広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

旧道神田線 補足

2019-10-13 23:47:27 | 秋田市営バス
2019年9月末で系統廃止された、秋田市外旭川地区の旧道を通る神田線の続き。今回は前回の補足として、主に古い写真を。
廃止区間のうち、神田と水口のそれぞれ上り側には、市営バス時代に設置された初代バス接近表示対応だった電照式ポールが残っていた。前回は大写しは水口だけにしてしまっていたので、
2019年9月の神田。右下は10月以降も残る笹岡線(予約式)の“タク停
水口では2面が異様に黒くすすけたように汚れていたが、神田はそうなっていない。ただ、白いプラスチック板が割れて欠けたり、バス停名の黄緑の地色がくすんだり(さえぎるものがないためか、水口のきれいな面よりは劣化が激しい)してしまっている。
「市営バス」を隠すために貼られた「秋田中央交通」のシールの文字さえも薄れており、時の流れを見せつけられる。1981年頃(※)設置とすれば37年以上経ち、2005年春の移管からも14年半。
【15日補足】※初代バスロケが1981年設置というのは、12月末の試験運用を指しているようだ。試験はたしか新屋線で行われたので、神田線はそれよりは多少後の設置だと思われる。でも35年は経っているだろう。
ちなみに、2004年2月の同じ面。
緑が濃い!【15日補足・それでも設置当初よりはだいぶくすんでぼやけて見える】
市営バスと中央交通が併記されているのは、ノースアジア大学行き(今秋廃止時点では東口行き)が、神田線本体より先に移管されていたため。「市営(市章)バス」の表示は、設置時点からのオリジナル。
下の枠部分には、初代バスロケーションシステムのメーカー(ポール全体でなく接近表示部分という意味か?)である「新潟通信機株式会社」の銘板が付いているのだが、この時点でかなり薄れている。なお、2代目バスロケはNEC移動通信。

廃止時の周辺。上屋も電話ボックスもなくなり、バスロケも今は撤去、ポストとタク停が残るのみ

再び水口。
廃止時
初代バスロケの上りバス停の向かい側に立派な蔵がある。

2002年5月。市営バス単独だった頃
蔵の隣が酒店だった。
それは覚えていたが、写真を見たら蔵の真ん前に下りバス停のポールが置かれている。そばの立て看板は標語。
かつては上下向き合って設置されていたのが、2000年代以降に下りが秋田駅寄りに数軒分移動していたのだった。そしてその頃、酒屋さんがやめたことになる。


行ったり来たりしますが、笹岡入口。
2002年5月。左が上り側。右の電柱の奥に下り
廃止時と配置は同じ。下り側は表示板も社名以外は同じ。
前回の通り、上り側すぐに小屋があって、これは待合所ではなくゴミ置き場。そしてそのポール。
支柱は新しいが、表示板は手書き
向かい側は自転車屋さんがあった。そういえばそうだ。
1971年の地形図によれば、この辺りに交番(当時は派出所)もしくは駐在所があることになっている(1985年の地形図では卸売市場近くの現在の外旭川交番の位置)。【15日補足・コメントによればここにあった当時は駐在所だったとのこと。】

上の写真の先を右へ曲がると、外旭川中学校、旧・神田笹岡線のルートへ。少し進んだ所には、
「降車専用」
移管と前後して廃止されたがこんなバス停もあった。さらに、左奥・白い軽トラが走っている付近にもポールが立っている。それは曲がる前とは別の「笹岡入口」だったと思われる。

元々の笹岡線は、秋田駅ではなく笹岡入口発着だった。推測だが、その頃は曲がる前の神田線用の笹岡入口は使わず、こちら側のバス停を待機~始発/終点=降車専用としていたのかもしれない。秋田駅方面と神田線を乗り継ぐ人がいたとすれば、分かりにくいし歩かされるけど…
1988年に笹岡線が秋田駅まで延長されて神田笹岡線になった後も、以前の名残りと利便性のため、しばらく廃止されなかったということではないだろうか。

写真では判断できないし記憶もないのでこれも推測だが、その左奥の笹岡線用笹岡入口は、英字入りナールの表示板だった→笹岡線用笹岡入口廃止時に、手書きだった神田線本体上り笹岡入口の置き換えとして移設、今回の廃止まで使われたのではないだろうか。



さて、旧道区間と分かれて、吉学寺入口からバイパスへ出て進もう。
地理院地図に加筆
バス停は、八柳二丁目-卸売市場入口-八柳三丁目-外旭川病院前と一直線(赤い線)。
現在の路線は、病院前を右折して、系統名の由来である旭野団地、そして外旭川市営住宅、秋田厚生医療センター。
9月で廃止された神田土崎線は、病院前を左折・すぐに右折して奥羽本線と草生津川を渡って進んでいく。(地図下側の緑色の線)

昭和末の地形図とおぼろげな記憶によれば、当時は卸売市場入口・外旭川交番の交差点から先は、道自体が存在しなかった。
当時は、今でいうと卸売市場入口の交差点を左折(左前方)して狭い道へ入ると、奥羽本線の踏切まで一直線(地形図の黒い線)。今は外旭川アンパスの県道により分断されてしまったが、当時はなかったので支障なし。そのルートを通るしかなかった。

全バス停名が掲載されている1988年春改正のポケット時刻表を見ると、現在の八柳二丁目~外旭川病院前に対応する区間は、八柳一区-卸売市場入口-八柳二区。【15日「鳥谷場」バス停を見落としていたので訂正します】八柳二丁目~旭野団地に対応する区間は、八柳一区-卸売市場入口-八柳二区-鳥谷場-旭野団地。
八柳の改称は、住居表示実施(1997年)による対応。八柳二区は以前とは位置が違ったと考えられる。旭野団地系統設定前には、八柳二区止まりの系統が存在したこともあった。
旭野団地系統は1988年で既に運行されており、今よりも少し遠回りしていたはず。
外旭川病院は1983年【14日訂正】1988年10月の開業なので、同年春の時刻表にバス停があるわけがないが、開院後に、既存バス停の改称でなく新たに増設されたことになる。【14日補足・道路開通と病院開院の前後が不明だが、もしかしたら外旭川病院前も、当初は今と位置が違った可能性もある。】
【15日見落とし分の追記】鳥谷場は神田土崎線のバス停として、今年9月まで存在した(詳細は後日)。コメントでも教えていただいたように、現在とは位置が少し違っている。

外旭川病院前から先、将軍野を経て土崎駅まで行く、今回廃止された神田土崎線については、いずれまた
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神田線旧道区間の記録

2019-10-10 00:43:24 | 秋田市営バス
2019年10月の秋田市内のバスダイヤ改正で、神田線でいくつかの変更があった。
実際のところ、メインの秋田駅と外旭川地区を結ぶ系統の総本数とダイヤは、あまり変わらず、影響を受ける人は多くはないと思われるし、街の変化とバス利用実態からすれば、そうなるのもやむを得ないと思う。
しかし、元秋田市営バスの路線【13日補足・秋田中央交通への移管は2005年春】であり、今も秋田市の主要バス路線の1つである神田線として見れば、大きな節目となる変化が2点あった。個人的に親しみのある路線でもあるため、感傷に過ぎないのだが、何度かに分けて、取り上げさせてもらいます。

神田線は、秋田駅西口から通町、保戸野地区を経て、奥羽本線をくぐり、天徳寺前から外旭川地区を北進するルート。現在は外旭川市営住宅前または秋田厚生医療センター(旧・秋田組合総合病院)で折り返す「神田旭野(団地)線」がメイン。「神田」は外旭川の小字の1つ。【11日補足・市営バス時代から現在まで中型バス限定で運用されていて、大型バスは入らない。】
※市営バス末期から「神田旭野線」という路線名ですが、本来は「神田線」であり、今も沿線住民や利用者はそう呼んでいるので、ここでは神田線と表記します。
今改正の大きな変化2点とは、
1.外旭川から将軍野を経て土崎駅前まで行く「神田土崎線」が廃止。最後は1往復だけであったが、これが元々の神田線の形であった。
2.外旭川地区の旧道経由が廃止。全便が天徳寺バイパス経由に。バイパス経由は2014年4月から運行が始まり、以降、改正のたびに旧道経由からバイパス経由に振り替えが進んでいた。この旧道区間には「神田」バス停があり、バイパス区間にはないので、これにより神田線が神田を通らなくなってしまう。
神田線の運行が始まったのは、外旭川村が秋田市に合併される直前の1954(昭和29)年のはず。その当時から続いていたであろう2点が、途絶えるのだ。

今回は、外旭川の旧道経由について、廃止直前の各バス停の姿を秋田駅側から順に記録しておきたい。
 廃止直前の神田の時刻表
市営バス時代の全盛期は、平日の昼間は毎時3本が通っていたが、ここまで減った(バイパス経由は今も毎時2本程度はある)。
【14日・上の写真の廃止時の時刻表について補足】下り左の「神田旭野行き」の欄で「厚」印が外旭川市営住宅経由秋田厚生医療センター行き、印なしが市営住宅止まり(これが元々の旭野団地系統)。うち17時41分の204系統は臨海営業所始発・県庁市役所経由(桜町から駅始発系統と同じルート。かつての「千代田町経由」)。それ以外は秋田駅西口始発。
上り7時28分は「県」印で駅に行かない県庁市役所経由臨海営業所行き。8時07分は土崎駅始発向山経由(市営住宅は経由せず、外旭川病院前から合流)。

バイパス経由運行開始時の記事の再掲

新旧経路は、バス停で言うと天徳寺前~八柳二丁目(旧・八柳一区)の間。
バスが通らなくなる区間の距離では1.5キロ弱に6停留所、相当するバイパス区間は1.3キロに4停留所。

駅から来て天徳寺前を左折したバスは、300メートルほど広い道を走る。旧道を拡幅した道で新旧が同一。この間にバス停はない。平和公園の上り口を過ぎるとY字路があり、直進すれば新しく造られたバイパス、旧道は右に分岐。下りでは右折になるし、上りでは信号待ちが長くなりがち。
旧道は、平和公園の山のふもとに沿うように進む。9月29日の秋田魁新報に、この辺りはかなり古くから存在する道ではないかという話が出ていた。
途切れることなく建物があるが、新興住宅地でもある外旭川の中で、旧道沿いは古くから続くような家が目立つ。それでも、昔に比べると新しい家も増えた。

天徳寺前から550メートル、道が狭くなって押しボタン信号を過ぎたところに「水口(みのくち)」。以前は酒屋など店があったが、今はいずれもやめてしまったようで、建物には面影がある。ポストもあって、昔はある程度の集落の拠点だったのだろう。【以前の様子や位置については、末尾の補足記事も参照】
下り路線の進行方向。左がバイパス、右が山の方向
この道路よりバイパス・線路寄りの所在地名である外旭川字水口にちなむ。バイパス経由のほうに「水口入口」バス停があるが、むしろ水口入口のほうが(地名としての)水口のど真ん中なのだけど。旧道の身の口【11日訂正】水口バス停の入口という意味だったんだろうか。
上と逆・上り方向。センターラインが途切れるところがバス停
下り側はダルマ型ポール。市営バス時代設置のナール書体の表示板。台座も相応に古そうだけど、支柱は光沢があって妙に新しそう。
上り側は電照式っぽいが、市営バス時代の初代・バス接近表示(バスロケーションシステム。1981年頃設置か【15日補足・1981年末に新屋線で試験運用がはじまったはずで、神田線では多少後の設置のはず】)だったもの。1994年度に2代目システムに更新された時は設置箇所が絞りこまれた。2代目への更新を見送って、初代の接近表示部分を撤去し、ポールはそのまま残して電照式として使い続けられたものもあって、ここもその1つ。中央交通移管前後には照明も付かなくなっていたはず。
ここは奥まった位置に設置されており、バス通り沿いというより、Y字型に分岐するさらに狭い道のほうに立っているようにも見える。以前は上屋もあったような気もするけれど、なかったかもしれない(2012年10月時点ではなし)。
当初のままの若草色のバス停名表示
手書きで「次は天徳寺前です」もある。車道側2面はとても汚れていたが、内側はきれいだった。

水口から200メートル強で「斎場入口」。
下り側
斎場とは「秋田市斎場」を指す。地域によっては、葬式を行う施設を斎場と呼ぶようだが、ここでは秋田市営の火葬場のこと。1956年に開設されたそうで、外旭川村編入・神田線運行開始間もない頃からあったようだ。
バス停から山側へ400メートルほど入ると、施設がある。
バイパス経由では「八幡田一丁目」が最寄りか。さらに400メートルほどかかってしまう。
以前は、バス停のすぐ斎場・山側には田んぼがあったのだが、10年ほど前だろうか、宅地化された。ここが神田線沿いの最後の田んぼだったはず。
上り側
上下とも、ダルマ型・ナール。

進むとすぐに、信号付き十字路で、左の道すぐに土崎消防署外旭川出張所。
直進する道は狭いまま、カーブも出てくる。ガードパイプで仕切られた歩道も一部あるが、とても狭い。沿道は広い敷地の古くからの農家が多そうだが、最近は建て替えられたものも目につく。
下り進行方向
200メートル強で「梶の目(かじのめ)」。
所在地は外旭川字梶ノ目と、カタカナの「ノ」だけど、移管後設置のバス停の表示板や路線図ではひらがな表記。市営バス時代はどうだったか?
サルスベリと上り梶の目
上下ともダルマ型・「JTCウインR」書体。中央交通が移管直後に更新した表示板。
上り進行方向

引き続き狭いくねくね道で、150メートルほどで「笹岡入口」。ここは運賃境界やかつての路線分岐の関係か、間隔が短く、降りる時はボタンを押すタイミングに配慮が必要。
ここから広大な田んぼをはさんで直線でも2キロほど離れた所に「笹岡」と呼ばれる集落がある。地名としては秋田市編入時に消えているが、今も通用する。
2011年春までは「神田笹岡線」という系統もあった。現在は予約式のマイタウンバス化。
元々は笹岡入口-笹岡-土崎駅のローカル路線的位置づけだったようだが、1988年に秋田駅まで延長されて神田線の一部になった。秋田駅から来て笹岡入口通過後、右折して分かれていくわけで、「神田」は通らない。
下り側
上下ともダルマ型で、下りは透明シールにパソコンの丸ゴシック体で印字したローマ字なし。2002年にはこれだったようなので、市営バス時代のもの。
上り側、奥を右折すると外旭川中学校があり、笹岡方面へ
上り側はナール。ただし、市営バス末期2002年では手書きの表示板だった。その時点以降でナール表示板の新規作成はなかったはずなので、おかしい。実は、笹岡線が曲がった側にも、もう1つの笹岡入口バス停があったはずだから、そちらと入れ替えたのかも。
かつては上り側に待合所があったような気がしたが、あれはゴミ置き場だったようだ。今はなくなっている。【笹岡入口についても末尾の補足記事参照】
【15日補足】補足記事にいただいたコメントによれば、以前は下りバス停はもう少し神田寄り(上りの向かい)にあって、神田笹岡線運行開始時に、乗降扱い後笹岡方面へ右折しやすいようにという理由で移設されたとのこと。

この辺りは旧道とバイパスの間の距離がもっとも遠い。道も入り組んでいるため、笹岡入口からバイパスへ出るだけでも道のりで300メートルほどある。
笹岡入口から300メートル。運賃が上がって(50円ほど上がる)、外旭川小学校の前を過ぎると、いよいよ「神田」。外旭川村の中心地で、村役場もあったようだ。
ただし、現在の所在地名では、神田線のルート上に外旭川字神田は面していない。外旭川小学校の裏手のほうが神田だから、「神田入口」的な意味合いか。
外旭川村時代は、梶ノ目集落も含めて大字神田だった。明治45年の地図では梶ノ目に「前神田」、今の神田に「奥神田」とあるので、昔はここも神田だったとも言える。
下り進行方向。右が外旭川小学校

上り進行方向
上り側は旧バスロケ、押しボタン信号、ポストと水口と同じ環境。
1971年と1985年の地形図には、ここに郵便局があることになっている。今は卸売市場入口バス停前にある外旭川郵便局が、かつてはここにあったようだ。【10日訂正】コメントで教えていただいたように、ここにあったのは農協内の簡易郵便局だったとのこと。

上り側は、笹岡線の廃止代替のコミュニティーバスの始発でもあるので、そのポールも置かれる。
ここには以前は上屋とベンチがあった。ストリートビューによれば2012年10月から2015年8月の間になくなっている。

下り側はダルマ型だが、変遷が多い。
(再掲)きれいだけどサビも出ている
市営バス末期は、笹岡入口と同じような透明シール・丸ゴシック体ながら、ローマ字入り。
中央交通移管後、同社がごく一部に設置していた、四角いお城風デザインの表示板に交換。
2013年以降(2015年頃?)に、再び市営バスタイプの表示板に変わっていた。
(再掲)
これは、市営バス時代から美大開学時まで美術工芸短大入口で使われていた板の再利用で、このタイプには珍しく広告入りのため、バス停名が小さく、ローマ字が上にある。フォントはバイパス区間以外の神田線では数少ない現行の「スーラ」だと思われる。

