街道ウォーク<旧中山道<御嵩宿~鵜沼宿
2013年3月9日 17回目
うとう一里塚
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江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政五年六月)・「中仙道分間延絵図」(なかせんどうぶんかんのせえず)(寛政十二年七月~文化三年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とか「うとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。「うとう坂」にある一里塚、江戸から、一里ごとにつげられた目印で、旅人にとっては距離の目安、馬や駕篭の乗り賃の支払いの目安となり、日差しの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。此処では片側だけ残り巾10m、高さ2mあります。塚の上には松が植えられたいました。
江戸時代に、各務原を治めていた旗本「坪内氏」の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保三年の文書に、この坂を通って十日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。
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慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめたた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。 美濃を通る中山道では、慶長九年(1604)に大湫(おおくて)宿、同十一~十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634)には加納宿、元禄七年(1694)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。また、この間、寛永年間(1624~44)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野(ぜんじの)から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ、うとう峠を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8キロメートル)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ「北塚」・「南塚」が残っています。北塚は直径約10メートル・高さが約2メートルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。かって各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。一塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。各務原市教育委員会
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