広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

回数券販売所 他

2016-11-01 23:56:38 | 秋田市営バス
バスの話題の続きなど。市営バスカテゴリーに設定していますが、市営バス関連の話題は、後半にて。

創業100周年記念「謝恩運賃 100円デイズ」で、ほぼ全路線が2日間100円均一になった羽後交通。
せっかくなので、1度だけ乗らせてもらった。乗ったのは、23日日曜日午後早い時間の、県立体育館前発秋田駅西口経由本荘行き急行。
車両は大型バス。座席が少なめの路線仕様。秋田駅より後のバス停で乗ったのだけど、座席は全部埋まって、通路に5~6人くらい立っていた。こんなに乗っている急行・秋田本荘線なんて見たことない!(実際には、悪天候で羽越本線が運休した時などはもっと混みそう)

日曜日だし、若者が多いかと思ったが、年齢層は高め。2人以上で連れ立って乗って、買い物した袋を持っている人が多いように感じた。長崎屋バスターミナルからも、同じような人たちが数人乗ってきた。
新屋より手前に住む高齢者なら、秋田市コインバス事業で100円で中央交通に乗れるから、このバスに乗る必要はない。おそらく、新屋より先、下浜、由利本荘市岩城、本荘市街まで帰る人たちだと思われる。
僕はすぐに降りたけれど、立ったまま岩城や本荘市街まで行った人もいたかもしれない。おつかれさまでした。
翌24日に見かけた限りでは、日曜よりは少ないものの、通路に立つ人もいて、やはり盛況。あのくらい乗っていれば、モトが取れないにしても、それなりの収入にはなったかもね。

羽後交通の車内には、整理券と対照する機械じかけの運賃表示器(液晶、LED、昔は行灯式の幕)はなく、運転席背後に「三角表」と呼ばれる運賃表が掲出される。
今回は、それを覆う形で100円均一の告知があった。子どもは場合によっては100円以下でいいこともあるのだし、僕のような日頃乗らない人が「いつもならいくらなんだろう?」と思った時は、その告知をめくり上げないと運賃を知ることができない。(でもその前に人が座っているから、遠慮してしまう)

運転士さんは、新たに乗った客がいる度に、肉声で100円均一の告知。「現金で100円」と明確に支払い方法に言及していたのはこれだけだった。(掲示物には支払い方法の記載がなく、回数券でも支払えるかと誤解される恐れがあった)


ほかに気づいたこと。
急行本荘線には、中央交通の長崎屋経由大川反車庫行き/発と重なる区間があり、そこでは「山王十字路」バス停を竿燈大通り側と新国道側の2回通る。
中央交通では、どちらでも乗降でき、おそらく車内放送もそれぞれ流れる。
羽後交通本荘線も、どちらにもバス停が設置されているので、やはりどちらでも乗降できるはず。しかし、車内放送は先に通る竿燈大通り側の前に1度流れただけだった。【27日訂正】勘違いしていた。この路線では、秋田駅へ立ち寄って逆戻りする経路であるため、竿燈大通りの山王十字路を1度の運行で2度通る。竿燈大通り側では、本荘発は秋田駅通過後(2度目)、秋田発は秋田駅通過前(最初)に通る時だけ乗降できることになるようだ。たぶん。したがって、どちらの山王十字路でも乗降できるものの、今回乗った区間では、新国道側でしか乗降できなかったようだ。流れた放送は、新国道側の分ということになる。たぶん。

その後は、長崎屋バスターミナルの中に入る。中央交通では「長崎屋バスターミナル」という名称だけど、羽後交通では「長崎屋前」という名称だった。「あの程度のもんでバスターミナルとは呼べない」という、羽後交通の気持ちが反映されているのだろうか。(だとすれば同意します)【12日補足】本荘発秋田行きでは、ターミナル内に入らず、路上のバス停で乗降を扱う。だから、それに逆側もそろえて「~前」ということのようだ。

車内設備。
機械の運賃表示器がない代わりにその位置(車内前方左上)には、3色LEDで次のバス停の名称を表示する装置が設置されていた。大きめの文字で1行表示。
平成初期頃に首都圏の均一運賃の路線バスに設置されていたものと同じだから、この車両の前の所有者が使っていたものを使い回しているのかもしれない。

運転士はどうやって運賃を確認するのかと思っていたら、シフトレバーの下辺りに、リングで束ねた紙(A5サイズ程度のやや厚手の色付き用紙)があった。
紙には、1枚につきバス停名が1つ書いてあって、そこまでの整理券番号ごとの運賃が記載された表。つまり、機械式の運賃表示器と同じ形式。
それを、バス停を通過するごとにめくっているのだった。100円均一の日でも、ちゃんとめくっていた。

羽後交通のバスに乗ったのは、おそらく5年以上ぶり。たまには乗りたい、というかほぼ並行する中央交通新屋線の本数が減る一方の昨今、これからは急行本荘線の利用を増やしていかないといけないことになるかもしれない。
羽後交通を身近に感じるきっかけになった、謝恩運賃だった。
【2019年7月20日追記】その後、何度か羽後交通本荘線に乗っているが、発車時のクラクションについて。本荘営業所の運転士の年配の人(何人なのかは知らない)で、バス停に停車して発車する際に、必ずクラクションを鳴らす人がいる。旅客自動車運送事業運輸規則では「発車の直前に安全の確認ができた場合を除き警音器を吹鳴すること」とされており、昔は鳴らす場合が多かったが、今(20世紀末以降?)は鳴らさないほうが多くなった。バス会社によっては、今も鳴らすよう指示しているかもしれない。羽後交通では人それぞれということになろう。
秋田市営バスでは、移管が始まる頃まで在籍していた年配の運転士の中に鳴らす人が何人かいて、始発点でだけ鳴らすようなこともあった。2005年頃、岩手県内のJRバス東北の高速バスでは、若い運転士が鳴らしていた。現在の秋田中央交通では、秋田市内では恒常的に鳴らす人は皆無ではないだろうか。(以上追記)


秋田魁新報では、謝恩運賃の記事の後にも、県南地域面で、100年を振り返る3回の連載や、記念式典の報道が掲載された。
連載には、鉄道路線があった当時のことや、バス関連では
・豪雪地帯であるためかつては冬期間はずっと運休していた路線が多くあり、その対策として自前で道路を除雪したこと。
・乗務員とガイドが研修し、貸切バスを連ねて、首都圏方面まで中学校の修学旅行を請け負ったこと。
などが興味深かった。

昔は、雪国でも道路除雪がほとんどされなかったようで、秋田市でも秋田市交通局が自前で除雪していたそうだ。それは、公営バス事業者だからできたことだと思っていたが、羽後交通もやっていたのか。
学校から目的地まですべてバスを使った修学旅行は、秋田市立の小学校では1980年前後までは行われていたようだ。それだと長い遠足みたいなもんで、鉄道に乗るような今までにない経験をするのが修学旅行のようにも思うけど、そういうもんか。

記念式典では、バス待合所の清掃などをしてくれている、沿線の個人や団体への表彰が行われたとのこと。
【2日追記】2日付地域面のコラム「地方点描」でも取り上げられた。写真と作文のコンクールも行われたそうで、作文では「メロディーバス」での通学、昭和40年代後半のフェリーでの北海道修学旅行、東日本大震災直後の高速バス運転士とのやり取りなどが入賞したとのこと。

さて、中央交通100周年では、どんなことになるでしょうか。



ここから、市営バス関連。
前回、秋田中央交通の「一日乗りほうだい券」のことも取り上げた。
コメントで、売っている場所が少ないというお話になった。個人的には、どこでなにを売っているのかの情報からして、市営バス時代と比べて分かりづらくなって不親切に感じている。

その後、公式ホームページを見ると、いちおう掲載されていた。メニューの「路線バス」>「営業案内」という分かりにくい場所。
その「券発売所」によれば、五城目営業所でも乗りほうだい券が発売されていた。今回の実証実験とは無関係にいつも売っているのだろうか? 男鹿営業所では扱っていないのは、まあ当然。

ホームページ掲載の「券発売所」は、自社の営業所・案内所のみで、定期券と高速バス乗車券の扱いについてのみ。回数券がどこで買えるかは掲載されていない。
市営バス時代は、委託した市中のお店などあちこちで購入できたはずだが、それらが今どうなっているのか、知ることができない。セット回数券はバスの車内でも買えるので、それでいいといえばいいのですが。

ここで、以前も取り上げた、1988年の市営バスの冊子時刻表。

その中に、回数券発売所の一覧があった。これとは別に、各営業所や木内など定期券発売所でも回数券を売っていたし、もしかしたら別に中央交通側で委託した販売所もあったのかもしれない。当時から、車内でも販売していた。

まず、公民館や地域センター、さらに秋田市文化会館など、秋田市役所の出先機関の多くで売られていたことに驚く。
地域に密着した市の施設で販売して、市民の足である市営バスをお得に利用してほしいという気持ちなのだろう。現金の扱いや在庫管理・補充などは大変そう。【2日追記】委託先には手数料を支払っていたかと思われるが、秋田市の施設に委託すれば、それが不要だとか、必要だとしても結局は市の収入になるので、金銭的負担が少なく済んだのかも。
「ダイエー(大町)」とは、正確には秋田ニューシティのサービスカウンターということでしょう。
「升屋(大町)」とは、仏壇の升谷(広告)ではなく、交通公社前バス停の前(今の大和ハウスの場所)にあった、呉服店。乗車客が多い主要バス停の真ん前だけに、呉服店には似つかわしくないけれど扱っていたのか。
「ミッキーマート(御野場)」はまったく知らなかった。御所野【4日訂正】御野場五丁目にある個人商店のようだ。


新たに、10年後・1998年10月1日現在の「市営バス乗車券発売所および取扱券種一覧表」も発見。パソコンで作ってオフィス用印刷機で印刷したようなもの。大判時刻表といっしょに配布されたのだろうか。

販売所ごとに、3000円のセット回数券やこども用のりほうだい券を含む券種別の扱いの有無、営業時間・定休日についてもまとめられていて、親切。販売所が堅苦しい正式名称で掲載されたり、左端に振られた番号がメチャクチャだったりするのはご愛嬌。

「この他にもあります」ともあるが、掲載分だけでも1988年よりも増えている。
駅ビルトピコ、御所野の中央シルバーエリア、ジャスコ御所野店など新しくできた施設。そして「サークル・ケイ(市内15店舗)」。
サークルKでは、定期券類と単券回数券(同じ金額の券片だけの11枚綴り)を扱わないだけで、子ども用などは扱っており、回数券発売所としては本格的だったようだ。


市営バスがなくなった今、回数券はどこで買えるのだろう。
トピコのサービスカウンターでは売っている。いただいたコメントではファミマで扱っている店舗があるとのことだったが…
今さら秋田市の各出先機関では買えなさそう。升屋は、現在は川反に入ったところに移転したけれど、そこでは?
ニューシティ閉鎖後は、向かいの秋田観光コンベンション協会のオフィスで売るようになったそうだけど、今も?
【2日追記】風前の灯のサークルKでは?

先日、イオン土崎港店のサービスカウンターに用事があった。
何気なく、ショーケースを見ると、色あせていたけど中央交通のセット回数券の見本が飾ってあった。ということで、
買えた!
(少なとも)1988年からジャスコ土崎港店で取り扱っているのが、今も脈々と受け継がれていた。セット券以外の取扱券種は不明(1998年当時はフルラインナップだったけど)。


秋田市役所内にあって回数券も売っていた「バスコーナー」は、新庁舎には引き継がれず廃止された。だったら、市役所内に新しくできたローソンで発売したらどうだろう。【3日追記】コメントによれば、市役所のローソンで、セット回数券のみだが売っているとのこと。
弘南バスでは、弘前大学生協や弘前学院大学(のどこ?)で回数券を売っていることがホームページに掲載されている。それにならって、秋田大学(附属病院売店では売っている?)や美術大学で売ったらどうだろう。
バスを利用する人が、少しでも利用しやすいよう、できることはまだまだあるはず。
【2日追記】他のバス会社と比べると、市営バス時代は販売所がとても多かったと思う。委託料も発生するし、今は高齢者は現金100円で乗れるので回数券の需要が減ったとも考えられ、あちこちで売る必要性は低いのかもしれない。(でも需要はあるのだし、売っているのならそのことを告知するべき)
【2日さらに追記】青森市営バスや八戸市営バスでは、委託販売所がかつての秋田市営バス並みかそれ以上に多数あり、ホームページで公開している。両事業者とも、個人商店や複数のコンビニチェーンで売るほか、青森市ではスーパーでも扱っている。

2022年にICカードAkiCAが導入され、紙の回数券は発売終了。委託販売所も役目を終えることになるはず。

市営バス関連はここまで。



秋田魁新報の別刷り女性向け情報紙「マリ・マリ」。
以前はJR駅の女性助役が掲載されたが、10月28日付vol.380では、中央交通臨海営業所の女性運転士が取り上げられた。
写真では、中型バスであるいすゞエルガミオの「819」が写っているのに、文中では「大型バス」となっているのは、とりあえずいいことにしましょう。

この方は、路線バスを運転して1年7か月。
高卒後、中央交通のバスガイドを5年して退社。37歳で大型2種免許を取得して、「別会社でプール送迎マイクロバスの運転、ジャンボタクシーの運転など10年勤務してから転じた」とのこと。
「別会社」というのは、中央交通系列の秋田中央トランスポートのこと? それともまったくの別会社ってこと?
バスガイド時代の上司の後押しもあり、亡くなった前社長も「おかえり」と声を掛けてくれたとのこと。
この辺は、「サタナビっ!」でやっていた羽後交通の女性運転士(こちらはガイドから間を置かずすぐ転身?)と似ている。


臨海営業所について。
「臨海営業所は、秋田駅から秋田市北部、五城目町までの124路線をバス75台、運転手97人で運行している」
→「秋田駅から秋田市北部、五城目町まで」だと、新屋方面など秋田市南部が含まれないが、そちらも臨海管轄ですよ。
2011年時点では、秋田市内を走る(秋田営業所と臨海営業所)中央交通の路線バスは181台だった。その後、少し減ったと思われるが、そんなもんか。

「(運転士の乗務は)3カ月で124路線を一巡します。」
→「124路線」とは、“路線”を経由や行き先違いで区分した124“系統”という意味かな。それはすなわち、系統番号の数と一致するはず。ところが、数えてみると、秋田市内には全部(秋田営業所+臨海営業所)で118系統前後しかないはず(当然路線数はもっと少ない)。おかしい。
往復で2系統とカウントしたのだろうか。とすれば、秋田営業所と二分してちょうど良さそうな数だけど…
→「3か月で一巡」だと、毎日きれいに順々にローテーションしているように受け取れるけど、そうなんだろうか。偏りというか、ローテーションが崩れることもありそう。

「遅番は午後3時50分のバスに乗車して、最終で営業所に着くのが午後11時10分。」
→最終は秋田駅西口22時20分発新国道経由飯島北行きか。飯島北着が22時52分。
ちなみに早朝は、臨海営業所発駅行き5時45分が、現在の中央交通では唯一の5時台に営業運転するバスのようだ。秋田営業所も含めて、郊外へ向かう回送では、同じ時間帯から何台も動いているでしょう。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駅東線の記録

2016-10-12 00:23:29 | 秋田市営バス
秋田市内を走る秋田中央交通のバス路線のいくつかが、2016年9月で廃止もしくは経路変更された。※この記事この記事参照
いずれの路線も運行時間帯や本数は限られたもので、大勢に影響はないとも言えるが、いずれも元は秋田市営バスが運行していた路線であったので、市営バスの面影がまた消えたとも言えよう。
廃止路線のいくつかを、記録しておくことにする。

今回は、駅東線。以前も取り上げており、「えきひがし線」ではなく「えきとう線」であるらしかった。
秋田駅東口と大学病院、さらにその東隣にある境田団地の境田上丁の間を小型バスで運行。
廃止時点では、平日のみ3往復と、ほかに朝に大学病院始発で秋田駅を経由せず、明田地下道・南大通り・県庁を経由して、大川反車庫へ行く片道1便が運行されていた。

この一帯のバス路線は、経路の変更等が繰り返されていて、歴史はよく分からないが、昔の「広報あきた」等でざっと調べた限りでは、
・1970年代前半の時点で秋田駅西口発着の「広面線」という市営バス路線が存在。1972年冬に山崎南団地まで延長されている。(それまではどこ止まりだったのかは不明)小型バス導入前なので、大型バスなどで運行されていたはずだから、まったく別ルートだった可能性が高い。
・1975年に市営バスが初めて小型バスを導入したが、その段階では駅東線には使われていない。つまり路線がまだできていない可能性がある。
・1979年では、小型バスによる「広面線」が、西口-広小路-南大通り-明田踏切(現・地下道)-東通-広面-山崎南団地という経路(西側がずいぶん遠回りだ)で運行されている。これも微妙に違いそう。
確実なのは、
・1988年に秋田駅に東口が開設(自由通路Weロード)され、バス乗り場も設けられ、東口-大学病院の「駅東線」が登場。毎時2本、1日33往復もあった。
・2003年春。市営バスから中央交通へ路線移管。この時点では毎時1本程度。
・2014年11月。大幅減便。土日は全休に。
少なくとも28年の歴史がありそう。【末尾の追記も参照。1980年に駅東線の運行が始まっているが、この記事の駅東線とは微妙に重なっているが、大きく違う点もあった。】

ルートは、秋田駅東口を出て2つ目の交差点で左折し北方向へ進んで、間もなく右折。狭い道を1.5キロほど東へ直進。突き当りを左折して北へ進めば、大学病院。大学病院に立ち寄った後、東進して境田団地に入り、北進して終点。(境田団地内の状況はよく知りません)
全バス停を記しておく。下線部分がこの路線単独のバス停であり、それらが今回廃止された。※地図はこの記事最後にあります。
秋田駅東口-手形東町-手形西谷地-北光寮前-手形十七流-広面屋敷田-広面家ノ下-広面大巻-広面谷地田-南団地-山崎団地前-谷内佐渡-大学病院前-境田下丁-境田上丁【15日訂正・「谷内佐渡」を抜かしていたので追加しました】

では、路線を少したどってみる。※撮影は廃止前ですが、車両の写真はありません。
上り側手形東町バス停。奥右方が秋田駅東口。タワー状のものはNHK
サンクス秋田手形店(いずれはファミマに転換か?)のところに、最初のバス停「手形東町」がある。
「手形東町」という地名は存在しないが、この付近の町内会の名前のようだ。バス停のローマ字によれば「てがたひがし“まち”」。
この北方400メートルほどの手形陸橋の通り(県道28号線)にも、同名のバス停がある。そちらは赤沼線や太平線などが停まるので、今回の廃止とは無関係。
ちなみに、県道側で手形東町の隣のバス停は「若葉町」だが、これも町内会名が由来らしい。名前が思いつかなくて、苦労して命名したのかな。

赤沼【12日訂正】駅東線用手形東町のポールは市営バスタイプの円形表示板のダルマ形だったが、バス停名の文字が縦長の丸ゴシックなので、移管間もない頃に中央交通が設置したものと思われる。上り側もおそらく同じ。※バス停板面はこの記事参照
ちなみに、県道側の手形東町は2事業者共用タイプの四角い表示板のダルマ形で、ローマ字なし。

秋田駅を出てすぐだけど、さっそく手形東町で運賃(整理券番号)が変わる。
駅から乗った場合は次の区間も引き続き初乗り運賃が継続されるが、大学病院方面から乗った場合は、駅まで行くよりもたしか10円安い。
また、朝の県庁方面行きは、手形東町通過後、秋田駅東口をすぐ右に見て素通りし、次は「東大通り」。東口行きは9時過ぎまでないのだから、県庁方面行きが東口に立ち寄っても良かったのではないかな。時間は大してかからなかったし。今さらだけど。

さて、東口からここまでは、歩道と中央分離帯付きの広い道路。ここ数年で、手形山崎交差点まで開通して、東口から秋田大学方面へスムーズな通行ができるようになったが、昔は歩道もない狭い道だったはず。