神田を過ぎると、道は直線、少し幅が広くなる。
300メートル弱で「吉学寺入口」。「吉学寺」は「きちがくじ」と読み、現行の車内放送では「き」にアクセントを置いて発音しているはず。
吉学寺という寺院がありそうだが、存在しない。「入口」というからには、目的となる吉学寺が存在するはずだけど。
分譲住宅地の名前で「吉学寺」を使ったものがあったようだけど、それが由来なのだろうか。だとしてもどうして「吉学寺」なのか分からない。由来をご存知でしたら教えてください。
【11日追記】バイパスから線路方向に入った所に「外旭川吉学寺街区公園」があり、1979年末に供用開始されている。
下り側は北都銀行外旭川支店
ここは、旧道とバイパスがY字で合流する地点の目前で、銀行は両方の道路に面している。
上下ともダルマ型・JTCウインR。

そして、そのY字路で右折して、再びバイパスへ出る。丁字路状なので右折待ちはないが、信号待ちは長いはず。右折してすぐ、吉学寺入口から150メートルほどで「八柳二丁目(かつての八柳一区)」。
ここからしばらくは、旧道を拡幅してバイパスの続きとした道。その先、土崎方面については後日。


旧道はバスが通るにはとても狭く、積雪時は通行が困難になることも多く、バイパスができた以上、経路変更は仕方ないと思う。
それにしても、1996年にバイパスができる以前は、もっと多くの車がここを通っていたはずで、大変だったことだろう。1985年に小学校の社会科見学で卸売市場へ行く時、市営バスの大型貸し切りバスもここを通り、開けた窓から沿道の家の木の枝が入ってきたのを覚えている。

神田を通らなくなったのに「神田線」というのは、どうなんだろう。今は経由地より「行き先」を表示するようになっているし、特に新しい(若い)秋田市民は神田という地名を知らないかもしれない。
個人的には神田線という名前にとても親しみがあるけれど、将来的な分かりやすさ、整合性としては「外旭川線」などに変えたほうがより適切にも感じる。

【28日補足】10月改正時には、車両の行き先表示は特に変更されなかった模様。神田を通らないバイパス経由でも「天徳寺バイパス・神田旭野 秋田厚生医療センター」などと、路線名かのように「神田」が表示されているので、そこで引き続き「神田」の名が残った。

※続きは今回の補足
※2021年春、笹岡方面のマイタウンバスが新駅乗り入れ・環状運行化されることになり、この区間を再びバスが通るようになった
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幕洗川・嶺梅院前

2019-10-03 00:57:44 | 秋田市営バス
前回のハンバーガー自販機の話題、ものすごい大量アクセスをいただいており、びっくり。
今回も土崎の話題で、2つのバス停の表示について(これはアクセスは多くならないでしょう)。

10月から土日が大幅減便された旧国道方面。中央高校・将軍野方面へ2路線が分岐した後、唯一直進する寺内経由土崎線単独のバス停。
「幕洗川」
不思議な名前。坂上田村麻呂が汚れた陣幕を洗ったという伝説にちなむとか。
そういう川は実在しない(はず)。1968年までは寺内の小字だったが、今は土崎港東と土崎港南の各一部になって地名としては消滅。町内会の名称として存続しているようで、土崎港曳山まつりにも出ている。

上の写真は、下り側の表示板。
市営バス時代に設置された(青い部分の下に透けている)もので、バス停名のフォントは「ナール」。

この上り側は、パソコン作成の透明シール角ゴシック体(市営バス末期の設置?)のものだったのが、
表示板だけ新しくなった

「幕洗川」
最近標準の、太い「スーラ」の中央寄せ。※バス停表示板について直近の記事
なお、隣の「港南一丁目」は古い手書き文字の表示板だった。未確認だが、いっしょに更新された可能性が高い。

フォント以外に、上下で違いが生じている。
ローマ字の読みが、下りは「MAKUARAIGAWA」、「まくあらいがわ」で、新しい上りは「MAKUARAIGAKA【5日訂正】MAKUARAIKAWA」「まくあらいかわ」。

「川」を「かわ」と読むか「がわ」と読むか、日本語ではよくありがちな問題ではあるが、同じことを指して統一されていないのは、気になる。
個人的には「まくあらいがわ」だと思っていたし、秋田弁としても濁るほうが自然な気がした。少し前にテレビで「幕洗川」をひとことだけ話す場面に遭遇したが、たしか「がわ」だったはず。
バス停の表記では、移管直後の中央交通設置分で、保戸野の「桜町(さくらまち)」を「さくらちょう」してしまっていた。市営バスでもたまに誤った表記のものもあったから、市営バスを全面的に信用もできないけれど…

ところが、秋田市役所(旧?)ホームページの「地名小辞典」や、港まつりの「秋田みなと振興会」ホームページでの町内紹介では、そろって、
「Makuaraikawa」
濁らない「~かわ」となっている。
じゃあ「まくあらいかわ」が正しいのか(だとすれば、中央交通さん疑ってごめんなさい)。バスの車内放送はどうなっているだろう。


もう1つは新国道を越えた場所。9月で廃止されてしまった、土崎駅まで行く神田線のバス停。
現在は撤去されているかな
真ん前にあるお寺の名前が由来のバス停。
これも市営バス設置のナール。一方通行区間なので下り用1つしかないが、当然裏表とも同じ表示。
これは日本語表示に注目。
ぱっと見るとなんとも思わないけれど、落ち着いて見ると、日本語の文字として、ちょっと気になるものがある。

「梅」である。
正しいというか普通のものを見ると分かる。
別のフォントですが
※この平成丸ゴシックは、ナールと同じ「写研」が作ったフォント。写研はパソコン用フォント発売をかたくなにこばんでいるメーカーなのだが、「平成書体」の開発には関わって、これが唯一のパソコンで使える写研フォントということらしい。機会があればいずれ。

梅の右側・つくりは「毎」だから、右下が右にも下にも突き出ているのが普通。
ところがバス停の表示板はどちらも出ておらず、枠でみるとただの平行四辺形。漢字テストで手書きでこの形にしたら、マルをもらえるだろうか。

カッティングシートが部分的にはがれたようなものでもなさそう。
こういう異体字があるのかとも思ったが、「母」のように点になっているものなどはあるが、この形のものは主な異体字にはなさそう。
そもそも、お寺の表示類は、ごく普通の「嶺梅院」となっている。

調べたら、なんのことはない。ナールの「梅」はこのデザインというだけの話だったようだ。
今はナールは道路の案内標識くらいでしか使われないが、大阪「梅田」の写真を見つけたら、同じ形だったので【3日追記・「青梅」も】。

ナールは、文字の基本の形に比較的忠実なデザインかと思っていたし、平成丸ゴシックはじめ他の丸ゴシック体ではそうなっていないのだから、意表を突かれた。
【3日補足】ナールでは「毎」や「母」も同じ形になっているそうだ。
ちなみにスーラでは、右下は右も下も突き出ているのに加え、左の縦線が下に突き出てもいる。似ているようでそれぞれ特徴があるものだ。

※この後の表示板更新や、「梅」同様のナールの「海」の形について、2020年5月の記事
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小型路線廃止後の小型車

2019-07-23 23:58:31 | 秋田市営バス
秋田市の路線バスには、マイクロバスより少し大きい「小型バス(ミニバス)」がある。※ここでは中心市街地循環バス用の日野ポンチョには取り上げないことにします。
1975年に秋田市交通局(秋田市営バス)が、道路整備が遅れて狭い道しかない新興住宅地の足の確保として導入したのがきっかけ。その後車両が更新され、市営バスの段階的民間移管の中、2003年春に小型バス限定路線と小型車両が中央交通へ譲渡された。この前後、中央交通自身でも、同型の小型バスを何台か購入した。※市営バスの小型車について、小型車路線の1つ泉山王環状線について

2010年代になると、小型車が走っていた路線は減便→廃止、あるいは大きなバスで運行できる経路への振替が進んだ。車両は老朽化が進む上、価格が手頃で現場で扱いやすかったという日野リエッセは製造中止になった。秋田市営バスからの譲渡車も含めて、秋田市外の営業所へ転属した小型車もある。【2021年時点では、元市営バスの車が、子会社・秋田中央トランスポート五城目営業所に転属して潟上市などを走っている。】

2018年秋には、築地経由桜ガ丘線が廃止され、秋田市内の小型限定路線が消滅。小型車がどうなるかと思っていたら、秋田営業所に2台が残った。
結局は、中型バスで運行できても、利用が少ない路線や便を小型車が担当することになったようで、愛宕下橋経由雄和線で目撃。しかし、雄和線も2019年春に路線廃止
あと、秋田駅東口発着の横森経由桜台線に使われることもあったはず。

そんな経緯を経た、今春以降の秋田市内の小型バスの現状。
愛宕下橋経由雄和線の代替の愛宕下橋経由二ツ屋福島線にも使われている可能性があるが、未確認。以前は小型車が使われていなかったはずの、ほかの中型路線にも使われている。
中央交通自社発注の246号車。塗装の緑色が淡いのが特徴。屋根にサビが出ている。
行き先表示(方向幕)は「横森 桜ガ丘」、紙で「大平台三丁目」を出して、秋田駅東口で待機。
つまり、東口発桜ガ丘線、横森・桜ガ丘経由大平台三丁目行きに充当。見かけたのは平日の午後の便。
この路線は狭い道も通るが、市営バス時代も移管後も、ずっと中型車が使われていたはず。
方向幕
※「ガ」が小さいが、桜ガ丘の地名としては大きく表記するのが本来。市営バスの幕でもガが小さい幕も存在したが、下寄りでなく中央に位置していた。
秋田市内用小型車の方向幕は、市営バスからの移管の段階で、自前で新しく作り直したもので、フォントはスーラ。市営バスからの譲受車も、同じものに交換された。
その行き先は、市営バス時代のものを踏襲し(=同内容で書体をスーラにして新たに作成)、中央交通として必要になるコマ(各車庫行きなど)を追加したのかと思っていた。

でも、市営バスでは小型でも中型でも「横森 桜ガ丘」という表示なんてあっただろうか。見た記憶はない。
だからこそ、東口発桜ガ丘線は、単なる「桜ガ丘」を表示していたのだろう。
(再掲)市営バス時代の中型車による東口発横森経由桜ガ丘線
中央交通が気を利かせて「横森」を入れたのが、今になって役に立ったのか知らないけど、ふさわしい表示だ。個人的には「大平台三丁目」より「桜ガ丘」のほうが重要だと思うし。
ただ、それだと廃止された西口発築地経由桜ガ丘線は「築地 桜ガ丘」だったはず。築地経由も横森は通るのだから、そっちにも「横森」を入れないとならなかったのでは?

紙のほうは、終点を表示する必要は分かるけど、どうせなら「大平台三丁目『行き』」とするとか、系統番号は入れるべきでしょう。


もう1つは西口にて。
小田急中古の12-69
幕は「桜ガ丘・梨平」、紙は「城東消防署」。
城東消防署前・桜ガ丘経由梨平行き。中型の明田地下道・横森経由桜ガ丘線・大平台三丁目行きと、小型限定だった築地経由桜ガ丘線・梨平行きの廃止代替である城東消防署経由桜ガ丘線に充当。昨秋の運行開始当初は中型車で運行されていたが、いつの間にか小型化。午後の1往復や駅発17時台に使われていたのを目撃。
やはり系統番号と「城東消防署『経由』」を示してもらったほうが親切でしょうね。

最近来た車だけど、方向幕は他の小型車と共通のようで、市外へ転属した車から外した幕の再利用だろうか。
表示機の枠の造作は、246とは違う
「(空白)桜ガ丘・梨平」。LEDでなくフイルムに印字した方向幕ならではの処理が行われている。
印字済みの一部分を消して、再利用するもので、市営バスを含め各地でたまに行われていた。
廃止路線で使っていた「築地 桜ガ丘・梨平」の「築地」を、新路線への転用に当たって消したということだろうか。にしては余白が広く4文字くらい収まりそうにも見えるけど…
空いたところに「城東消防(署)」を入れると、費用もかかるし、狭くて見づらいから、紙にしたのは分かる。

後部も同じ表示
側面ドア横の表示器も同じサイズで、同じ表示。最初の「横森 桜ガ丘」も、横・後ろとも同じだったと思う。

最後に、市営バス時代の写真。
(再掲)中型車271号車の後部
この時は、西口発明田地下道・横森経由桜ガ丘線、大平台三丁目行き。当時の幕では「秋田駅 明田 桜ガ丘」のはずなのに、設定間違いか故障か、違うコマが表示されてしまっていた。
「秋田駅 明田 桜ガ丘・梨平」。「ガ」が大きい
実際には、梨平まで行くのは、小型車限定の西口発築地経由だけ。明田地下道経由の梨平行きも、中型バスの梨平行きも、実際に運行されたことはなかったはず。(移管後・廃止後には、上記の通り城東消防署経由ながら明田地下道経由梨平行きが中型で運行された)
将来的に路線・系統が設定されることを踏まえていたのか、市営バスにはこういう「無駄なコマ」がいくつか用意されていたようだ。
もし、今の中央交通の小型車にも、このコマが入っていたら、それをそのまま使っても問題なかったかもね。

秋田市内に2台だけ残る小型バス。
まだ使える小型車があるから、とりあえず中型の代走をさせているのかとも思うが、1台とはいえわざわざ中古車を入れたからには違うかも。
あえて小型車を残し、中型路線にあえて小型車を入れることによるメリットがあるのだろうか。中型バスを1~2台少なくできるとか、燃料がいくらか節約できるとか、その程度かな。
今年の秋、五城目方面で一般路線とコミュニティバスを合わせた路線再編が行わるので、その時に変化が生じるかもしれない。

【24日追記】弘南バスの弘前市内の路線では、1990年代後半に日野リエッセを大量導入し、それまで大型・中型バスだけが走っていた路線にも使用。ダウンサイジングが進み(さらに後にマイクロバスも導入)、現在は小型車と中型車が半々くらいの割合になった。当初は小さいバスが来て驚いたものだが、今は当たり前になった。下校時間帯の主要路線に小型車が充てられると、混雑が激しくなってしまうという問題はある。
秋田市では、今さら小型車を大量に確保するのは難しいし、いちおう県庁所在地であり小型では不足する場面も多いはずだから、一般路線バスにおいて、これ以上小型車が増えるということはないと思う。中長期的に人口が激減したり、市街地を小回りするバス路線が新設されたりしない限りは。

【2020年7月24日追記】その後、2019年内に246号車は五城目へ転属。同方面のコミュニティーバスに使われているらしい。
12-69号車は引き続き秋田営業所に残っているらしいが、2020年初夏時点では見る機会がない。また、本文アップ時点で小型車が運用されていた、午後1往復の城東消防署経由桜ガ丘線では、2020年初夏時点で中型車が入っているのを何度か目撃している。
【2021年5月17日追記】2021年春時点では、1269は引き続き秋田営業所在籍。秋田市中心市街地循環バスの代走(この記事前半参照)をしたり、定期的かどうかは不明だが国際教養大学方面の路線に入ったりしている。
【2021年12月30日追記】1269は、2021年に行われた新型コロナウイルスワクチンの、秋田市による集団接種会場へのシャトルバス(秋田駅東口~秋田大学医学部体育館。秋田中央トランスポートとともに受託)にも時折使われた。また、2021年末時点でも国際教養大学方面に入っており、行き先表示に「AEON イオンモール秋田(AEONはロゴでない文字)」のコマが入っているとのこと。中心市街地循環バスは、専用車両の新車が入った(5月17日付追記内のリンク先参照)ため、代走することはほぼなくなった。
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三吉神社と交通局

2019-03-08 00:17:15 | 秋田市営バス
秋田駅の東・広面字赤沼、手形山のふもと、秋田大学の本部と医学部の間に「太平山三吉(たいへいざんみよし)神社」が鎮座する。
秋田県内でも著名で大きな神社で、初詣、1月中旬の「梵天(ぼんでん)」祭、七五三等でにぎわう。

太平山をまつった山岳信仰の神社で、山頂に「奥宮」があって、広面にあるのは「里宮」の位置づけだが、一般に三吉神社といえばここを指す。【8日追記】市民には「みよしさん」と親しまれる。
なお、札幌市中心部に「三吉神社」があり、地元では親しまれているようだが、秋田の太平山三吉神社の分霊とのこと。

弘前の岩木山(いわきやま)神社も、一般に岩木山神社と呼ぶふもとの神社と別に、岩木山(いわきさん)山頂に「奥宮」があるそうだ。ふもとのほうに「里宮」など呼称があるのかは知らない。里宮の所在地としては岩木山神社より太平山三吉神社のほうが、ずっと街中。


