コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

鵜沼宿脇本陣(岐阜県各務原市鵜沼)~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-17 10:44:25 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

鵜沼宿脇本陣

 

鵜沼宿の脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。

cosmophantom


鵜沼宿本陣跡(岐阜県各務原市)~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-17 10:27:30 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

鵜沼宿本陣跡

岐阜県各務原市

 鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じ桜井家が務めていました。 寛延二年(一七四九)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、 多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊休憩したりしました。 文化六年(一八0九)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。・・以下省略

cosmophantom


菊川酒造~岐阜県各務原市鵜沼西町

2013-03-17 10:27:15 | 建築物(洋館以外)

2013年3月9日 岐阜県

菊川酒造

岐阜県各務原市鵜沼西町

菊川酒造(本蔵・豆蔵・一号倉庫 二号倉庫)
中山道の南側に並び建つ二棟の蔵は東側を本蔵と呼び西側を豆蔵と呼ぶ。本蔵は大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材の籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っている。豆蔵は創業した明治時代初期に他所より移築されてきたと伝わる。小屋組は登り梁形式で柱や梁に転用材が多く使われている。敷地東側の細い路地に建つ蔵を一号倉庫 二号倉庫と呼び、明治時代後期の建物である。外観は一棟だが内部には完全に仕切られた壁があり、小屋組は、北側が登り梁で南側は洋小屋トラストと形式が異なる。

cosmophantom


菊川酒造(岐阜県各務原市鵜沼西町)~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-17 10:27:13 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

菊川酒造

岐阜県各務原市鵜沼西町

菊川酒造(本蔵・豆蔵・一号倉庫 二号倉庫)
中山道の南側に並び建つ二棟の蔵は東側を本蔵と呼び西側を豆蔵と呼ぶ。本蔵は大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材の籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っている。豆蔵は創業した明治時代初期に他所より移築されてきたと伝わる。小屋組は登り梁形式で柱や梁に転用材が多く使われている。敷地東側の細い路地に建つ蔵を一号倉庫 二号倉庫と呼び、明治時代後期の建物である。外観は一棟だが内部には完全に仕切られた壁があり、小屋組は、北側が登り梁で南側は洋小屋トラストと形式が異なる。

cosmophantom


安積門(旧大垣城鉄門)~岐阜県各務原市鵜沼西町

2013-03-17 10:26:57 | 長屋門など

2013年3月9日 岐阜県

安積門(旧大垣城鉄門)

岐阜県各務原市鵜沼西町

当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。規模は、間口約5.7m、高さ4.5mあり、構造形式から高麗門と称されています。 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。 

cosmophantom


安積門(旧大垣城鉄門)岐阜県各務原市鵜沼西町~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-17 10:26:56 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

安積門(旧大垣城鉄門)

岐阜県各務原市鵜沼西町

当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。規模は、間口約5.7m、高さ4.5mあり、構造形式から高麗門と称されています。 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。 

☆cosmophantom


旧武藤家住宅~岐阜県各務原市鵜沼西町

2013-03-17 07:15:17 | 建築物(洋館以外)

2013年3月9日 岐阜県

旧武藤家住宅

岐阜県各務原市鵜沼西町

武藤家は、鵜沼宿本陣桜井家の東側に隣接しており、江戸時代は「絹屋」の屋号で旅籠を営んでいました。幕末の絵図に見られる「絹屋」は、「表間口6間、奥行11間、惣坪192坪半」で、渡り廊下でつながる2棟の家屋からなり、中庭・裏庭・湯殿2・土蔵2をもっていたことが分かります。
明治維新を迎え、鉄道の普及とともに旅籠の経営も難しくなったようで、本家に当たる武藤嘉左衛門家が営んでいた郵便局業務を引き継ぎ、明治16年(1883)より「鵜沼駅三等郵便局」を経営するようになりました。明治24年(1891)の濃尾震災により倒壊し、建て直し後も、同地で郵便局を営み、昭和39年(1964)まで開局していました。各務原市ホームページより

 

▲旧武藤家住宅からうとう峠方向を撮影

cosmophantom


旧武藤家住宅(岐阜県各務原市鵜沼西町)~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-17 07:15:16 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

旧武藤家住宅

岐阜県各務原市鵜沼西町

武藤家は、鵜沼宿本陣桜井家の東側に隣接しており、江戸時代は「絹屋」の屋号で旅籠を営んでいました。幕末の絵図に見られる「絹屋」は、「表間口6間、奥行11間、惣坪192坪半」で、渡り廊下でつながる2棟の家屋からなり、中庭・裏庭・湯殿2・土蔵2をもっていたことが分かります。
明治維新を迎え、鉄道の普及とともに旅籠の経営も難しくなったようで、本家に当たる武藤嘉左衛門家が営んでいた郵便局業務を引き継ぎ、明治16年(1883)より「鵜沼駅三等郵便局」を経営するようになりました。明治24年(1891)の濃尾震災により倒壊し、建て直し後も、同地で郵便局を営み、昭和39年(1964)まで開局していました。各務原市ホームページより

 

▲旧武藤家住宅からうとう峠方向を撮影

cosmophantom


高札場~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-17 05:16:07 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

高札場

高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。 また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。

cosmophantom


うとう一里塚~旧中山道を歩く(17回目)

2013-03-16 17:34:31 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目

うとう一里塚

 

 

江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政五年六月)・「中仙道分間延絵図」(なかせんどうぶんかんのせえず)(寛政十二年七月~文化三年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とか「うとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。「うとう坂」にある一里塚、江戸から、一里ごとにつげられた目印で、旅人にとっては距離の目安、馬や駕篭の乗り賃の支払いの目安となり、日差しの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。此処では片側だけ残り巾10m、高さ2mあります。塚の上には松が植えられたいました。
江戸時代に、各務原を治めていた旗本「坪内氏」の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保三年の文書に、この坂を通って十日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。 

 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめたた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。 美濃を通る中山道では、慶長九年(1604)に大湫(おおくて)宿、同十一~十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634)には加納宿、元禄七年(1694)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。また、この間、寛永年間(1624~44)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野(ぜんじの)から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ、うとう峠を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8キロメートル)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ「北塚」・「南塚」が残っています。北塚は直径約10メートル・高さが約2メートルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。かって各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。一塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。各務原市教育委員会

cosmophantom