秋田駅から来たバスは、手形東町通過後、すぐに右折する。
上の写真と逆方向。奥が秋田大学方向
上の写真左奥に青い道案内の標識が写っているが、それより手前(中央分離帯が途切れた所)の小さな道へ入る。
こんなところからこんなところへバスが出入りするのかと驚くけれど、昔は曲がる前の道も同じようなものだったはず。

以降、歩道もセンターラインもない対面通行の道を東へ進む。ここは小型バスじゃないと厳しそう。
(順が前後しますが)手形十七流
この先、「広面谷地田」バス停までの1.3キロほどの間に信号機付き交差点は1つ、ほかに常時点滅の信号機付き交差点がたしか2つあって、バス路線側が黄色点滅。一方で、信号のない交差点では、バス路線側が「止まれ」の箇所もある。
沿道は住宅街。新しい家やかつて(今も?)農家だったような大きな家もあるにはあるが、築30~40年と思しき民家やアパートが多い。最近はそれらが解体されたような空き地もある。
必然的に、民家の玄関前にバス停があるような状態。
この道のバス停は、ほぼすべてが市営バス末期に設置(あるいは表示面の更新)されたと思われる、バス停名が細い丸ゴシック体でローマ字併記の透明シールを貼り付けたタイプ。このタイプがまとまって存在するのは珍しいかも。
棒や表示板面はかなり錆びているものの、表示部分は意外にもしっかり判読できるものが大部分。

「手形西谷地」の次は、
 「北光寮前」
上り側は例によって透明シール。下り側は違うタイプで、やや太くやや扁平なカットシールの文字。これも市営バス時代の設置ではあるが、別に用立てられたようだ。色あせ具合が違うほか、ローマ字が透明シールは「HOKKOURYOUMAE」、カットシールは「HOKKO RYO MAE」。

「北光寮」とは、秋田大学の学生寮。
上の写真で更地になっている部分に、以前は建物があった。現在は、東隣の交差点角に、高層の新しい寮ができている。
調べたら、2010年に新しくなったそうで、今は「北光寮」ではなく「西谷地寮」という名称だそう。バス停名が古いままだったことになる。
ちなみに、北光寮時代は工学資源学部(旧・鉱山学部)学生限定だったのが、今は全学部の学生が入居できるとのこと(ただし男子寮)。

信号機付き交差点を越えて手形変電所を過ぎると、
「手形十七流」上り側
「てがたじゅうしちながれ」という、変わった響きのバス停。
所在地の「手形字十七流」に由来する。大字の「手形」も由来には諸説あるそうだが、小字の「十七流」がことさら不思議。
秋田市立東小学校ホームページ「地名の由来」によれば、明治頃に(秋田駅前にあった、旧陸軍)歩兵第17連隊を除隊した人たちが流れて移り住んだという説や、水の流れや川が17か所あった説があるものの、根拠はなく分からないようだ。


そろそろ、大字が「手形」から「広面(ひろおもて)」に変わる。この道路が両大字の境界になる区間もある。
「広面屋敷田」
ローマ字では「HIROOMOTEYASIKIDEN」、すなわち「~やしきでん」。
ところが、地名としての小字「屋敷田」は「やしきだ」と読むようだ。(上記東小ホームページと秋田市生活総務課ホームページ「秋田市地名小辞典」より)

秋田市では、外旭川八幡田や手形の搦田のように、「○○田」を「~でん」と読む地名がいくつか見られる。一方で、「~た/だ」ももちろんある。
かつての秋田市交通局では、この確認が甘かったらしく、手形の扇田(おうぎだ)を「OGIDEN(おうぎでん)」としてしまっていたが、屋敷田も同じケース。【12日補足・ただし扇田では、地元の人たちは「おうぎでん」と呼んでいるとのコメントもいただいていた。生活総務課か交通局か、どちらかが間違っているか、2通りの呼び名が存在するということなのかもしれない。屋敷田については地元でどう呼ぶのかは不明】

上の写真の上り側の表示板では、左右に穴が1つずつ開いている。下の棒で留めているネジ穴の下にも別に1つある。
また、下段の赤い部分の塗装が取れて、下の層に市営バスの表示板の上段に使われていた緑色が見えている。
塗り替えた時に、回転してしまったのかもしれないが、穴がたくさんある理由にはならない。多くの経歴を持つ表示板なのだろう。

広面屋敷田で運賃・整理券が変わる。東口から乗った場合、広面屋敷田までが初乗り運賃だったはず。
道路両側とも広面地区になって、
「広面家ノ下」上り側
広面家ノ下の上り側もまた奇妙。
ポールの枠に時刻表がきちんと掲出されているのに、その隣の電柱にも、まったく同一の時刻表(改正日が同じ)が掲出されている。なぜ?
電柱のほうは、針金やビニールひもを使って巻きつけられている。
推測だけど、最初は普通に枠のみに掲出→枠の時刻表が風で飛んでバス会社側が新たに掲出→その後、飛ばされた時刻表が近隣の人によって発見され、捨てるのも忍びないと電柱に巻きつけた。といった経緯だろうか。(だとしても、廃止の告知を貼りに来た時に気づいてなんとかしても良さそうなもんだけど…)

「広面大巻」で運賃が変わって、
「広面谷地田」上り側
これは「やちた」。地名小辞典によればこれで正解。
上り側では、時刻表の枠がひもで十字に縛られている。
枠はサビサビで浮き上がっている。このままでは時刻表が外れてしまうと、近隣の人が見るに見かねて、縛ったのだろうか。

東進する区間のバス停は広面谷地田が最後。
すぐに、久々の信号機があって、
広い道路を越える ※横向きの車は、道路外の民地に駐車している。標識より右がバス路線の道路
横金(よこかな。横山金足線)こと県道41号線を横断。
この交差点の積雪時に停止線の位置を知らせる標識が、縦書きの「停止位置」の古いタイプ
交差点の先も引き続き狭い道が続くものの、バス停はない。突き当たって左折すれば、そこは赤沼線の経路。合流してあとは一直線で大学病院方向へ向かう。
運賃は、南団地と大学病院で変わる。

手形西谷地から広面谷地田まで、約1000メートルの間に7つのバス停があったから、平均して150メートル弱の間隔。実際に、200メートルと離れていない位置に隣のバス停がある。
ところが、広面谷地田の次のバス停は、突き当たって左折した「南団地」で、300メートルほど離れている。横金線開通前からバス停は変わっていないようだが(位置は動いたのかも?)、偏っている。

それから、この区間で地名を使ったバス停は、すべて「手形~」「広面~」と大字が頭に付いているのが特徴的。
秋田では、「(新屋)豊町」「(川元)むつみ町」「(保戸野)桜町」「(外旭川)神田」「(手形)からみでん」といった具合に、大字(に相当する地名)を略すバス停が少なくない【14日追記・もしくは表示板やホームページで“表記ゆれ”があって、大字の有無が不統一=むつみ町など】のに、駅東線は律儀。命名当時の交通局の気まぐれでしょうけど。
【15日追記】終点の「境田」は、所在地名「柳田字境田(やなぎだ あざさかいだ)」が由来。


駅東線の廃止代替は、既存の赤沼線。
東口-碇入口-南団地-大学病院-赤沼入口-手形山崎-西口-車庫の経路。
上記の通り、南北方向の南団地~大学病院は同一ルート。東西方向の区間では駅東線の南300メートル(東口~碇入口)と北350メートル(手形陸橋の通り)ほどの位置を並行する。
東口~大学病院は、赤沼線でも駅東線でも、運賃は同額(廃止時220円。西口よりも30円安い)で、所要時間もほぼ同じだったはず。
地理院地図に加筆
↑赤い線が駅東線、青い線が赤沼線。●はバス停で、赤丸が駅東線専用で今回廃止。【12日訂正】大学病院の1つ下の青丸は「谷内佐渡」停留所ですが、位置を間違えてマークしていました。もう1ブロック下が正当です。

東口を出た赤沼線が走るのは、東口からまっすぐの広い道路。秋田中央道路地下トンネルの上-トンネル出入口-城東十字路-中央インターへ至る、市道~県道62号線。
今の感覚ならば、この広い道路があるのに、駅東線はどうしてわざわざ狭い道を走っていたのかと思うかもしれない。
しかし、広い道路が開通したのは、1998年頃。(当時は「中央線」と呼ばれていた)
それまでは、北側の手形陸橋の通りか、ずっと南の明田地下道の通りしか、東西方向の大きな道路は存在しなかった。
駅東線の運行開始当時は、(近隣の住民の足となるには)あの狭い道路を走るしかなかったのである。
(再掲)アルヴェ14階から東方向。右奥が中央IC方向。他の道はどれも狭い
広い道ができたから、単純に赤沼線へ振り替えてしまってよかったのかとなると、疑問。
以前も述べたように、赤沼線のルートにはバス停が少ない上、広い道を信号のある交差点まで回って向かい側へ渡らないとバス停と行き来できなくなるケースもあり、ほとんどの駅東線沿線住民にとっては、バス停がかなり遠くなってしまうはずだから。

駅東線の手形西谷地~広面谷地田まで7つのバス停がある区間において、その南側を並行する赤沼線ルートでは、東通一丁目、東通二丁目、城東中学校入口(旧・東営業所入口)、碇入口の4つしかない。
三吉神社・赤沼入口の北側ルートでは少し多いものの、道路までの距離がややある。

こまめにバス停があり、その取れそうな時刻表がヒモで縛るなどされていたのは、駅東線が地域に密着した路線で、沿線住民から親しまれていたことの現れではないだろうか。駅東線沿線のみなさんが廃止に納得しているのならば、よそ者が口を出す余地はないのだろうけど、赤沼線のバス停を増設するとか、もう少し救済措置があってもいいようにも思える。

それから、告知はされていないが、廃止された境田下丁と境田上丁の代替として、太平線(岩見三内行き)の柳田入口と柳田下丁が使えそう。
ただし、西口発着だから運賃は高くなるし、大学病院にも立ち寄るから大学病院で降りて歩いても大して違わなさそうではある。


さて、赤沼線【12日訂正】駅東線の廃止により、小型バスが秋田駅東口に出入りすることはなくなると思っていた。
ところが、10月以降も東口に小型バスが待機していることがある。待機場所として使っているだけなんだろうか?

別の廃止路線について、また後日。次の記事は泉山王環状線の記録

【10月17日追記】歴史について。
秋田市交通局の庁舎・中央営業所が保戸野鉄砲町から寺内(臨海)へ移転した1980年7月13日から「駅東線」の運行が始まっていた。今回廃止された駅東線と重なるルートもあるが、異なる点もある。
秋田駅前(西口。当時は東口はなかった)-(明田地下道)-東通仲町-長沼東町-東営業所入口-東通十字路-手形西谷地-秋大北光寮前-手形変電所前
というもの。
長沼東町~東通十字路というのはよく分からないが、東小学校のほうまで遠回りしていたのかもしれない。手形西谷地以降は、廃止された駅東線と重なる。変電所前というバス停があって、それが起終点なのは意外。毎時ほぼ1本運行。
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう10年

2016-03-31 00:04:24 | 秋田市営バス
10年前の2006年3月31日をもって、秋田市交通局(秋田市営バス)がなくなった。
あれからもう10年。
個人的には「まだ10年」とは思わない。※5年前の記事によれば、当時は「まだ5年」だと感じていたみたいです。我ながらいい加減。
どちらにしても、僕も、多くの秋田市民も、緑色のバスだけが街を走る光景に、すっかりなじんでしまった。
秋田市営バスのことなんて、多くが忘れてしまったのだろうか。マスコミも廃止後10年間を検証する特集などやってもよさそうなのにやらないし…
【3日追記】秋田魁新報「情報ひろば」面には、過去のその日に起こった出来事を列挙する「内外の歴史」欄があるが、3月31日にこのことは掲載されず。1973年の「私鉄雄勝線」の廃止(羽後交通のことだが、なぜか記載なし)や2001年のJR男鹿線の貨物列車廃止はあったのに。

いろいろ思うところはあるけれど、それは以前から何度も書いているので、今回は、10年前の思い出だけアップします。
カメラの性能や夜間撮影のため、見苦しいのでご容赦ください。


秋田市営バス最終年度となった2005年度は、既に段階的移管が進んでいたこともあり、とてもこぢんまりとした体制だった。(内部では引き継ぎや後始末がいろいろあったのでしょう)

運転士14名に車両11台。(他にも整備や事務職員もいたことだろう)
車両は、いずれも路線用の中型バスでオートマチックトランスミッション車。内訳は、121、123号車(日野製、1994年度導入の一部)、130~133号車(三菱、1995)、134~138号車(日産ディーゼル、1996)。

路線は、県立プール線(県庁・交通局前経由、一部は県立スケート場経由)、泉秋操線(現在の泉ハイタウン線。通町・千代田町経由)、県庁経由交通局線(現在の臨海営業所線)の3路線。

泉秋操線は、8~19時台に、平日・休日(土日祝)とも片道18~20本。
県立プール線は、8~20時台に平日は片道15本程度、休日は20本程度。休日のほうが運行本数が多いのは、プールやスケート場への足を担っていたからだと思われる。
交通局線は、それらの入出庫を兼ねたもので、1日10本前後運行。この年は、既に中央交通の臨海営業所が交通局と共存する形で開設されていた。混乱を避けるためか、中央交通臨海営業所所属のバスが車庫へ戻る時も臨海営業所行きではなく「交通局行き」と案内され、「中央交通なのに交通局行き」という移管を象徴するようなバスも運行されていた。

この程度のダイヤだから、運転士は分からないが、車両にはかなり余裕があったはず。
おそらく平日は5台・5人でまかなえ、休日のほうが多く必要だったのではないだろうか。


2006年は、年明けに大雪となり、秋田市の道路網が打撃を受けた。そんな中でも、市営バスは中央部の幹線道路を中心としたわずかな運行だったので、影響は少なかったようだ。
雪も融けた3月中旬には、感謝を伝えるゼッケン状の「バスマスク」が、車両正面に掲出された。(3月5日には未設置で、12日にはあった)
「長い間ありがとう 市営バス」
31日まで掲出され続けたが、これだと、肝心の秋田市章が隠れてしまい、少々残念にも思った。(マスクの左上に小さい市章はあるけど)

21日は春分の日なので、市営バスでは国旗と市旗を前に掲出する。
通常の棒に旗を付けるやり方だと、バスマスクと重なってしまうが…
こうやった
棒を使わず、バスマスクの紐や穴に旗を付けて、うまく対応していた。これ以前にも、一般の広告のバスマスクを付けた時、一部の運転士がやっていたやり方。
なお、上の写真は号車番号が隠れてしまっているが、131号車。事情により旗竿が取り外しできる車で、この時も外されているようにも見えるけど、マスクの下だろうか?


そして31日。最終便運行後、交通局前で引き継ぎ式が行われて、幕を下ろす流れだった。
ダイヤからすれば、秋田駅西口2番乗り場、20時28分発交通局行きがラストランナー。
記念乗車の客で1台ではさばききれないと判断し、車両を増やして対応することが告知されていた。(引き継ぎ式に来た人が帰れるよう、終了後、交通局発秋田駅行きの特発バスを中央交通が運行したはず)
合わせて5台が投入されたので、おそらくその日営業に入った全車両・運転士を残業させたのだろう。5台には、少なくとも131、132、138号車はあった(日野製はいなかったはず)【3日追記・133号車も】。

138号車は「最後の市営バス」として報道され、その写真入りしおりが配られたとか。
ただし、138号車は残業して応援に入った1台であり、ほんとうの意味(増車でない正規の運用での)のラストランナーは131号車だった。【3日訂正・末尾追記参照】
まあ、138号車は、車両番号がいちばん後で、「最後に導入された市営バス」という意味にはなる。

通常、20時28分に交通局に戻るバスは、次のような運用(交番)であった。【3日補足・最終日のみのイレギュラーな運用だったとのこと。末尾追記参照】
泉秋操線 秋田駅19時15分→泉ハイタウン団地
回送 泉ハイタウン→県立プール
スケート場経由県立プール線 県立プール20時05分→秋田駅
交通局線 秋田駅20時28分→交通局
2006年3月31日にこのように運用されたのが、131号車だった。
泉秋操線、県立プール線とも(上下合わせて)これらが最終便なので、131号車が両路線にとってのラストランナーでもあった。

秋田駅へ見に行った。
分かりにくいですが19時15分発泉秋操線
泉秋操線の市営バス最終便は、遅れていたものの記念乗車組はあまり多そうでなく、全席が埋まるくらいだった。
まったく記憶にないけれど、路面が濡れている。気象データではこの日は「雪後一時曇、あられを伴う」、気温は3度ほど。

ラストランの1つ前に交通局に帰る、秋田駅19時28分発は132号車。これはもっと空いていた。


僕はいったん駅前から離れ、20時28分の最終バスを再び秋田駅で見送ることにした。交通局行き最終便には乗らずに。
時間をつぶしてふらりと交通公社前のバス停に行くと、タイミングよく市営バスが来た。20時05分に県立プールを出た、131号車。
通路にけっこう人が立っているのが見えた(ぎゅうぎゅう詰めではない)が、これが最後の秋田市営バス乗車になるのだから、思い切って乗りこんだ。

多くが記念乗車の人。僕より後にバスに乗った人はいなかった。「『秋田駅行き』市営バス」に最後に乗りこんだ客ということになろう。
秋田駅到着時には、運転士からちょっとしたあいさつもあった。
秋田駅西口乗り場は、他路線の中央交通のバスも入線していてびっしり。だから、当時としては当たり前だった、バースに横付けせずに降車扱い。
上り最後の市営バス
乗客ひとりひとりと運転士が、名残り惜しそうにあいさつを交わし、上り最終便が運行を終えた。

秋田駅乗り場には、マスコミのほか、予想以上に人がいた。5台体制にして正解。
報道によれば、愛好家のほか、バスガイドなども含めた交通局の元職員もけっこういたようだ。
左が乗ってきた131号車。右が交通局へ向かう1台目
交通局へ行く5台には、貸切バスの号車表示の黄色いシール(関連記事)が貼られた。
昭和末期の市営バスの貸切では、残り何台かを知らせるため、数が大きいほうが先頭(1号車が最後尾)だったが、この時は1号車が先頭。
その1号車が138号車(「号車」が重なって分かりにくいですが)だった。
3号車まで整列
2台目は三菱【3日追記・133号車だったとのこと】、3代目は日産ディーゼルのようだ。
我々を下ろした131号車は、ぐるっと回って「4」のシールを貼って4号車になって、交通局へ帰った。

そして、5号車は、
132号車。周りは緑のバスだらけ
積み残しもなく、5台目だと数人が立つ程度で収まったようだ。
ということは、考えようによっては132号車が、正真正銘の最後の市営バスと言えるかもしれない。秋田市営バスとして、最後に旅客営業をしたわけだから。

132号車が出発する前からマスコミはとっとといなくなり(引き継ぎ式の取材があるからね)、132号車が出ると、一般の人たちもほとんどがバスに乗ったようでいなくなり、いつもの夜の秋田駅前になった。

これからも、たまに市営バスの思い出をアップするつもりです。

【3日追記】コメントで、最終日の貴重な情報をいただいた。本文の補足や訂正を。
・交通局行き最終便3台目は133号車。
・131号車が泉ハイタウン→県立プール→駅と運用されたのは、通常とは異なるもの。本来は泉ハイタウンから交通局へ戻って終わり。
・本来の運用ならば、県立プール発最終は132号車の担当。したがって、真のラストランナーは132号車と言える。

※2016年5月に秋田市役所庁舎が新しくなった。その際、市役所内にあった「バスコーナー」が廃止された。これはかつての「市営バスコーナー」を民間移管したもので、交通局の名残の1つであった。この記事末尾参照。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市営バスの整理券

2015-09-16 23:59:24 | 秋田市営バス
運賃が均一でないワンマン交通機関の必需品が「整理券」。乗車する駅や停留所(もしくは運賃境界)ごとに数字などが印字され、それを元に後で精算する。秋田市営バスの整理券の話。