今は人もまばらな里宮の社殿
屋根下左の赤いのが秋田銀行から奉納された梵天。隠れているが右にもあり、それは北都銀行奉納。
社殿の左(東)側には、緑色の風よけと思われるネットが張られている。この下が急な斜面になって開けていて、住宅地や大学病院の向こうに太平山がそびえる。
そのネットの前に、銀色のピカピカの小さな物体がある。

小さな鳥居と賽銭箱
神社のホームページでは「太平山遥拝所」という名称で、「霊峰太平山の秀影を遥かに仰ぎ、手を合わせる所です。」と説明。
太平山そのものを拝む場所である。鳥居の先がまさに太平山でふさわしい場所だけど、ネット越しに拝むことになる(夏場は撤去されるか?)。

横には「太平山奥宮のご案内」という、新しそうな看板。鳥居と賽銭箱も、一見新しそう。
ピカピカ
賽銭箱に円形のマークがあるが、太平山三吉神社の紋のようだ。
左下にはライオンズクラブのロゴがあり「秋田東ライオンズクラブ」「1981」とあったはず。1981年に寄贈されたものということか。看板よりはずっと古そう。

そして鳥居。
額には「奉納」。さらに、2本ある横棒のうち下の「貫」と呼ぶほうと、向かって左の柱に、それぞれ文字が彫られている。
貫は「祈交通作業安全」(実際は右から左方向へ)。
そして柱は、
「秋田市交通局職員有志一同」
改めて説明すると、2006年3月まで秋田市には「秋田市営バス」があり市内で多くの路線を運行し、1965年までは路面電車(市電)もあった。それらを運営していた公営企業が「秋田市交通局」。

今や名残りがだいぶ少なくなってしまった、秋田市交通局の名が、こんなところに残っていた。

交通事業者として「交通作業安全」を願うのは当然。
小田急バス(の中古の中央交通)の車内には、深大寺のだるまの交通安全シールが貼られていたし、弘南鉄道弘南線の運転席には、沿線の猿賀神社のお札があった。
公営企業たる交通局そのものなら、政教分離の点で問題だが、職員個人有志(あるいは互助会みたいなのかも)の寄付なら問題ない。(車両にも三吉神社のシールが貼られたものがあったとのコメントを以前いただいていた。それも職員が個人的に貼ったものかもしれない)

市営バスと三吉神社といえば、「初詣バス」があった。
平成初期頃までと記憶するが、大晦日の夜遅くに秋田市内各地(飯島、神田、新屋等)から三吉神社へ向かい、その人たちが初詣を終えたタイミングで戻るバスが特発されていた。

当時の三吉神社前は、普段は中央交通のほうが本数が多かったはず【8日補足・前を通る大学病院経由太平岩見三内、下北手宝川、松崎方面は移管前から中央交通路線。市営バスの大学病院行きはここを通らない手形山経由がメインだった】で、交通局とは縁が薄いかと思いきや、そんなつながりがあった。
中央交通さんは、神頼みしないのでしょうか?
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ダブルベルトつり革

2018-12-21 00:33:37 | 秋田市営バス
「乗りものニュース」サイトに「バス「V型つり革」の効果とは? ベルトが2本 しかし新規採用が少ないワケ(https://trafficnews.jp/post/82394)」という記事があって、勉強になった。
秋田市営バスで1985年頃以降の導入車(188号車以降。小型車、貸し切り兼用=ワンロマ車は除く)に設置されていたつり革(吊手)のこと。

1つの丸い輪に対して、ヒモ(ベルト)が2本付いていて、「V」字型のつり革。
(再掲)
以前、札幌市営バスのものを紹介していた。
仙台市営バス、じょうてつバス、弘南バスでも同じものが使われていた。弘南バスでは、2000年代に入ってから(中頃?)、このタイプに変えた。
※各社とも中古車ではそうでないものもある。秋田中央交通では秋田市営バスから譲渡された車だけがこのタイプだったが、今年、少なくとも秋田市内からは全廃されてしまった。

乗りものニュースによれば、神戸市交通局が2004年から新たに採用して好評、仙台市交通局は平成以前から導入とのこと。
しかし仙台市では「つり革の数が減ってしまったり、(車両の進行方向に対して)左右方向の揺れは抑えられなかったり」といったデメリットもあるとしている。東武バスでは2016年からV型をやめてベルト1本タイプにしたという。

現在はバリアフリー対応でつかまる棒が増えているから、つり革への需要は昔よりは少なくなっているだろう。後述のメーカーの話では、今のバスは構造上からもつり革を多くできないとのこと。
秋田市営バスでつり革を握った経験からすれば、前後方向の揺れが低減されることだけでも、かなりの効果、すなわち安心感があった。鉄道とは違い、バスでは横揺れよりも発進・停車時の前後方向の揺れのほうが大きいから、それだけで充分ではないだろうか。


製造元が分かった。
東京の「稲垣工業」が1980年に商品化。「ダブルベルト」と呼んでいる。
札幌市電に乗っていてひらめいた地元の主婦が持ちこんだアイデアが元で、おそらく仙台市交通局が初めて導入したとのこと。

稲垣工業のホームページによれば「路線バス各社様の内装部品製造を手がけています。」そうで、鉄道ではなくバス向け専門に、つり革のほかサンバイザー、名札入れ、ミラー等々を作っている。


乗りものニュースでは、大阪の「三上化工材」にも取材しているが、V字型のことは触れていない。
三上化工材ホームページによれば「つり手つり革のリーディングカンパニー」。いろいろな形状のつり革を作っていて、JR東日本の車両にも「ミカミ」と小さく刻印された、五角形(ホームベース形でほぼ三角形)のつり革が下がっている。

路線バスでも、五角形のつり革を採用しているところはたまにあり、秋田中央交通にも中古車で数台存在する。形状からして三上化工材製かもしれない。近鉄の中古車もそうで、これは関西つながりで地元産を使ったのだろうか。
バスで三角のつり革を握った経験はないけれど、つかまり心地はどうだろうか。前後の揺れに対して不安定そうで不安な気もする。

円形1本、円形2本(ダブルベルト)、三角形。
シェアとしては円形1本が多数派だろうか。個人的にはダブルベルトがバスにはベストだと思うのだけど…

※機会があれば、鉄道のつり革についていずれまた。
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続・方向幕の書体

2018-12-04 00:34:01 | 秋田市営バス
路線バスの、フイルム幕に印字した行先表示=方向幕の書体についての続き。
方向幕の文字は、全国的にほとんどのバス事業者で共通の書体(フォント)が使われていた。その書体は、2000年頃(※)を境に変更された。
※2000年頃に「作成・印刷」されたという意味。従前に使われた幕でも、路線改廃や幕が破損しない限りは継続して使う(廃車から外して使い回すことも)事業者も多く、今でも新旧書体が混在する事業者もある。

前回の通り、(1970年代以降?~)2000年以前に使われていた書体は、モリサワの写真植字機用書体「見出丸ゴシック体MBD101」または「見出丸ゴシック体MBD31」であった。
秋田市営バスをはじめ、MBD101を使う事業者が多かったようだ。

紙の印刷業界と同じように方向幕の作成も、1990年代後半になると、写植からパソコンを使うように変化したのだろう。
しかし、モリサワ2書体は、パソコンで使えるようにはされなかったため、書体を変更したと考えられる。
市営バス作成の船場町経由割山線(移管・車両譲渡後も継続使用されたものもあり)
これは秋田市営バスだけの特徴だが、青文字の経由地の文字の形(文字数によって扁平になるか)と区切りが「・」と「.」のバリエーションがあったが、どちらも書体は共通であった。
「尻」の「九」の横棒が右上がりになっているのが特徴的。

中央交通作成の同じ表示
市営バスからの路線譲受に際して、中央交通が作成した幕は、区切りは「・」、青文字は文字数による形状の違いはほとんど目立たないほぼ正方形であった(「大町」と「船場町」をよーく見比べると、2文字と3文字ではわずかに文字幅が異なる)。
「尻」の「九」の横棒が水平であるほか、全体に線がやや細く、枠いっぱいに線が配置された「ふところが広い」デザイン。

前回最後の通り、この新しい書体が何か、少し気になっていた。改めて見れば、
今はなき有楽町・牛島経由雄和町役場行き
「町」の形に注目。左の「田」が縦に長く、しかも「田」と「丁」にすき間ができているという、とても個性的なデザイン。
割山線の経由の「町」も、改めて見れば同じ。
今でもたまに見られる、新国道経由五城目行き
「城」の右上の点が、横棒の上と下にまたがって長い。これも珍しい。

そう、中央交通のバス停の表示板にも使われている、フォントワークスの「スーラ」なのだった。

再掲)岩手県交通「でんでんむし」もスーラ
弘南バスでもスーラを使っている。

スーラは1990年にリリースされたそうで、思ったより歴史がある。
現在では、テレビの字幕、印刷物、看板、各種表示など多くの分野で使われていて、万能とも言えるフォントのようだ。
一文字ずつ見れば(少なくとも素人には)「町」のようなクセが強い箇所もあるものの、全体では統一感があってスムーズに読める書体ではないだろうか。綿密に考えてデザインされたということなのでしょう。


モリサワからスーラに変更するに際して、文字の線が細くなった。個人的には、細くなったことが、新書体への違和感につながった。
スーラは、文字の線の太さ(ウエイト)が6種類ある。方向幕に使われるのは、細いほうから3番目の「スーラDB」だろうか。
もし、もう1段階太い「スーラB」を使っていれば、かつてのモリサワ書体に近い太さになっていたはず。そうだったなら、文字の形は別として、書体が変わった違和感が少なく済んだかもしれない。
細いほうが視認性がいいとかいった判断があったのだろうか。

そうなると、前のモリサワ書体と同じ疑問が浮かぶ。
パソコンで使える丸ゴシック体は、1990年代後半当時でも、ほかに複数あったはず。それにスーラでもウエイトは複数ある。
その中で、どうして全国のほとんどのバス事業者が、こぞってスーラかつ同じ太さのものを選んだのかという疑問。
やっぱりバス協会辺りの推薦でもあったのだろうか。

2000年代に入ると間もなく、LED式行先表示器が普及し、古い車でも幕からLEDに交換する事業者も多く、方向幕は急激に数を減らした。したがって、スーラの方向幕が幅を利かせていた時期は短かった。
弘南バスや中央交通の郊外路線など、今も方向幕を使い続けるバスも一定数存在するものの、将来的には方向幕はなくなってしまう運命。スーラが最後の方向幕の書体になるのだろう。


以下、余話。
旧書体に話を戻します。
モリサワのMBD101/MBD31は、方向幕以外ではどこで使われていたか。ネット上にも情報は少なくて現存するものは多くはないと思われる。物持ちのいい工事現場の立て看板などではちらほらあるそうだ。
秋田市内でもほんの少しだけ、それらしき書体を見つけた。その1つ。
「扉が内側に開きますのでご注意ください」MBD101かな?
これも中央交通のバス。
秋田市中心市街地循環バスや子会社郊外路線で使われている、小田急中古の車体が短いいすゞエルガミオの中ドアに書かれて(貼られて)いる表示。

小田急時代からあった表示で、1999年製造の車だから、その頃はまだ使えたのだろうか。
ただ「扉」の「戸」部分の線が古臭いから、昔からあった原本というか型から起こしたものかもしれない。

話が変わって。
(再掲)市営バスのMBD101「県庁市役所 八橋球場.交通局」
市営バス時代の交通局庁舎・中央営業所は、移管に際して中央交通へ有償譲渡(評価額の半値で)され、同社臨海営業所となっている。
交通局行きのバスも臨海営業所行きとなった。
スーラ。昔のスーラは「八」の2画目最初の横棒がなかった※バス停表示板の例
上の写真は、市営バスからの譲渡車で、幕をすべて中央交通作成のスーラ版に入れ替えたもの。市営バス時代よりも幕(フイルム)の横幅がやや狭く、両端にすき間や金属の枠らしきものが見えている。
一方、大型車の一部ではこんなものもあった。
経由地に注目
「八橋球場・臨海営業所」はスーラだが、「県庁市役所」はモリサワ書体。
この車は、新屋線など市営バスから移管された路線では、市営バス時代のモリサワ書体の幕をそのまま使い続けていた。
臨海営業所に戻る時に必要になるコマは、新しく作らないといけなかったわけだが、「県庁市役所 八橋球場・交通局」のコマを再利用して、「県庁市役所」を残し、「八橋球場・交通局」を消して「八橋球場・臨海営業所」をスーラで書き直したもののようだ。「交通局」だけを消すのでは、文字数から幅が不足するので、「八橋球場」も書き直したのだろう。
おそらく、中央交通としては使う場合があり得る「長崎屋・車庫」などは、スーラ版を追加していたはず。

全国的に、方向幕を部分的に消して書き換えることは行われているようだ。そういう作業を引き受けるのは、何屋さんなのか、どういう機材でどういう手順で行うのか、ちょっと興味がある。
LEDならデータ更新だけで済むようになり、そんなことももう過去のものなのかもしれない。
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昔の方向幕の書体

2018-11-29 00:26:02 | 秋田市営バス
今年、個人的に長年の課題であった、秋田市のバス停の表示板の文字の書体を特定することができた。
バス関連の書体については、ほかにも、書体を特定したかったのだが分からず、あきらめていたものがあったのだが、それもついに判明!!!
それはバスの車両の「方向幕」の書体である。

方向幕とは、バスの行き先表示のうち、10数年前まではどこでも使われていた、フイルム(幕)に文字を印字して掲出する方式のもの。
現在主流のLED式表示も、正確には「幕」じゃないけれど、広義では方向幕と称することもある。LEDの書体は、今も現役の製品であり、パソコンで使えるフォントを使っていることが多いようだから、ここでは触れないことにします。
(再掲)秋田市営バスの方向幕
問題の昔の方向幕。
今のLEDもそうであるように、文字の配置(経由地の書き方とか)は、バス会社によってまちまちであった。
しかし、その書体は、(少なくとも昭和50年代後半)全国の大半のバス会社で同じフォントが使われていた。それが2000年前後のある時期を境に書体(それも共通)が切り替わった。

最初の書体は、線が太くてしっかりした丸ゴシック体。
変更後の書体は、線が細くて、枠いっぱいにデザインされた大ぶりな(ふところが広いと称する)、「今風」の丸ゴシック体。
(再掲)「弘南バス」左が旧書体、右が新書体
秋田中央交通も羽後交通も弘南バスも、そのような経過だったはず。
ただし、幕のセットは、廃車から取り外して新車に付け替えて再利用することが多く、現時点でも2つの書体が混在している。セットの中でも継ぎ接ぎしたり、部分的に書き換えたりして、同じ車でも混在することもある。
秋田市営バスの末期では、ごく一部の例外(この記事参照)を除き、すべて旧書体であった。※市営バスの方向幕についてはこの記事この記事参照。

全国的に見れば、手書き文字や角ゴシック体を使ったバス会社も存在したようだ。
写研製の丸ゴシック体「ナール」を使っていたところもあったらしく、秋田市営バスで昭和末期に行き先表示が小型の旧車の幕を入れ替えた(新しい大型幕の車と表記を統一)のも、ナールだったかもしれない(1994年頃までに全廃)。【2021年10月2日追記・小型幕車は1987年時点では入れ替え前。1988年度には入れ替わっていたと記憶するので、1987~1988年のどこかで交換したと考えられる。】


主流の新旧2つの丸ゴシック体。
特に市営バスで使っていた古いほうのフォントを知りたかった。他のどこかで見たような気もするし、丸ゴシック体にしてはマジメな雰囲気もあって、好きなデザイン。書体見本の書籍を調べれば分かったかもしれないけれど、ネットでは該当する書体を見つけられなかった。

このほど、ネット上で方向幕に詳しい方々、そして書体に詳しい方々の何人かが、紹介してくれていたのを発見!
モリサワの「見出丸ゴシック体MBD101」または「見出丸ゴシック体MBD31」とのこと。1970年代前半に写真植字機用書体として登場した。
角ゴシック体でMB101、MB31というのがあり、それをベースに丸くした書体という位置づけようのだ。101と31でデザインは似ているが、101のほうが文字がやや大ぶりだったり、線の太さが違ったりする。
昔の東急電鉄の駅名標は、MBD31だったそうだ。
秋田市営バスの側面幕。これは文字が全部正方形のバージョン
生半可な書体の知識を得た素人として驚いたのは、これがモリサワ製品であったこと。
何度か取り上げたように、モリサワはデジタル化への対応というか順応が上手で、写植用書体をパソコンで使えるようにしていて、同社の文字は今も出版物や広告でよく見かけるし、カネさえ払えば我々素人でも使うことができる。
そんなことで、てっきり、モリサワ製写植書体はすべてデジタル化されているのかと思いこんでいたが、デジタル化されていない書体もあるのだった。その1つが、方向幕の書体だった。

ネット上には、これらの書体もデジタルフォントとして発売してほしいという、要望・願望はわずかにある。
そして、角ゴシックのほうはMB101もMB31も、今もフォントとして発売されている。だったら、その丸ゴシック版も…と僕も願ってしまう。出たら買いたい。


MBD101とMBD31、どっちなのかについては、おそらく全国的にMBD101が主流だったようで、秋田の各事業者もそんな気がする。
弘南バスでは、一部の車両や行き先において、線が細いように感じるコマ(コマでは「狼森」「小栗山」、車両では日野レインボーに多い感じ)があるので、それはMBD31かもしれない。
(再掲)この「弘前駅」は細い気がするからMBD31?

