街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
柏原の様子5
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街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
柏原の様子5
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2013年6月7日 20回目
やいとうどん
確かにお灸に見える!もぐさの部分は「とろろ昆布」、火の部分は「紅しょうが」 湯気は煙。。。。
柏原宿 喫茶 柏(米原市柏原2101) にて
☆cosmophantom
2013年6月7日 滋賀県
伊吹堂
滋賀県米原市柏原
伊吹堂亀屋佐京商店 - 創業寛文元年。伊吹もぐさの老舗。もぐさとはお灸のことで、「灸」は「やいと」とも言う。
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2013年6月7日 20回目
伊吹堂
滋賀県米原市柏原
伊吹堂亀屋佐京商店 - 創業寛文元年。伊吹もぐさの老舗。もぐさとはお灸のことで、「灸」は「やいと」とも言う。
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2013年6月7日 20回目
柏原の様子4
▲柏原宿本陣、南部家「風雅の道」▼
▲柏原宿本陣跡▼
本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣を合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されてと云われる。明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。その後建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。
▲高札場(札の辻)跡▼
高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。高札場は、道沿いの長さ4.8m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。なお柏原宿には、出町(小字)長沢にも小さい高札場があった。
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2013年6月7日 20回目
柏原の様子3
▲柏原宿脇本陣跡
脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通じて勤めた。間口はこの家と隣の郵便局を合せた広さで、屋敷は二百三十八坪、建坪は七十三坪あった。当家は問屋役を兼務していた。
▲旅籠屋跡
天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。
同じ年の宿内職業記録には、
もぐさ屋 九軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)
造り酒屋 三 請負酒屋 十
炭売茶屋 十二 豆腐屋 九
(煮売屋) 他商人 二十八
大工 十 鍛冶屋 一
諸職人 十三 医師 一
とある
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2013年6月7日 20回目
柏原の様子2
▲屋号札を掲げた民家
▲東の荷蔵跡
運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿西部にもあった。
▲問屋場跡
問屋とは、街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。公用の旅人・荷物と幕府ご用状の、両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行った。宿屋の斡旋も仕事。柏原宿では、江戸後期には六軒の問屋が、東西三軒づつに分かれ、自宅で十日交代で勤めた。中山道の人足・役馬は、五十人五十疋が義務づけられ、下役に帳付・馬指・人足指が居た。村年寄りが問屋役を補佐した。人足・馬を出し、問屋業務を助けた助郷村は、当初近隣十六ヶ村。彦根藩村々の離脱から、五十一ヶ村かつ遠方が多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。
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2013年6月7日 20回目
柏原駅
滋賀県米原市柏原
滋賀県米原市柏原にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。滋賀県の駅では最東端に位置する。 ◄関ヶ原 (7.1km) (4.3km) 近江長岡►
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2013年6月7日 20回目
柏原の様子
▲ベンガラの家
▲東見付跡▼
柏原宿東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。見付とは、本来城門のことで宿場用語になった。見付は宿場西口にもあった。東口の土手は、古図に幅二間奥行二間半、土手上面に灌木が描かれている。宿東西の見付は、貴人の当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。
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2013年6月7日 20回目
照手姫笠掛地蔵
中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。昔、常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも、餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ、狂女のようになり、懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫助重は全快したことから、再びこの地に来り、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀った。
▲右側が照手姫笠掛地蔵
背の高い地蔵の由来
照手姫笠掛地蔵の本来の祭祀場所が余りにも人家から遠すぎたため、何かと街の中へと願ったが仲々安住の地が見つからず、各所を転々とした後、昭和の始めころ現在地に定着されることになった。 その時地蔵は一体であったが、御覧の立派な背の高い地蔵が一古老から奉納され、笠掛地蔵とともに一堂に合祀されることとなった。この地蔵はみんなの安産を願って「安産地蔵」として寄進されたとも聞く。やさしい顔・立姿の美しい地蔵は庶民に好感をもって迎えられ今日に至っている。そしてこの地蔵は、小さい照手姫の笠掛地蔵を見おろすこともなく、むしろ引立役をなしている。
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2013年6月7日 20回目
柏原宿入口付近
▲中山道柏原宿と刻まれている
▲石碑に掲げられている柏原宿の地図
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2013年6月7日 20回目
柏原までの旧道の様子
▲左 柏原宿 右長久寺
▲長比城跡登り口
▲この道の先に長比城跡があると思われる。旧道からそれるので、パス。
▲東山道入口▼
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2013年6月7日 20回目
楓並木
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2013年6月7日 20回目
長久寺の様子
▲柏原宿2.3km 今須宿0.3km
ここは長久寺です
江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ
啼よむし 寝もの語りの 栞りとも 化月坊 (芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)
長久寺村
古昔此の辺りに、両国山長久寺といふ寺ありし故、今村の名となれり、近江美濃両国の境なり家数二十五軒あり、五軒は美濃の国地、二十軒は近江の国地なり。壁一重を隔て近江美濃両国の者寝ながら物語をすといふ事。畢竟(ひっきょう)相近きの謂なり、両国の境には僅かに小溝一つを距(へだ)つ。五軒の家は美濃なまりの詞(ことば)を用ひ、専ら金を違うて銀を通用せず、二十軒は近江詞にして銀を通用す。 享保十九年(1734)『近江與地志略』
▲ベンガラの家
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2013年6月7日 20回目
寝物語の里 滋賀県米原市長久寺
近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。 寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。
ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに 太田道潅
平成四年一月 滋賀県米原市
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