路線バスの整理券は、始発点での扱いは事業者によってまちまち。整理券が出ていなかったり、「1」番から始まったり、往復の復路の始発点では大きい数字から減っていったり。
現在の中央交通は「1」から増えていくが、秋田市営バスでは「0」番から増えていく方式だった。※二ツ屋福島線など末端で環状運行する路線の復路は例外。

たまに「始発から乗るから整理券を取らなくていい」とか「フリー乗車券だから(以下同)」と言う人がいる。客としてはそれでいいかもしれない。
だけど、バス会社側で乗車人数あるいは利用実態の調査のために、後で回収した整理券を調べる場合がある。整理券が1枚足りなければ、1人乗っていなかったことにされて、それが積み重なれば乗客が少ないと判断されて減便されるなど客にとって不利な結果をもたらしてしまうかもしれない。
均一料金の秋田市中心市街地循環バスや高齢者コインバス対象者に整理券を取らせているのも、その目的だから、協力しましょう。

あと「定期券だから(以下同)」と言う人もいたが、これも取らないといけない。
定期券区間の手前から乗車して、その分の追加運賃を支払わずに降りてしまう可能性が否定できない。運転士はいちいち誰がどこから乗ったかなんて覚えていないだろうから、整理券こそが正規の停留所から乗った唯一の証明になるのだ。
と言っても、例えばJRの場合は降車駅で自動改札機を通る時は整理券のチェックのしようがないから、実質的には整理券は不要なのですが…

秋田市営バスの始発バス停発車後の車内放送の冒頭で、「ご乗車の際は、必ず整理券をお取りください。お待たせいたしました。ご乗車ありがとうございます。このバスは○○経由××行きです。…」と言っていたのは、こういう思いが込められていたはず。
この言い回しは、音声合成化されて中央交通にも“移管”されている。
どうせなら、発車後ではなく、(JRのワンマン列車のように)発車前のドアが開いたタイミングで言ったほうが意味があると思うけど…
【2018年6月14日追記】その後、2017年秋頃から、実際に中ドアが開いた時、行き先に続いて「ご乗車の際は~」を放送できるようになったようだ。ただ、乗車客が少なくドアが開く時間が短いと、そこまで言わないで閉まってしまう。



大昔の整理券は、再利用するプラスチックの札だったそうで、秋田市営バスも当初はそれだったようだ。
わりとすぐに紙の券に代わり、長らくインクでスタンプ式に印字していたが、1990年代中頃からは感熱紙のサーマル方式が普及して現在に至る。
記憶と記録にある市営バスの整理券をまとめる。

秋田市営バスに限らず、「昔の整理券」といえばこれをイメージする人が多いかもしれない。
事業者によっては、紙の上下に社紋や社名を入れた専用用紙を使っていたようだが、秋田市営バスでは真っ白い紙。
数字は赤紫~濃いピンク色のインクで両面に印字。
片面にだけ青で「整理券/通用当車限/417 秋田市交通局」とある。青い文字は重要視されていなかったようで、インクが薄くてほとんど読めない場合も多かった。「417」の数字の部分は、車両ごとに違う番号だったはずだが、号車番号とは一致しない。※僕は今回まで「適用当車限」だと思い込んでいた。適用ではなく通用でした。
写真では分かりにくいが、中央部の「通用当車限」とある辺りに端から端まで「|||||||」状に凹凸の帯がある。用紙送りのローラーの跡だろうか。
これは、小田原機器製の整理券発行器のもの。
再掲・札幌市営バス)小田原機器製発行器
1985年度頃から268号車を除く1991年度までに導入された全車両と、1992年度の秋田八丈塗装のワンロマ車4台がこの整理券だった。

別にこういうタイプも。
書体が違う。数字以外の文字はどうだったか不明
インクの色が違って赤が強い感じ。やはり中央部に凹凸の帯があるが、長さや幅、深さが上のものとは異なる模様。
1984年度以前の導入車両がこの整理券だった。発券器のデザイン(大きさは同じくらい)も違って、旧型の整理券なのかと思っていた。
でも、同時期に違う色合いのインクが並行して使われていたように見えること、たしか弘南バスではもっと新しい車両でもこの整理券が使われていたことからすれば、小田原機器ではない別のメーカーの整理券だったのかもしれない。
【2018年8月4日追記】「奈良工業」という企業も整理券発行機を作っており、ネット上の趣味のサイトによれば、インクの色合い・書体や、発行機のデザイン(大型で無塗装のような銀色、横書きの「整理券」「整理券をお取りください」の表示)が、市営バスのこのタイプと同じ感じ。奈良工業がどういう企業かは不明だが、インク式だけで感熱紙式の発行機は作っていなさそう。



以前触れたように、1991年度導入の268号車では、1台だけおそらく試験的に感熱紙タイプが導入。
黒い印字や日付、「バスツアーは市営バスでお出かけ下さい」という宣伝文が印字されるのが目新しかった。
【10月3日追記】268号車の整理券は1993年13月頃には、インク式に交換されてしまっていた(自分で記録していた)。印字が欠ける部分があったり、下記の感熱紙式とはメーカーが違ったのかもしれなくて、扱いにくかったのだろうか。

1992年度の新車から、本格的に感熱紙タイプが導入されていく。既存車のインク式を感熱紙式に交換することはなかった。
【20日追記】以下、感熱紙の整理券は各タイプとも裏表とも同一の印字。
1992年度(上記4台以外)と1993年度導入車(小型車も含む)では、


バーコード付き
1992年度と1993年度で整理券のスタイルは同一だと思っていたが、バーコードの書式が違うようだ。

日付と号車番号とともに、バーコードが印字されたのが画期的だった。バーコードは整理券の番号を示していたと思われる。
同時に、新タイプの運賃箱が導入された。運賃箱は運賃表示器と連動していて、投入されたバーコードを読み取って、運賃額を表示、さらに投入された硬貨をカウント(自動計数)するという、当時としては最新鋭であろうシステム。メーカーは三陽電機製作所(現・レシップ)のはず。

ただし、回数券で支払った場合はカウントできず、中で引っかかることもあり、価格も高かったのだろうか。導入は2年間だけに終わってしまった。
一時期、この装置を搭載した一部の車両を用いて、バスカード(磁気カード)の試験がひっそりと実施されていたが、それも結局実用化せずに終わった。
さらに、これらを全車両に設置すれば、利用実態をほぼ完全に把握でき、ダイヤ設定に活用することも可能であっただろう。


1994年度から最後の1996年度までは、
市営バス最後の日付
大きく「整理券」と印字され、バーコードがない感熱紙に代わった。(今の中央交通のもこれだっけ?
【20日追記】これは小田原機器製だと思われる。現在の中央交通のもこれとほぼ同じ。相違点は、車両番号の表示がなく、「整理券」だけ明朝体であること。

市営バス末期には、中央交通へ譲渡した車両とのやり繰りの関係で、車両間で整理券や運賃箱の付け替えが行われたらしい。その結果、
号車番号が「0000」の整理券
号車番号が表示されない整理券や、1つの車両にバーコードがない整理券とバーコード読み取り機能付き運賃箱が搭載されるというちぐはぐなケースもあった。


さらに、ごく短期間だけ使われた整理券も。
初めてバーコードが付いた1992年度導入の一部車両は、当初は違う整理券だった。
272号車
書体は同じだが、レイアウトが違い、番号が2ケタでバーコードが密だったりといった違いがある。
このタイプは、大量に導入された三菱製中型車のうち、後から導入された4台(272~275号車)がこれだった。
さらに、先に導入された3台(269~271号車)では、また違うバーコードの整理券だった。券面のほとんどがバーコードで、「秋田市交通局」ではなく「秋田市」としか印字するスペースがなかったはず。

さらに、269~271号車では、当初は運賃箱も別のタイプが設置されていた。「両替式運賃箱」と表示された銀色のボディで、おそらく両替しなくても自動的に釣り銭が出てくるタイプ。【10月3日追記】日産ディーゼル製の276~278号車もこのタイプの運賃箱が設置されていたようだ。整理券は??

その後、たしか半年もしないうちに、整理券と運賃箱が替わってしまった。【10月3日追記】半年よりは長かったかもしれないが、長くても1年程度だった。
整理券は設定変更や部品交換で対応できたかもしれない。新しい運賃箱は、上部が水色の「自動両替機付運賃箱」。これが最後まで使われた。
いくらなんでも半年で買い換えないだろう。メーカーと協力して最新式の装置を試験導入したとか、メーカーからお試し用に借りた物だったのだろうか。

大きさを比較
インク式の整理券はやや長かった。技術的な限界だったのかもしれない。感熱紙に慣れないうちは、短くて取りにくく感じたことがあった。【17日追記】感熱紙は表面がツルツルしているのに対し、インク式ではややザラザラした紙であり、ローラー跡の凹凸が滑り止めの役目を果たしていたことも取りやすさの違いだったかもしれない。今は感熱紙にすっかり慣れて大きな問題ではないけれど。
【20日追記】市営バス時代に1度だけ、「インク式の発券機に感熱紙のロールをセットしてしまった」車両に遭遇した。インクが乾きにくそうだけど、機器内部で紙が滑るようなことはなかったようで、手触りがちょっと違うな程度にしか感じなかった。(紙は感熱紙のほうが高いだろうから、交通局としては浪費ではあった)
【10月3日追記】上から3つめの「00」の整理券は、紙サイズが5センチ×2.5センチだったようだ。幅2.5センチは他も同じかな。


秋田市営バス亡き後の秋田のバスでは、感熱紙整理券はバーコードなしが一般化した。
高機能な運賃箱は市営バス以外は採用されず、機能としては昔と同じ運賃箱に戻っているのが実情。費用対効果からして仕方ないだろう。
全国的には、地方都市でも高機能なシステムを採用しているバス会社も多い。
静岡のしずてつジャストラインの小田原機器の整理券
現在の整理券のバーコードは、横に長いタイプが主流で、かつての秋田市営バスのようなものはなさそう。
【21日追記】感熱紙式の整理券発券機が老朽化すると、横方向に印字が薄れる場合がある。プリンタの特定のドットが機能しなくなるとそうなるのだろう。かつての市営バスのような向きのバーコードでそれが発生すると、まったく印字されないバーが出現し、読み取れなくなる可能性がある。それを防ぐために、今は向きが変わったのかもしれない。(上記、最初期の269~271号車のバーコードは今と同じ向きだったはず)

ICカード乗車券が使えれば整理券は不要(乗車バス停がカードに記憶されるので)だが、現金で利用する人もいるから、しばらくは整理券が活躍することだろう。

【10月7日追記】2015年時点の中央交通でも、一部ではインク式整理券がまだ使われていた。
2001年に導入された三平バスがそれ。小田原機器製のようだが、上の写真のものよりボディの幅は狭く、カラシ色。数字も異なり、角ばっている。【2018年初め時点でも継続使用】

【2018年3月12日追記】2018年時点で使われている小田原機器の感熱紙式整理券発行機では、中央交通のようなバーコードを印字しない機種でも、「運行ごと・整理券番号ごとに、何番目のバス停で何枚発券したか」を集計した一覧を出力(整理券と同じ紙だから細長くなる)できるそうだ。ダイヤと路線図と突き合わせれば、バス停ごとの乗客数をほぼ把握できる(券を取らなかった人は当然カウントできないし、おそらく同じバス停でいったんドアを閉めて再度開けて乗車させた場合などはずれる可能性もありそう)。市営バス時代の発券機には、集計機能はあったのだろうか。

整理券についてのちょっとした考察
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1台だけ違うバス

2015-09-09 21:12:07 | 秋田市営バス
先日は、同型がなく1台だけ導入された秋田市営バスの路線車両を紹介した。
今回は、同時に複数台導入された中で、1台だけちょっと違った車両たちのお話。

結論から言えば、事故などで車体を破損して修復する際、元々とは違う部材が使われたことが原因だと考えられる。
鉄道車両や一般の自動車でもあり得ることで大した話ではないけれど、個性的な存在であった。記録としてまとめておきたい。

271号車
前回紹介した1991年度は、三菱製中型車両がたった1台だけ導入された。
その反動かのごとく、翌1992年は269~275号車の7台も導入され、新塗装の市営バスでは、同年度内同型車の最多導入記録(?)となった。

269~271号車の3台が10月初め頃、残りが12月頃【16日訂正】11月頃と2度に分けて納車された。271号車のナンバープレートは344で、次の272号車は364と飛んでいることからも分かる。
271号車
上の写真で秋田の路線バスとしては変わった、というか意味がない構造に変更されている箇所がある。それが271号車だけの特徴。

側面の客席窓に注目。

秋田市営バスの中型バスは、上下に2分割され、昇降させて開閉するタイプの窓。
ただし、行先表示器が設置された箇所だけは違い(表示器と窓枠のサイズが合わないし、厚くて昇降できなくなるので)、表示器の下側が左右(進行方向からすれば前後)にスライドする小さい窓になっていた。
秋田市営バスでは、中ドアが入口だったから、そのすぐ右側(後方)の窓に行先表示器が設置され、そこがスライド窓だった。

ところが271号車では、前ドア右「一般乗合 271」表示の上、いちばん前の座席の窓も、その構造になっている。行先表示器はないから、上は固定窓。
同年同型車のみならず、市営バスで唯一の仕様だったはず。
272号車の側面。もちろんいちばん前は上下窓

深い意味はないだろう。
窓・窓枠が破損して交換する時に、あり合わせなのか手違いなのか、上固定・下スライドの部材が設置されてしまったと思われる。多少見栄えは良くないものの、特に不都合はないだろうし。
中央交通に譲渡後もこのまま使われた。(廃車済み)

なお、前乗り方式だった首都圏などで使われた中古車を、中乗りのバス会社で使う場合、行先表示器を移設して結果的にこのような見かけになることもある。


281号車
同じく1992年度。この年は1988年度を最後に途絶えていた大型車も、青い窓など豪華な仕様で導入再開。いすゞ製では279~282号車の4台が導入。
279号車
正面に秋田市の色の若草色(?)で「秋田市営」の行灯があるのも特徴の1つ。
日野製の行灯はやや小さく地色が経年で黄ばんでいたが、いすゞは大きくて白地が保たれていた。※この記事参照

ところが、281号車だけは、
いい写真がないのですが
「秋田市営」の文字が紺色~青色。地色も他は半透明に近いのに、これは不透明っぽい。
上から貼り付けたようにも見える


279号車
行先表示器(方向幕)の蛍光灯と連動して行灯も点灯するようだ。
281号車では、
光らない?!(単に球切れとか、別にスイッチがあって切っていただけかもしれません)

ということで、行灯が破損し、不透明の部材で新たに作ったことになる。
行灯自体に存在意義は少ないし、夜に点灯する必要も低いから、不透明にしたのは理解できるけど、文字の色も変えたのはどうしてだろう。若草色より見やすいといえば見やすいけど。
そもそも、内側から光るから「行灯」であり、光らなければ単なる「事業者名表示」に過ぎない気もしますが。

この4台は中央交通へ譲渡され、行灯の事業者名が書き換えられた。
夜はどうなるか知らないけれど、見た感じでは市営バス時代の281号車と同様の不透明っぽい地に青文字で書かれている。
後に、282号車だった「358」だけは行灯自体がなくなり、外板が下に拡大されたような構造になった。ヘッドライト周りの黒い枠はそのままで、どことなく不格好。


以上2点は、愛好家がホームページで紹介するなどして、知っていた人には知られていたようだ。
以下は、ネット上では見たことがないので、知る人が少ない差異かと思われる。
131号車
以前紹介済み
(再掲)
1995年度のうち1台だけ、正面の市章が蛍光色のような色だった。旗を付ける棒も違った。



249号車
1990年度は、日産ディーゼル製中型車が248~251号車の4台導入された。
富士重工が組み立てていたボディが一新され、前年度導入車まではいちばん古くさく見えたものが、今度はいちばんスタイリッシュに感じられたものだった。※この記事も参照。大型車は前年度に新デザインで2台導入していた。
富士重工も日産ディーゼルもバス製造からは撤退してしまったけれど、2015年時点でも、古くは見えないデザインではないだろうか。

その1台、249号車の正面。
249号車。ナンバーが「200」ちょうど
バスにある程度詳しい人が見ても、違和感はないと思う。
前回紹介した268号車とかそれ以降と比べても、塗装の色味が若干違う程度。

ところが、他の3台とは違う。
250号車
バンパーと一体化した黄色いフォグランプの位置が違うのです。他の3台はヘッドライトの下なのに、249号車だけは横(内側)。

他年度導入分の同タイプでは、フォグランプがヘッドライトの下にあるのは1990年度の中型車だけ。
1989年度の大型車や1991年度以降の中型車・普通型(低床車JP)車は、すべて横。
※直接関係ないが、最終導入の1996年度には、ウインカーに連動するコーナリングランプが設置されている。
251号車。雪が着いて分かりやすいが、後にフォグランプが付く場所が凹んでいる
つまり、全体的に見れば、1990年度の249号車を除く3台のほうが、変わった存在とも言えよう。
249号車にバンパー交換の必要が生じた時には、下にフォグランプがある元々のバンパーは製造中止になっており、その時点の現行タイプのバンパーが取り付けられたと考えられる。

このタイプのボディ末期(2000~2003年の大型車など)では、再びヘッドライト下にフォグランプがあったようだが、秋田県内には存在しないかも。
他メーカーのバスや普通自動車では、フォグランプは下のほうに取り付けられるが多いようだ。


272号車
最後は冒頭と同じグループの272号車。
272号車
僕は実物では気付かず、後に写真で気が付いた。
(再掲・2002年撮影)
正面の車体の色が、ちょうど真ん中を境に左右で微妙に違っている。「272」の書体も左右で違う。

右(ドア側)のほうが色が濃い。「272」は左(運転席側)のほうが本来の書体。

見るからにツギハギの補修をされた車をたまに見るけれど、これはかなり上手にやっている。秋田市営バスの丁寧な仕事ぶりの1つと言えよう。
【10日追記】2005年撮影の272号車では、右ヘッドライトの左にシールが貼られている。これは、三菱の2度目のリコール隠しの発覚を受けて、2004年7月から実施された緊急点検を済ませた車両に貼られた「点検済ステッカー」。
点検内容によるのか色違いの正方形ステッカーが、1台に複数貼られる場合があり、バスではこのように緑と青の2枚セットをよく見かけた。(トラックは緑だけだったらしい)
貼付位置は所有者が指定できたようで、バスでは車内の銘板の隣とか、車外側面の前ドア周辺に貼らせた事業者が多かった印象。秋田市交通局のように正面に貼らせたのは珍しかったと思う。(以上追記)


おそらく、他にも、気付けなかった1台だけ違うバスが存在したことだろう。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1台だけ導入

2015-09-01 23:30:34 | 秋田市営バス
久しぶりに秋田市営バスの(マニアックな)話題。
バスでもその他営業車でも、同じ型の車を同時期に多数購入することがよくある。「まとめ買いすれば安くなる」という理論だと思われる。

一方、過去にも触れたように、役所では公平性が求められ、日本にバスメーカーは4つだけ(秋田市営バスがあった当時)のため、購入台数もしくは費用を4メーカーに公平に割り振って購入する公営バス事業者も多い。

秋田市交通局では1990年前後では毎年15~20台を入れていたが、その年度内でメーカーの偏りはほぼなかった。
1994年から1996年までは年に10台以下の導入となり、「年ごとにメーカーを変え、その年度内では1~2社に偏って導入」という方式になった。例えば各社から1台ずつ×4社では効率が悪いからだろう。

ところが、まれに、「そのバス会社内にその型のバスが1台しかない」ということがあり、「異端車」として愛好家に注目されたりする。
試作的な意味合いの車両だったり、秋田市営バスの2階建てバス「みはらし号」のような特殊用途といったケース。最近は他社の中古を入れるので、諸般の事情で同型車を1台しか入れられなかったということもある。中央交通のエアロスターのように。