【29日画像追加】斜めからの撮影だけど、これは秋田で見慣れた印象だから、太めのMBD101?

【29日画像追加】そしてこれが新しい書体。上2つとはデザインがまったく別


秋田中央交通の急行バス(現在は廃止)の幕。扁平や反転表示も可能
1970年代のモリサワ製でデジタル化されなかったフォントということなので、それ以前は手書き文字だったのが、後に写真植字機を使って印刷するようになったのだろう。文字の縦横比を変えて扁平や縦長にすることも、写植では可能だったそうだ。
当時、写植といえば写研というメーカーがトップで、あらゆる分野で同社の文字が使われた。写研にも似たような太い丸ゴシック体はあるし、「ナール」もある。どうしてバスはこぞってモリサワだったのか。
憶測だけど、紙とか板でなく、薄い樹脂に印刷するという特殊な機器にモリサワしか対応していなかったとか、引き受ける業者がとても少なく独占または寡占状態だったとかだろうか。
そうだとしたら、モリサワ製なら角ゴシック体でも印刷可能なはず。全国で申し合わせたように太い丸ゴシック体だったのは不可解。となれば、バス協会辺りが、標準書体として推奨していたとか??
【29日追記】旧国鉄~JRの車両の表示では、通称国鉄書体と呼ばれる独特の文字を使っていたし、絵入りヘッドマーク(テールマーク)もあったくらいだから、技術的にはモリサワ書体である必要はなかったのかもしれない。ただ、国鉄バスでは、やっぱりモリサワ書体を使っていたようだ。


モリサワ書体はいつまで使われた(=幕が作成された)か。
1990年代後半に弘南バスが大量導入した日野リエッセ(台数からして幕は中古品でなく新規作成と思われる)や、1998年に移転により新しく設定された秋田市営バスの「日赤病院」のコマ、1998年に京成バスが幕張新都心用に導入した連節バスでも、使われている。
京成バスの幕。後にLED化された
2000年に秋田中央交通が初めて導入したいすゞエルガミオでは、新しいフォントだった。日赤病院関係の路線も、中央交通では新フォントだったかも?【29日追記】秋田県男鹿市の男鹿みなと市民病院も、秋田の日赤と同じ1998年開院だが、中央交通男鹿営業所の車の幕は新フォントのはず(開院後、時間が経ってから幕が作られた可能性もある)。
したがって、1990年代末に書体が変わったと考えられ、ちょうど写植からデジタル印刷に替わりつつあった時期と重なる。
では、その新しいフォントは何か。これまで旧書体に気を取られて、あまり興味がなかった。調べてみれば、なんのことはない、例の「スーラ」だったのですが、続きは後日

※この書体らしきものがバス以外のところでも使われていた。この記事後半。

【2020年2月6日追記】三陸鉄道や秋田内陸縦貫鉄道の初代車両といった、昭和末期の第三セクター車両の行き先表示にも、このモリサワの丸ゴシックが使われているようだ。当時、国鉄は自前の書体だったから真似するわけにはいかず、バス(あるいは大手私鉄も使っていたかも)を踏襲したか、制作業者が同じ流れでそうなったのだろうか。
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バス停名の書体

2018-07-23 00:15:41 | 秋田市営バス
秋田市交通局(秋田市営バス)が設置し、秋田中央交通に移管後もほぼ同じデザインが引き続き使われている、秋田市のダルマ型バス停の円形表示板の続き。※前回の記事

長年の課題(個人的な)であった、バス停名表記のフォントに迫る。
手書きは当然として、局内・社内で手作りしたであろうパソコン作成のものは、その都度フォントが違うこともあるので、特定はやめておく(HG丸ゴシックM-PROとMSゴシックだと思う)。
ここでは、カッティングシートによる、日本語の切り文字を特定することにする。英字は省略。

市営バス時代も中央交通移管後の複数のタイプのいずれも、丸ゴシック体系統のフォントだが、同じではない。一般人・一般企業がパソコンで印刷するフォントなら、フリーフォントとか、100書体まとめていくらという格安書体もあって、判断は難しそう。
だけど、専門業者が制作するカッティングシートなら、それなりに有名なフォントが使われていると考え、いくつかのサイトで調べて同定した。同じ書体シリーズでも、文字の太さ違い(ウエイト)でさらに区別されるが、そこについては深く追求はしないことにした。
素人なので、誤りもあると思うのであしからず。

切り文字のバス停名表示が登場したのは、市営バス末期。※この記事など参照。
表示板のデザイン自体は手書き時代と同じながら、整って洗練された文字とローマ字併記により、都会的に感じた。
(再掲)交通局時代のカットシール表示
具体的な設置時期は分からないが、1992年に設置されたと思われる泉・保戸野線(現・泉ハイタウン線)や新屋西線の朝日町周辺などでは、このタイプでなくまだ手書きだったはず。
1998年4月の通町の拡幅事業完成時のバス停配置の変更によって名称が変わった「ねぶり流し館前」や1999年10月の泉地区の住居表示実施によってバス停名が変更された所では、切り文字で設置。【追記・2000年に名称が変わった「嶺梅院前」も】
その後、2002年頃のまとまった更新では、カット文字でなく、パソコンで透明シールに印字したもの。【2021年8月19日追記・2001年4月1日に名称が変わった「泉ななかまど通り」ですでに透明シールが使われている。】
したがって、市営バス時代に切り文字が使われたのは、2000年前後の短期間だったと思われる。ただ、比較的大規模に更新されたようで、数としては多く、20年近く経った現在も残っているものも少なくない。

市営バスの丸ゴシック体は、オーソドックスな丸ゴシック体と言えるデザイン。見慣れた感じもする。
写研の「ナール」ではないだろうか。
再掲)秋田市の昔のプランターの文字もナール
写研というメーカーは、写真植字で圧倒的なシェアを誇り、同社のフォントはかつては昔はよく目にした。ところが、DTPとかパソコンへの対応はかたくなに拒んで、今はあまり見かけなくなってしまった。
他社のフォントは、パソコンとカネさえあれば、我々素人でもほぼプロと同じものを使える時代になった中、対照的。

ナールは、昔は印刷物やテレビの字幕、看板等々でよく使われていたが、上記の事情から、今はまず見られない。
一般道路の案内標識(いわゆる青看)の地名などの書体には、今なおナールが指定されているらしい。現在はそこがいちばんの活躍の場所だろう。

ちなみに、1990年代に交通局が設置した他のタイプでは、
・市営バス・中央交通共用の角型(前回紹介)は、円形表示板よりはやや太いナール。中央交通移管後に設置された「ニューシティ前」でも同じ。
・2代目バス接近表示(バスロケ)とそれに似た電照式では、写研の角ゴシック体「ゴナ」。ゴナも有名なフォント。
(再掲)バスロケ。接近表示部分もゴナ
埋め込み式でバス停名が赤色LEDで点滅するタイプもナール。
(再掲)
市営バスのバス停に使われた2000年頃は、まだナールやゴナが幅を利かせていたはずだから、これが当たり前のことだったはず。


中央交通移管後。
2006年春の完全移管直後頃、中央交通としては初の、市営バスタイプ表示板の更新が行われた。
勝平、旧国道~将軍野、牛島方面(共用タイプでない元市営単独区間)など、市営バスが古い表示板のまま残していた方面ごとに、ある程度まとめて更新された。現在も使われている。
(再掲)「千代田町」
10年ほど前に撮影した上の写真を見ると、黄色と赤の色合いは市営バス時代とよく似ていて、反射素材は使われていない【2022年6月9日訂正・反射素材が使われていた。この記事に写真あり。】(上の写真では代わりに反射シールを貼っている)。現在は色あせて薄くなっている。

以前も述べたように、このタイプでは、ローマ字にヘボン式と訓令式が混在していたり、ローマ字の読みや漢字表記を間違えたりしていた。中央交通としては移管直後で不慣れなのも分からなくはないが、市民・沿線住民としては、心もとなかった。
また、市営バス時代のデザインを、中央交通が踏襲して更新したことが予想外であり、かつこれが現実であることを突きつけられ、複雑な心境になった。

このフォントは、市営バス時代よりは大きくて見やすい。その分、4文字程度を越えると、横方向に圧縮されて縦長になる。
個人的には、上記の複雑な心境だったせいもあるのだろうが、デザイン的にも好きになれない文字であり表示板であった。
なぜなら、丸ゴシック体にしてはカクカクしていて、どこか間延びしてアンバランスで、文字として不自然な印象がしたから。

改めてその文字を観察。
「代」が特徴的。3画目・右の横棒は、右上がりが普通だが、この書体ではほぼ水平。それににんべんの1画目が短い。
ほかに「築」の「エ」とか「旭」の「日」が他のパーツと離れていて、バラけている印象もある。
こうした特徴の書体は、ニィスの「JTCウインR」というフォント。

書体名も企業名も存じ上げなかったが、明朝体や角ゴシック体も含めてシリーズ化されて、多方面で使われていた。もともとは映像分野での画面表示のために作られたらしく、上記の特徴はおそらく画面でツブレないような工夫なのだろう。



2010年代に入るとJTCウインRは使われなくなり、別の書体が複数並行して使われるようになった。
この頃になると表示板のみの更新のほか、台座ごとの交換(またはルート変更等による新規設置)もされ、これまで見慣れない頭でっかちタイプも登場。けっこう複雑そうなので、とりあえずざっと並べてみよう。
(再掲)2011年夏新設・背の高いタイプ「築山小学校前」

(再掲)2012年夏新設/2013年春新設・いずれも背の高いタイプ「ねぶり流し館前」 ※2012年設置は循環バス用で、後に専用デザイン化

2013年春台座ごと更新・背の高いタイプ「美術大学前」

(再掲)2014年春新設・頭でっかちタイプ「八幡田一丁目」

2016年春表示板のみ更新「秋田城跡歴史資料館前」

2016年春頃台座ごと更新・頭でっかちタイプ「秋大糠塚官舎前」

(再掲)2017年春新設・背の高いタイプ「県庁市役所前」

2017年秋頃表示板のみ更新「高野二区」
以上、時期が近ければ似ているような傾向もあるが、新設か更新か、最近登場した頭でっかちタイプかどうかによる法則はない。【23日追記】担当営業所とか上り/下りなどで分けているわけでもない。
でも、文字の形を観察してみると、実はすべて同じフォントで、文字が細い/太いの違いだけだと思われる。
ただし、細い文字が2本、1年弱違いで置かれた「ねぶり流し館前」では、文字の大きさが違うように、サイズなどが規定されているわけではなく、フォントだけ決まっていて、あとはテキトーっぽい。
昨年からの表示板のみの更新では、太いもので統一されているから、今後はそうなっていくのかもしれない。

で、そのフォント名。
全体で見ると、クセが少ない丸ゴシック体のように思われたが、細部では個性が強いかもしれない。
・「城」の右上の点が長く、横棒の下まで伸びている。
・「学」「前」の上の点の間隔が広い。
・「旭」の「日」の右下が、「九」の最後のはねとくっついている。
・「町」の「田」と「丁」が縦に長く、それぞれが離れている。
・その他「塚」「ぶ」「り」「港」など。
といった特徴を満たすフォントは、フォントワークスの「スーラ」しかなさそう。

スーラは、秋田大橋茨島側の「雄物川」の看板にも使われていたが、最近はあちこちで使われている。
改めて見れば、秋田市の「佐野薬局」の看板とか、「YOUは何しに日本へ?」で外国人がしゃべっている訳の字幕とかもスーラ(の太め)のようだ。
【11月1日追記】スーラはその他テレビ番組の字幕、秋田市広報誌「広報あきた」の横書き部分など、ほんとうに多方面で使われている。「で」などクセの強い部分もあるが、全体としてはきれいな書体だと思う。

それに、
(再掲)秋北バス「城南小学校前」
大館市の秋北バスもスーラ。ウエイトが違う(中ぐらい)気がしたけれど、上の築山小学校前と同じか?
中央交通とのバランスの違いのせいか、ナールにかなり似た雰囲気が漂い、中央交通の表示板に使ったら市営バスっぽくなりそう。【23日補足】っていうか上の築山小学校前とほぼ同じか。

 
交通局が設置した上り側と、上記2013年設置の下り側「ねぶり流し館前」。太さは別として、漢字はけっこう似ている。「前」の上の点の距離は違うし、「ぶ」も違う。

中央交通に戻って。だけど、スーラと断定できない点も。
2017年秋頃表示板のみ更新「八橋大畑」
ネット上で確認できるスーラでは、「八」の右側の書き始めは横棒がある。ところが、中央交通のバス停では、八橋大畑以外、頭でっかち・細い文字も含めて、横棒がない斜め線だけの八。カタカナの「ハ」を使っているわけではなさそう。
そういう仕様違いのスーラもあったりするのだろうか。それともよく似たスーラじゃないフォント??※その後、「八」の形が違う文字も現れた。この記事後半。

それから、更新前の「大町通り」は、透明ではなく、地色と同じ黄色いシールに細い文字で「大町通り」と書かれていたが、それもスーラだった。切り文字ではないが、シールを業者に発注したのだろうか。

個人的感想としては、JTCウインRよりクセがなく、嫌いなフォントではない。
中央交通さんにお願いできるのならば、まずはローマ字も含めて、せっかく設置・更新するのならば、文字の太さやデザインを統一してほしい。太さを中間ぐらいにするとか、文字数が多い時に縦に圧縮するのをやめるとか、改善の余地はありそう。

最後に「旭北前」で、市営バス設置のナール(現在は更新済み)、中央交通移管直後設置のJTCウインR(割山線用で現存)、太いスーラ(最近更新)を並べてみよう。
(再掲)交通局設置

移管直後設置。最近の撮影なので、上の千代田町と比べると社名が薄れ、黄色が退色しているのが分かる

(再掲)最近設置

長々と申し訳ないですが、バス停について、若干続きます
※秋田市中心市街地循環バス「ぐるる」用バス停は、また別の丸ゴシック体が使われている。
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市営バスタイプ バス停

2018-07-19 00:42:57 | 秋田市営バス
7月17日午後早く、秋田市中心部でとある作業が行われていた。
その結果、
「大町通り」バス停
秋田ニューシティ跡地・イーホテルショッピングモール・日本銀行秋田支店の前にある、ダルマ型バス停の表示板が更新されたのだ。
上下両方向とも、台座と支柱はそのままで、頭の表示板のみを交換。下り側に別に置かれた、循環バス用ポールはそのまま。
2人の作業員がトラックで来て交換していた。取り付けるネジ穴の位置が支柱ごとに異なるのか、表示板にはその場でドリルで穴を開けていた。新しい表示板は、どこかの使い回しではなく新品で、金属製だろうか(一時期はプラスチック製のものもあった)。
(再掲)以前の表示板は角型
従来の表示板は、2002年にダイエー秋田店撤退に伴い、「ダイエー前」から「秋田ニューシティ前」にバス停名が変更された時に設置されたものだった。その後、秋田ニューシティ解体にともない2011年4月には「大町通り」に変更された(ニューシティ閉館は2010年4月)が、その時は交換せず「ダイエー前」の上に文字を重ね張りして対応していた。
(再掲)「秋田ニューシティ前」時代
ここを通る路線は、元は秋田市営バス(秋田市交通局)のみだったのが、2002年3月で市営バスが撤退・全便中央交通となった。ダイエー閉店は2002年8月なので、中央交通が設置(交換)した表示板ということになるようだ。
上の再掲写真とほぼ同じ位置。向かいの建物が消えた

17日まで使われていた角型の表示板は、ローマ字表記なし・重ね張りだし、きれいというわけではないが、別段著しく老朽化したとか破損したといった状態ではなく、他のバス停と比べてもまだまだ使えそうだったのに、交換された。
このように秋田中央交通では、まだ使えそうなダルマ型バス停の表示板部分だけを、突然更新することがある。昨2017年頃からはその動きが活発になり、新国道(10月頃?)や手形陸橋~三吉神社付近では、沿線の連続するバス停がほぼ一斉に交換された。(大町通りは単発の更新の模様)【22日補足】自衛隊入口では、新国道下り側が角型から交換。その他、電柱がバス停代わりの新国道上り側、寺内経由が通る自衛隊通り側は交換されず。

