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春日山城跡(100名城)~新潟県上越市

2013-10-13 06:32:04 | その他の城

2013年10月9日 新潟県

春日山城跡 100名城

新潟県上越市中屋敷字春日山

戦国時代の名将・上杉謙信公の居城として知られる春日山城跡。国の指定史跡であり、日本百名城にも数えられています。築城の時期についてはよくわかっていませんが、南北朝時代(約600年前)には既に存在していたようです。ただ、現在見られるような広大な城に整備されるのは後のことで、上杉謙信公・景勝公と堀氏によるものと考えられています。「城」という字が「土偏」に「成る」と書くように、春日山城はまさに「土の城」であり、複雑な自然の地形を巧みに利用した堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。現在も、空堀(からぼり・尾根を掘って作る人工的な凹地)や土塁(どるい・土を盛って作った障壁)、大井戸など山城の特徴が残り、屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構(そうがまえ・防御のため外周を囲った日本の城郭構造)がつくられる点が特徴で、全国的にも珍しいといわれています。標高約180mにある本丸跡からは、日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。また、春日山城跡の中腹には、昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉謙信公の銅像があります。上田市ホームページより

 

▲上杉謙信像 見つめる方向は川中島か?

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上杉三郎景虎屋敷跡

▲上杉三郎景虎屋敷跡
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。また、美男として伝えられています。跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。

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三の丸屋敷跡

▲三の丸屋敷跡
春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名前を与えて住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。三郎景虎公は謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く。今、春日山上の中で最も注目を集めている所である。

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土塁

春日山城内で最も良好に残っている土塁跡です。郭を普請する際、削平した時に出た土を盛り堅め、防御の役割を果たしました。当時は、各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の守備を一層強固にしていたと想像されます。

▲土塁からの眺め▼ 

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二の丸屋敷

本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられています。 古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。

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井戸曲輪

井戸曲輪

廃城後四百年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古絵図にもここだけに井と、井戸があることを示しており、古くから注目されていたことが分かる。  どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が仂いて、水が湧くとのことである。 なお、数十年前に井戸さらいが行なわれ、滑車や杓などが見つかっている。

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油流し

本丸の西斜面にあたるこの場所は、急斜面となっていて、「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません

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景勝屋敷跡

 「御館の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した 景勝公の屋敷と伝えられている。景勝公は謙信公の姉千桃院の子で、 直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の1人にまでなった。 景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は、総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削出し、数段で1つの屋敷が形成されている。 春日山神社から谷愛宕にかけての屋敷跡群が雛壇状に並んで造られているのとは対照的である。景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず定型化していないのは、春日山城の古い段階での普請を示しているといえる。

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本丸

南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所です。標高180mの本丸からは、かっての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できます。関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年(1597)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。

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毘沙門堂

上杉謙信は、幼少時より信仰心が強く、春日山城中に毘沙門堂を建立して、日々読経を欠かさなかった。その静寂な祈りとは逆に、戦場では、軍神毘沙門天の化身などと諸国から畏怖されるほどの武将であったことは有名である。Wikipediaより

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虎口

城に入る玄関にあたる所「虎口」といいます。この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、食違いになるよう工夫されています。春日山城は、謙信の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられていますが、かってここまでが城の範囲であったと推測されます。

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空堀

 

ここは通称搦手、或いは附内口で、春日山神社の郭を経て 謙信の銅像の裏から登る道がここに通じている。それを断ち切る のがこの空堀で、平素は橋がかかっていた。

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千貫門

春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門。  今でも門が建っていたと考えられる部 分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。三方が 土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切り通しがある。 これは空堀の底で、侵入者 を空堀から急峻な崖下に落とそうとしたものだろう。周到に計画された普請は、本丸と千貫門の 外とを区画する重要な地点であった事をうかがわせる。

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春日山神社

山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社です。明治34年(1901年)に、童話作家・小川未明の父である小川澄晴によって創建されました。日本近代郵便の父・前島密も援助したといわれています。上越市ホームページより

▲上杉の家紋「竹に雀」

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