1986年度以降の新塗装の秋田市交通局の路線バスでは、同型車を3~5台(まれに2台とか7台とか)まとめて発注するのが多かったが、中には同時期導入の同型車がなく1台だけの存在だった車が5例あった。それをまとめる。
※小型バスも1年に1台だけ導入されたことがありましたが、それが普通であり、メーカーが同じで差異が小さかったので割愛します。
※ここで言う「同型」とは、型式ではなく「同メーカーで同サイズでスタイルがだいたい同じ」程度の意味合いです。
1986年度208号車(三菱大型)
新塗装最初の年。大型車だけを日産ディーゼル以外の3社から導入。
日野といすゞは3台ずつなのに、三菱だけが1台となった。
3メーカーとも、特殊な窓配置(ガラスの着色はなし)や行灯があることなど、当時としては豪華な仕様だったが、208号車はオプションで角型ヘッドライトも採用された。(日野は標準の丸型、いすゞは標準で角型)
(再掲)
おそらく、当初は行き先表示(方向幕)が、黄緑色地に白文字という見づらいシロモノだったはず。
この年は、貸切用のスーパーハイデッカーを2台(200、201号車)、三菱から購入しており、その分、路線車の導入を減らして公平にしたのか。


1987年度は導入がなく、1988年度からは中型車の大量導入が始まる。路線車としては初めて日産ディーゼル製が入って4社が揃った。
1988年度は17台導入したうち、大型車5台、中型車12台。日野は5台すべて中型、いすゞは大中2台ずつだったが、三菱と日産ディーゼルでは変わった配分となった。
1988年度214号車(三菱大型)
この年の三菱製は4台。3台が中型(215~218号車)で、1台だけが大型の214号車。
(再掲)前年よりスペックダウン装備が簡略化【2日スペックと言うほどじゃないので訂正】し、普通の窓でヘッドライトは丸型
結果的に三菱の大型車は、2年連続して1台だけの導入となった上、これ以後は同タイプは1台も入らず、秋田市営バスにおいて三菱エアロスターは少数派となってしまった。
この2台は外見からして他と異なったため、まさに異端の1台×2だったと言えよう。

以下の3例は、その年度内では1台だけの導入だったが、前後の年にほぼ同型の車が導入されていて、見た感じの違和感はあまりなかった。
1988年度225号車(日産ディーゼル中型)
初の日産ディーゼル製路線車は3台。大型は2台(223、224号車)で中型が225号車1台だけ。
(再掲)ほぼ同一の1989年度導入車両
1988年は貸切の導入はなかったようなので、路線車だけの割り振り。日産ディーゼルについては、初導入なので大型・中型両方を入れて比べたかったのかもしれない。


1989、1990年度は、中型車だけが大量に導入されたため、各社ともまとまった台数が入った。
1991年度は中型路線車に加えて貸切車も導入(257~259号車?)されたためか、また1台だけの車両が2つ出た。
日野は中型路線3台、いすゞは中型路線4台だったが、三菱と日産ディーゼルが中型路線1台ずつ。三菱と日産ディーゼルは、貸切車両も導入されており(おそらく三菱1、日産ディーゼル2)、その分か。
1991年度267号車(三菱中型)
個人的には、市営バスの車両でかなり印象が薄いのが267号車。乗る機会は少なくなかったのだけど。
「267」のフォントが前年度とも翌年度以降とも異なる
同型車が前年には6台、翌年には7台も導入された。それらをどうしても「連番の同じグループの車両」として見てしまい、そのはざまの1台だけで控えめな存在だったのだろう。
以前座席のことを話題にしたが、三菱製は1992年度から座席の形状や配置が変わって、従来よりゆったり(=これまで窮屈だったのがやっと他社並みに)したものになった。267号車が最後の窮屈な座席の車両だったようだ。

1991年度268号車(日産ディーゼル中型)
(再掲)右が268号車
仕様は1990年度導入の4台とほぼ同一。
強いて上げれば、車内の窓枠の下(壁との境)のプラスチックの部材が、昨年まではほぼ平面の硬い材質だったのが、268号車では一部がゴム状でなだらかに盛り上がったものに変わった。ところが、翌年以降はまた元に戻り、ここだけは完全に異端だった。
矢印の部分。写真では分かりませんが
“境遇”としては267号車と同じ存在だけど、個人的には267号車よりも存在感を覚えた。268号車は、市営バスの歴史の中で「節目」と言える車両だと思うから。
翌1991年度の同型車ではさまざまな変化が生じたので、その直前の最後の1台であるとともに、変化のきざしも感じられたのが268号車だった。すなわち、「市営バス最後の~」と「市営バス最初の~」が268号車で見られた。
最後だったのは、「押しボタンが小さい降車合図ボタン」「マニュアルトランスミッションの日産ディーゼル製中型車」「千円札両替が手動式の運賃箱」。
再掲)このボタンで導入された最後が268号車
翌1992年以降、押しボタンは大型のもの、トランスミッションは日産ディーゼル製はオートマチック(1992年の三菱はマニュアルで導入され、それが最後)が採用された。
運賃箱は、それまでは千円札を縦(床と垂直)方向に挿入し、運転士が何かの操作(ボタンを押す?)しないと両替されなかった。【2日追記】運賃箱に「両替ユニット」的なものを外付けしたようにも見えた。
翌年からは、同じ小田原機器製の運賃箱でも、現在と同様に横方向に挿入するだけで自動的に両替されるタイプ(【2日追記】箱本体に両替機が一体的に内蔵されて、外付け感はない)、もしくは三陽電機製作所(現・レシップ。三洋電機とは別)製の高機能(バーコード読み取り、投入硬貨自動カウントなど)な運賃箱が採用されていく。

初の導入となったのは、感熱紙式の整理券発券機。
それまでは、赤紫や青のインクで印刷するタイプだった整理券が、感熱紙に黒色で印字されるタイプになった。
発券した日付も(「秋田市交通局」の文字も?)印字され、現在主流の整理券とほぼ同一。
さらに「バスツアーは市営バスでお出かけ下さい」という宣伝文句も印字された。

当時は、ワープロ専用機の印刷用紙として感熱紙がよく使われていたが、レシート、ATM利用明細、検針票などにはまだ使われておらず、バスの整理券という用途としても、さらに整理券に日付も含めて鮮明に印字されるのが、斬新に感じられた。
【2日追記】インク式では、インクが薄くて判読できなかったり、濃すぎて手に着いたりすることがあったが、それが解消されてサービス向上になった。インク補充の労力削減や日付表示で不正使用を防止するという、事業者側のメリットもあるはず。ただし、券のサイズがわずかに小さく(短く?)なり、取ったり持ったりでわずかな違和感もあった。

市営バスでこれと同一の整理券発券機が採用されたのは、268号車だけ。
翌1992年は、上記高機能運賃箱に対応したバーコードが印字される感熱紙式と、従来通りのインク式が並行導入。末期にはバーコードはなくなったが、宣伝文句がない一般的な感熱紙整理券が採用された。
【10月3日追記】ただし、268号車の整理券は1993年13月頃には、インク式に交換されてしまっていた(自分で記録していた)。印字が欠ける部分があったり、他の感熱紙式とはメーカーが違ったのかもしれなくて、扱いにくかったのだろうか。

【2日追記】267号車と268号車のナンバープレートを見てみると、連番ながら順序が逆転している。
運賃箱や降車ボタンは267号車も同じだった(整理券はインク式)ので、その2点については、267号車のほうが「最後の車両」とも言える。
※整理券や新型運賃箱についてはこの記事参照



以上、一部は試験的意味合いがあったのかもしれないが、もう少しうまく各メーカーで大・中の配分をできなかったかという気もする。
憶測だが、当時は、中央、東、南の3営業所があり、営業所ごとに配置される路線車両のメーカーがほぼ決まっていた。中央にいすゞ、東に日野、南に三菱と。おそらく、この関係で偏った導入になったのではないだろうか。
1993年には南営業所が廃止(新屋案内所に格下げ)され、東営業所は日野、中央営業所はそれ以外の3メーカーという配置になる。そのせいか、以降は1台だけの導入例はない。

一方、同時に多数が導入された一群でも、その中の1台だけが後から異端な存在になってしまったものもある。後日また
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美短入口のその後

2015-06-28 23:34:33 | 秋田市営バス
2013年春に秋田公立美術工芸短期大学を4年制化して、秋田公立美術大学が開学した。
それに伴って、最寄りバス停が「美術工芸短大入口」から「美術大学前」に名称変更されていた
※バス停の位置は変わらない。「前」から「入口」に変わった理由などはこちら

一般的にバス停の名称変更時には、従来の表示板の上に新名称を重ね貼りする場合や、表示板部分だけを交換(台座や脚はそのまま)することもある。
しかし、美短→美大の時は両側ともポールごと新しいものに交換され(ポールの支柱がピカピカだったので)、美短入口時代のバス停はそっくり撤去されていた。
2013年3月撮影上り側
交換前の美短入口のポールは、市営バス時代に設置されたもので、中央交通への移管時に社名部分だけを重ね貼りしたものが使われ続けていた。
2001年3月撮影上り側。支柱がきれいなので設置間もない頃?
なお、市営バス時代には秋田大橋の架け替えで取り付け道路の線形が変わった(2001年11月)のに伴い、バス停の位置が若干変動している。
上の写真は架け替え前の上り側で、現在より数十メートル南のガソリンスタンドの真向かいにあった。下り側は、逆に北側に数十メートル移動しており、かつては交差点の先(南側)にあった。
余談だけど、ガソリンスタンドは閉店・解体され、現在、ローソンが建設中。7月9日に「秋田新屋大川町店」としてオープン予定。この近辺は10年くらい前にサンクスが閉店してからコンビニ空白域だったのが解消され、美大関係者は便利になる。
ちなみに、この道路(秋田大橋を含む)は現在は県道56号線だが、2003年までは国道7号線だった。

それから、冒頭の改称直前の美短入口の写真で、下に中央交通の社名が浮き出ている理由。
ここが中央交通へ移管されたのが、2段階だったから。2001年春に新港線だけが移管、1年後の2002年春に新屋線が移管されている。
したがって、2001年度の1年間だけは、市営バスと中央交通で1本のバス停を共有していたため、下段に中央交通の社名を表示していた。2002年以降に、下段を消して(=赤を重ね貼りして隠して)、改めて上段の社名を書き換えたという経緯。
(再掲)同じ移管経緯だった2001年度の「ダイエー前(現・大町通り)」。美短入口と同じ書体だから、新屋線のポールは同じ時期に更新されていたのだろう。(ニューシティ前への変更時? に角型表示板に交換済み)


さて、ここから本題。撤去された美短入口の(ポールや表示板の)その後である。
2つのうち片方は、前にコメントで教えてもらっていた。
表示板が広告入りお城のデザインだった「城バス停」がわずかに設置されていたのが、今年春頃までに標準デザインのものに更新された。元美短入口が、その更新用の1つになっているという。

それは、秋田市中央部から離れた場所で唯一、城バス停だった、外旭川小学校前の「神田」停留所下り側。
ストリートビューより(背の低いほうは笹岡方面のマイタウンバス用だが、終点であるためか今は撤去された)
秋田市中央部の城バス停は角型2色(緑+黄)の表示板で更新されたのに、神田だけは円形3色(=元美短入口)で更新されたそうだ。
現地へ。
左が市営バスの初代接近表示付き(市営バス時代の見直しにより2代目に更新されず使用停止)だった上り側、右奥に城バス停だった下り側。

 
中通一丁目、二丁目と同じくローマ字表記が上、広告の位置もなんかきゅうくつ。もう少し上手にデザインできないもんでしょうか…

それはともかく、肉眼ではもっとはっきり分かるのですが、
 
「市営(秋田市章)バス」「美術工芸短大入口」「BIJUTSU KOGEI TANDAI IRIGUCHI」のカットシール文字がはっきりと透けていて、間違いなく元・美短入口だったものだ。
脚の少々雑な貼り方の反射材や若干下寄りの時刻表の枠は、ストリートビューの城時代と同一に見えるので、ポールごとではなく、表示板だけを交換したことになる。

(再掲)2005年下り神田
市営バス末期の2005年時点では、おそらく昔からの表示板にバス停名だけを透明シールに印字して貼り直したものだった。その後、城バス停に交換されたことになるから、城バス停は10年足らずだった。

今は神田線なのに神田を通らないバイパス経由が登場して、神田を通る便は毎時1本程度に減ってしまった。ゆくゆくはこちらを通らなくなってしまうのかもしれないけれど、もうしばらくは活躍することだろう。



そうなると気になるのが、美短入口の“片割れ”の行方。
全バス停を調査するほどのことでもないし…と思っていたら、偶然、発見してしまった!
これだ!
「楢山本町」の下に「美術工芸短大入口」が透けている。

カット文字の「神田」とは異なり、上の市営バス末期の神田と同じく、「楢山本町」の文字を透明シールにおそらくレーザープリンターで印字したものを貼った、少々お手軽版。
遠目に見れば違和感なし
こちらも脚以下はそのままで表示板だけの交換かもしれない。

この「楢山本町」バス停は、片道のみ、平日1本しか通らない。(反対側にはポールがない)
秋田駅→築地→楢山→旭南→大町→保戸野→手形→秋田駅と運行する「楢山回り大回り線」である。市営バスから移管された路線で、かつては逆方向の「手形回り」もあったが市営バス時代に廃止、楢山回りも減便された。
現在は平日の7時20分に通るだけ

かつては同じ名前で(ほぼ)向い合っていた2つのバス停(の表示板)が、名前を変えて離れ離れになって違う道を歩むとは、感慨深い。
となると、美短入口時代のどちら側に立っていたものがどちらかが気になってしまう(のは僕だけ?)が、冒頭とその次の写真にヒントがあった。
上り側の表示板は、平らではなく下部のボルトがある部分が凹んでいるというか、曲がっていた。

更新後の神田のほうは、この部分がきれいに平らなのに対し、楢山本町は、
曲がっている
したがって、美短入口上り側→楢山本町、美短入口下り側→神田下り側と転用されたようだ。


表示板の下に浮かび上がる文字のおかげで、今は亡き秋田市営バスの面影をたどることができるわけだが、中央交通さんはこれでいいのだろうか。「自費で購入したものじゃなく、秋田市から譲ってもらった物を使い回してますよ」と言っているも同然なのに。
転用する時に、以前の文字をこそげ落としてから貼り直すのって、そんなに手間かな。
5年、10年と使い続けるものなんだから、見映えへの配慮が必要じゃないだろうか。

と言っても、一方では、オリジナルのバス停も登場していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市営バスの座席・形状編

2014-02-26 23:42:59 | 秋田市営バス
前回に続いて、秋田市営バスの座席の話。今回は新塗装車両の座席の「形状」について。
※前回の記事を先にお読みいただいたほうが、多少は分かりやすいかと思います。
※各タイプとも、最後列の5人掛けは形状が異なるため、それ以外の席についてまとめます。

前回も触れたように、秋田市交通局が1986年以降に導入した車両の座席は、グレードが高いものだった。
「ハイバックシート」と呼ばれる背もたれが高いものであり、体を包み込むような整形が施された「バケットシート」に近いような構造でもあった。(この辺りの定義はあいまいなんでしょう)
リクライニングしてもおかしくなさそうな見かけもののもあったが、リクライニングはしない。

また、旧塗装当時の2人掛け席は、1人掛けの幅を広げただけの構造だったが、新タイプでは背もたれが1人分ずつ独立したものが基本になった(一部例外あり。後述)。座布団は色が違うだけでくっついたまま。

といっても、全部の車両が同じ形状の座席ではなく、座り心地も違った。
これは、車両メーカーの違い(結果的には座席メーカーの違いなわけだが)や製造年によるもの。
※以下、車両の導入は「年度」であり「年式」ではありません。
※背もたれの高さの比較には、窓との位置関係が参考になりますが、車両メーカーや車種によって窓の高さやサイズが異なるため、単純に比較できるわけでもありません。

まずはこれ。
(前回の再掲)293号車

(前回の再掲)277号車の2人掛け。背もたれはそれぞれ独立し、座布団はくっついている
形状ではこのタイプが最多。
1986年度と1988~1994年度までに導入されたいすゞ製と日産ディーゼル製、1992、1993年度の三菱製の計56台で採用された。1995年以降、三菱と日産ディーゼルでは後述の別タイプに変更されたが、いすゞは1994年を最後に新車導入がなかったので市営バスのいすゞ製路線バスは27台すべてがこのタイプだったことになる。
布地は、格子柄とワンステップ用チェックの2タイプが存在。

全国的には現在でも、少し豪華な路線バス(公営事業者とか観光地路線・中距離路線とか)ではたまに見かけるタイプ。
【2020年4月4日追記】2019年頃の時点で、箱根登山バスの新しそうな三菱エアロスターで、同型と思われる座席が使われていた。いすゞ・日野は、モデルチェンジにより標準仕様での座席の形状自体が変わってしまったが、三菱ではまだ現役のようだ。

従来と比べると座布団も厚くなっているが、背もたれが高くて厚いのが一目瞭然。まさに「ハイバックシート」。以下で紹介する他のどのタイプよりも分厚く感じられる。
背もたれは肩までカバーし、若干カーブを描いている。上部の中央付近には横方向に縫い目がある。
座り心地は、ふかふかして、背中を均一にホールドする感じ。他のタイプよりも経年でヘタりやすいようで、時が経つと座り心地がスカスカしたりシルエットも若干柔らかく(?)見えてしまうような気がしなくもない。
1992年度の日産ディーゼル製(276~278号車のどれか)
肘掛けは固いプラスチック製。
背もたれの裏側にある取っ手(1つ後ろの席の人がつかむための)が、他の多くのタイプでは金属部分に設置されているのに対し、これは布地の部分にあるのが特徴的。そのためか、経年でネジが取れかけていることが、他より多いような印象もある。
座席を支えて床や壁に固定する金属フレームは、いすゞと日産ディーゼルでは白、三菱製では黒と異なる。

このタイプの座席で特筆すべきは、1993、1994年度のワンステップ車の2人掛け席。
1994年度のいすゞワンステップ(126~129号車のどれか)。1人掛けは布地が違うだけ
1993年度に導入された日産ディーゼル「JP」シリーズは、初のワンステップバスとして注目を浴びた。
マスコミでも報道され、乗降のスムーズさとともに、2人掛け席のことが取り上げられていた。
その2人掛け席
隣り合う座席が、背もたれ1つ分くらい前後にずれて設置されている。(通路側の席が後方に寄っている)
他のタイプでは、座布団部分は2人分が一体化しているが、こちらでは座布団も別々というか、1人掛け席と同じ椅子(おそらく幅はやや狭いけど)をずらして並べている形なのだろう。

1993年12月10日付広報あきた1300号では、「隣同士に座ったお客さんの肩やひじかふれないよう、座席を前後に少しずらして配置するなどの心配りもなされています。 」と紹介している。
ほかにも通路側に着席する人がいる状態で、窓側の席から通路に出入りする時も、いくぶんスムーズになる目的があったと思われる。
翌1994年度のいすゞ製ワンステップ車でも、同じものが設置された。
市営バスの大型車やワンステップ車の導入はこれっきりだったし、ツーステップの中型車には波及せずに終わった。

Wikipediaの「日本のバスの座席」の項目を見ると「オフセットシート」というのが説明されていて、それが、このずれた2人掛け席のことだった。
日産ディーゼルJPシリーズというのは、福岡の西鉄の廃止鉄道路線代替バスのために開発されたバスが元祖。(それを一般商品化した際、真っ先に買ったのが秋田市交通局だったとか)
その時にオフセットシートが考案されてJPシリーズで商品化され、さらに他のメーカーやバス会社にも波及したようだ。(となると、特に秋田市交通局が要望してオプションで採用されたわけでもなさそうだ)

しかし、現在では、オフセットシートを採用しているバス会社はあまりないようだ。
心理的に窓側席に入りにくくなり、窓側に座る客が減るという弊害があるためだそうだ。


以上、長くなったけど、このタイプの座席は製造元が判明している。
航空機、鉄道、バスの座席で高いシェアを誇る、富山市にある座席メーカー「天龍工業」の製品。おそらく「MS100」というシリーズの1種かと思われる。
同社製のバス用座席には、円形の「テンリュー工業」または横長の「天龍工業株式会社」というシールが貼られていることがあり、中央交通の座席も(形状は違うが)同社製が多いようだ。