その一方で、郊外部なんかには、バス停名が薄れた手書き文字でサビサビの古いものや、風で倒れたのか車がぶつかったのか、板が折れたり傾いたりしたものが、ずっとそのままということもある。
信号機や道路標識もそうであるように、広範囲に散らばる全バス停の履歴や状態を把握するのは困難であるのだろうけど。


さて、ここで秋田市のダルマ型バス停の歴史を改めて振り返っておく。※ずっと前にも記事にしています
秋田市には2006年春まで「秋田市営バス(事業者名としては秋田市交通局。ここでは市営バスと表記します)」が存在し、市内の路線バスは市営バスと中央交通の2事業者が運行していた。方面によっては、両者が競合していた。
そのバス停は、基本的には、各事業者がそれぞれ設置していて、競合区間である中心部や新国道、牛島旧道ではデザインの違う2本のポールが立っていた。
2000年前後(もしくはさらに少し前?)になると、競合区間のバス停を1つにまとめて共有化する動きが出て、新たなデザインの表示板が設置された。
こうしたいきさつで、2000年代初めには、市営バス単独、中央交通単独、2者共用の3タイプのダルマ型バス停が存在した。※ダルマ型以外も存在したが、ここでは割愛。
市営バス単独は、円形で横に3色(上から黄緑・黄・赤)に分けられたもの。中央交通単独は、逆U字形で白地にオレンジや紺色が使われ「バスで行こう」のキャッチコピー入り。共用タイプは、上辺がカーブした四角形で、上から赤・黄緑・黄色。

2000年代に入ると、段階的に市営バスの路線が中央交通へ移管され、それまで市営バス単独だったバス停が、中央交通化(もしくは一時的に共用)された。【19日補足】バス停一式が市から中央交通へ「譲渡された(おそらく無償)」形になるのだろう。
この時は、新たなポール設置や表示板交換はあまり行われず、市営バス時代の表示板に事業者名を記した青いシールを貼って対応。
したがって、市営バス単独の円形のバス停は、上段の黄緑の部分が青に変わっただけで、引き続き使われた。【21日補足・なぜか社名部分が青でなく、市営バスと同色の表示板も、ごく一部に存在するが例外的。機会があれば取り上げます。】

しかも、移管が落ち着いた頃になると、市営バス時代に設置され古くなった表示板が交換されるものも現れたが、それも社名が青い円形。
さらに、秋田市外も含めて、新規に設置される中央交通のバス停にさえ、同社オリジナル「バスで行こう」タイプではなく、社名が青い円形のものが設置されている。
つまり、市営バスがあった当時よりも、(社名表記と色は違ったものの)市営バスタイプのバス停の設置範囲と本数は増えており、秋田市交通局の産物が増殖している形。
【19日補足】ただし、市営バス時代から継続する黄色と赤部分の色合いは、市営バス時代よりも、くすんだ色調に変わった。耐候性を持たせたりや反射素材を使うようになったことが関係していると考えられる。それにフォントも異なっていて、市営バス時代とまったく同一のバス停というわけでもない。

市営バスから中央交通の移管時には、譲渡される車両であっても、その車体塗装は市営バス時代のものを使わず、必ず変更するという取り決めがされていたそうだが、バス停についてはなかったのだろう。
それに「バスで行こう」タイプよりも、若干構造が簡素なので、安くつくのかもしれない。表示板を留めるネジも少ない。


大町通りに話を戻して。ここは、ダイエー前当時は市営バス単独の円形だったのが、移管後のニューシティ前に変わった時に、共用タイプの四角に交換されたことになるが、それは例外的というか少し珍しい事例。
そして、昨年まとまって更新された、手形陸橋通りや新国道は、共用タイプが多かった。
ということは、中央交通としては、四角い共用タイプを“駆逐”したがっているようにも思える。
(再掲)横金線で共用として使われていた当時
上記の通りもっと状態の悪い円形表示板もあれば、「バスで行こう」タイプもまだあるのに、それらを差し置いて。

個人的には、四角いほうがスタイリッシュだし、スペースにも余裕があって見やすくて好きなのだけど、中央交通さんはお気に召さないのだろうか…
といっても、共用タイプの表示板も、まだそれなりに残っている。


ここで、大町通りに先立って同様に表示板が更新されたものを2つ。いずれも昨年末頃の確認で、共用タイプではない市営バス時代に設置されていた単独タイプからの更新。
(再掲)ハローワーク秋田前
新屋線「ハローワーク秋田前」下り側。
更新後
英字は以前は「HELLOWORK」だったのが「HAROWAKU」になった。どっちみち、ネイテイブの人には通じなさそうだけど…

長崎屋バスターミナルと山王十字路の間にひっそりとある、新港線用「旭北前」。
長崎屋経由大川反車庫行き/発の路線は、ここは通るものの、このバス停は無視。あくまで新港線専用。っていうか、バスターミナルも近いし、移管後の現段階では別に廃止してもいいのでは?
(再掲)【20日補足】上段の中央交通の下に「市営バス」の文字が透けていて、重ね張りしたことが分かる
ここは支柱がかなり錆びていて、
台座・支柱とも交換(おそらく両方向とも。写真は新屋方面側)
なお、脇道にある、川尻割山線上り側(下りは別の道なので旭北前はなし)の旭北前は、移管後に交換されたものがそのままで、今回は更新されず。
更新後
この新しい表示板、文字がだいぶ太いのが特徴的。文字数が多いとゴチャゴチャする気もするけれど、見やすい。
もう1点特徴的なのが、「旭北前」で分かるように、文字がセンタリングされていること。
市営バス時代も、これまでの中央交通設置分でも、文字数が少ないバス停名は、均等割り付け・両端揃えされて、その分文字間隔が広くなっていた。
今回のものは、文字数が少なくても文字間隔は変わらない。手形の「野崎」なんかもそうで、真ん中にこちょっと固まって見え、これまでの感覚では、違和感。

この表示板では、少なくとも黄色いバス停名の部分は、反射材になっているようだ。
また、上段の青の下辺と、下段の赤の上辺付近には、直線の段差がついている。先(下)に黄色があって、後からその上に青と赤を貼って製作したようだ。

さて、以前から気になっていたのが、表示板の書体の種類(フォント)。
市営バス末期から、カッティングシートによる切り文字でバス停名を表示するようになった。
いずれも丸ゴシック体系統だが、中央交通が設置したものは市営バス時代とは違うフォントであり、かつ文字の太さからして複数種が存在する。
以前から、どのフォントなのか気になっていて、やっと調べがついたのですが、別記事にて

【21日追記】大町通り交換より後、18日から21日の間のどこかで、泉八橋環状線など本数が少ない千秋トンネル通りの「すわ町(神田線用とは別)」の両側、「鷹匠橋」の下り(泉回り側)の3か所も、切り文字角型(2者共用ではなかった場所だが、市営バス時代から角型?)から、円形に交換されていた。ただし、鷹匠橋の上り側は、角型ながらパソコン作成の透明シール表示なのがそのまま。角型が減っているのは間違いないものの、交換基準が謎。【24日補足】鷹匠橋の上り側は、支柱がサビサビ。あまりに状態が悪いと判断して、近いうちに支柱も(もしくは台座ごと)交換するつもりなのかも。
【2024年5月15日追記】上記「すわ町」の泉回り側で、2024年5月15日16時頃に支柱と台座を新品に交換する作業が行われていた。表示板はこの2018年に交換されたものを転用した模様。
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17年遅れの帽子掛マイク

2017-09-03 22:07:51 | 秋田市営バス
ワンマンバスの運転士の業務は多岐にわたり、大変なのは言うまでもない。安全運行が第一だけど、乗客へのきめ細かな配慮と案内があれば、客としては気分はいいもの。
その1つ、運転士の肉声による案内は、バス会社によってかなり差があるように感じる。マニュアルの有無なのか、地域性なのか。
自動放送でもしゃべる型通りの案内を、重ねてうるさいほど繰り返すようなバス会社(私見&偏見だけど西のほうに多い?)もあれば、なんにも言わないバス会社もあれば。要は適切なタイミングで適切な情報を提供してくれればいいのだけど、それが運転士の負担になるのも考えもの。繰り返すけれど、安全が第一。


運転士の肉声案内に欠かせないのが、マイク。
バスの車内放送マイクといえば、昔からバスガイドが使っている、四角くて細長くて平べったい、手に持って使うもの。
ワンマン路線バスの運転士でも、それを使う時代/バス会社はあった。たしか最近も、宮城交通の高速バスの運転士が使っていた(運行中の使用は安全には注意してくださいよ)。

その後、胸元にクリップではさむピンマイクも登場。テレビ番組の出演者が付けているのと同じ(大きさやワイヤレスかは別として)で、運転中でも手を離さずに案内できるようになった。
だけど口元から遠く、走行音にまぎれてうまく声を拾えないのか、ピンマイクを手に持って使う人や、ハウリング(スピーカーから出た音を、再びマイクが拾ってキンキンする)が発生する場合があった。

さらにその後、頭(耳付近)から口元まで、先端にマイクがついたアームが伸びるタイプが普及した。一見、ヘッドセットのように見えるが、実際にはマイクと逆側にクリップが付いていて、クリップを制帽の縁にはさむ方式。
メーカーのクラリオン(ほかのメーカーはあるのだろうか?)では、「帽子掛型エレクトレットマイクロホン」と称している。
でも、「帽子掛け」って、帽子をかぶらない時に引っかけておくための家具や金具のことじゃないの。それだと、「マイク自体が帽子掛けの型」ってことになるような…(そもそもどこにも「掛け」ていない。)
「帽子装着型」とか「クリップ式」とするべきではないでしょうか。
※メーカーがそう言っているのだから、不本意ながら、以下「帽子掛型」とします。

帽子掛型マイクは、なんか見た目がカッコイイせいか、確実に声を拾える実用性なのか、全国的に2000年代に普及し、今は多くのバス会社が採用している。
肉声アナウンスが盛んになった一因が、帽子掛型マイクの普及かもしれない。
バスガイドといえば、平べったいマイクと同じように、今や、路線バスの運転士といえば、帽子掛型マイクを付けた姿を思い浮かべるのかもしれない。


秋田県内の路線バスで帽子掛型マイクを採用したのは、おそらく秋田市交通局(秋田市営バス)が最初。
2000年6月20日に、一斉に導入されたと記憶(記録)している。それまではクラリオン製のピンマイクだった。

その後、2000年代中頃~後半までには、羽後交通や秋北バスでも導入。
青森の弘南バスでは、2000年代中頃にまずは土手町循環100円バス(他の100円バスは不明)で導入、その後一般路線にも広まり、2009年には「運転士がマイクを使ってちゃんと案内しているか」を報告してもらう乗客モニターを募集しており、その時点で導入完了していたはず。


一方、秋田中央交通では、かたくなに帽子掛型マイクを導入していなかった。【4日補足】ピンマイクを採用していたが、着用・使用の義務付けはなかったようで、使わない人が多かった。
このバス会社のことだから、特別な意味はなく、単にケチっているか、前例踏襲でピンマイクを使い続けていたのでしょう。

昨2016年の夏か秋頃、秋田営業所のごく一部の運転士が、帽子掛型マイクらしきものを装着して運行しているのを、何度か目撃した。秋田営業所でも全員ではないし、他営業所では見かけなかった。
試験的に導入してみたのか、あるいは物好きな運転士さんで自腹で帽子掛型を買ったのかなどと思っていた。

そして、今年夏。
中央交通の多くの運転士が、帽子掛型マイクを使用するようになった!

秋田営業所よりも臨海営業所のほうが、早く行き渡ったように感じられた。
お盆明け時点では、秋田営業所担当の秋田市中心市街地循環バス「ぐるる」もピンマイクだったし、臨海でもまだピンマイクの人もいた。
8月末頃には、ぐるるや秋田営業所担当の空港リムジンバスでも帽子掛型マイクを使っている。

また、帽子からではなく、首側から上へマイクのアームが立ち上がる形で装着している人がわずかにいる。そのようなタイプの製品も存在(後述)するが、帽子掛型のクリップを工夫して服に装着すれば、そのようにして使えなくはなさそう。

その結果、ざっと見た限り、帽子掛型マイクを装着して運転する人のほうが多くなったが、帽子掛型マイクを壁のフックに掛ける(帽子掛型マイク掛け?)など、マイクを装着せずに営業運転している運転士も複数おり、使用が義務付けられてはいないようだ。いかにもこのバス会社らしい。


現在、クラリオンでは、帽子掛型マイクを2種発売している。電源の有無(ワイヤードなのに電池が必要なマイクなんてあるのか)と、マイク部分の形状(風防の有無)が異なり、中央交通で導入したのは電源なしの「EMA-048-200」だと思われる。
クラリオンホームページよりEMA-048-200

クラリオンのホームページには、販売終了・在庫僅少(矛盾しているけど製造終了ってこと?)として「EMA-040-200」というのも掲載されている。市営バスで使っていたのはこんなのだった。
EMA-040-200
「フレキシブルタイプ」ってことは、アーム自体が針金のように変形するのだろうか。現行のよりはアームが細い。
ほかに、コード部分は現行のほうが複雑な構造。アーム側のコード接続部分に硬質そうなプラスチックが付き、端子側はカールコード。おろらく、従来タイプでは、コードがアームや体にまとわりついて取り回しが大変で、その点を改善したのではないだろうか。市営バス時代は、車体側に細工(コードをいったん高い位置に上げてから、差し込み口へ下ろすなど)して、コードがからまないようにしていた運転士がいた。


ところで、歴史があるピンマイク(クラリオンでは「ネクタイピン型」)。テレビ番組用のような昔からあるタイプは、クラリオンでは販売終了。
現行タイプは、帽子掛型と同じように、ピンから口元までアームが伸びているタイプ。帽子掛型よりはアームが短い。走行音がするバス車内では、そのほうが実用的なのだろうか。
最近は、クールビズの一環で制帽がないバス会社もあるから、需要はあるはず。【10月18日追記】秋北バスでは以前は帽子掛け型を使っていたが、2017年夏時点では、帽子をかぶらず、このタイプのピンマイクを使っているようだ。

手持ちの資料を参考にさらにさかのぼる。いつ頃かは分からないが、おそらく昭和(50年代以前?)だろう。
当時は、「首かけ式」というのがあった、ネックレス状のヒモからマイクが立ち上がるもの。また、「MAA-013」という「帽子かけ式」も既に存在していた。どちらも、マイク部分も金具類も現在よりはだいぶ大きそう。

秋田市営バス

秋田市営バスから遅れること17年で、中央交通が帽子掛け型マイクを導入。
すなわち、市営バス廃止(=秋田市から帽子掛型消滅※)から11年経って、秋田市に帽子掛け型マイクが再登場した。※秋田市に乗り入れる羽後交通、秋北バスを除く。

でも、マイクが変わって接客が良くなることを期待するのは、短絡的というか筋違い。
上記の通り、そもそも帽子掛け型を使わない運転士もいるし、これまでの同社では、まったく案内をしない運転士もおり、それが突然変貌するとは考えにくい。(変貌しすぎて冗舌になられるのもちょっと困る)
とはいっても、最近、帽子掛け型マイクを通してなかなか上手に乗客に案内している運転士に遭遇した。2例紹介。
・臨海営業所の一般路線バス
席がだいぶ埋まってきた車内。新たに乗りこんできた客に、「うしろのほうに空席があります。ご利用ください」と案内。
要は「立っていられると危ないから、座れ」なんだけど、ものは言いよう。※車内事故防止のため、空席があれば座りましょう。
・中心市街地循環バス
ねぶり流し館の建物の前で速度を緩め、「右の建物がねぶり流し館です。バス停はもう少し先ですので…」と案内後、バス停に停車。日本人と外国人(台湾辺り?)の観光客が各1グループずつ降りていった。
ねぶり流し館は建物が道路から引っこんでいるので、バス停から見た時に気づかないおそれがある。気の利いた案内だと感心した。


秋田市営バスでは、1990年代前半には、まだピンマイクを使う運転士は少なかった。使う人は、中ドアを開けた時に「どうぞ」と言ってくれたり多用していたけれど。
その後、使う人が増えたのか、義務付けられたのか忘れたけれど、上記の通り2000年6月からは全員が帽子掛け型を常に使うようになった。その頃から「三大案内用語の実践」が行われ、これも全員が実践していた。
運転席に「三大案内用語の実践」の掲示
「三大案内用語の実践」とは、発車、降車合図への応答、降車客へのあいさつの3つのタイミングの案内を肉声で行うもの。
掲示では「発進します」「動きます」、「次停まります」、「ありがとうございます」としている。

