加茂市)中山道51番目

2013-03-15 21:29:41 | 町並み

2013年3月9日 岐阜県

太田宿町並み

岐阜県美濃加茂市

 「中山道太田宿」は江戸(東京)日本橋から京(京都)三条大橋までを結ぶ江戸時代の五街道の一つ「中山道」69次のうち江戸から数えて51番目の宿場町で、飛騨へ向かう「飛騨街道」、関・郡上へ向かう「関街道」への分岐点を持つ場所として、また、平行して木曽川が流れており、交通・物流の要衝として機能しておりました。美濃加茂市観光協会

▲法華経塚と飛騨街道追分

▲ 祐泉寺

▲ 旧太田脇本陣林家住宅 重要文化財

▲ 旧太田宿本陣門

▲ 高札場跡と郡上街道追分

虚空蔵堂と承久の乱古戦場跡

 

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尾張藩太田代官所跡~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-15 21:29:40 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

尾張藩太田代官所跡 太田小学校

岐阜県美濃加茂市太田本町

 

尾張藩は天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付(ところずけ)代官を配置しました。太田代官所は天明二年(1782)に設置され、初代代官は井田忠右衛門でした。慶応四年(1868)、太田代官所は北地総管所(ほくちそうかんしょ)と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。 このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父右衛門です。美濃加茂市商工観光課

 

▲旧太田代官屋敷跡地:太田代官所跡先

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坪内逍遥ゆかりのムクノキ~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-15 21:29:23 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

坪内逍遥ゆかりのムクノキ

 

 

 

坪内逍遥(1859~1935年)は安政六年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれました。その後、明治二年に父の引退とともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。 十八歳にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文化論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築きました。逍遥の明治42年から二十年間にわたる「シェークスピヤ全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。大正八年には、夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノクの根元で記念撮影をしました。逍遥六十一歳でした。平成八年二月 美濃加茂市教育委員会

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虚空蔵堂と承久の乱古戦場跡~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-15 21:13:58 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目 

虚空蔵堂と承久の乱古戦場跡

 

 


中山道を江戸から京へ向かうとき、太田宿の西の出口に虚空蔵堂はあります。 天明2年(1782)の「加茂郡太田村絵図」には既に描かれており、当時から信仰の対象となっていました。ここには、京への道標があり、旅人たちの道案内となっていました。ここから段丘を下り、木曽川沿いに京を目指して西へ進みました。また、承久3年(1221)に起った「承久の乱」の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が、 木曽川を挟んで戦いました。このあたりが戦場の北端であったといわれています。(可児側が幕府軍・太田側が朝廷軍)美濃加茂市商工観光課

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高札場と郡上街道追分~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-15 18:44:32 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

高札場と郡上街道追分

 高札場は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。 一般の人々に知らせる目的で立てられていました。 弘化二年(1845)の「加茂郡美濃太田村家並絵図」には、下(しも)町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。 『濃州徇紀行』には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれていた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向かう「郡上街道」との追分でもあります。 左手にある石の道標は明冶二十六年(1893)に名古屋の塩問屋、伊東萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。美濃加茂市商工観光課               

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旧太田宿本陣(門)(岐阜県美濃加茂市太田本町)

2013-03-15 05:34:59 | 長屋門など

2013年3月9日 岐阜県

旧太田宿本陣(門)

岐阜県美濃加茂市太田本町

文久元(1861)年、仁孝天皇の皇女・和宮が14代将軍の徳川家茂に嫁ぐために江戸へ向かう時に建造された門。装飾は少なく簡素な印象を受けるが、格式のある端正な造り。昭和になって現在の位置へ移築された。

美濃加茂市有形文化財
旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場が置かれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861年)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍「徳川家茂」に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並なども新築・修繕されたといわれています。この門は、1間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行いました。


旧太田宿本陣(門)(岐阜県美濃加茂市太田本町)~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-15 05:34:59 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

旧太田宿本陣門

岐阜県美濃加茂市太田本町

 

 

美濃加茂市有形文化財
旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場が置かれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861年)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍「徳川家茂」に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並なども新築・修繕されたといわれています。この門は、1間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行いました。

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旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田本町)(重要文化財)

2013-03-15 05:13:50 | 建築物(洋館以外)

2013年3月9日 岐阜県

旧太田脇本陣林家住宅 重要文化財

岐阜県美濃加茂市太田本町

旧中山道の脇本陣で主屋に脇本陣座敷が付設される。背部に倉も残り、旧屋敷構えがよくわかる。主屋は両妻に卯建をあげる切妻造二階建の大型住居で、脇本陣として年代も古く貴重な遺構である。表門は文久元年(一八六一)に再築されている。 文化財オンライン

旧太田脇本陣林家住宅は明和6年(1769年)に建築された主家と天保2年(1831年)に建築された表門と袖塀、それに裏の2棟の土蔵から成っています。 江戸時代に太田宿は中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各1軒あり、林家は脇本陣としての役目の他に大田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達を務めた旧家であります。 この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建(うだつ)が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。 又、この建物は中仙道のにおいて脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和46年に国の重要文化財に指定されています。今でも脇本陣の前に立つと「したにーしたにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。昭和61年1月 美濃加茂市

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旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田本町)(重要文化財)~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-15 05:13:48 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

旧太田脇本陣林家住宅 重要文化財

岐阜県美濃加茂市太田本町

 

 

旧太田脇本陣林家住宅は明和6年(1769年)に建築された主家と天保2年(1831年)に建築された表門と袖塀、それに裏の2棟の土蔵から成っています。 江戸時代に太田宿は中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各1軒あり、林家は脇本陣としての役目の他に大田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達を務めた旧家であります。 この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建(うだつ)が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。 又、この建物は中仙道のにおいて脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和46年に国の重要文化財に指定されています。今でも脇本陣の前に立つと「したにーしたにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。昭和61年1月 美濃加茂市

 

 

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