市営バスでは最多だったこの座席だが、譲渡された中央交通で今なお使われている車両がいくつかあり、今でもヘタったこの座席に座ることはできる。でも、先は長くなさそう。


次に、説明の都合上、少数派の1つを先に紹介。
(前回の再掲)1986年導入日野ブルーリボン204号車
1986年度導入の日野ブルーリボン202~204号車の3台にだけ設置されていたタイプ。
座り心地などは記憶にないが、背もたれは低めで、角度が大きいようだ。
肘掛けが複雑な形状だが、これは前年度の日野レインボーで設置されていたものと同じ(パイプの色は違う)。
(前年度の再掲)192号車
だから、日野製車両で優先的に使われていた座席メーカーの製品かもしれない。


他の日野製車両では、こんな座席。
板張りの床が懐かしい1989年度導入226号車(板張り床は1989年度まで)
日野製中型車レインボーだけに設置されていたタイプ。1988~1991年、1994年導入の21台。
交通局では、日野製中型車は東営業所に集中配置していた(中央営業所にはわずかだけ配置)。そのため、東営業所担当ダイヤをよく利用していた人にはなじみ深い席である一方、大型車や中央営業所の中型車が走る路線・ダイヤだけを利用していた人には、あまり縁がない席だったはず。

天龍工業製と比べると背もたれが薄くてより高く、スリムな印象。(写真は晩年の白いカバーが被せられた後なので、やや分かりづらいですが)
窓の部分に背もたれが飛び出ているのがはっきりと分かり、首や頭までもカバーする。
背もたれは途中で厚さが変わる。肘掛けは固いゴム風でカギ型
座り心地は天龍工業よりは硬めで、悪くなかった。

秋田市営バスでは、日野製でも大型車は別のタイプの座席(前項と次項で紹介)が設置されていたが、京都市営バスの大型車ではこれが使われていたので、別に中型バス専用の座席というわけではないのだろう。

現在は1991年度の車両の一部が残っている。(1994年度車はオートマが扱いづらかったのか、譲渡後に早期廃車)


1992年度の日野製・ワンロマ仕様285号車
1992年度に、1986年以来となる日野製大型車ブルーリボンが導入された。「秋田八丈」塗装の貸切兼用(ワンロマ)車が4台(283~286号車)。
貸切兼用という性格からか、ひときわ豪華な座席が採用された。
一見すると天龍工業製にどことなく似ている(後ろの取っ手の取付位置とか)が、同一ではない。
背もたれは上部が厚く、両端が前にややせり出していて、ヘッドレストのような趣き。座ると、肩の辺りが包まれるような感じ。座り心地がとても良いというわけでもなく、他のタイプ並みか。
2席だけある1人掛け席は少し幅が広いか
肘掛けは2辺をカバーするカギ型で、プラスチックの表面に数本のライン(浅い溝)が入る。他の2辺はシート生地で覆われている。

ワンロマだから特別な席なのかと思いがちだが、翌1993年度に導入された路線専用仕様の4台(294~297号車)でも、同じタイプが採用された。
※したがって、1992年度車と1993年度車の違いは、塗装と座席の数程度だったことになる。

1994年度以降は、ワンステップ大型車と中小型だけが導入され、日野製大型車はなし。無駄に豪華な感じがしなくもないこの座席は、2年間8台だけの採用に終わった。
現在もわずかに(1992年度と1993年度のうち1台ずつはよく見かけるけど、他は…?)残っている。


忘れてはいけないことに、市営バスの3代目小型バスも、日野製である。1993年度と1994年度にレインボーRBが、モデルチェンジがあって1995年度、1996年度にリエッセの計7台が導入された。
これらの座席は、布地は当時の中型・大型車と同じものだったが、形状は旧塗装時代と同じと思われる、低くて薄い背もたれのものだった。
肘掛けには座席と同じ柄の布地が張られていて、この点だけは無駄に豪華だったものの、他のバス会社でも同じ仕様の座席があるようなので、市営バスの特注ではなかった模様。
ちなみに、弘南バスに多数在籍するリエッセでは、普通乗用車みたいな立派な(背が高くてどっしりした)座席を採用している。
【2018年5月24日追記】リエッセの後継車種「ポンチョ」でも、市営バスの小型車とほぼ同じ、低い背もたれの座席が、取り付けられている。肘掛けは中型・大型と同じプラスチック。
(再掲)60号車車内
レインボー2台は、緑とエンジの格子柄。譲渡後に男鹿営業所に転属し、ローカル路線を走っているらしい。
リエッセ5台は、水色と濃いピンクの末期の布地に代わり、背もたれの取っ手が斜めに付いていた。現在も秋田市内で運用中。
以上が日野製限定の座席でした。
【2022年10月27日追記・日野製バスの座席のメーカーについて憶測。日野自動車はトヨタ系列。トヨタグループには「小糸製作所」があり、航空機や鉄道の座席を作っている。したがって、トヨタグループの縁で、同社製の座席を採用していた可能性があると思う。】


1986年度と1988~1991年度までの三菱製15台の座席。(1986年の208号車と1991年の267号車は記憶が定かではないのですが、おそらくこれ【2022年10月27日追記・267号車は確実にこのタイプの座席だった。自分でそう記録していました】)
230号車。他と比べると、質素?(右の座席が小さく見えるのは、設置位置がずれていて遠近感のため)これもフレームが黒い
背もたれは途中でくぼんで厚さが変わっているものの、高さは旧塗装時代並みに低い。肘掛けだけは妙に立派で、幅が広めでゴム風の材質。
色あせた頃の256号車
背もたれ上部は幅が狭くなっている。縫い目は2本。
2本の縫い目の効果かホールド感があって、座り心地はそれほど悪くはなかった。
このタイプの座席の車両で中央交通に譲渡されたものは、現在はすべて廃車になったらしく、もう座ることはできない。

このタイプの座席の車両で最悪だったのが、座席の間隔が極端に狭くきゅうくつだったこと。座席自体が直接の原因ではないのだが、このためにこの当時の三菱のバスはあまり好きになれなかった。(後日別記事にて)

交通局としてもこのことは問題として把握していたのだろうか、1992年度(この年は三菱の中型車を7台も購入)と1993年度には、いすゞや日産ディーゼルと同じ天龍工業製のものが設置され、座席の間隔も、そして居住性も他社並みになった。


前回の通り、1996年度が市営バスとしては最後の新車購入で、その前年の1995年度から、突如として座席の布地が変わった。
上記の通り、小型バスではレインボーからリエッセへモデルチェンジしたタイミングと重なったのは、偶然だろうか。
小型バス以外は少数の中型車だけの導入で、1995年度に三菱エアロミディ4台(130~133号車)、1996年度に日産ディーゼル製5台(134~138号車)の計9台。
どちらも1994年度までなら天龍工業製の分厚い座席が設置されるはずだが、そうはならなかった。中型車では布地とともに形状も新しくなったのだ。
131号車
座布団は1994年までと同じようだが、背もたれがかなり薄くなった。昔のタイプに近い薄さ。
高さは同じくらいで、途中で角度がついて縫い目もある。
肘掛けは2面タイプになり、表面にラインが入っていて、1992・1993年度日野大型車のものとよく似ている。
座席を支えるフレームは、以前同様、三菱では黒く、日産ディーゼルは白。
おそらく、これも天龍工業製で、今製造されているいすゞの車両で標準で付いている座席と同じもの(肘掛けは別タイプ)だと思う。

また、1986年以降、タイプを問わず(小型車は別)一貫して採用されていた、2人掛け席の背もたれが独立していたものも、旧塗装時代と同じ、2人分が一体化したものに戻った。
(前回の再掲)色は違っているがくっついている
総じて、グレードダウンしたととらえられる変化だった。
しかし、座り心地はさほど悪くなく、背もたれが高い分だけ昔よりいいし、薄い分ヘタりも出にくいようだ。この程度が、市内完結の路線バスの身の丈に合った座席なのかもしれない。

最終導入となった1996年度の日産ディーゼル製では、さらに新たな座席が登場した。
中ドアより前にあった2席が、窓を背にして座る横向きの3人掛けに変更された。※1995年度の三菱の車両では、ここは従来通りの前向き1人掛け2席
 中ドア-2人掛け-肘掛け・ポール-1人掛け-前向き1人掛け-前ドアの配置
最近のバスでは、これと同じような部分的な横向き座席がよく見られるが、当時としては全国的にも珍しいほうだったかもしれない。
以前から、ここはタイヤスペースや中ドアの戸袋の関係で、やや座りにくい座席だったし、横向きにすれば1人多く座れるし、足の悪い人でもスムーズに使えるかもしれない。その辺の配慮だったのだろう。
今は、ここを優先席とするバス会社が多いが、市営バスでは特にそうではなかった(この頃は「善意の席」の制度も消滅していた?)。
座席の布地は、2人掛けの通路側と同じ、濃いピンク(赤)系統の柄。肘掛けは、中ドア側がパイプに布地を巻いただけで、他は皮張り風なのがおもしろい。降車ボタンの取り付け方も、当時としては目新しかった。
座り心地は座布団は他の席と変わらないようだが、背もたれが硬くて垂直に近くて良くない。(右側の1人掛けは窓の位置の関係でとても分厚い背もたれなのだが、左側2人掛けと座り心地の違いはない)

以上、座席の形状をまとめてみました。
あとは車両の中での座席の「配置」についても、少々取り上げたいと思っています。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市営バスの座席・色柄編

2014-02-24 23:37:48 | 秋田市営バス
秋田市営バスの路線車両の「座席」に注目したい。
路線バスの座席といっても、バス会社や年代、用途(運用距離や観光路線かどうか等)によってさまざま。
路線バスに詳しい人たちの間では、秋田市営バスの座席は「グレードの高いものを採用していた」とされることが多いようで、実際に乗っていた者の感想としても、同時期の他社(特に中央交通)より高級感があるものだった。だが、その中でも、導入時期やメーカーによる差はあった。
秋田市営バスの座席といえば、
これを連想する人が多いかもしれない(293号車。詳細はおいおい)
まず、大前提として、昭和末期~平成以降に在籍していた市営バスの路線バス車両は、すべて前向きの座席が基本。
大昔や最近のバスのような、窓を背にして座るロングシートタイプの座席は、最終年度導入車両以外にはなかった。※最後の導入となった1996年度車は若干例外(続編にて)
中ドアより前は左右とも1人掛けで通路を広く取り、中ドア後方が2人掛け(最後列は5人掛け)が基本。ただし、大型車の一部の貸切兼用「ワンロマ車」は、前と中のドア直後だけが1人掛けでほかはすべて2人掛け。
また、座席表面は布を張ったもので、大昔のようなビニール張りのものは、(少なくとも昭和末期以降は)なかった。


※以下、車両が導入された年は購入した「年度」で記載しています。「年式」ではありません。
毎度恐縮ですが、記憶と資料が少ないため1985年度以前導入の旧塗装の車両を最初に簡単に。
1984年頃導入の日野レインボーCITY(168~174号車のどれか)。中型車としては初の冷房車
この時期の車両は、当時としてはオーソドックスな路線バスらしい座席だった。すなわち、エンジ色単色の布地で、背もたれは窓枠の下辺にかかるかどうかくらいの高さ(着席した人の肩甲骨より下辺りまでカバー)で、わずかなクッションがある程度の薄いもの。
※中央交通に来ている、1999年度までの小田急中古の背もたれよりはマシ。あれはただの板に布を張ったような硬さでヒドイ。

ワンロマ車でも、色は同じ。背もたれは路線専用車よりも高くて肩くらいまでをカバーし、いくぶんクッション性があったかも。背もたれの途中で角度が付いていたり、座布団部分も厚みが途中で変わるなどしていて、座り心地に多少の配慮はされていたようだ。
(再掲)ワンロマ仕様のいすゞ製187号車

上の写真に写っている、緑色の座席は「善意の席」。
一般的にはシルバーシート(当時)、今で言う優先席に相当する座席として、市営バスでは「善意の席」を1974年6月20日から設置していた。※徳島市営バスでは「公徳シート」と呼んでいる。
「善意の席」表示(192号車)
中ドアの真向かいの1人掛け2席(=最近のバスで車椅子スペースとして折りたたみ席がある部分)が善意の席に指定され、座席の形状は同じながら緑色(よもぎ色というのか、ややくすんだ緑色)の布地になっていた。※ワンロマ車や古い車両など、表示だけでエンジ色のままの車両もあったはず

1984~1985年度辺りの中型車の座席の違いを簡単に。
上と同じ170号車辺りの日野レインボー。背もたれの低さ・肘掛けの形状に注目

1985年? 導入の192号車。同じく日野レインボーながら肘掛けの形状が変わった

同年導入の三菱エアロミディ198号車。日野とは肘掛けが微妙に異なり、背もたれはやや薄い感じもする



1986年からは、車体の塗装を新しくして続々と新車が導入されたが、座席(色・柄と形状)も一新された。ここからは詳しく見てみる。
まずは布地(シート生地、シート表皮)から。
末期の市営バスの座席といえば、記事冒頭の写真のような濃淡の緑色系統の規則的な格子柄のものを連想する人が多いかもしれない。
秋田市交通局の特注というわけではなく、全国の他のバス会社でもたまに見ることがある柄。

従来はエンジ単色だった座席が柄入りに変わって、明るく感じられたものだ。
欠点としては、10年、15年と使っていると、経年で色あせること。現在も中央交通に譲渡されて一部残っているが、以前の写真と比べると、かなりくすんだのが分かる。

色が緑色の濃淡なのは、1人掛けと2人掛けの窓側、最後列の中央。2人掛けの通路側は色違いになっていた。
通路側が濃淡のエンジ色だったのをご記憶の方は多いと思うが、実は最初に導入された車両は別の色だった。
逆光ですが1986年導入日野ブルーリボン204号車※背もたれ上部の白いカバーは後年被せられたもの
1986年度に導入された大型車の7台(202~208号車)だけは、通路側は、カラシ色というかキツネ色の格子だった。
台数がわずかだった上、大型車だけだったので運用路線が限定され、さらに比較的早期に廃車になったので、市営バスを利用していた人でも、知らない人が多いかもしれない。

1987年度は路線車の導入なし。中型車も新塗装で導入された1988年度からは、なじみ深い緑色とエンジ色の格子の組み合わせとなった。
1992年度導入の日産ディーゼル277号車
この座席柄は1994年度まで続き、大中小型96台で採用された。
1992年度導入の初のオートマチックトランスミッション車(上の277号車など)、同年の「秋田八丈」カラーの大型ワンロマ車も、1993・1994年度に1台ずつ導入された小型バス(日野レインボーRB。60・61号車)もこの布地だった。※形状には差あり

市営バスの座席の柄はこの格子で決まりかと思っていたら、1993年度に違う柄が登場。
1993年度には従来の格子の車両も8台導入されたが、5台は別の新たな柄。色としては緑とエンジの組み合わせながら、従来よりやや明るい色調で、柄は等間隔でなく大きな格子のチェックのようなものになった。
その5台(116~120号車)は初めて導入した日産ディーゼル製ワンステップ車(当時は超低床バスと呼ばれた)。目新しさを強調するため、柄を変えたのだろうか。(2人掛け座席の配置も特徴的なものだったのだけど、続編にて)
車内がさらに明るく感じられた
翌1994年度はいすゞ製のワンステップ車(126~129号車)も同じ柄で導入。(同年の中型車は従来の格子)
以後、ワンステップ車は導入されなかったので、9台だけの柄になった。
なお、徳島市営バスでは、この緑色の柄が4年前の時点では主流のようだった。

1995年度は、中型車と小型車だけの導入となるが、ここで柄がリニューアル。(座席がややグレードダウンしたり、横向き座席が登場したりしたのだが、続編にて)
1995年度導入三菱エアロミディ130号車
窓側が水色系、通路側が濃いピンク(赤?)色系に色が変わり、柄は細かく太さが違う格子を市松模様状に配置(?)したものになった。
翌1996年度を最後に市営バスでは新車を導入しなかったので、結局は2年間・14台(中型130~138号車、小型62~66号車)だけの中途半端に終わってしまった印象。
1997年度以降も新車を購入するつもりでいたのに、民間移管の話が出てきて、やむなく購入しなくなったということだろうか。


以上、新しい車体塗装後の布地の柄に着目すれば、3タイプが存在した。色の組み合わせとしては4タイプ。
どの柄でも、直線を基本にして組み合わせた柄で、窓側が寒色系・通路側が暖色系だったことになる。窓側と通路側で色を分けていたのは珍しいのかもしれないが、視覚的なアクセントや着席位置の明示(2人掛けを独り占めされないように)の意図があったのかもしれない。
改めて、1人掛け席・2人掛け窓側の柄をまとめてみる(3つの画像で縮尺は同一ではありません)。
1986、1988~1994年度。96台

1993、1994年度。ワンステップ車9台

1995、1996年度。14台
いずれの柄でも、善意の席は区別されなかった。(というか、初期は善意の席の表示だけはあったが、後年導入された車両ではなくなっていた気がする。善意の席の制度自体、自然消滅したのか?)


