街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
犬山城が見えた
▲鳩の看板の左
▲赤い屋根の右上
▲中央の山頂
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
犬山城が見えた
▲鳩の看板の左
▲赤い屋根の右上
▲中央の山頂
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
鵜沼宿出口付近
▲旧道西方向
▲この標識あたりが鵜沼宿の出口か?
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
景観重要建造物(四棟):板井家住宅、梅田吉道家住宅(茗荷屋)、梅田昭二住宅、安田家住宅
岐阜県各務原市鵜沼
板井家住宅(丸一屋)
梅田吉道家住宅(茗荷屋)
梅田昭二住宅
安田家住宅
・・・・・・・・・・・・
▲全景
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2013年3月9日 岐阜県
鵜沼宿脇本陣
岐阜県各務原市鵜沼
鵜沼宿の脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
鵜沼宿脇本陣
鵜沼宿の脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
鵜沼宿本陣跡
岐阜県各務原市
鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じ桜井家が務めていました。 寛延二年(一七四九)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、 多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊休憩したりしました。 文化六年(一八0九)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。・・以下省略
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2013年3月9日 岐阜県
菊川酒造
岐阜県各務原市鵜沼西町
菊川酒造(本蔵・豆蔵・一号倉庫 二号倉庫)
中山道の南側に並び建つ二棟の蔵は東側を本蔵と呼び西側を豆蔵と呼ぶ。本蔵は大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材の籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っている。豆蔵は創業した明治時代初期に他所より移築されてきたと伝わる。小屋組は登り梁形式で柱や梁に転用材が多く使われている。敷地東側の細い路地に建つ蔵を一号倉庫 二号倉庫と呼び、明治時代後期の建物である。外観は一棟だが内部には完全に仕切られた壁があり、小屋組は、北側が登り梁で南側は洋小屋トラストと形式が異なる。
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2013年3月9日 17回目
菊川酒造
岐阜県各務原市鵜沼西町
菊川酒造(本蔵・豆蔵・一号倉庫 二号倉庫)
中山道の南側に並び建つ二棟の蔵は東側を本蔵と呼び西側を豆蔵と呼ぶ。本蔵は大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材の籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っている。豆蔵は創業した明治時代初期に他所より移築されてきたと伝わる。小屋組は登り梁形式で柱や梁に転用材が多く使われている。敷地東側の細い路地に建つ蔵を一号倉庫 二号倉庫と呼び、明治時代後期の建物である。外観は一棟だが内部には完全に仕切られた壁があり、小屋組は、北側が登り梁で南側は洋小屋トラストと形式が異なる。
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2013年3月9日 岐阜県
安積門(旧大垣城鉄門)
岐阜県各務原市鵜沼西町
当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。規模は、間口約5.7m、高さ4.5mあり、構造形式から高麗門と称されています。 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。
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2013年3月9日 17回目
安積門(旧大垣城鉄門)
岐阜県各務原市鵜沼西町
当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。規模は、間口約5.7m、高さ4.5mあり、構造形式から高麗門と称されています。 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。
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2013年3月9日 岐阜県
旧武藤家住宅
岐阜県各務原市鵜沼西町
武藤家は、鵜沼宿本陣桜井家の東側に隣接しており、江戸時代は「絹屋」の屋号で旅籠を営んでいました。幕末の絵図に見られる「絹屋」は、「表間口6間、奥行11間、惣坪192坪半」で、渡り廊下でつながる2棟の家屋からなり、中庭・裏庭・湯殿2・土蔵2をもっていたことが分かります。
明治維新を迎え、鉄道の普及とともに旅籠の経営も難しくなったようで、本家に当たる武藤嘉左衛門家が営んでいた郵便局業務を引き継ぎ、明治16年(1883)より「鵜沼駅三等郵便局」を経営するようになりました。明治24年(1891)の濃尾震災により倒壊し、建て直し後も、同地で郵便局を営み、昭和39年(1964)まで開局していました。各務原市ホームページより
▲旧武藤家住宅からうとう峠方向を撮影
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
旧武藤家住宅
岐阜県各務原市鵜沼西町
武藤家は、鵜沼宿本陣桜井家の東側に隣接しており、江戸時代は「絹屋」の屋号で旅籠を営んでいました。幕末の絵図に見られる「絹屋」は、「表間口6間、奥行11間、惣坪192坪半」で、渡り廊下でつながる2棟の家屋からなり、中庭・裏庭・湯殿2・土蔵2をもっていたことが分かります。
明治維新を迎え、鉄道の普及とともに旅籠の経営も難しくなったようで、本家に当たる武藤嘉左衛門家が営んでいた郵便局業務を引き継ぎ、明治16年(1883)より「鵜沼駅三等郵便局」を経営するようになりました。明治24年(1891)の濃尾震災により倒壊し、建て直し後も、同地で郵便局を営み、昭和39年(1964)まで開局していました。各務原市ホームページより
▲旧武藤家住宅からうとう峠方向を撮影
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
道標
▲岐阜 市へ四里十丁
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
高札場
高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。 また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。
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街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
鵜沼宿入口付近
▲電柱の脇の常夜灯が目印
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