現在では、発車と降車合図応答は、音声合成システムが言ってくれるし、お礼は当然のこと(たまにそうじゃない人もいるけど)になっているが、当時としては新鮮だった。
また、運転者自らが「停まります」と言うことで、停まるべきバス停をうっかり通過してしまうことを防止できていたと思う。


だけど、市営バスで帽子掛け型マイクを採用したことは、乗客としては別にうれしくもなかった。
ベテラン運転士も多かった交通局では、常にマイクを装着して運転することに不慣れな運転士がいたのだ。
鼻息が荒いのかボコボコと風の音がするのはまだしも、独り言やため息まで車内に流れてしまうこともあり、乗客としては複雑な心境だった。せき払い、せき、くしゃみなんかされた日には迷惑だった。
そういえば、最近の帽子掛け型マイクを使うバス会社では、そんな場面に遭遇したことはない。機材が違う(要はスイッチでオンオフできる)ってことなのか。
【8日追記】乗客のうち1人と問い合わせや運賃収受のやり取りをする声が、マイク~スピーカーを通じて車内/または入口ドアが開いている場合は車外に筒抜けになってしまうのも、ちょっと困る。これは、路線バス乗り継ぎ旅などでたまに見られる。

【2018年1月21日追記】2018年始時点でも、付けない運転士もいるし、従来と同タイプのピンマイクを付けて運転する運転士(臨海営業所)がいた。
【2020年11月4日追記】2020年に新型コロナウイルス感染症が流行。運転士はマスク着用が基本となった。中央交通では国土交通省の指導によると称して、夏場は、マスクにより熱中症にならないよう、(これまでの回送時だけでなく営業運行でも)脱帽して運転することになった。※その対応に文句はなく当然だと思うが、「脱帽してマスクをしない」運転士もわずかにいるのは、なんだか…
そのため、首より下から上に向かってアームを伸ばしてマイクを使用する運転士が増えた。上記の通り以前から一部いたが、従来の帽子掛タイプを工夫して使っているのだろうか。
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浜街道

2017-04-17 21:02:15 | 秋田市営バス
秋田駅(西口)と秋田市南西部・新屋(あらや)地区を結ぶ路線バスが、いずれも秋田市営バスの路線であった新屋線と新屋西線。
うち新屋西線は、駅から県庁、市立病院西口(正面でなく)、川尻地区を経て、秋田運河を渡って勝平地区を貫き、雄物新橋で雄物川放水路を渡って、(勝平を含まない狭義の)新屋地区へ至る。(臨海経由新屋西線もありますが、本数が少ないので割愛します)

雄物新橋から先は、経路が二手に分かれる。
(再掲・2009年撮影)勝平側から雄物新橋を見下ろす。突き当りで道が左右へ
橋の突き当りを左折し、すぐに右折して新屋の商店街がある表町の旧道を抜けるものと、突き当りを右折して川沿いの坂を上り、県立栗田支援学校前、県営や市営の団地を通るもの。
再び合流するのは、終点の「西部サービスセンター(正式には西部市民サービスセンター)」。1つ手前はどちらも「日吉神社前」だが、バス停の位置は別。

前者のルートは特に呼び名がなく、後者は「新屋県営住宅経由」と呼ぶのが一般的か。※この記事では、前者を「栗田神社前経由」、後者を「県営住宅経由」と表記します。
県営住宅経由ができたのは、30年ほど前で、それ以前は新屋西線=栗田神社前経由(臨海経由は別として)。その名残りで、呼び名がないのかもしれない。

県営住宅経由が具体的に何年からできたかは不明だが、1988年かその少し前だと思う。
【2021年3月5日追記】1987年4月の市営バス系統図(路線図)では、後の県営住宅と思われる「新屋団地」という所で終わる、新屋西線の派生系統が記されていた。詳しい運行形態は不明。そのルート上に「浜街道」も記されていたので、1987年には後年と運行形態は異なるが、浜街道バス停が存在した。(以上追記)
1988年の時刻表によれば、県営住宅経由はわずか1日3往復の運行。
その後、徐々に本数が増え、中央交通移管後の近年は、新屋西線全体が減便されたこともあり、両経由がほぼ半々に近くなった。昼間は両経由が1時間に1本ずつ。

市営バス時代~移管後しばらくは、新屋県営住宅経由を「栗田県営住宅経由」と呼んでいたが、そのようなものは存在しない。また、ごく初期は「栗田団地経由」とされていたようだ。
市営バス時代は「栗田県住」と表示された(2002年撮影。220号車)
中央交通移管後は、一部で県営住宅経由を「栗田町経由」と表記していたものがあったが、これは紛らわしい。
たしかに、県営住宅経由には「栗田町」というバス停があるのだが、両経由とも地名としては新屋栗田町を通るし、「栗田神社前」もあるし、よそ者には不親切な呼び方だと思っていたら、やはり浸透しなかった。


今回取り上げたいのは、県営住宅経由のとあるバス停なのだけど、もうちょっとルートをたどる。
駅から来て、雄物新橋を渡って右折すると、長い坂。車道は広く、川と反対側に歩道付き。坂の下に「雄物新橋」バス停がある。
2014年のNHKBS「にっぽん縦断こころ旅」では、この坂を上から下って、雄物新橋を渡った。
坂の上。右の塔みたいなのは津波警報サイレン
坂を上りつめると、道は若干カーブしながら雄物川放水路沿いに河口の雄物大橋の上(立体交差で国道へ下りられる)、さらに海岸のももさだカエル方面へつながる。
坂の途中も坂の先も、道ばたにニセアカシアなどの木が多く、川や海が見えるわけではない。
坂の下を振り返る。雄物新橋は見えず、さらに上流の秋田大橋が見える
バスは坂の上で脇道(上の写真右の狭い道)へ入る。
川と逆側に左折する形だが、角度にして315度くらいありそうな後方への鋭角なカーブ。さらにその直後に右折がある(ここを直進すると、栗田神社の前を通って「栗田神社前」バス停付近へ出る)。
大型バスも運用される系統だが、ここがいちばんの難所かもしれない。(栗田神社前経由では狭くて曲がった道が続くのも大変そう)

この鋭角カーブと次の角の間に、バス停がある。
脇道から坂を振り返る。右が坂の下・雄物新橋

電柱の先・民家の手前を右折

そのバス停の名は、
「浜街道」
ほぼ真向かいに立つ上下両側とも、だるま型ポール。表示板は市営バス時代に設置されたローマ字入りカッティングシール文字。
表示板は両側同じ程度に色あせているが、棒の部分は上り側だけ妙に錆びていた。上の写真は下り側。

なお、雄物新橋も浜街道も、昭和末期頃は棒バス停が設置されていた。上記の通り1日3本だから、それで充分だったようだ。
浜街道から先の各バス停は記憶にないが、やはり棒だったのかもしれない。ただし、運行開始当初は現在と一部違うルートで、後で追加設置されたバス停もあったそうだ。


「浜街道」なんて、どこかロマンチックな響きのバス停。由来は何なのか昔から気になっていた。命名時にふさわしい名前がなくて悩んだのはうかがわれるけど。

「羽州浜街道」というものがある。山形県鶴岡市の鼠ヶ関と秋田市(久保田城下)を結ぶ旧街道。酒田市以北では「酒田街道」とも呼ばれる。
大ざっぱには現在の国道7号線のルートだが、本来の羽州浜街道は、この近辺では栗田神社前経由新屋西線のルートがまさにそれ。
ただし、昔は雄物川放水路がなかったから雄物新橋もなかった。両経由が分かれる橋のたもとの突き当りの崖の上に、行き止まりの道があるのだが、それがかつては街道だったそうだ。

ということで、羽州浜街道が由来だとすれば、こちら経由に「浜街道」があるのは適切とは言いにくい。
旧・秋田市交通局では、「旭北前」「勝平二丁目」「古城苑二丁目」のように、意味が分からないというか、テキトーにつけたんじゃないかと思えてしまうバス停がちらほらあるから、「浜街道」もそう(交通局の“創作”)なのかな…なんて思っていた。

その後、新事実が判明。
川と平行な坂道の道路の名称が「秋田市道 浜街道2号線」なのだそう。遅くとも1978年には存在している。
浜街道2号線の区間は、秋田大橋のたもとから雄物大橋の上(~国道に合流するまで?)までらしい。ただし、雄物新橋たもとでは、一瞬だけ県道が間に入る。
ということで、近くの道路の正式名をバス停名にしたのが真相ではないだろうか。

【18日追記】前にも書いたけれど、「大町通り」のように「点」であるバス停に対して、バスの経路と重なる「線」である通り(道路)の名称をつけるのは、場所を特定しにくくて、あまり好きじゃない。「浜街道」もその1つということにはなるが、道路名称自体が一般に浸透していないだろうし、「バス停だけで使われる名称」として認知されてしまっているのだとすれば、それはそれでいいのかな。

それから、栗田神社そのものへ行く場合、栗田神社前経由の「栗田神社前」よりも、県営住宅経由の「浜街道」で降りたほうが、少し近い。ただし、浜街道からだと鳥居・参道でなく脇から入る形になるのと、運賃が1区間高くなる。
(以上追記)

地理院地図に加筆。緑が栗田神社前経由、赤が県営住宅経由、続く左右両側がずっと浜街道2号線
↑地形図で見ると、高低差や鋭角カーブの鋭さはあんまり分からない。

バス停名としてはいいとして、道路の(愛称でなく)正式名称として「浜街道」なのも、珍しいかもしれない。たいてい地名を使うのに。バス停同様、道路にも適切な地名がなくて、苦肉の策で浜街道になったのかも。
そして、2号線なのに「浜街道1号線」はおそらく存在しないのも、不思議(計画倒れに終わったとかだろうか)。

あと、浜街道2号線の坂は、平坦な秋田市において、なかなかダイナミックな坂。
名前があってもいいのにね。「あかしあ坂(正しくはニセアカシア、ハリエンジュですが)」などいかがでしょう。

※この坂道の川側の崖下について
コメント (2)
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卸町経由新屋線 等の記録

2016-12-25 21:17:49 | 秋田市営バス
10月で廃止された元市営バスの路線を記録(一部のみ)しておくシリーズ、そろそろ終わりそうです。※前回は泉山王環状線
今回は、廃止→同名の新路線開設、すなわち実質的に経路変更された「卸町経由新屋線」について。「茨島牛島環状線」が再編された「茨島環状線(茨島卸町環状線とでも呼ぶべきか)」のことも少々。

そもそも「新屋線」は、秋田駅西口と新屋駅前の西部市民サービスセンター(バスの新屋案内所併設、バス停名は西部サービスセンター)を、茨島・秋田大橋・美術大学前経由で結ぶ路線。
もともとは、駅-通町-大町-旭南-茨島-秋田大橋-新屋の経路だけで、後から追加で登場したのが、大町や旭南を通らない卸町経由。それ以降、従来からの経路は「大町経由」として区別されるようになった(単に「新屋線」と言えば、大町経由と認識することも多い)。


9月までの旧・卸町経由は、駅-北都銀行前-有楽町-イオン秋田中央店前-卸センター-茨島…と運行するもの。
卸町経由と大町経由が合流(=卸町経由が広義の新国道である県道56号線に出る)するのは、ハローワーク秋田入口の交差点。バス停では「茨島三丁目」以降が共通。1つ手前(駅寄り)の「ハローワーク前」は、大町経由と卸町経由で別の位置にあった(関連記事)。

大町経由は、通町へ迂回するよう立ち寄ったり、旭南で一方通行の狭い道を通ったり、回りくどいと感じるルート。自家用車やタクシーで秋田駅と新屋を行き来する場合なら、まず通らない道だろう。卸町経由のほうが、幹線道路を直線的に走って、合理的に思える。

新屋線は、戦前に運行が始まった秋田市最古のバス路線の1つ。
運行開始当初は、そこしか道路がなかったのだろうし、卸町のほうは道路が未整備どころか一面が荒れ地か田んぼだったはず。また、通町から大町には多くの商店があり、その買い物の足となるべく、立ち寄る必要があったのだろう。
今も、買い物やバス相互の乗り換え(駅だと運賃も時間も無駄)で、通町を通る需要は皆無ではない。

実際には、走行距離では大町経由より旧・卸町経由のほうが200メートルくらい短いだけ。所要時間では卸町経由のほうが5分前後短いものの、両経由とも秋田市有数の渋滞地点を通過するため、絶対的に卸町経由が優位というわけでもない。同じバス停間の運賃は、両経由で同額。


卸町経由の運行開始時期は分からないが、1988(昭和63)年の時点で既に、平日(当時は週休二日制一般化前なので土曜も含む)限定ながら3~5本が運行されていた。近年と比べて、朝早くと夕方に重きをおいたダイヤで、朝は美工専前(※)始発秋田駅行きというのもあった。市営バス時代は「卸センター経由」と呼ばれることもあったが、最近はあまり聞かない。
※当時のバス停名は「美工専入口」だったはずだが、資料では「~前」になっている。位置は現在の「美術大学前」とほぼ同じはず。(関連記事)当時は、大町経由でも美工専始発ダイヤが設定されていた。この辺は後日。
しかし、1989年頃からは、朝と夕方に片道計1~2本が運行される程度に減便される。【26日追記・美工専発の卸町経由はなくなった】
ところが、1997年前後には、朝がなくなって昼間の運行が始まり片道計2~3本に微増。沿線に1995年に秋田サティが開店(現・イオン秋田中央店)したのも一因かもしれない。土日はまだなし。
その状態で2002年に中央交通へ移管。
2005年の時刻表では、平日は同じで、土日にも運行が始まっていた。たしか市営バスからの移管路線では、移管後3年間は移管時のダイヤを維持するという取り決めがあったらしいので、2005年から運行が始まったのかもしれない。
その後、わずかに増えて、近年は平日・土日とも片道4~5本の運行であった。



個人的には、大町経由も含めた新屋線が、茨島地区で県道56号線を進むのは、改善の余地があるように感じていた。
沿道には民家が少なく、特に道路西側はほぼすべてが工場。一方で、県道東側、羽越本線までの一帯(卸町南部や茨島東部)には民家が続き、そこを県道と同じ方向に貫く広い市道が開通している。
また、県道の歩道は除雪体制が充分とは言えず、特に工場側の上りバス停へは、雪をかき分けてバス停へたどり着かなければならないこともあった。
だったら、新屋線が県道ではなく東側の市道を走るようにして、住宅街により近いところにバス停を置くのも、ひとつの手ではないかと考え、秋田市のパブリックコメントなどで提案したことがあった。
※県道の茨島四丁目バス停前にある、イオンタウン茨島に新屋線で行き来する一定の利用もあり、県道にバスが不要というわけでもない。

それが効いたのかは分からないが、10月から、卸町経由が県道に代わって、雄物川の堤防に突き当たるまでその市道を走るようになった。
突き当たってから堤防沿いを走って、秋田大橋北詰の交差点で県道56号線に出る。バス停では、雄物川の対岸の「美術大学前」でやっと大町経由と合流する。
実際にはカーブがあるが、広小路西交差点/北都銀行本店前交差点から雄物川堤防まで、3キロ以上を一度も右左折せずまっすぐ走る。
地理院に加筆。茨島・卸町地区以外のバス停位置は省略
旧経路と新経路では、距離としては新経路のほうが100メートルほど長くなった。
しかし、丁字路や右折矢印信号が出る交差点で右折するようになったので、旧経路よりはスムーズに運行ができるのではないだろうか。
時刻表上の駅-新屋の所要時間は22分で、旧経路の下り24分・上り23分と比べてわずかに短縮。
【2018年9月22日追記】2年後2018年10月のダイヤ改正では、秋田駅→卸町→新屋の下りが27分に見直された。なお大町経由下りは28分。旧経路よりも時間がかかってしまうことになったが、遅れが常態化していたのだろうか。

変更区間のバス停は、
※「●」が運賃が変わる停留所。
旧経路 ●卸センター前-茨島東町-ハローワーク前(大町経由とは別の位置)-●茨島三丁目-茨島四丁目-三菱マテリアル前-●秋田大橋前-●美術大学前
新経路 ●卸センター前-卸町四丁目-●卸町五丁目-●茨島七丁目-●美術大学前
茨島東町とハローワーク前の2つのバス停が廃止され、これまでバスが通っていなかった区間に3つが新設された。
旧経路では1.7キロに6停留所、新経路では1.8キロに3停留所なので、半減してしまった。
特に雄物川茨島側にいちばん近いバス停「茨島七丁目」で、大町経由の「秋田大橋前」に相当するバス停がないのはいかがなものか。
車の流れ、カーブや縁石など道路形状の制約、片側が堤防で横断歩道が少ないなど、条件が厳しいのかもしれないが、堤防沿い付近にもう1つバス停があってもよさそう。旧経路では、下りの「三菱マテリアル前」と「秋田大橋前」など近すぎる(秋田大橋架け替え時に移動)ところもあるけど。
それと、県道の秋田駅行き側では、屋根付き待合所が設置されているところがある(沿道の工場など企業が設置したものもある。ただ窓が小さくて見通しが悪く、待つ客も通る運転士も気を使う)が、新設区間には当然ない。その代わり、除雪体制は良いでしょうけど。