最後に、秋田市営バス亡き現在の路線バスの座席の柄に触れておく。
横浜市営バスでは、横浜市の観光名所をデザインしたオリジナルの柄を採用している。秋田の中央交通でも、10年くらい前に、竿燈をモチーフにした青系統の柄をいすゞエルガミオで採用していたが、現在はやめている。【25日追記】三平バスもオリジナル柄だ。
専用柄でないにせよ、例えば共通設計のいすゞ・日野の大型・中型バスでは、標準仕様で5種類の中から選択できるようになっている。
昔のような暗めの単色の座席にしようとすれば、オプションというか特注になるだろうから、わざわざそんなことをするバス会社などないのだろう。
ただし、ユニバーサルデザイン対応として色調が配慮がされているらしく、どれも青系統ばかりで、かつての秋田市営バスよりはおとなしめにも感じられる。
いすゞ自動車ホームページより
中央交通ではイアーゴブルーが多いはずだけど、キサラブルーも(マーチブルーも?)あるような…
【2015年4月11日追記】小田急から中古で譲り受けたバスでは、キサラブルーの色違いの水色系のものに張り替えた車両が見られる。三重交通の新車でも採用されていた柄(この記事最初の写真)。

また、他社の中古車を導入する地方のバス会社では、種々雑多な色や柄の車両が混在している。
柄が違っても形状が同じならば使い回しできるため、中央交通では廃車になった車両の座布団部分だけを持ってきて部分的に交換したものまである。
こうした現状をかんがみれば、秋田市営バスでは、3種類「しか」バリエーションがなかったと言えるかもしれない。

市営バスの座席の「形状」については、続編にて
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

窓広告

2013-12-25 23:57:13 | 秋田市営バス
久しぶりの市営バスカテゴリーですが、まずは現在の秋田駅東口。
自由通路の突き当りである2階部分には、透明なガラスがはめられている。今はその一部が、
 「あきたにしました。」
デスティネーションキャンペーンの装飾の1つが施されている。
【12月31日追記】この表示は28日にはまだあったが、デスティネーションキャンペーン終了を控えて、12月31日には既に撤去されていた。

この赤い装飾は、ガラスにステッカーを貼っているのは想像がつくけれど、内側から外が見えなくなっているのかといえば、
見づらいけれど見えることは見える(左がステッカー貼付面、右2枚がガラスのみ)
屋外からは装飾が見え、屋内からは外がいちおう見えるという、ハーフミラーのようなフイルムが用いられている。
 夜間は外からも中からも見づらくなる

内側からフイルムを観察してみると、黒い網状のものが一様に広がっている。
 
フイルムはガラスの屋内側に貼られている。
黒の中に無数の小さい穴が空けられているという表現がいいかな
調べてみると、住友スリーエムの「3M スコッチカル パーフォレイテッドウインドウグラフィックフィルム RG8173」という製品だろうか。塩化ビニル製で図柄はインクジェットプリンタ(業務用)で印刷。耐候年数約1年。
このシートは、建物の窓だけでなく、(秋田にはないと思うが)窓ガラス部分にまで絵柄が施されたラッピング広告バスなど、乗り物の窓ガラスに図柄を入れるのにも使われている。
※「三平バス」は窓ガラスに絵がかかっているが、あれは単なる「紙」状のもので、車内からの視界は遮られる。


実は、秋田市営バスでは、これと同じと思われるフイルムを窓ガラスに貼った広告をかなり早い時期から行っていた。
ただし、車体全面のラッピングではなく、車体は通常の塗装で窓ガラスだけを広告媒体として使うもの。当時はまだ「ラッピングバス」という概念がなかった(技術的にも未熟だったかも)から、無理もない。

当ブログで過去に掲載した写真の中で、側面の客席窓ガラスに「新政」と書かれた車両があったけど、それのこと。
(再掲)117号車
車内からは外が見え、黒に細かい穴が開いたフイルムをガラスの屋内側に貼っていたので、東口の「あきたにしました」と同じフィルムが使われていたのではないだろうか。穴の大きさはそっくり。
さらに、写真はないけれどそれ以前には、もっと多くのバリエーションがあった。それらをここでは「窓広告」と呼ぶことにする。


以下、記憶が頼りなので間違いもあると思います(記録した紙があるのですが、すぐに出てこないので…)。
窓広告が初登場したのは、1993年秋だった。
※余談だが、この年は12月2日に初のワンステップバス導入、年度末にバスロケーションシステムの更新も行われた。前年の秋田八丈カラーのワンロマ車やAT車の導入に続いて、活気があった頃だった。

ある日突然、窓ガラスの部分がピンク色で「そふと」の白い文字が並ぶ市営バスが来てびっくりし、しかも車内からはそれなりに外が見えることに感心したものだった。
個人的記録によれば、11月26日で1991年度導入のいすゞ製中型車265号車だったそうだ。

これは「そふと(新光)」すなわち湯沢市の「秋田県醗酵工業」の広告。
他の1990年度・1991年度導入のいすゞ製中型バス(245~247、263~266号車=全車両ではなかったかも)でも実施された。


市営バスの中型バスの客席窓は、上下に分割しているが、広告が貼られたのは下のほう。
左右ともいちばん前の窓には貼られなかったが、これは安全確認のためだろう。前ドア、中ドアの戸袋、中ドア、中ドア直後の行き先表示の下、運転席、非常口にも貼られなかった。
したがって、中型バスの場合、ドア側は3枚、運転席側は6枚の広告が出ていた。
いすゞ中型236号車(この車両では窓広告は実施されていません)赤く塗った窓に貼られた


それから間もなく、1990・1991年の日野製中型車(241~244の一部、260~262号車)で秋田市の新政酒造による、なぜかトリコロールの「清酒新政」、さらに1988・1989年の日野中型(209~213、226~229号車)と241~244号車の一部で湯沢市の秋田銘醸による赤い「美酒爛漫」も登場。
県内の酒造メーカー3社の共演となった。
いずれも記憶に基づくイメージです。もちろん、実際には銘柄部分はそれぞれのちゃんとしたロゴの書体でした
「そふと新光」の色使いが「あきたにしました」に似ている。

その頃、開局間もなかった秋田朝日放送の夕方のニュース番組「AABステーションEYE」(現在のスーパーJチャンネルの前身)で、窓広告のことがちょっとしたレポートとして取り上げられた。
交通局の担当者が「新しい広告媒体に対して、広告主は興味を示しやすい(飛びつきたがる)」という趣旨の発言をしていたのを記憶している。


やがて、車内側に名刺大ほどの白いステッカーが貼られた。「このフイルムはほとんどの紫外線をカットします」といったタイトルで、板ガラスだけとフイルム貼付時の2つの波長の紫外線透過量(カット率)を比較した表が出ていた。
当時はさほど「UVカット」の概念がなかったはずで、ひょっとしたら「こんなモンを貼って外が見えない(見にくい)じゃないか!」という批判を交わす目的があるのかな、などと思った。


上記の住友スリーエムの公称では、フイルムの耐久年数は1年ということだが、それを越えて貼られていた。1999年頃まではあったかもしれない。
時が経つにつれ、結露などによって隅のほうからめくれて、さらに切れてしまったりして見栄えは悪くなっていった。(下の写真参照)【28日追記】ただし、印刷部分が色あせるようなことはなかった。フイルムの粘着力が低下しただけ。


酒造会社に続く第2段も登場。(1997年には既に登場していたかもしれない)
今度はいすゞ製の大型バス。路線貸切兼用(ワンロマ車)の1985年導入の182~187号車で、水色地に黄色い文字の「七海医院」と白地にいろいろ書かれた(キャラクターも?)「国民年金」が広告主だったはず。
七海医院は泉秋操線(現・泉ハイタウン線)沿線であり、当時は大型バスを中心に運用されていたので、その辺の配慮もあったのだろうか。
また、車体が長い大型バスではその分窓が多いので、中型バスと同じサイズの広告をドア側に4枚、運転席側に7枚と、中型バスより1枚ずつ多く貼付できたはず。


さらに続いて、窓ガラスが大きい(逆T字と呼ばれる、横長の固定窓)大型バスでも実施された。(これも1997年頃にはあった)
1986年度導入の最初期の新塗装車両(日産ディーゼル以外の3メーカー製202~208号車)で、たしか国民年金だったか?
以上は、遅くとも2000年度中にはなくなった(車両自体が廃車された)されたようだ。


そして、最後の窓ガラス広告が、写真に残っている大型バスの「清酒新政」。新政としては2代目でデザインは変更された。
これも逆T字窓の大型車で、1993・1994年度導入のワンステップ車(日産ディーゼルの116~120、いすゞの126~129号車)が使われた。
120号車
逆T字窓は窓が大きいだけに、広告1枚あたりが広く取れるようになった。しかし、メーカーによって窓割りに差異が多かったようだ。日産ディーゼル製(厳密には中型バスの車体長だけを延長した「普通型」バスだが、交通局では大型バスとして扱っていた)では非常口後方の窓が狭いため左右とも3枚ずつ、いすゞでは運転席側はドア側にわずか2枚、運転席側に4枚貼っていた。
127号車
いすゞ製は各窓の幅が特にまちまちなようで、広告の幅を変えて貼っている。非常口の後ろやドア側のいちばん前は「酒新政」。
(再掲)126号車ドア側

これらワンステップ車は、2001年度いっぱいで中央交通へ譲渡された。このため、2002年2月下旬までは貼られていたフイルムが、3月にかけて順次撤去されたようだ。
2002年3月25日の117号車
これをもって、秋田市営バスの窓ガラス広告は約10年間の幕を閉じた。


ところで、窓広告が実施された車両は、メーカーや導入年に偏りがあった。どうしてそれらが選ばれたのか。
選ばれなかった車両を見てみると、理由が推測できる。
1992・1993年度導入の大型車。
(再掲)
逆T字窓の大窓ながら、ガラスが青く着色されている。
これに広告を貼ったら、色がおかしくなるし、車内が暗くなるだろう。
1993年度から導入されたワンステップ車では、ガラスが無着色になり、後に窓広告が実施された。(1993年度は色の有無両方導入したことになる)窓広告が始まったのが1993年度だから、ひょっとしたら、窓広告を行う前提でガラスに色を付けなかったのかもしれない。

三菱や日産ディーゼル(富士重工ボディ)の中型車。
比較のため、爛漫が貼られていた日野製229号車
※窓枠の色がシルバーとブラウンなのは、導入年の違いによるもの。1989年導入の240号車までが銀色、翌年の241号車から茶色。
1992年度導入三菱製274号車

(再掲)1996年度導入日産ディーゼル製137号車
三菱と日産ディーゼルでは、下の窓の天地が短いのだ。
また、三菱ではドア側の後方2枚、日産ディーゼルでは前から2番目と最後部の窓の幅が狭く、これではドア側には2枚しか掲出できない。
特に日産ディーゼルの前から2番目は極端に狭い。一口に中型バスと言っても、だいぶ違うものだ。
したがって、貼るスペースの都合(面積と数)で日野といすゞが選ばれたと考えられる。(まとまった数の同型車が在籍していたということもあるだろう)

ちなみに、マイナーチェンジした1993年度以降の三菱製では後方の窓は通常の幅となった。一方、1994年度の日野製では窓の天地が短くなっている。



以前も紹介したように秋田市営バスでは、車内外のさまざまな場所を使って、さまざまな手段で広告を行い、車両を広告媒体として活用していた。
中でも、通常なら「窓」に過ぎないはずの窓に、企業名などがずらりと並んでいるというのは、目を引いてインパクトがあった。広告効果は高かったはず(広告費に見合うかどうかはともかく)。
また、特殊なフイルムを使うことにより、窓を窓としての機能を損なわずに広告媒体としたのは、車体ラッピングが普及していなかった当時としては、車両広告の最先端だったと言えよう。
秋田市営バスの先進性は、窓広告からも、うかがい知れる。

※2014年には、中央交通で戸袋の窓にただのシールを貼る広告が登場した。この記事中ほど。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌市営バスの車内

2013-09-20 23:58:56 | 秋田市営バス
バスの日なのでこの続きで、札幌市交通資料館の元札幌市営バス路線車の車内の様子。
前の記事は北海道旅行記としてのカテゴリーでしたが、今回紹介する内容は、秋田市営バスにも共通する点があるため、「秋田市営バス」カテゴリーにします。

まずは車内に貼られているシール類。
ポイ捨て防止もあるけど、その上の文字だけのシール
「吊手・保護棒におつかまり下さい」とある。
車内で握ってつかまるための棒(手すり)のことを、札幌市営バスでは「保護棒」と呼んでいたようだ。
耳慣れないけれど、定山渓の行き来で乗った、じょうてつバスの車内自動放送でも「保護棒におつかまりください」と言っていたので、市営バス以外でも札幌近辺などでは使う呼称なのかもしれない。
「社団法人北海道バス協会 会員之証」
全国的に2009年から日本バス協会の「会員章」としてNBAステッカーが貼られているが、そのローカル版がそれ以前から存在したのか。
このバスのキャラクターは「きょろたん」という名前だそう。今も同協会のホームページに掲載されているが、車両のほうはNBAシールに代わられてしまったかもしれない。

「冷房中は窓を開けないでください」「お年よりを大切にしましょう」
札幌市営地下鉄には今も冷房がないけれど、市営バスにはあったのか。
降車合図ボタンの上に「お年よりを大切に」。他の内容の車内マナーの呼びかけもあった。


次は、日野ブルーリボンの窓の下に注目。
窓の下というか壁というか
この車では、窓のすぐ下に、幅5センチ強程度の赤茶色に黒いラインが入った樹脂製の帯が取り付けられている。さらにその下には、座席と同じ布地の帯がある。

上の帯は、窓枠と壁の境目の部品ということだろう。上下方向に開閉する窓のバスで設置されるようで、メーカーによってデザインが違い、日野のものは古臭いと思っていた。(その後、平成に入った頃の製造分から、グレーのものに変わった。)最近のバスの主流の逆T字形の窓では、この部分にあまり特徴がなくなって(どれも焦げ茶色の肘掛け状)いる。
下の布は、存在意義がよく分からないが、二の腕から肩にかけてのクッションみたいなものだろうか。最近のバスでは必ず付いているみたいだが、秋田市営バスでは付いていた車両は1台もなかった。
2つの帯
展示されているブルーリボンは1987年製とのことだけど、このように古い帯と布製の帯が共存する車両があったとは知らなかった。布の帯はオプション設定だったのかもしれない。


次は、いすゞも日野も共通。
つり革(吊手)
1つの輪に対して、2つの紐がV字形につながる。激しく揺れる車内でも、安定してつかまっていられる。
秋田市交通局でも、1985年頃の導入車両(188号車辺り)から採用していた。
他には仙台市営バス、弘南バス、じょうてつバスで見たことがあり(※秋田中央交通にもあるが、それは市営バスからの譲渡車両)、最近は優先席前用として輪も紐もオレンジ色のもの(鉄道であるような)もある。※このつり革は稲垣工業製の「ダブルベルト」と呼ばれるもので、札幌市民のアイデアで製品化されたものだった。

さて、特に大型バスでは、車両後方で床が高くなる。それに合わせて、天井のつり革の高さが途中で変わっている。
高さが変わる途中にあるつり革は、斜めに取り付けられているのがおもしろい。秋田市営バスでもあったような気がする。
いすゞは、後ろ2つが斜め

日野はもう少し前寄りの2つが斜め


いすゞキュービックの天井
つり革の下がる棒の間に、別に2本の棒がある。これが保護棒か。秋田市営バスではこの棒は1本だけだった。
上の写真やさらに上の斜めつり革の写真では、天井から下がった、棒を取り付ける柱に降車合図ボタンが設置されている。
昔のバスは、天井に直接ボタンが付いていたものだが、いすゞ(と富士重工も)では、このように比較的早期から設置場所を変えて少し低くして、多少なりとも押しやすくなっていた。(今のバスはもっと低い位置にありますね)

上の写真でさらに気になるのが、天井の丸い物体。
日野ブルーリボンの天井。ボタンが直に付いている
丸形蛍光灯の照明器具は、よそのバスでもたまに使われているけれど、これは少し形状が違う。
展示スペースにもあった
中央にスピーカーを内蔵した室内灯だそう。札幌市営バスのオリジナルなんだろうか。
秋田市営バスでは、蛍光灯は直管形、スピーカーは円形の肌色または長方形の銀色のクラリオン製だった。


整理券発行器(小田原製だから「整理券機」か)
懐かしい、インク印字式。日本中探せば、今も使っている所がありそうではあるが。
秋田市営バスでも標準で使われていたタイプ(もう1タイプあったが)。久々に見ると、今の感熱紙式(秋田市の循環バス車内で紹介)の機械よりだいぶ横幅がある。
インクが薄くて数字が判読できなかったり、濃すぎて手に付いたりしたものだ。券番号が切り替わる時は「カチャッ」と大きな音がし、終点到着前などでリセットするときは「カチャッ、カチャッ、カチャッ…」とリズミカルに連続した。ハンコみたいなので印字していただろうから、それが動く音だろう。(他に券を裁断する音、印字済みの不要な券を内部で捨てる音もするはずで、感熱紙式でもかすかにそんな音は聞こえるが、電子的なプリンタっぽい音)
整理券機の銘板
電話番号や営業所所在地まで律儀に書いた銘板は、秋田市営バスでも見た覚えがある。※秋田市では、1991年度導入車両の1台(268号車)で感熱紙式が初めて採用され、翌年1992年度導入車両(の一部)までインク式が使われた。
銘板の「製造発売元」は小田原機器ではなく「小田原鉄工所」とある。
同社は1979年に鉄工所から機器に変わったようだが、これはそれ以前に製造された機械なのだろうか?(製造年は判読できず)だとすれば、この車両より古いから、別のもっと古い車両のものを再利用したことになる。
あるいはメーカー側で銘板のストックがあって、社名変更後も旧社名の銘板を使っていたのか。
【25日追記】小田原機器のホームページ「製品のあゆみ」によれば、この発行機は「小型、多区間対応」の「3型(3はローマ数字)」で、昭和42(1967)年発売。平成7(1995)年まで製造された。※このページでは「整理券機」ではなく「整理券発行機」と表記している。
札幌の車両では「整理券をお取り下さい」と表示されているが、ホームページの写真では「お取りください」となっている(書体や色は同じ)製品もあり、製造時期で異なるのだろう。
同社では、1965年に初の整理券発行機を発売。「紙の繰出し機構」の開発が難しかったそうで、プラスチックの札を使うもの。翌1966年には紙に印字するタイプが登場するも、券番号を昔のテレビのチャンネル状のダイヤルで設定するなど制約があったと思われる。そのさらに翌年にできたのが、この3型で、この段階で完成形に達していたと言えよう。
秋田市営バスの整理券について


運賃箱も小田原製で、比較的新しいもの。表示は「料金箱」となっていた。
小田急や青森市営バスでは、運賃のことを「料金」と呼ぶため、運賃箱も料金箱としている。札幌市も同様のようだ。(秋田中央交通では運賃だけど、なぜか1台だけ「料金箱」と表示している車がある)

建物内部の展示より。
古い料金箱
(説明などをよく読まなかったけど)これは路面電車で使われていたのかもしれない。
どちらも手動式らしく、投入すれば見える位置に留まり、レバーを動かせばガチャンと中に落ちる仕組み。もちろん、自動両替機能などない。
実は弘南バスの100円バス専用車両では、10年くらい前まではこういう運賃箱を使っていたし、福島の「磐梯東都バス」でも5年ほど前に見たことがある。(2社とも、写真左側のようなタイプだった)

テープ式AGS(車内放送用テープ再生装置)
秋田市の循環バスの記事で、音声合成方式の「オートガイドシステム」を紹介した。その前世代がこれ。型番は剥がれて判読できない。
札幌市では「1980年代初頭から採用されたタイプ」で、2003年から順次デジタル式(音声合成)に変わったとのこと。
そして、その、
車内放送用テープ
これはラベルが大きくて、テープの姿(中身)がよく見えない。
札幌市では、少なくとも1971年から4トラックテープ(車内用と車外用で2つのテープを使用)が使われ、後にこの8トラックに統合。よく分からないが「IC録音機能」もあったそうだ。
広告放送は1973年頃から始まったとのこと。

【21日画像追加】暗いですが、いすゞキュービックの車内
緑色系統の座席(柄や背もたれ形状は異なる)、窓の形など、どことなく秋田市営バスを連想させる。
左側の車椅子スペースの座席がないこと、右側の戸袋の所が現在と同様のロングシートになっていることは、秋田市営とは異なる。

以上、札幌市交通資料館のバス関係の展示でした。(地下鉄等の展示に関してはいずれまた)
鉄道はともかく路線バスの資料なんて、どこでもほとんど残らない(残さない、残せない、残れない)。秋田市営バスの資料や記録も、多くが消えていく運命なのだろう。
札幌市のように、運行していた所自身できちんと残せば、確実で貴重な記録として後世に伝えられるに違いない。(その意味では、札幌市でももう少し丁寧な情報収集や保管方法が必要なようにも感じたのですが…)
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

車内放送広告

2013-09-11 23:17:09 | 秋田市営バス
6月下旬から、秋田のバスの車内放送の広告に「今でしょ!」が登場した。
バスの車内放送広告は、広告主は地元のお店などローカル色にあふれ、その内容は個性的なものが少なくない。(労働相談の「一人で悩んでいませんか。行こうよ連合に」のように、全国共通のものもたまにあるけれど)

最近は、昔に比べて車内放送の広告が減っている(経済状況のほか、放送がテープから音声合成に替わったという技術的な理由もあるはず【末尾※印参照】)けれど、かつての秋田市営バス時代も含めて、放送広告の話題です。
※市営バスの放送そのものについては、いずれ別記事にしたいと考えています。この記事は放送広告のこと限定で。
※記憶に基づくので、細かな言い回しは違っているものがあるかと思います。時期によって微妙に異なっていたこともあります。

全国的に、バス停名の案内に続いて流れる広告は、ある程度パターンが決まっている。
神奈川中央交通(小田急系列)グループの広告会社「アドベル」のホームページ(http://www.advel.co.jp/advertising/busstop/index.html)によれば、「~前でございます。」「~へおいでの方はこちらが便利です。」「~においでの方は○○○でお降りになると便利です。」などがあり、たしかに秋田でも似たようなもの。


先日、「今でしょ!」を確認する時、添川線下りに秋田駅から桜町まで、放送に耳を傾けて乗車した。
9つのバス停のうち広告があったバス停(カッコ内は広告主)のは、千秋公園入口(山田相談薬局、西東北日野自動車)、通町(通町クリニック)、通町二区(山田相談薬局)、桜町(矢野薬局)の4停留所・5広告主だけ。(同じルートの神田線でも同じ内容のはず)
市営バス時代は、木内前やすわ町でも広告があったのになくなっているし、通町はスポンサーが替わって(昔は高砂堂や金物の通町山下など)いる。時の流れを感じずにはいられなかった。

本格運行化に伴って中心市街地循環バス「ぐるる」でも広告が流れるようになったが、全バス停中、千秋公園入口(笹原内科医院)と木内前(松岡内科クリニック)の2つだけ。
上記の神田線・添川線と重複する区間でも、広告はそれとは違うし、一般路線の放送広告や車内掲示広告はあり、前を通るようになった中通病院の広告がないのは意外。
運行本数(=放送回数)や広告料金の都合なのだろうが、車内放送広告の仕組みはけっこう複雑なようだ。


では、広告の内容を見て(聞いて?)みましょう。
●交通安全キャンペーン
まず、秋田市のバスの放送広告の常連、バス会社にしてみればお得意様。通町の商店街(厳密には大工町。所在地は大町一丁目)の「山田相談薬局」。
最寄りバス停は「通町二区」としているが、バス停が移動する前の通町二区にしてもわりと離れているし、道路拡張によるバス停移動で、今はさらに遠くなっている。(通町のバス停の変遷)むしろ将軍野線の旭北栄町のほうが近い。

山田相談薬局では、20年以上前、通町二区を将軍野線しか通っていなかった(後に泉秋操線が運行開始され、バス停移動で神田線なども通るようになった)当時から、放送広告をしていたと思う。
「次は通町二区」に続く放送のほか、秋田駅前の次・通町二区の3つ手前の千秋公園入口(旧・公園前)で流れる、交通安全キャンペーンの提供もしていて、通町二区を通らない一部路線でもその名を聞くことができ、そちらの印象が強い乗客も多いかもしれない。(千秋公園入口は一方通行区間なので、片道しか流れない)

※過去にさかのぼって、常に通町二区と公園前の両方で広告していたかは不明。(どちらか片方だけの時期があったかもしれない。)それに、市営バスがあった当時、中央交通でやっていたのかは乗ったことがないので知らない。
千秋公園入口も通町二区も、市営バスがなくなる最後まで通っていたバス停ではあるが、市営バス最後の一時期(1年半とか1年?)は、放送広告そのものがまったくなかった。(広告費の精算の問題か)中央交通移管後、広告放送は再開されたが、上記の通り広告が減ったり、広告主が替わったりしたものも多い中、数少ない、市営バス当時とほとんど変わらない広告が今も流れている。
今はこんな内容。
・通町二区
みなさまの健康に奉仕する『山田相談薬局』へおいでの方はこちらが便利です
・千秋公園入口
『青だけどきちんと見ようね右左』この標語は、みなさまの健康を応援する通町二区『山田相談薬局』の提供でございます」(これに続いて西東北日野自動車)

千秋公園入口の広告は、通町二区を通る路線のほか、新屋線など通町二区は通らない(けど通町は通る)路線でも流れている。
一方、中心市街地循環バスの千秋公園入口では、こう替わっている(西東北日野自動車はなし)。
『手をつなごうみんなの願い交通安全』この標語は、みなさまの健康へのお手伝いをする大町二丁目下車『笹原内科医院』の提供でございます
おそらく、通町を通らない路線では、こちらが使われている(循環バス以外の一般路線では、西東北日野自動車も流れるはず)のではないだろうか。昔は全部山田相談薬局だったような気もするが…

交通安全標語の部分は、更新のたびに違うものが使われてきた。他のバス会社でも、同様の標語の放送がある所があるようなので、広告代理店が絡んでいるのだろう。
どうも、全日本交通安全協会と毎日新聞社が毎年公募している「交通安全年間スローガン」の過去(だいぶ以前のものもある)の優秀作から選ばれるものが多いようだ。
現行の「青だけど~」は昭和62年のこども部門警察庁長官賞、「手をつなごう~」は出自不明。

ここ数十年で他に記憶にあるのは、
「よく見たね車来ないね渡れるね」平成元年総理大臣賞歩行者向け
「手をかそう小さな子どもとお年寄り」昭和50年総理大臣賞歩行者向け(※オリジナルは「ちっちゃな子ども」だが、小さなと言っていたはず)【下の追記参照】
「安全は目から耳から心から」昭和62年佳作こども部門
「安全は人と車でつくるもの」昭和42年佳作運転者向け

現在は、「この標語は~」と「~の提供でございます」と言っているが、市営バス時代は「このキャンペーンは~」、「この交通安全キャンペーンは~」、「~がお送りしています」、「~のご厚意(ご協力?)でお送りしています」など言い回しが異なっていた。

【2016年6月11日追記】2016年6月11日の神田線では引き続き「応援する山田相談薬局の提供でございます」で、標語が「手をかそう小さな子どもとお年寄り」に変わって(昔に戻って?)いた。日野の広告はそのまま継続。
【2019年10月28日追記】2019年10月27日の新屋西線[通町は通らない]では、「この標語は」「応援する山田相談薬局の提供でございます」、標語はまた変わって「青だけど~」。※2019年10月から「発車します。ご注意ください」「バスが停まるまで席を立たないでください」が「発車します。おつかまりください」「バスが停まってから席をお立ちください」にそれぞれ変わるなど、決まり文句の差し替えが実施された。


●気になる言い方
言い回しの変化といえば、中央交通移管後に始まったと思われる千秋公園入口の西東北日野自動車の広告。今は、
降りたバスのすぐ前や後ろの横断は非常に危険です。横断歩道を渡りましょう。『西東北日野自動車』からのお願いです
以前は、交通公社前で流れていた(したがって、通町や有楽町経由では流れなかった)ように記憶しているが、「横断歩道を渡りましょう」ではなく「横断歩道を渡る習慣を身につけましょう」だった。
「身につけましょう」だと、お前らはそんな常識も知らんのかとバカにされているように感じたから、表現を変えたのかもしれない。
【2015年4月2日追記】2015年4月に県庁経由大川反車庫行きに乗ったところ、県庁市役所前で「渡る習慣を身につけましょう」という「秋田いすゞ自動車からのお願い」が流れた。コメント欄の通り、昔はいすゞで身に付けましょうだったそうなので、いすゞと日野の違いなのかもしれない。【追記】2018年1月時点、2024年7月でも同じ。
【2018年11月22日追記】2018年10月には、どこのスポンサーか忘れたけど「バスが発進してから横断歩道を渡りましょう」に変化。

他にもちょっと気になる言い回しで、(最近は放送自体聞かなくなったが)中央交通の身内の秋田中央観光社(旅行代理店)の「土曜、日祝日も営業しております」(「土曜、日“曜”、祝日も」もしくは「土日祝日も」とするべきじゃないのか)や、同じく身内の中央タクシーで時期によって「GPS自動配車システム」と「GPS自動”車”配車システム」があり、聞くたびにもやっとしてしまった。


●懐かしの@市営バス
なぜか記憶に残ってしまっている、市営バス当時の広告から。いずれも現在は流れない。
豊富な品揃えの『まるい呉服店』前でございます」(牛島東一丁目?)
『ハッピーレンタルでおしゃれに変身』あなたの衣装室『レンタルブティック セシリア』前でございます」「カルテによるきめ細かい指導。『新星ゼミナール』へおいでの方はこちらが便利です」(すわ町)
『カラオケジャンボ』、『焼肉レストラン大昌苑』前でございます」(有楽町)
※正しくは「カラオケ広場ジャンボ」らしいが、1990年代の放送ではたしかに「カラオケジャンボ」と言っていた。また、関西のチェーン「ジャンボカラオケ広場」とは無関係と思われる。

●懐かしの@弘南バス
ここで秋田を離れて、同様に放送広告が減っている弘前の弘南バスから。
なお、弘南バスでは「~へおいでの方はこちらが便利です」に相当するのが、「~へご用の方はこちらでございます」。
アパート、マンションのことなら『よつば不動産』。不動産のエキスパート『よつば不動産』へご用の方はこちらでございます」(住吉入口。ひょっとしたら下りだけ?)
音声合成化以前の弘南バスでは、車内放送を自前で録音していたらしく、津軽なまり気味のような独特の節回しのアナウンスが特徴だった。よつば不動産の広告では、それが顕著に感じられた。

●弘前でも秋田でも
最後に、ローカルなスポンサーなのに、秋田と弘前で同じ広告主のものが流れていたことがあった。内容は異なった。(どちらも現在は流れていない)
秋田(市営バス)では10年少し前の一時期だけ流れていたかと思う。
美容形成、医学レーザー脱毛の『はらクリニック』は、弘前駅前にございます」(木内前)
なんと、秋田とは無縁の弘前のクリニックが秋田に広告を出し、それがなぜか木内前で流れていた。初めて聞いた時は、驚いた。

これが弘前では、
皮膚科、美容形成外科『はらクリニック』へご用の方はこちらでございます」(弘前バスターミナル前のはず)
弘前では、皮膚科であることを最初に述べており(「皮膚科」のアクセントが独特だった)、弘前駅前の1つ先のバスターミナル前にあるとしている。(イトーヨーカドー西側の並木通りを渡った所にあるので、駅前よりも「バスターミナル前」が妥当だろう)
秋田市から皮膚科治療のために弘前に行く人はいないだろうし、秋田の人に弘前バスターミナルと言っても分からないから、ターゲットに応じて内容を変えていたのだろう。

※2014年頃になると、弘南バスでの放送広告が復活し、大幅に増加していた。広告が減ったことに関して、音声合成の技術的制約はなかったようで、単に各社の方針・営業努力のせいだったのだろうか。

ほかにも忘れているユニークな広告があるはず。どんな放送広告があったか、覚えている方はいらっしゃるでしょうか。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

131号車の市章

2013-06-05 23:50:48 | 秋田市営バス
市町村のマークというか紋章。
市町村合併に伴って最近定められたものは、曲線を多用してカラフルな、そしてあまり個性が感じられない(=似たりよったり)ロゴマークみたいなのが多い。(今日6月5日を「ロゴマークの日」と定めたデザイン会社があるそうだ。ロゴというより語呂ですな)

名古屋市の「○に八」とか、弘前市の「卍(まんじ)」とかシンプルなほうが分かりやすい。
※弘前市の卍は、ナチスドイツの「ハーケンクロイツ」とは向きが異なる。15年ほど前、一部のマンホールのフタがハーケンクロイツになっていたことが指摘され、修正したことがあった。


秋田市の市章もシンプル。
秋田市のホームページ「秋田市の沿革・市章・市の木・市の花・市民歌(http://www.city.akita.akita.jp/benri/01annai/03_4.htm)」によれば、「的に「矢留」の形と、秋田市の「田」の字をあらわしています。「矢留」とは旧秋田藩主佐竹氏の居城「久保田城」の別名。」とある。
秋田市章の歴史は長く昭和3年6月制定。秋田市例規集第1編第1章「市の紋章」が昭和3年6月8日付で告示されているから、今週の土曜日で秋田市章制定85周年ということになるらしい。

例規では「直径2寸4分ニ対シ輪ノ太サ2分、中心円径4分、矢羽ノ幅ハ広キ処4分狭キ処3分斜線ハ水平線ニ対シ30度ノ角度」とか細かく定めていて、「当市出身小場恒吉氏ノ考案ニ係ルモノデアル」であるそうである。
※小場恒吉は紋様学者、美術史家、画家(1878-1958)。県立秋田工業高校教諭や東京芸術大学教授を歴任し、秋工の校章も作った。秋田市章は秋田市制40周年で定められたとのこと。


秋田市章の「色」は定められていないようで、例規集では黒色で図示されている。
また、これも明確に定められてはいないのかもしれないが、秋田市の色として「若草色」が定着している。

そんなわけで具体的な根拠は知らないけれど、実際には市章にも若草色が使われている。
「秋田市旗」では若草色の地に白抜きで市章が配置され、カラーで市章だけを表示する場合は若草色で描くことになっているようだ。
秋田市の公式ホームページの各ページにも、市章が配置されているが、若草色というよりはただの緑色になっている。
若草色とは違う

今年夏に、秋田県中央部の海沿いの市町村で開催される「第10回海フェスタ実行委員会」のホームページ(http://www.umifesta-oga.jp/)では、他の市町村章と一緒に、若草色に近い色の秋田市章が出ている。



さて、先日青森市営バスのを紹介した(リンク先末尾)けれど、各地の市営バスの車体にはその市の市章が付いていることが多い。(仙台市営バスにはない【6日訂正・仙台市バスは側面に市章があるとのこと。コメント欄参照】)
秋田市営バスでも、路線車両では正面に付いていた。(貸切車両などは側面に付いていたものもあった)
(再掲)祝日は市旗を付けていたので、秋田市のマークが2つ
少なくとも市営バス末期に在籍した車両では、ラインを銀色で、円内の背景を白みがかった緑色にした市章だった。おそらく、円形の金属製の板をビスで留めていたかと思われる。(小型バスでは2回りくらい小さい同じもの)
移管に際して中央交通に譲渡された車両は、塗り替え作業が終わるまでは、市章が剥がされた(その跡に白いシールを貼った?)状態でしばらく運行され、魂が抜かれたようで寂しく思えたものだ。


末期の市営バスの市章の中でちょっと変わっていたのが、1995年度導入の三菱製中型車(130~133の4台。現在も中央交通で活躍中)。
130号車。バンパーがグレーなのも特徴的
この車両の市章は、平面的で車体にぴったり張り付いているように見える。市章の線は光沢のある銀色ではなくグレーっぽい。それに他の車両では見えることがあるビスやネジのようなものが見えない。
おそらく、印刷したシート状のものを貼っているのではないだろうか。
同年導入の小型車や翌年の日産ディーゼル製では通常の市章だったようだから、この年の三菱だけの仕様だったのだろうか。(三菱の路線車は1995年度導入が最後。その前の1993年度車は通常の市章)

さらに、その4台の中で、ひときわ変わった市章の車があった。
131号車。分かりますか?(2001年9月撮影)
市章の背景の色が違うのです。
他より黄色がかった緑色というか、蛍光色っぽいというか。これは「若草色」と言えそう。
水滴が付いている(2002年2月撮影)
市章以外にも特徴があるのにお気づきでしょうか。

それは、旗を立てる棒がないこと!
上の拡大した写真では、旗を立てるべき位置に穴は開いている。必要な時だけ立てていたのだろうか?
(再掲・2005年9月撮影)
2001年9月の時点では、既にこの市章で旗の棒がない。その後、2002年3月では棒がなく、2003年2月(祝日でない日)では棒が立っていた。
最末期は、他の車両と同様に棒が常にあったことになる。
131号車と268号車(1991年度導入)。車体の色も肌色とピンクっぽくて違う。2002年2月撮影

291号車(1993年度導入)と棒がある131号車。2003年11月撮影
どうして131号車だけ、市章や旗の棒が違うのか。
おそらく、事故などで前を破損し、その復旧時に違うものに替わってしまったと考えられる。
同じようなものに271号車の側面窓や249号車のバンパーもあるのですが、いずれまた

131号車は、2006年3月31日の秋田市交通局の最終日までこの市章(ただし「ありがとう」の幕で隠れていた)で運行し続け、最終便を担当した5台のうち1台となった(当日の運用からすれば、他の4台は増車扱いで、この131号車こそが真の最終運行の車両だったはず)後、中央交通へ譲渡・塗装変更された。(この年は車両数に余裕があったらしく、市営バスの塗装のまま中央交通で運行されることはなかった)
※塗り替えられた後の状況はこの記事後半


市営バスの市章で変わったものとして他には、
(再掲)230号車

留めているビスが見える
230号車の市章も、背景の緑色が若草色に近いように見える。
230号車は1989年導入の三菱車で、計3台(230~231号車)が導入されているものの、他の2台の画像がないため、230号車だけだったのか検証はできない。

【6日追記】
秋田市営バスと市章といえば、乗務員の制服のボタンや制帽の帽章にも、秋田市章(そのものではなく)をベースにしたものがデザインされていたはず。
なお、秋田市の市長部局などの職員(交通局の事務職員も対象か)に支給される「事務服」のボタンには市章などは使われていないらしい。

それから、交通局発行分の回数券の地紋も、薄い黄色で小さい市章がびっしりと並んでいた。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小型バス

2013-02-20 23:33:04 | 秋田市営バス
今まで紹介してきた(タイトル一覧)通り、秋田市交通局(秋田市営バス)の路線バス用車両は、中型バスが圧倒的に多く、それに混じって一部路線では大型バス(ワンロマ車も)が使われていた。

中型バス、大型バスのほかに秋田市営バスには、控えめな存在ながらもう1つの車両のタイプがあった。それが「小型バス」。
交通局末期は、築地経由経法大附高線(現在はノースアジア大学線)、築地経由桜ガ丘線、泉山王環状線、駅東線、中北手線(現在はマイタウンバス化)など、ごく一部の路線だけで使われていた。多くの市民にとって乗る機会はおろか見る機会も少ないけれど、いざ目にすると大型バス・中型バスよりは明らかに小さく、見れば見たで印象に残る存在ではあったかもしれない。
今回は、これに注目したい。
※バス会社や人によっては、同じサイズの車両群を「マイクロバス」や「ミニバス」と呼ぶこともあり、秋田市でも導入当初はミニバスと呼んでいた模様。ですが、個人的にはなんとなく「小型バス」と呼びたいので、そうさせてもらいます。


秋田市交通局では、1975(昭和50)年に初めて小型バスを導入。その後、2度車両を更新したので、3世代の小型バスが存在した。ちょうど10年前の2003(平成15)年春に、当時の小型バス全路線と車両を中央交通へ移管・譲渡して、市営バスから小型バスがなくなった。

初代の小型バスは、この記事後半の通り、水色と白の地にオレンジ色の線が入る車体デザインで、市営バスの他のどの車両とも違う独特の塗装。(途中で塗り替えられて、若干塗装が変わったらしい?)
車種は、いすゞの「ジャーニーM」または「ジャーニーK」という、トラックの「エルフ」を元にした車だろうか。古臭いデザインで、側面から見ると台形に近い。ドアは前方(運転席が前輪の上にあるので、運転席よりは後ろ)に1つしかないので、乗降兼用。(最後部にもドアを設置することは可能だった模様)
もちろん冷房はなし。車両番号は不明だが、2桁だったはず。【4月15日追記】1桁だったかもしれない。
僕は、泉山王環状線で1度乗った記憶はあるが、車内がどうだったかなどの記憶はない。


2代目は、1985年前後(82年から84年頃?)に導入された。これは当時の中型・大型の路線バスと同じ塗装。
やはり、いすゞジャーニーで、型式としても先代とそんなに違わないのかもしれないが、車体の製造(架装)が「北村製作所」という新潟のメーカーによるもので、デザイン的には別物になった。
当時、北村製作所はいすゞのバスの車体をよく作っており、北日本各地などのバス会社に採用されていて、秋田市営バスや中央交通の中型バスにも、導入実績があった。
複数年度に分けて導入され、ヘッドライトは丸いのと四角のがあった。ドアは引き続き前だけ。

秋田市営バスの大型・中型バスでは、「138」号車のように、貸切・路線連番の3桁の車両番号を振っていた。
2代目小型バスには、2桁の50番台の車両番号が付けられていた。昭和40年代頃は、大型・中型バスでも2桁の番号があったようだが、この頃には2桁が小型バス専用の番号だったことになる。【4月15日追記】50~59号車の10台があったかもしれない。
同時期の大型・中型バスにならって、冷房付き。55号車くらいまでは丸いヘッドライトで、58号車は四角だった。

個人的には、ちょっと格好悪いデザインに感じていた。
北村製作所製の中型バスをそのまま縮小したようなデザインなのだが、そのせいか若干無理があるように感じていた。うまく表現できないが、「頬骨が出っ張っている」というか雪上車か何かのような不恰好なデザインに見えた。
それに、当時の市営バスの北村製作所の中型バスは、冷房がなく、行き先表示機が小型。つまり、「古いバス」という固定観念があった。この小型バスは、中型バスとそっくりなのに冷房が付いている(夏にペンギンマークのシールが貼られた)というのも、不思議な印象があった。

2代目小型バスは、3代目の導入に伴って順次廃車されたが、3代目導入後もしばらく残っていた車両が1台(?)だけあった(2000年前後まで??)。しかも、新しい塗装に塗り替えられて。
ただし、いつも東営業所の片隅に駐まっていて、走る姿は見たことがなかった。おそらく、予備車専用として残されていたのではないだろうか。【25日追記】いただいたコメントによれば、塗り替えられて残った2代目は2台あり、たまに運行していたとのこと。
中型・大型も含めて、旧塗装車が新塗装へ塗り替えられた唯一の例でもあり、写真を撮っておけばよかった…


3代目は、1993年度から1996年度まで、4年かけて順次導入された。
秋田市営バスでは、全般に車両の交替サイクルが比較的早かった傾向はある。それでも、中型や大型は10年以上使われたのに、小型は初代・2代目とも10年そこそこで更新されていたことになる。

初代・2代目はいすゞ製だったが、3代目は日野自動車製となり、メーカー側の事情(後述)があって車種としては2種類が混在した。
この頃のいすゞ自動車は、経営状態が良くはなく、小型バスの使い勝手や売れ行きも良くなく、1993年からは日産のOEMになったようで、そんな理由からメーカーを替えたのかもしれない。

1993年当時の日野の小型路線バスは、中型バス「レインボー」の中に「レインボーRB」として内包されていて、まずはそれが導入された。
1993年度と1994年度に1台ずつ導入され、60・61号車となった。
61号車。中型・大型と同じ新塗装

側面
車両後部にもドアができ、乗車と降車が分離された。
秋田市営バスの歴代車両で、車両後部にドアがあるのは、この車両だけだろうか。

この車両で画期的なのが、前ドアが、中型・大型と同じく、前輪より前になったこと。(レインボーでは1992年に追加された仕様)
以前の車両では、ドアが運転席から離れた後方にあり、乗客の動線や運転士のドア開閉、運賃収受があまりスムーズにいかなかったはずだが、これによって大型・中型バス並みになったと思われる。

側窓は、当時導入の大型バスと同じく、青い着色ガラスが採用されている。(同時期導入でも、中型バスはなぜか無着色のガラスだった)
リアウインドウも青い
この頃の中型バスでは、オートマチックトランスミッション仕様で導入されていたが、大型と小型はなぜかマニュアル。
60号車車内。つり革はなかったようだ
座席の柄は、中型や大型(ワンステップは別の柄)と同じ、緑色(と数少ない2人掛けの通路側はエンジ色)の格子。背もたれは(市営バスにしては)低く、昔のバスのよう。肘掛けにも布がかかっているのが豪華(中型・大型にはない)。
車体デザインもスタイリッシュになったし、ドアの配置も変わり、より普通のバス(中型・大型)に近くなったと感じた。


1993・1994年度と2台が導入されたところで、変化があった。
1995年8月に、レインボーRBが廃止され、新車種「リエッセ」として独立・モデルチェンジしてしまった!