秋田駅からの運賃では、大町経由・旧卸町経由では茨島三丁目まで290円、秋田大橋まで330円。
新しい卸町経由では卸町五丁目まで250円、茨島七丁目まで280円。
次は対岸の美大前で370円なので、間に橋があるとはいえ、新・卸町経由では一気に90円上がる。なお、1区間手前の卸センター前までは230円。


旧経路当時の卸町経由秋田駅行きが、茨島三丁目を発車して卸町へ右折する場面を、歩道橋から撮影した。
茨島三丁目発車直後に車線変更が必要。この時は後ろの軽自動車が入れてくれた

中央車線を走り

ハローワーク入口の交差点で右折
この交差点、右折専用レーンがなく時差式信号ではない。ハローワーク側へ出入りする車もちょこちょこして、ごちゃごちゃしている。【26日追記】ここを避けただけでも、新経路にした意味があるのかもしれない。新経路の秋田大橋北の交差点は、方向別レーンや右折矢印がある。

運行本数は、9月までと変わらず平日下り5本・上り4本、土日下り3本・上り4本。
運行時間帯もおおむね変わらないが、土日の上り新屋発15時15分は13時40分に繰り上がった。(15時台は代替措置がなく、大町経由が減便された形)
改正前の土日15時15分発には、イオン秋田中央店前から、買い物帰りなのか秋田駅方面へ行く若者や高齢者の利用が一定数あった。場合によって異なるが、10人以上が乗り込む日もあった。
改正後は、この先同経路の柳原(卸センター入口)経由御野場団地発を含めても、改正前から運行されている14時台と16時台だけになってしまった。これでいいのだろうか…【26日追記】しかも、改正後のイオン秋田中央店前の時刻では、卸町経由新屋線が13時52分、御野場団地線が14時12分と20分間隔であり、その次は16時までない。新屋線を15時台に残しておいたほうが良かったのではないか。【この後、2017年には大住団地線が旧道経由から卸センター入口経由に変更され、イオン秋田中央店前を通るバスは大幅に増えた。この点では問題は解消された】



経路変更後の卸町経由が新規区間を走っているのを、3度ほど、見たり乗ったりした。
新規区間の前後を乗り通す客のほうが多いのは従来と変わらないので、乗車率は同じ。

新規区間で乗降する人も少なからずおり、「卸町四丁目」では3度とも利用があった。
「卸町四丁目」は、旧経路の「茨島東町」とは道のりで350メートル、大町経由で最寄りとなる「ハローワーク前」とは700メートルは離れている。【26日追記】継続している1つ駅寄りの「卸センター前」とは250メートルほど。
卸町四丁目を利用する方々にしてみれば、「経路が変わってバス停が近くなって、しかも運賃は40円も安くなって便利になった」と思っているのか、「経路が変わってバス停が遠くなったけど、仕方なく使っている」のかは分からないけれど…
※したがって、ハローワーク秋田へ行く人は、新しい卸町経由は利用しないほうが無難ですが、どうしても乗るのなら、「卸センター前」で降りて歩くことになる。
【26日追記】旧経路時代は、卸センター前や茨島東町での乗降が比較的あったように記憶している。その人たちが卸町四丁目へシフトしたのか?

それと、上記の通り、秋田大橋から「茨島七丁目」の間が長いことを実際に乗って実感。沿道に家は多くあるのに、こんなに長い間隔でバス停がないのかともったいなく感じた。【2018年7月24日追記】雄物川の堤防付近では、道路の角度が何度か変わるのと、堤防が高くて川や対岸が見えないため、地理感覚が狂うというか、未知の土地を走っているかのような不思議な感覚になる。
卸町五丁目は秋田銀行と北都銀行が向かい合う所。特に秋銀は車の出入りが激しい
秋銀側の秋田駅方面行き
卸町経由で新設されたバス停のポールは、頭でっかちで低いタイプ。同時に設置された泉八橋環状線のイサノ1・2丁目と同じではあるが、こちらは丁目は漢数字。※秋田市の地名としては、いずれも漢数字が正当。

↑新タイプの表示板には、ネジ穴が2通り開いており、旧タイプの棒に取り付けることもできる構造らしい。
※その後、2018年に卸町四丁目の下り側だけ、頭でっかちでないタイプであることに気付いた(この記事後半)。当初からそうだったのか、後から交換されたのかは不明。


もう1つの廃止・再編路線、茨島牛島環状線について少々。
秋田駅西口から大町経由新屋線と同経路で秋田大橋まで進み、東方向の羽越本線沿いの牛島地区へ抜け、国道13号線をくぐって牛島経由各路線に合流して牛島東一丁目-牛島橋-有楽町を経て秋田駅へ戻っていた路線が廃止された。
代替路線は、秋田大橋付近までは旧環状線と同じで、牛島へは行かず、新しい卸町経由新屋線と同じ卸町の市道へ出て、まっすぐ駅へ戻るという、ヘアピン状の環状線となった。
ただし雄物川堤防付近では、新・卸町経由とは経路が異なり、「茨島七丁目」は通らずに、旧環状線のルートを使い、三皇神社(三皇熊野神社本宮)、変電所前まで行って線路際で取って返し、卸町五丁目から合流。
どこか不自然なルートなのは、スクールバス的な性格があるためだと思われる。
先に回る地名を取って、「大町回り」と「茨島回り」が運行されているが、「茨島回り」は直感的に分かりづらい。「卸町回り」とするべきではないだろうか。

旧・茨島牛島環状線の正面の行き先表示は、
(再掲)「茨島環状」。逆回りも同様
新しい環状線は、
系統番号変わらず「茨島環状線」
泉八橋環状線のほうもそうだけど、なぜか「線」も表示されるようになった。

夕方の大町回りの便は、旧環状線時代は元市営バスの車両やせいぜい小田急中古のノンステップバスが入ることが多かった印象だが、ダイヤ改正後は、上の写真のような新車のノンステップバスがよく充当されている。(最近は見ていないので不明)

運行開始から間もない頃、夕方の大町回りに、卸町五丁目から乗車する機会が1度だけあった。
どうせ遅れてくるだろうと思って待っていたけど、一向に来ない。不安になってきた頃、雄物川方向の先の道、つまり三皇神社手前を、バスが横切るのが見えた。
それから約5分(これだけでも時刻表より3分ほど長くかかった)。時刻表より10分以上遅れて到着。乗客は誰もいない。スクールバスの乗降に手間取って遅れ、全員降りた後だったのだろうか。
その後も誰も乗ってこず、やはりこの時も新しい車で、それを独占できたものの、複雑な心境で下車した。
【26日追記】イオン秋田中央店前から先は、9分後を柳原経由御野場団地線が続行するダイヤ。この時は環状線が遅れていたので、先行してしまっていたのだろう。
【27日追記】ちなみに、秋田駅から秋田大橋までは大町経由新屋線が30分間隔で走る、ちょうど中間に収まるダイヤ。そのため、買い物や学校帰りとおぼしき客がそれなりに乗車している(前後の新屋線ほど混雑せず、確実に座れる程度)ようで、この区間では新屋線を補完する役割を果たしていると言える。数年前は、新屋線の5分後に設定されていて、あまり機能していなかった。
【2017年7月14日追記】2017年7月に夕方の大町回りを2度確認したところ、イオン秋田中央店~秋田駅に戻る辺りで、10分弱の遅延が生じていた。


長くバスがなかった卸町南側~茨島東側付近に住む人たちは、自宅から路線バスを利用する習慣がなかったことだろう。現状の卸町経由のダイヤでは、通勤には使いづらいし、本数も多いとはいえない。今後、どうなっていくか。
【26日追記】今回の新設各路線は、新設とは名ばかりで、実態は「整理統合して合計運行本数を減らしたこと」に過ぎないものが多い(茨島環状線を含む)中、卸町経由新屋線だけは前向きさが感じられるもので、一定の評価はできそう。ただし、沿線の利用者がどうとらえるかが第一ですが。

一方、大町経由の元祖新屋線は、減便が徐々に進んでいる。乗客が少ないという理由なのだろうが、増やす努力はしているのだろうか。今後が心配になってくる。昔の新屋線の話題をいずれまた。あと、卸町経由廃止区間のバス停のポールのことも。
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MAZDA前・耐久性

2016-11-20 23:21:07 | 秋田市営バス
泉地区の元市営バスのバス停の話題。※過去の関連記事

まず、泉山王環状線関連。
旧環状線の経路と新国道が交差する八橋鯲沼町交差点の近くに、どちら側の道にも「マツダ前」というバス停があった/ある。旧環状線用は交差点の東側、新国道経由各路線用は交差点南側。

バス停の名称は交差点南西にある「東北マツダ秋田本店(現在改築中)」が由来のようだが、交差点北西には日産ラ・カージュもあるし【21日追記・マツダの向かいに当たる南東にはホンダカーズ秋田もある】、新国道を北に進んだ次の「八橋大畑」バス停の前には「東北マツダ秋田中央店」があるなどカーディーラーが多い場所なので、慣れないと混乱する。
泉山王環状線・山王回り側「マツダ前」。奥の突き当りが泉小。表示板は西向きのせいか色あせている
環状線のマツダ前は、地元の大手製麺会社「ヤマヨ」の前。

旧・泉山王環状線の各バス停では、市営バス時代に設置(または更新)された表示板が最後までそのまま使われていたが、カッティングシール文字(1999年頃?)のものと、透明シールにパソコンで印字したもの(2002年頃?)の2タイプがあった。
1999年の泉地区の住居表示実施とは関係ないはずだが、鯲沼やマツダ前もその時に更新されたようで、両側ともカット文字の表示板。
この時のカット文字は、扁平で中位の太さの丸ゴシック体という印象だったが、「マツダ前」は正方形に近い。(他でも縦長のものも多く、扁平というのは僕の勘違いのようだ)

カット文字タイプでは、併記されるローマ字はヘボン式。ちなみに「○丁目」の数字は、読みではなく数字をそのまま表記して「IZUMI CHUO 3 CHOME」といった表記。ただし、別路線では「OHIRADAI SANCHOME」と数字の読みを表記したものもある。
ローマ字表記は全国的にいろいろあるようだけど、バス協会辺りで指針を示せばいいのに…【2017年に日本バス協会がガイドラインを示したが、強制ではなく各事業者の基準や判断でいいことなっている。】
で、このマツダ前は、
泉回り側。これは東面、赤い部分にヒビが入っている
「MAZDA MAE」と、マツダの正式な英字表記にのっとっている。

そういえば、同タイプが設置されていた「サティ前」も、
(再掲)
ちゃんと「SATY MAE」だった。
現在は「イオン秋田中央店前」に改称。【21日追記】現在はローマ字表記なし。もしあったら「AEON」か「ION」かという話になりますが。

じゃあ、新国道側のマツダ前は?
【21日画像追加】下り側。左後方に少し見える囲いが工事中のマツダ
上下とも市営バスタイプのダルマ型。やや背が高い支柱はピカピカ、表示板はもきれい(だけど台座は汚れている)。市営バス設置のものとは微妙に雰囲気も異なり、中央交通によって比較的最近設置されたようだ。
表示板は、
わずかに細身の丸ゴシック体。「ダ」の形が違う
ローマ字は「MATSUDA MAE」。
これでも問題ないでしょうけど、泉山王環状線廃止でMAZDA前はなくなってしまった。



もう1つ、マツダ前からちょっと離れた、泉ハイタウン線のバス停のこと。
少なくとも泉南三丁目以降の各バス停は、1992年の路線開設時に設置されているはず。その後、1999年の住居表示実施により、軒並みバス停の名称が変えられ、その時に、マツダ前と同じヘボン式ローマ字入りカットシール文字の表示板になって、現在も使われている。
数少ない例外が、
「秋田貨物駅入口」
泉ハイタウン線は末端部で一方向の環状運行となり、その区間内にあるバス停なので、これまでポールは片側にしかなかった。
10月に運行が始まった、泉八橋環状線がここを通るようになったため、向かい側にも泉回り用の「秋田貨物駅入口」が設置された。こちら側は、泉ハイタウン線に加えて八橋回り環状線も通るようになったが、ポールはこのまま継続して使われている。

写真のとおり、支柱はサビサビ。24年前に設置されてそのままなんだろうか。
そして、表示板のバス停名表記が他と違う。ローマ字がなく、角ゴシック体で、透明シールに印字したもの。
【2020年5月12日訂正】この路線は2007年春までは「泉秋操線」という名称で、その時まで秋田貨物駅入口は「秋操駅(あきそうえき)入口」というバス停名だった。したがって、中央交通移管後・2007年に設置された表示板ということになる。また、秋操駅入口時代の表示板は、2008年に臨海経由新屋西線用の「臨海十字路」に転用されていた。

神田線・添川線の上り側「保戸野八丁」と同じタイプ。
(再掲)
保戸野八丁は2000年前後にはそれになっていた。破損するなど急ごしらえで設置されたのかと思っていたが、秋田貨物駅入口も同時期に設置されたのかもしれない。【2020年5月13日訂正】貨物駅入口のほうが後の設置だった。保戸野八丁の耐久性がすごい。

秋田貨物駅入口を横から見ると、
文字がボロボロ。上段の社名は消え、下の「市営バス」が浮いている
レーザープリンターで印字したもので、経年でトナーが取れつつあるようだ。シール自体はしっかりくっついている。
裏面を見ると、
こちらは大丈夫
ボロボロなのは西向きのほう。やはり太陽のしわざか。冬の北西の季節風もあるかも。

保戸野八丁は西向きではないせいか、はがれてはいないはず【22日・両面ともしっかり判読できる状態であることを確認】。これまで紹介してきたように、他のバス停の、訓令式ローマ字入り・細丸ゴシックの透明シールの表示板も判読に支障がないものがほとんどだった。
ということで、透明シールにレーザープリンターで印字した表示の耐久性はなかなかのものだけど、太陽光、特に西日の威力は強烈ということのようです。【21日追記】上からもう1枚透明シールを重ねて貼ったら、はがれてボロボロになることはなさそうで、耐久性がさらに向上するのかも?

※新路線・泉八橋環状線で新設されたバス停について。
※秋田貨物駅入口は2021年に交換された
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泉山王環状線の記録

2016-11-15 21:25:13 | 秋田市営バス
2016年9月で廃止された、元秋田市営バス路線であった中央交通のバス路線シリーズ。間が空きましたが駅東線に続いては「泉山王環状線」。
※今回の廃止の経緯や概要はこちらこちらも参照
※市営バス時代から移管後まで「泉・山王環状線」と中黒を入れて表記する場合もあり。

駅東線同様、小型バスが走る秋田市では数少ない路線の1つではあるが、こちらは秋田駅西口~オフィス街・官庁街~秋田市中央部北側の住宅地を巡る環状運行。住宅地部分の経路が異なる2系統があった。
同時に廃止された「堂ノ沢線(中型バスによる元市営バス路線。独立した記事としては取り上げません)」とともに再編されて、「泉八橋環状線」として減便の上、再出発している。
地理院地図に加筆。秋田駅周辺の一方通行は、泉回りのルートで表示
大雑把には秋田駅西口-千秋トンネル-保戸野-泉-八橋-県庁市役所(山王)-秋田駅西口というルート。
両方向で運行され、先に通るエリア名を取って「泉回り」「山王回り」と称されていた。車両の行き先表示は、「泉・山王環状」「山王・泉環状」と、通る順に表記。
再掲)市営バス時代2000年の65号車。液晶表示の「泉・山王環状」
秋田駅~泉の入口、秋田駅~八橋の入口にかけては、神田線、将軍野線など複数の別路線のルートを“つまみ食い”するようにちょこちょこと通り、泉~八橋では我が道を独走。住宅街を直線で突っ切ったかと思えば、予想できないような場所で右左折したり、小型バスの威力を発揮した。

また、山王から泉にかけて、上記経路の内側を小回りする系統が「新川向(しんかわむかい)経由」として後から新設された。行き先表示は前に青字で「新川向」が付された。
もともとのルートには何経由という呼称はなかったので、ここでは「元祖」とします。
廃止直前の「新川向 山王・泉環状」。上の65号車が譲渡・塗装変更された「秋田22き53」
【↑元65号車だった車は、後に子会社・秋田中央トランスポート五城目営業所へ転属し、2021年時点で潟上市のコミュニティバスなどに使われている。】

廃止時点の全バス停名(県庁~駅は省略)を記す。
・●は運賃(整理券番号)が変わるバス停。
・(別)は、本数の多い他路線とは別の位置にある同一名称のバス停。
・下線はこの路線単独であるため、路線廃止により、バスが通らなくなった区間およびなくなったバス停。
秋田駅西口-千秋久保田町-●明徳小学校入口-[千秋トンネル]-鷹匠橋-●すわ町(別)-原の町-保戸野八丁-●桜町- [天徳寺地下道の手前で脇道へ]-ウェルビューいずみ前-泉中央四丁目-●秋操近隣公園入口(別)-[泉ハイタウン線のルートをかすめる]-泉中央三丁目-泉小学校前-●マツダ前(別)-[八橋鯲沼町交差点で新国道を横断]-鯲沼(どじょうぬま)-八橋小学校前-●八橋田五郎(やばせたごろう※)-[大道東橋で草生津川を渡る]-●油田(あぶらでん) -[一本松のある交差点]-帝石前-[面影橋で草生津川を渡る]-●面影橋(旧国道側・通町経由将軍野線用)-八橋- -[日吉神社の前~八橋運動公園の中の道]-球技場前(別) -●八橋市民広場・裁判所前-県庁市役所前-~竿燈大通りを通る各路線と同じ経路につき省略~-秋田駅西口
※八橋田五郎は、泉八橋環状線用として継続されたものの、位置は別。

新川向経由では、
秋田駅西口-~元祖と同ルート~ -●秋操近隣公園入口(別) -秋操近隣公園入口(泉ハイタウン線用)-泉南三丁目-●泉南二丁目-泉南一丁目- -[新川向交差点で新国道を横断・八橋大通りへ]-●八橋新川向-[けやき通り方向へ]-八橋本町三丁目-秋田テレビ前-●消防庁舎前- 県庁市役所前-~元祖と同ルート~-秋田駅西口

地図上の簡易な計測では、元祖ルートは約10.2キロ、新川向経由は約8.6キロ。
再編後の泉八橋環状線は元祖よりやや遠回りのような気もするけど、ほぼ同じ約10.2キロ。

運賃設定上は1周乗り通すことも可能で、その場合の運賃は、元祖で510円、新川向経由で460円。泉八橋環状線では530円。
途中区間の一例として秋操近隣公園入口~県庁市役所前では、元祖290円、新川向経由230円。泉山王環状線では310円。
【16日追記】桜町および泉南付近~県庁第二庁舎前および県庁市役所の区間では、新川向経由のほか、県庁経由臨海営業所発着神田旭野団地線(外旭川市営住宅前着発。かつて千代田町経由と呼んでいた系統)もルートは違うが利用できる。
運賃を比較すると、桜町-県庁では、新川向経由270円、神田線230円。泉南二丁目-県庁ではどちらも190円。

秋田駅西口から任意のバス停まで乗るとした場合、どちら回りに乗ったほうが運賃が安いか。※実際にはダイヤが偏っているため、選んで乗車するのは非現実的。
元祖では、マツダ前までは泉回りが(280円。山王回りは340円)、隣の区間の八橋田五郎までは山王回り(310円。泉回りは320円)が、それぞれ安い。
と言っても、新国道経由各路線なら秋田駅西口~マツダ前は230円なので、どちらにせよ環状線に乗る理由はなさそう。
新川向経由では、八橋新川向がどちら回りでも同額の320円。


ダイヤ上の1周の所要時間は、泉回りは元祖も新川向経由もどちらも36分。山王回りは元祖が35分、泉回りが30分。
一方通行の関係や、運行時間帯による道路状況を踏まえての設定なんだろうし、この路線に限らず、中央交通のダイヤはあまりアテにならないもの(端的に言って遅延が多くいい加減)ですが…
泉八橋環状線では、八橋回り33分、泉回り35分。

運行本数は、泉回りが朝7時台に元祖と新川向経由1本ずつ。山王回りが15時台に元祖と新川向経由1本ずつ、17時台に元祖が1本。以上計5本。平日のみで土日は全休。
泉八橋環状線は、泉回りが7時台、八橋回りが17時台に、平日各1本のみ。


以上の廃止直前の状況を踏まえて、泉山王環状線の歴史をひもとく。
駅東線よりも歴史があり、ルートやバス停名称の変更も見られ、それは秋田の街の変化を示しているとも言えよう。
運行開始は1975(昭和50)年6月16日。(以下、同年6月10日付「広報あきた」No.634より)
秋田市交通局が「ミニバス」と称して小型バス(29人乗り)を導入、「団地ミニバス」3路線を新設したうちの1つ。
団地ミニバス導入の意図は「道路が狭くて大型バスの運行ができない新興住宅団地へ」のアクセス。当時は、宅地造成されたものの道路整備が追いつかず(もしくは無秩序に宅地だけが整備され)路線バスが走れない“足なし団地”が全国的に問題になっていたようだ。※ここで言う「団地」とはアパート形式の集合住宅が集まる場所だけでなく、「新たに造成された戸建て住宅街」をも含めた広義のものだろう。
「ミニバスの運行に際しては、ひとりでも多くのかたに利用していただくため、路線周辺のみなさんと、運行時刻や停留所の位置などについて話し合い、ご意見や要望などをできるだけ取り入れ」たとしている。

ちなみに同時開設の他の2路線は「横森団地線」と「手形山団地線」。
横森団地線は、築地経由で横森と往復。後に経法大附高(現・明桜高校)や桜ガ丘・梨平まで延長(当時は経法大も桜ガ丘もまだなかった)され、現在は減便著しく風前の灯になってしまった路線。ただし、後に築地に代わって明田地下道経由、あるいは秋田駅東口発着で横森を通る中型バスが多く運行されている。
手形山団地線は、秋田高校の下から手形山に登って手形山団地が終点。後に大学病院(当時は移転前)まで延伸されて、中型バスが走るようになり、団地の中に入らないダイヤが多くなっている。(開設時の経路は、現在の「手形山西町経由」に相当する)
団地ミニバス開設当時の運行形態をほぼ保っていた唯一の路線が泉山王環状線だったことになるが、それも41年で途絶えたことになる。

当時の泉山王環状線沿線の状況は(生まれていないので)直接は知らないが、資料や伝聞によると、今とは違うことも多い。
・千秋トンネルが未開通(1978年開通)。
・八橋小学校は開校(1973年)間もない頃。泉小学校(1979年)、泉中学校(1981年)は開校前。
・区画整理事業(1975~1999年?)が始まったばかりで、泉いちょう通り、八橋大通りなどの広い道路は未開通(昭和末期~平成初期頃開通)。
・航空写真によれば、新国道から東西に広がるように住宅が建ち並んではいるが、幹線道路から離れた(今でいう秋操近隣公園周辺や秋田テレビと八橋小学校の間など)エリアは田んぼが多い。
といった状況。
今の視点で考えると、遠回りに思えたり、あえて狭い道を選んで通っているかのように感じられる箇所もあったが、そうではなく、当時はそこしか道がなくて通らざるを得なかったのだろう。

廃止時点とは別の道を通っていた区間が4か所ほどある。
・千秋トンネルがまだないので通町・菊谷小路経由。したがって、秋田駅~桜町は神田線・添川線と同一ルート。
・神田線・添川線も同様だが、保戸野原の町通りが未開通(1985年開通)なので、すわ町~桜町は現在とルートが異なり、原の町、保戸野八丁のバス停位置が違った。
・ウェルビューいずみ前(当時はない)ではなく、1本南側を通る。
・草生津川を渡らず、面影橋交差点・バス停を通らずに、田五郎方面から旧国道へは「八橋」バス停付近で出入り(八橋地区コミュニティーセンター前の道を通っていた?)

広報におそらく全バス停が掲載されているようなので、泉・八橋地内分を示す。
●桜町- 金の町上丁-●金の町中丁 -金の町下丁-泉大橋-●マツダ前-鯲沼-八橋小学校前- ●田五郎中丁-田五郎上丁 -●八橋
後に金の町下丁→泉中央三丁目、泉大橋→泉小学校前と改称され、それ以外で名称の違う下線のバス停は、廃止時とは別ルート上にあったと考えられる。
住居表示が実施されたのは、八橋田五郎が1982年。それ以前は八橋字田五郎で、現在とはエリアが違っていた可能性がある。泉地区は1999年で、それ以前は「金の町」など今とは別の地名だった。


当時の広報の記事には、「泉回り」「山王回り」という呼称は見当たらない。
時刻表も掲載されているが、欄を分けずに、秋田駅発時刻が列記されている。そして注記として「午前中の運行経路は駅→金の町中町→田五郎→山王十字路→駅の順。午後の経路は午前と逆コースの順となります。」とある。意識して、午前と午後で方向を分離していたことになる。
運行開始時のダイヤは、平日(土曜含む)は合わせて11本で、7~10時台(泉回り)に6本、13~18時台(山王回り)に5本。日曜は午前午後3本ずつ。
後に泉回り/山王回りとして、時刻表の欄が分かれても、この時の考え方が最後まで残って(今の泉八橋環状線でも)、偏ったダイヤになっていたことになりそう。
1周の運賃は180円。


以後の変遷。
1980年7月13日に、交通局庁舎・中央営業所が保戸野鉄砲町から寺内(臨海)へ移転し、その時から千秋トンネル経由に。
通町経由と運賃も変わらないので、別に変える必要もないようにも思われるが、少しでもバス空白域を減らそうということか。

1983年3月15日から、「寺内油田(通称一本松)、面影橋経由に」変更。これに伴い、田五郎中丁、田五郎下丁バス停を廃止し、八橋田五郎を新設。
1980年2月頃には、工事のため迂回運行をして、大道東橋から旧国道というほぼ同じルートで走っていたことがあったそうなので、それが好評だったのだろうか。

1992年4月1日から、新川向経由が新設。
同時に「泉・保戸野線(現・泉ハイタウン線)」も新設されている。(関係ないけど、新屋西線が勝平地区で船場町経由から朝日町経由に変わったのもこの時。)
この時に新設されたバス停は、後に名称が変わったものがいくつかある。
泉上ノ町→泉南三丁目、泉下ノ町→泉南二丁目、保戸野新川向→泉南一丁目、中央公民館前→消防庁舎前。
上記の通り泉地区は1999年に住居表示実施され、中央公民館は2003年11月に移転したため。
当初は、新国道をはさんで、保戸野と八橋の「新川向」のバス停が揃っていたことになる。
地名としてはもともとは「保戸野字新川向」だけが存在。1982年に住居表示実施で「八橋新川向」が誕生し、以降、保戸野字新川向は段階的に縮小(その間、保戸野と八橋の新川向が共存していた)、1999年に消滅。

2002年10月28日。福祉複合施設「ウェルビューいずみ」オープン(11月1日)に伴い、桜町~泉中央三丁目の経路を1本北側の道へ変更し、「ウェルビューいずみ前」バス停新設。
それまでは、(泉回りでは)天徳寺地下道の脇道へ左折して一直線に泉中央三丁目(旧・金の町下丁)まで貫く道を走っていたのが、地下道の上のJRバス東北の営業所前まで上り詰めてから左折することになった。さらに左折して泉中学校前(脇か)と一直線の道へ。
この区間では、運行開始後に開通した広い市道(鉄砲町菅野線=泉ハイタウン線の経路)を横断しなければならない。経路変更前には、信号機のない交差点を突っ切らないといけなかったのが、変更後は信号のある交差点とない交差点を1つずつ通ることになった。泉回りは信号あり左折→なし右折、山王回りはなし左折→あり右折。
旧経路ではここを左右に横切っていた。後の経路では右側(ウェルビュー方向)がもう1ブロック先の道

2003年4月。秋田市交通局から秋田中央交通へ路線移管。
その後、いつの間にか土日が全廃。駅東線は2014年に土日が廃止されたが、それより先だったようだ。
以上が歴史。

それにしても、泉地区の経路はなかなか複雑だったと思う。細い道がおおむね格子状に張り巡らされている一帯を、絶妙な選択で進んでいた。
泉小学校前付近を通る山王回り。後方の赤信号・日産の看板が新国道の鯲沼町交差点
※泉小学校“前”というバス停だけど、正確には泉小学校の“裏からちょっと離れた所”。
上の写真では、新国道を越えてまっすぐに道が伸びている。大道東橋から泉小学校の手前まで約1.3キロ一直線。ちなみに山王大通りの臨海十字路~山王十字路は1.8キロ。
この道はセンターラインがあって比較的広い。この北側の泉中学校前の道と同じくらいだけど、ご覧の通り車の通行量は少ない。突き当り(写真の背後)にハミングロードと泉小学校の校舎(給食室)があり、東方向へ通り抜けられないため、車が少ないということか。
そんなわけで、山王回りのバスも泉小学校を目前にして北方向へ左折。

さらにすぐに東へ右折。
「泉中央三丁目」は幼稚園の前
そこから上記の通り、泉ハイタウン線の大通りへ左折して一瞬出て、すぐ右折してウェルビューいずみ方向へ。さらに右折して、またJRバス営業所前で右折。
かつては左の白いガードレール(白いワゴン車の後ろ)の所から出入りしていたはず。ここが中央三丁目からまっすぐ
坂を下って、
地下道の下、神田線ルートに合流して桜町へ

よく道を間違えないものだと感心するけれど、それを助けるアイテムがあった。
この看板
要所要所の曲がり角に方向を示す看板が設置されていたのだ。
タクシーを呼ぶ看板みたいな存在。上の写真で「秋田市」とあるのは、街路灯の管轄を示すもので、看板とは無関係。
市営バス時代から(別のデザインで)あったもので、築地経由や県営住宅経由新屋西線などにもあった。(今は不明)

道路網がほぼ完成した後から設定された新川向経由では、大通りを中心とした、だいぶ簡潔なルート。狭い道はほとんどなく、別に小型バスでなくても運行は可能そう。
でも、桜町~秋操近隣公園は狭い道だし、「秋操近隣公園入口」を2度通る(最近まで知らなかった)などやはり泉ではやや複雑。


本数は多くなかったとはいえ、泉山王環状線廃止によって、自宅からバス停が遠くなってしまったエリア、すなわちバス空白域が増えたはず。
泉山王環状線運行開始時と比べると、泉地区の中央を南北に貫く泉ハイタウン線が新設された。神田線と新国道経由はあるが、市営バス移管とその後の大幅減便により、総じて本数は減っている。
また、泉地区を東西方向に結ぶ路線がなくなったことになる。移動の需要が少ないのかもしれないが、皆無ではないだろう。新川向経由が走っていた「八橋大通り」など、バスが走っても良さそう。
これだけ人口がある場所で、このような状況なのは…
「足なし団地」を解消するために、沿線の要望を汲んで設定された泉山王環状線が廃止となった後、また「足なし団地」に戻ってしまったと言えなくもないのではないだろうか。
サビサビの「秋田テレビ前」
泉山王環状線単独区間のバス停はいずれも市営バスタイプのダルマ型。文字は旧交通局が設置した、透明シールに細い丸ゴシック体で印字(訓令式ローマ字入り)したものが、最後まで使われた。住居表示が実施された泉の一部バス停では、市営バス設置のやや太い丸ゴシック体のカットシール文字(ヘボン式ローマ字入り)のものだった。(この辺りは後日
【17日追記】ウェルビューいずみ前は透明シールだった。
したがって、1999年の住居表示後にカット文字のほうが先に設置され、透明シールが使われたのは移管直前の2002年頃だったことになる。
住居表示とは関係なく鯲沼やマツダ前はカット文字だったり、八橋田五郎では片側がカット文字で、その向かい側は透明シールだったり、油田は古い手書きのままだったりと、例外もある。

廃止後、バス停は当然撤去された。泉回り側は10月に入ってすぐになくなったのだが、山王回り側の各バス停は名残を惜しむかのように(?)1週間ほど放置されていた。矢印看板も、遅れて撤去された。

僕は、20年ほど前の一時期、18時前後の山王回りの秋田駅側で乗車する機会が何度かあった。
いつも乗客はほとんどいなかったけれど、乗り慣れない小型バスで、バスがあまり通らない千秋トンネルをくぐるのが楽しかった。

【17日追記】使われた車両は、3世代・4車種(3代目が2車種)。中央交通移管後に使われたのは3代目の車両だけ。移管後は、交通局が購入し譲渡された車両(車齢10年を境に有償or無償だったそうなので、これは有償譲渡?。一部は男鹿へ転属)と、中央交通が自前で購入した同型車が使われた。※この記事参照
初代車両に1度だけ乗った記憶があるが、車内の記憶はない。その頃は千秋トンネル経由に変わった直後なので、保戸野八丁辺りから神田線で通町・中通方面へ行こうとして、たまたま来た山王回り環状線に間違って乗ってしまった人がいた。

新路線の泉八橋環状線、卸町経由新屋線などについては、後日また。
※次の記事は泉山王環状線のバス停について。さらに続きは新路線・泉八橋環状線について。
※次の路線は卸町経由新屋線
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