交通局としては予想外の展開だったろうけれど、メーカーの都合だけにどうしようもない。素直に1995年度からはモデルチェンジした車両を購入。
62号車。祝日などに掲げられる旗は、中型・大型と同じものだったようで、小型バスには大きく感じる
リエッセでは、中型・大型同様、車両の中央部にもドアを設置できるようになり、交通局はその仕様で導入。
63号車側面
したがって、最後部にドアがある60・61号車とは乗車口の位置が違ってしまうことになるが、特に区別せずに混ざって使われていた。
レインボー61号車とリエッセ62号車
リエッセでは、側窓は無着色に戻り、座席柄は同年度の中型バスに合わせて、水色系統とピンク系統の座席に変更(肘掛けには布がかかっているはず)。

リエッセは1995年度に62~64号車、1996年度に65・66号車と、計5台が導入された。
以前も取り上げたように、1996年度の車両は、バックライト付き液晶の行き先表示機で導入されたが、見づらかったためか、早期に幕式に変えられた。
幕式に変えられた後の66号車
上の63号車と66号車の側面の行き先表示を比べてみると、66号車のは大型のものが設置されていて、不釣り合いな感じ。
液晶から交換するにあたり、余っていた中型・大型用のものを使い回したのだろうか?

65・66号車は、日産ディーゼル製中型バス134~138号車とともに、秋田市交通局が最後に購入したバスということになる。
日野自動車としては、小型バスを製造販売していたのが功を奏し、最後まで継続して秋田市交通局に買ってもらえたとも言える。中型・大型バスを含めて、1988年度から1996年度まで途切れることなく、毎年何らかの日野製の新車が納入されていた。


交通局末期には、小型バス3代目の7台の日野製車両が活躍していたことになる。
交通局の小型バスは、長年、東営業所に配置されていた。(東営業所は1980年に手形字西谷地に開所、1987年に広面字鍋沼に移転)築地経由や駅東線が主な充当路線であることを踏まえれば、妥当。
市営バスの中央交通への路線移管が始まり、2001年には、東営業所そのものが中央交通へ譲渡(同社秋田東営業所となった。2011年に廃止)。しかし、小型バス路線はまだ移管されなかったため、7台の小型車両は臨海の交通局中央営業所へ転属となった。
東営業所時代は、秋田駅西側では小型バスを見かける機会がきわめて少なかったが、臨海転属後は、車庫への出入りのため、県庁経由交通局線を走ることが増え、竿燈大通りなどで目にする機会が増えた。
小型バスが交通局線を走ったのは、この時が初めてだったかも
ただし、それも2年間だけ。
2003年春には、小型バス路線が中央交通へ移管され、7台の小型バスも譲渡されて、再び東営業所(今度は中央交通のだけど)の所属となった。(中央交通への車両譲渡は、車齢10年超が無償譲渡、満たないものは有償譲渡という取り決めだったそうなので、小型バスは有償譲渡されたのだろう。)
これにより、再び、秋田駅西側で小型バスを見かけなくなった。
譲渡直後の62号車。塗装変更される前で市章が外され、号車番号は隠され、社名は書き換えている
その頃、中央交通では新車のリエッセを購入し、秋田市内に導入していた。
当時の雄和町の循環バス「ユーグル」用などとして使われていたのだと思うが、その一部が移管路線にも使われるようになり、交通局からの譲渡車と中央交通自社発注の車両が混ざって走るようになった。
自社発注車は、オートマチックトランスミッションで、中ドアに車椅子リフト付き、塗装の塗り分けが微妙に異なるといった違いがある。
(再掲)左が譲渡車、右が自社発注車
さらに上記の通り、秋田東営業所は、2011年春に廃止されたので、これらの小型バスは秋田営業所(大川反車庫)へ転属。現在は再び、秋田駅西側で小型バスをよく見るようになった。
元市営バスの小型バスは、ここ10年ほどで広面(交通局東営業所)→臨海(同中央営業所)→広面(中央交通秋田東営業所)→大川反(同秋田営業所)と所属を変えてきたことになる。

寿命が短かった初代・2代目と違い、3代目はまもなく車齢20年を迎える。
特に傷んでいるようにも見えないし、中央交通の中型・大型バスの使い方を踏まえれば、まだまだがんばれそう。


とはいえ、元市営バスの小型バスで活躍するのを見かけるのは、リエッセだけ。
2台だけのレインボー(元60・61号車)のほうは、とんと見かけなくなったと思っていたが、男鹿営業所へ配置され、男鹿のローカル路線で活躍しているようだ。
NHKBSで放送されている「日本縦断 こころ旅」(火野正平が自転車で各地を巡る)で、2011年6月頃に男鹿半島の門前を訪れた際、背後にちらりと映っていた。(ヒノつながりか…)



ところで、何度か取り上げているように、秋田市中心市街地循環バスの車両にも、1台だけリエッセが使われている。予備車的扱いで土日の登板が多い。
ナンバープレートからすれば、市営バスのよりは新しく、一般路線の中央交通の自社発注車よりは古い。これも自社発注で、以前は五城目営業所にいたようだ。中ドアのリフトはなく、オートマ。
リエッセのオートマは3速だそうで、変速ショックや騒音から敬遠する事業者もいるらしい。循環バスに乗っていても、「ぎゅいーん」となんか燃費が悪そうなエンジン音がするし、タイミングの悪い変速ショックも気になる。(ただし、上手な運転士だと、アクセルの踏み加減を調整しているのか、ショックが少ない運転をしてくれる人もいる)


リエッセという小型バスは、小さいながらも「普通のバス」っぽく、(個人的にはあまり好きでない)日野自動車の車体デザインにしては洗練されていてかつ奇妙でなく好感を持っていた。
地方のバス会社では、手頃なサイズで使い勝手が良かったのか、好んで導入していた事業者も多い。弘南バスなど、1990年代後半は秋田市交通局以上のペースで大量に導入していた気がする。
しかし、バスメーカーの業界再編に伴い、日野にいすゞやトヨタとの製品供給の関係ができたことや、バリアフリーに配慮した「ポンチョ(リエッセより高価)」を後継車種として、2011年で日野が製造するリエッセの販売を終了。現在は、似ても似つかないトヨタのマイクロバスを「リエッセ2」として発売するだけとなったのは、少し惜しい。


今回は、小型バスの「車両」を見てきたが、秋田市営バスで小型バスが使われた「路線」の変遷を見ると、秋田市の街の変化が見えてくる。いずれまた。

※その後、2019年の小型バスの状況
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市営バス方向幕・珍表示編

2013-01-29 20:49:41 | 秋田市営バス
間が開きましたが、秋田市営バスの方向幕(行き先表示)についての第3弾。
前(まえ)編横編に続いて、珍表示編。

●空白
まずは、この写真。
277号車(2001年3月)
「通町 寺内 将軍野」の後に空白がある。
「通町 寺内 将軍野    」
よく見れば、フロントガラス上部に「組合病院」という紙が掲出されているので、組合病院行きであることが分かる。

なぜ「通町 寺内 将軍野.組合病院」としなかったのか、なぜ空白ができたのか。

その説明には、まず、組合病院(JA秋田厚生連秋田組合総合病院)が土崎から飯島へ移転したのは2000年のことであり、将軍野線が組合病院に乗り入れるようになったのはその時からという事実を踏まえないといけない。
さらに、将軍野線の歴史を少しさかのぼらないといけない。
将軍野線は、秋田駅西口と秋田市北部の土崎港北や飯島地区南端を結ぶ路線。経由地と下りの終点は複数あり、共通するのは終点近くの将軍野地区の自衛隊入口交差点~将軍野踏切~自衛隊前の「自衛隊通り」を通ること。
現在は、秋田駅発には[通町・寺内経由 市民生協入口行き][県庁・寺内・サンパーク団地経由 組合病院行き][新国道・サンパーク団地経由 組合病院行き(1日1本だけ)]の3種類が存在する。

しかし以前は、経由地と行き先の組み合わせがもっと複雑だった。上の市営バスの写真の[通町経由 組合病院行き(サンパークは経由しなかったはず)]は、数年前まであったはずだが、なくなってしまったようだ。
さらに市営バス時代には、[通町経由 サンパーク行き(昭和50年代後半にはあった)]や[県庁経由 市民生協行き]などもあった。

さらにさらに[通町経由 飯島北行き]という系統もあった。市民生協の先、飯田街道の虎毛山踏切を渡って、旧国道の飯島方面のバス路線に合流する。
実は現在も、逆方向の飯島北発将軍野・通町経由秋田駅行きというのは平日に1本だけ存在する(130系統。飯島北7時28分発)。

その駅発通町経由飯島北行きは1996(平成8)年度までは存在しており、1998年度にはなくなって(市民生協止まりに短縮)になっている。(以前も書いたけれど、間の1997年度の時刻表が手元にないので不明)
1日1本だけの運行で、1988年度以降はずっと秋田駅前15時25分発だった。
その飯島北行きの行き先表示は「通町 寺内 将軍野.飯島」だった。1998年以降は、使わないコマになっていたことになる。


その後、2000年に組合病院が移転して、交通局で将軍野線系統のバス路線を開設することになった。
しかし、中央交通への路線移管は既に始まっていて先が見えていたし、そもそも新たに行き先表示を作成するのに費用がかかる。

そこで、使わなくなっていた「通町 寺内 将軍野.飯島」の「飯島」の部分を消して行き先表示ならぬ“経由地表示”にし、行き先の「組合病院」は紙で対応することにしたようだ。
「飯島」は刃物などで“削った”のか、アルコールか何かで“消した”のか分からないが、外部に発注しなくても、交通局内の作業で済ませられたのだろう。側面の表示も同様の対処がとられていたと考えられる。


なお、1度だけ、組合病院行きで、空白がなく幅いっぱいに「通町 寺内 将 軍 野」という新しそうな細丸ゴシック体のコマを出した組合病院行き(「組合病院」は同様に紙)を見たことがある。1989年度導入のいすゞ中型車(236~240号車のどれか)だったと思う。
「飯島」を消そうとして手が滑って幕を破いてしまったとかそんな理由で、やむを得ず新たな幕を発注したのかもしれない。



ほかの路線の側面の表示でも、同様に部分的な空白のあるコマが存在した。
135号車(2005年3月)
下りの神田笹岡線(現在は廃止・コミュニティバス化)の側面表示。
「天徳寺→笹岡入口→   →土崎駅」となっている。
神田笹岡線は、旧来の「笹岡線」を秋田駅まで延長する形で1988年に運行を開始した。当初は、サンパーク団地を経由していたが、上記の2000年の組合病院移転時からは、サンパークに替わって組合病院を経由するように変更された。

したがって、当初「サンパーク」と表示されていた部分を消したのだろう。
たしか正面にも「組合病院経由」とは掲出されていなかったはずなので、そういう意味では不親切な表示だ。


もう1つ。
斜めからの撮影ですが297号車(2002年3月)
今度は新屋西線の側面。「川尻→豊町→   →新屋」。
新屋西線経由の新屋高校行きや、県営住宅(栗田町)経由でも、同じ位置に空白があった。
 
「豊町」は省略されている。(ピンボケですみません。いずれも秋田八丈塗装の車両で2002年3月撮影)

上の写真の表示は、文字が正方形の古いタイプの側面表示。文字が縦長の新しい表示では、同じコマがこうなっていた。
車両不明(2002年2月)
「川尻→豊町→朝日町→新屋」。
したがって、「朝日町」があるものとない(空白の)ものが存在する。

長年、新屋西線をご利用の方なら、「朝日町」の有無の理由はお分かりでしょう。
それは、新屋西線が、昔は朝日町を通っていなかったから。というか朝日町を通る道路(都市計画道路新屋十軒町線の一部)が昔はなかったため。

元々は新屋西線は全部、現在の船場町経由川尻割山線や臨海経由新屋西線と同じく、豊町(別の場所)-割山町-船場町という1本東側の旧道が経路だった。
1992年4月1日から、今の豊町-朝日町-松美ガ丘南町-秋銀割山支店前-勝平消防出張所前に変わっている。(道路は少し前に開通しており、前年11月~2月に下水道工事のため迂回したことがあった)

つまり、空白部分には、以前は「船場町」と表示されていて、それが経路変更時に消されたと考えられる。「朝日町」と表示されている幕は、幕自体が経路変更後に新しく作られたはず。
なお、交通局から中央交通へ譲渡された大型バスの中には、一昨年頃まで市営バス時代の方向幕をそのまま使用していたものが何台かあったので、空白付きのコマが移管後もそのまま使われていたことになる。

2019年の中央交通でも、同様の手法が取られていた。


●書き換え
上記の通り、組合病院移転時には、市営バスの既存路線の経路変更があったが、ほかには土崎駅前と病院を往復する路線が新設された。いちおう神田線の派生扱い。
「土崎駅」という表示は以前からあったようで(浜ナシ山線用とか?)それを使ったが、将軍野線同様、肝心の「組合病院」の表示はなかった。どうしていたか?

紙を掲出することで対応していた時期や車両があった。
逆光ですが組合病院行き130号車(2002年9月)
最初の将軍野線と同じ「組合病院」という紙を出している。方向幕の「土崎駅」表示は逆向きなので不適切で、本来は無表示(白幕)にすべきだろう。

ところが、最後のほうでは、こんな組合病院行きの表示が見られた。
267号車(2003年10月)
いちおう「組合病院」という表示だけど、見るからにヘン!
「組合病院」ではあるけれど…
「組合」と「病院」で書体が違う。
「組合」は異様に太く、その配置がズレたり傾いたりしている。

おそらく、手作業で「組合」を書き足したのだろう。では、「病院」のほうは?

たぶんこれの使い回しかも(138号車。2002年3月)
市営バスでは「日赤病院」というコマがあった。当初は、秋田駅東口から日赤病院へ向かう路線用のコマ。日赤は1998年に現在地に移転したので、その時に作られた。
2001年に日赤行きのメインの系統が中央交通へ移管(その時に日赤折り返しがなくなり、全便御所野まで延長)したものの、移管が後回しになった横森経由日赤行きや写真の「新屋日赤線」で、細々と使用していたようだ。

新屋日赤線は、当時は秋田駅東口-日赤病院-御野場-秋田南大橋-新屋案内所という路線。だから、「日赤病院」という行き先を出すのは適切ではないとも思える。しかし、幕を新設する余裕がない中、直行の秋田駅行き(新屋線など)との混同を避け、日赤方面方面に向かうことを強調するために使っていたのだろう。(移管後の2010年4月に日赤-新屋間に短縮)
新屋日赤線は2002年春に中央交通に移管されたので、この時をもって市営バスでは「日赤病院」のコマを使わなくなった。
そこで、それを有効活用すべく、「日赤」を消して手書きで「組合」を入れ、「病院」は消さずに活かしたのではないだろうか。


以上のように、方向幕というものは、「手作業で消したり書き換えたり」ということができるらしい。全国的に他の鉄道会社やバス会社でも、行われていた手法のようだ。例:東急の「二子玉川園」駅が「二子玉川」に改称された際、「園」だけを消した
書き換えができるのだったら、将軍野線や朝日町でもそれをやってほしかったと思うが、台数の多さによる手間とその経由地の表示が重要性かどうか考慮などをして、空白のままでいいということにしたのだろうか。


●完全手書き?
134号車(2002年7月)
市営バス最後の路線の1つであった、泉秋操線(現・泉ハイタウン線)の側面表示。
3文字以下の経由地が縦長の文字の、新しいタイプの表示だが、よく見ると、なんかおかしい。(肉眼だともっとはっきり分かったのですが…)
特に「上」とか「田」とか
文字のラインが、ぷるぷる震えているような、にじんでいるような、一直線ではないのだ。

正方形文字の旧タイプでも、
 
131号車(2006年3月)と273号車(2002年4月)

泉秋操線の運行開始は1992年春で、市営バスの中では最も末期に新設された路線。
どんな技法を使ったのか知らないが、経費節約のために、一から全部手書きで幕を作成したのだろうか。
当時は、150台程度にこのコマがセットされていたはずだし、秋田駅行きの上り分も必要。相当な手間じゃないだろうか。業者に作ってもらったほうがよかったような…
【2018年11月29日訂正】この路線では、秋田駅行きは専用のコマではなく、側面も含めて経由地なしの「秋田駅」のみの汎用のコマを使っていた。単独経路なので経由地表示が不要ということもあるが、上り分の作成を省いたのではないだろうか。
正面表示もちょっと傾いていて手書きっぽく見えなくもないような??(131号車・2005年9月)
今となっては謎です。
【2014年9月27日追記】いただいたコメントにより、上の写真の131号車の泉秋操線・上りの表示が、別の意味で珍表示であることが分かった。(まったく気付かなかった)
多くのバス会社で同様かと思うが、正面の行き先表示では、表示内でより左・より上に表記される地名が始発地に近く、下・右ほど終着地に近いルールがある。現代の日本語の横書き文としては自然。
上りの泉秋操線では、2段の青文字の上段が「通町」、下段が「泉道田」でなければならず、他の車両ではそうなっているものもある。しかし、写真の131号車では、入れ替わって「泉道田/通町」となっている。(以上追記)


現在主流のLED表示では簡単にデータが更新できるから、このようなあからさまな書き換えはあり得ない。方向幕ならではの“楽しみ”だった。
方向幕の書体について
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする