40年前の1981(昭和56)年6月4日木曜日、秋田市大町二丁目に商業ビル「秋田ニューシティ」がオープンした。開業初日は8万人が訪れた(当時の報道より)。
秋田経済界の中心人物が経営する呉服店「辻兵(つじひょう)」が、大家(一時期は日本生命所有)兼テナントの1つ。
秋田県初進出となる「ダイエー秋田店」を核テナントとする、地下1階・地上5階建て。昭和末期の典型的な「総合スーパー」の形態。
※ダイエー撤退後に「ニューシティ」という名になったと誤解する人がいるようだが、ダイエー時代から建物としてはニューシティ。少なくとも周辺地域の人にはそれなりに浸透していたと思うが、ニューシティ全体の呼び名としても「ダイエー」と呼ぶことは多かった。
僕は当時幼稚園児だったが、身近な場所だったこともあり、ダイエーが「できた」のははっきり覚えている。ただ、その後継続して何度も行ったわけで、開業当初の具体的な記憶はない。
建設以前の辻兵の単独店舗や工事途中の風景も、記憶はない。それに、秋田駅前のジャスコ(現・秋田オーパ)やイトーヨーカドー(現・フォンテAKITA)に行く機会はほとんどなかったので、総合スーパーというものを初めて知ったのが、ダイエー秋田店であった。
そんなわけで、これまで何度か触れたように、弘前店とともにダイエーには思い入れがある。
自分に40年前の記憶があること(40年前に生きていたこと)にも驚くが、40年前に初日とはいえ8万人も来たのが、40年後には信じられない街になってしまったのにも驚く。
(再掲)閉鎖後解体を待つ秋田ニューシティ北東角
Wikipediaも参考に、ニューシティの歴史を振り返っておく。
在りし日のニューシティを写真で紹介したい。断片的で不鮮明な写真もあることと、何よりも無許可で撮影したものなのですが、記録になればとアップさせていただきます。
まず、屋上の箱型の看板(ルーフサインというのかな)は2つ。上の再掲写真では、左・南東側に白いものがあるが、それはもともとはダイエーロゴ。撤退後はスーパーやダイソーのロゴが描かれたこともあった。右・北西側は、一貫して赤い「辻兵」だった。
ニューシティが身近な者としては、意識せずとも目に触れるものではあったが、建物が多い一帯なので見上げても見えるかどうかで身近な存在でもなかった。
ニューシティの屋上は、客用駐車場だった。車は裏側・西の茶町通りから出入りするのだが、徒歩圏内の者には縁はなし。でも、2度ほど、思い立って屋上へ上がって写真を撮っていた。※別に「第二駐車場」もあり、それは現存する。
2002年8月。東向きに撮影
↑向かいの白いのが秋田ワシントンホテル(現・イーホテル秋田)。その向こうの建設中のが協働社跡の高層マンション。
懐かしい、「D」と上弦の月がモチーフの以前のダイエーマーク。1975年から2005年まで使われた。と思ったら、2020年から復活し、新マークと併用されているとのこと! どっちみち東北では見られないけど。
屋上に飛び出た建物本体(=塔屋)が白く、その上に看板。その間が肌色(ペールオレンジ)でおかしな感じだが、当初は外壁が全部肌色だった。ある時に白に塗り替えられて、最後まで続いた。じゃあここも白く塗ればいいような気もするけれど、間延びして見えるのか。【4日追記・ダイエー撤退後は、肌色部分に黒で「NEW CITY」と表記された。】
北面と南面が、緑色マークに「ダイエー」、東面と西面が、オレンジ色マークに「Daiei」だった。
弘前店では箱の形状も異なるが、マークは全面がオレンジ色だったようで、Dの色に何か意味があるのだろうか。
「辻兵」のほう。
2010年2月。西向きに撮影
デカいと感じた
こちらは鉄骨を組んだ上に載っている。鉄骨も肌色のままだ。
ここで下へ降りて、玄関。
2010年。エレベーター隣の東辺北側
1階の出入り口は3か所。北辺の一方通行路に小さめのが1つ、東辺は南北に同じ規模のが1つずつ。
寒冷地のせいなのか全国的なのか、秋田の総合スーパーの出入り口は、ドアが二重になっているのが一般的。ニューシティは途中で改装(おそらく壁が白くなった時)されて、内側だけ両開きの自動ドアになった。上の写真のように玄関左右が赤くなったのもその時のはず。
自動ドア以前は、内側も外側も同じ、手押しの両開きドア。上の写真の通り、大きい玄関は3組、小さい方はおそらく2組分の幅【続編にて】。
ドアの手で押す部分は、イトーヨーカドーだと鳥のマークだったりするが、ここは台のような形で、押す部分が梨地のようなザラザラした質感。その横に白地に赤で「AKITA NEW CITY」のロゴがあって、さらに「いらっしゃいませ」と書いてあったのは、よく覚えている。
屋上駐車場の出入り口も同じだが、枠が茶色いドア。こちらは自動化されなかったようだ。
「AKITA NEW CITY」のロゴは最初から最後まで一貫して不変だった
記憶になかったが、ドアの内側は「ご来店ありがとうございます」だった。青系統に白抜きの丸ゴシック体だったのか、なんとなく覚えている。書体は「ナール」、じゃない!
フォントワークス「スーラ」だ。スーラは1990年に世に出たフォントだそうで、途中で替えられたことになる。やはり改装時か。
館内を簡単に。
2010年4月=閉店時の「店内ご案内」
ちゃんとした案内の上に紙を貼って対応。どんどんテナントが抜けていって、最後はこの状態。地下、2階、3階は「閉鎖中」。
お店は1階に8店か。地元2行のATMや、インフォメーションカウンターを兼ねたプレイガイドはなくなっていたのか。
あとは5階に秋田市中央公民館、女性学習センター、青少年センターからなる「サンパル秋田」もあるが、そのほかはオフィス。
かつては飲食店街だった5階も様変わりして、
公民館の和室など
2009年11月はちゃんとした案内
てっぺんに「n」と「c」を重ねたロゴマークらしきものがあるが、これは見覚えない。
この直後に2階(地下も?)が閉鎖されるのだが、すでに3階は空白。
地下には、フードコートの名残か、丼とラーメンが1店ずつ。
1階は「お茶 辻吟」など13店。ATMとインフォメーションカウンターもある。
2階は辻兵のギフト・スクールの店、「コーヒーレストラン」のイタリアントマト【4日補足・イタトマも辻兵系列企業がフランチャイズで運営】。この2つは当初から同じ場所で通したはず。ほかにザ・ダイソー、エレガンスコニシ、マブチファブリックス。
4階には、保育所「第一ルンビニ園」の「分園ちゅうりっぷ」もあった。
トイレは開いている各階にあるが、地下と1階は女性用のみだったらしい。当初はどのフロアも男女ともあったはず。
イトーヨーカドーでもやっている(現・フォンテも)、女性用を増やす取り組みがされていたのか。
2002年8月=ダイエー最後。非常に見にくく、オリジナルでも判読不可能です
開店当初と比べると、ダイエー末期は縮小されていたものの、上と比べればこの充実ぶり。
上の表で、各階左側がテナントで「~の街」、右側がダイエー直営で「~のフロア」としているようだ。なお、5階以外は、基本的に中央のエスカレーターを境に、東側がテナント、西側が直営という割り振り。
順に記すと、※見間違いなどあるかもしれません。
地階 フードショップの街、食料品のフロア
明確に「フードコート」とは記載がない。
テナントには辻兵による「リカーショップねごしあん」、イタリアントマトのベーカリー、地元菓子店、土崎のそば店「こんどう」など。
直営側にはダイエーのサービスカウンター、「ハンバーガー・ドムドム」、「スピードプリント ダイエーフォト(DPE)」なども。開店当初は55分だかで写真が現像・プリントされるのは、とても画期的だった。
【6日追記】地下のメインは食品売り場なわけだが、ごく標準的なものだろう。早い時期にはサラダバーがあって、ヤングコーンやミニトマトが目新しかった。
当時、ジャスコ秋田店やイトーヨーカドー秋田店の食品売り場は、地元スーパー「なかよし」がテナントとして運営していたので、秋田市中心市街地における大手スーパーによる直営食品売り場は、ダイエーが初めてということかと思う(北部のジャスコ土崎港店はすでに直営だったはず)。
僕が大きくなれたのは、ダイエー秋田店食品売り場のおかげもある。(以上追記)
開店から少ししてから、「愛着仕様」というダイエー版無印良品みたいなブランドが立ち上がって、地下の北東側がそのコーナーだった。この頃にはなくなっていたか。【2022年12月18日追記・当初の愛着仕様は、無印良品同様、文房具や食品も扱っていたが、後に女性用衣料品のプライベートブランドとなり、2000年代にはダイエーでも取り扱わない店舗があったようだ。十和田市にあったダイエーとうてつ駅ビル店跡の記事も参照。】
1階 レディースファッションの街、婦人服飾雑貨のフロア
中央の2階までの吹き抜けの一角にあった、アイスクリームの「ディッパーダン」も。
【4日補足・ディッパーダンはダイエー子会社運営だが、案内では左のテナント側に記載。
案内では「アイスクリーム&????(クレープ?)」とされている。ディッパーダンは今は「クレープ」のイメージだが、1981年からしばらくは(クレープの扱いは記憶にないが)アイスのほうに重きを置いていたと思うし、それを裏付ける表記。看板というか店の色合いは赤っぽかった気がする(途中から現行のような青系統になったかも)。
いろんな種類から選んで、コーンに盛り付けてもらうアイスを初めて食べたのがここで、その後、それがダイエー(ニューシティ)に行く楽しみであった。
なお、ディッパーダンは、2021年時点も変わらずダイエー子会社「オレンジフードコート」が運営し、ダイエーのイオン傘下入りでイオン店内にも出店しているようだが、東北地方の店はいずれもフランチャイズだ。秋田県内がイオン3店とナイス土崎店と秋田駅トピコと、東北の県別ではいちばん多い。どこがフランチャイジーなんだろう。】
2階 ミッシー・ミセスファッションの街、婦人ファッションのフロア
「ミッシー」は初めて聞いた。
2014年の「ライフコラムことばオンライン(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO80043220S4A121C1000000/)」によれば、「いわゆるヤングミセスを指す業界用語だ。一昔前までどこの百貨店のフロア案内でもよく見かけた言葉」。
3階 (テナント4店)、紳士ファッションと子供・おもちゃ・文具のフロア
直営売り場が詰めこんだ感じ。元は、おもちゃと文具は4階にあったのが下りてきたため。
4階 ホビーライフの街、家庭電器と暮らしのフロア
「家電」と言わないのがおもしろい。文具類を下ろした分、当初より家電を充実させたということなんだろうか。末期はパソコンもあった。
判読できないのだが、テナントは、当初はレコード、玩具、書店、時計、それに催事場があった。
個人的には地下と4階が思い出深い。
5階 (テナント3店)、屋内遊園地D.L.L
レストラン街・飲食店街。昔はもっとあったはず。
【4日追記】↑このフロアガイドは階段付近か何かの壁の案内。同時期のエレベーター前にも、書式は違うが同内容のものがあった。しかし、エレベーターの中、ドアの上の階数ランプの表記はまた異なるものだった。一部判読できないものもあるが、テナント部分は以下の通り。
地下:フードショップの街、1階:レディスファッションの街、2階:シティファッションの街、3階:和装(以下判読不可能)、4階:ホビーライフの街、5階:グルメ10番街。(以上追記)
多少続きます。
秋田経済界の中心人物が経営する呉服店「辻兵(つじひょう)」が、大家(一時期は日本生命所有)兼テナントの1つ。
秋田県初進出となる「ダイエー秋田店」を核テナントとする、地下1階・地上5階建て。昭和末期の典型的な「総合スーパー」の形態。
※ダイエー撤退後に「ニューシティ」という名になったと誤解する人がいるようだが、ダイエー時代から建物としてはニューシティ。少なくとも周辺地域の人にはそれなりに浸透していたと思うが、ニューシティ全体の呼び名としても「ダイエー」と呼ぶことは多かった。
僕は当時幼稚園児だったが、身近な場所だったこともあり、ダイエーが「できた」のははっきり覚えている。ただ、その後継続して何度も行ったわけで、開業当初の具体的な記憶はない。
建設以前の辻兵の単独店舗や工事途中の風景も、記憶はない。それに、秋田駅前のジャスコ(現・秋田オーパ)やイトーヨーカドー(現・フォンテAKITA)に行く機会はほとんどなかったので、総合スーパーというものを初めて知ったのが、ダイエー秋田店であった。
そんなわけで、これまで何度か触れたように、弘前店とともにダイエーには思い入れがある。
自分に40年前の記憶があること(40年前に生きていたこと)にも驚くが、40年前に初日とはいえ8万人も来たのが、40年後には信じられない街になってしまったのにも驚く。
(再掲)閉鎖後解体を待つ秋田ニューシティ北東角
Wikipediaも参考に、ニューシティの歴史を振り返っておく。
1981年6月4日 オープン
1990年 日本生命が所有権取得
2002年8月31日 ダイエー秋田店閉店・撤退
2002年11月21日 リニューアル。地下は「マックスバリュ大町店」開店
2003年11月1日 5階に「サンパル秋田(秋田市中央公民館・女性学習センター・勤労青少年ホーム)」開所
2005年5月29日 マックスバリュ閉店
2005年10月8日 地下に「スーパーランドヤマト大町」開店
2009年3月15日 スーパーランドヤマト撤退、向かいのイーホテルショッピングモール(旧・AD)へ「大町こみち」として移転するも、2010年10月に破産。
2009年~2010年 その他テナントも次々に撤退
【16日追記・2008年 辻兵の当主・5代目・辻 兵吉(つじ ひょうきち)氏死去。子息が後継となるが、兵吉は襲名せず】
2010年1月20日 所有権が日本生命から辻兵系列・辻不動産へ売却
2010年4月13日 秋田ニューシティ全館閉館
2010年8月 建物解体開始
2011年5月 解体完了、更地化
その後、月ぎめ駐車場と、使われない日のほうが多いイベント会場という名目の空き地のまま、10年が過ぎた。1990年 日本生命が所有権取得
2002年8月31日 ダイエー秋田店閉店・撤退
2002年11月21日 リニューアル。地下は「マックスバリュ大町店」開店
2003年11月1日 5階に「サンパル秋田(秋田市中央公民館・女性学習センター・勤労青少年ホーム)」開所
2005年5月29日 マックスバリュ閉店
2005年10月8日 地下に「スーパーランドヤマト大町」開店
2009年3月15日 スーパーランドヤマト撤退、向かいのイーホテルショッピングモール(旧・AD)へ「大町こみち」として移転するも、2010年10月に破産。
2009年~2010年 その他テナントも次々に撤退
【16日追記・2008年 辻兵の当主・5代目・辻 兵吉(つじ ひょうきち)氏死去。子息が後継となるが、兵吉は襲名せず】
2010年1月20日 所有権が日本生命から辻兵系列・辻不動産へ売却
2010年4月13日 秋田ニューシティ全館閉館
2010年8月 建物解体開始
2011年5月 解体完了、更地化
在りし日のニューシティを写真で紹介したい。断片的で不鮮明な写真もあることと、何よりも無許可で撮影したものなのですが、記録になればとアップさせていただきます。
まず、屋上の箱型の看板(ルーフサインというのかな)は2つ。上の再掲写真では、左・南東側に白いものがあるが、それはもともとはダイエーロゴ。撤退後はスーパーやダイソーのロゴが描かれたこともあった。右・北西側は、一貫して赤い「辻兵」だった。
ニューシティが身近な者としては、意識せずとも目に触れるものではあったが、建物が多い一帯なので見上げても見えるかどうかで身近な存在でもなかった。
ニューシティの屋上は、客用駐車場だった。車は裏側・西の茶町通りから出入りするのだが、徒歩圏内の者には縁はなし。でも、2度ほど、思い立って屋上へ上がって写真を撮っていた。※別に「第二駐車場」もあり、それは現存する。
2002年8月。東向きに撮影
↑向かいの白いのが秋田ワシントンホテル(現・イーホテル秋田)。その向こうの建設中のが協働社跡の高層マンション。
懐かしい、「D」と上弦の月がモチーフの以前のダイエーマーク。1975年から2005年まで使われた。と思ったら、2020年から復活し、新マークと併用されているとのこと! どっちみち東北では見られないけど。
屋上に飛び出た建物本体(=塔屋)が白く、その上に看板。その間が肌色(ペールオレンジ)でおかしな感じだが、当初は外壁が全部肌色だった。ある時に白に塗り替えられて、最後まで続いた。じゃあここも白く塗ればいいような気もするけれど、間延びして見えるのか。【4日追記・ダイエー撤退後は、肌色部分に黒で「NEW CITY」と表記された。】
北面と南面が、緑色マークに「ダイエー」、東面と西面が、オレンジ色マークに「Daiei」だった。
弘前店では箱の形状も異なるが、マークは全面がオレンジ色だったようで、Dの色に何か意味があるのだろうか。
「辻兵」のほう。
2010年2月。西向きに撮影
デカいと感じた
こちらは鉄骨を組んだ上に載っている。鉄骨も肌色のままだ。
ここで下へ降りて、玄関。
2010年。エレベーター隣の東辺北側
1階の出入り口は3か所。北辺の一方通行路に小さめのが1つ、東辺は南北に同じ規模のが1つずつ。
寒冷地のせいなのか全国的なのか、秋田の総合スーパーの出入り口は、ドアが二重になっているのが一般的。ニューシティは途中で改装(おそらく壁が白くなった時)されて、内側だけ両開きの自動ドアになった。上の写真のように玄関左右が赤くなったのもその時のはず。
自動ドア以前は、内側も外側も同じ、手押しの両開きドア。上の写真の通り、大きい玄関は3組、小さい方は
ドアの手で押す部分は、イトーヨーカドーだと鳥のマークだったりするが、ここは台のような形で、押す部分が梨地のようなザラザラした質感。その横に白地に赤で「AKITA NEW CITY」のロゴがあって、さらに「いらっしゃいませ」と書いてあったのは、よく覚えている。
屋上駐車場の出入り口も同じだが、枠が茶色いドア。こちらは自動化されなかったようだ。
「AKITA NEW CITY」のロゴは最初から最後まで一貫して不変だった
記憶になかったが、ドアの内側は「ご来店ありがとうございます」だった。青系統に白抜きの丸ゴシック体だったのか、なんとなく覚えている。書体は「ナール」、じゃない!
フォントワークス「スーラ」だ。スーラは1990年に世に出たフォントだそうで、途中で替えられたことになる。やはり改装時か。
館内を簡単に。
2010年4月=閉店時の「店内ご案内」
ちゃんとした案内の上に紙を貼って対応。どんどんテナントが抜けていって、最後はこの状態。地下、2階、3階は「閉鎖中」。
お店は1階に8店か。地元2行のATMや、インフォメーションカウンターを兼ねたプレイガイドはなくなっていたのか。
あとは5階に秋田市中央公民館、女性学習センター、青少年センターからなる「サンパル秋田」もあるが、そのほかはオフィス。
かつては飲食店街だった5階も様変わりして、
公民館の和室など
2009年11月はちゃんとした案内
てっぺんに「n」と「c」を重ねたロゴマークらしきものがあるが、これは見覚えない。
この直後に2階(地下も?)が閉鎖されるのだが、すでに3階は空白。
地下には、フードコートの名残か、丼とラーメンが1店ずつ。
1階は「お茶 辻吟」など13店。ATMとインフォメーションカウンターもある。
2階は辻兵のギフト・スクールの店、「コーヒーレストラン」のイタリアントマト【4日補足・イタトマも辻兵系列企業がフランチャイズで運営】。この2つは当初から同じ場所で通したはず。ほかにザ・ダイソー、エレガンスコニシ、マブチファブリックス。
4階には、保育所「第一ルンビニ園」の「分園ちゅうりっぷ」もあった。
トイレは開いている各階にあるが、地下と1階は女性用のみだったらしい。当初はどのフロアも男女ともあったはず。
イトーヨーカドーでもやっている(現・フォンテも)、女性用を増やす取り組みがされていたのか。
2002年8月=ダイエー最後。非常に見にくく、オリジナルでも判読不可能です
開店当初と比べると、ダイエー末期は縮小されていたものの、上と比べればこの充実ぶり。
上の表で、各階左側がテナントで「~の街」、右側がダイエー直営で「~のフロア」としているようだ。なお、5階以外は、基本的に中央のエスカレーターを境に、東側がテナント、西側が直営という割り振り。
順に記すと、※見間違いなどあるかもしれません。
地階 フードショップの街、食料品のフロア
明確に「フードコート」とは記載がない。
テナントには辻兵による「リカーショップねごしあん」、イタリアントマトのベーカリー、地元菓子店、土崎のそば店「こんどう」など。
直営側にはダイエーのサービスカウンター、「ハンバーガー・ドムドム」、「スピードプリント ダイエーフォト(DPE)」なども。開店当初は55分だかで写真が現像・プリントされるのは、とても画期的だった。
【6日追記】地下のメインは食品売り場なわけだが、ごく標準的なものだろう。早い時期にはサラダバーがあって、ヤングコーンやミニトマトが目新しかった。
当時、ジャスコ秋田店やイトーヨーカドー秋田店の食品売り場は、地元スーパー「なかよし」がテナントとして運営していたので、秋田市中心市街地における大手スーパーによる直営食品売り場は、ダイエーが初めてということかと思う(北部のジャスコ土崎港店はすでに直営だったはず)。
僕が大きくなれたのは、ダイエー秋田店食品売り場のおかげもある。(以上追記)
開店から少ししてから、「愛着仕様」というダイエー版無印良品みたいなブランドが立ち上がって、地下の北東側がそのコーナーだった。この頃にはなくなっていたか。【2022年12月18日追記・当初の愛着仕様は、無印良品同様、文房具や食品も扱っていたが、後に女性用衣料品のプライベートブランドとなり、2000年代にはダイエーでも取り扱わない店舗があったようだ。十和田市にあったダイエーとうてつ駅ビル店跡の記事も参照。】
1階 レディースファッションの街、婦人服飾雑貨のフロア
中央の2階までの吹き抜けの一角にあった、アイスクリームの「ディッパーダン」も。
【4日補足・ディッパーダンはダイエー子会社運営だが、案内では左のテナント側に記載。
案内では「アイスクリーム&????(クレープ?)」とされている。ディッパーダンは今は「クレープ」のイメージだが、1981年からしばらくは(クレープの扱いは記憶にないが)アイスのほうに重きを置いていたと思うし、それを裏付ける表記。看板というか店の色合いは赤っぽかった気がする(途中から現行のような青系統になったかも)。
いろんな種類から選んで、コーンに盛り付けてもらうアイスを初めて食べたのがここで、その後、それがダイエー(ニューシティ)に行く楽しみであった。
なお、ディッパーダンは、2021年時点も変わらずダイエー子会社「オレンジフードコート」が運営し、ダイエーのイオン傘下入りでイオン店内にも出店しているようだが、東北地方の店はいずれもフランチャイズだ。秋田県内がイオン3店とナイス土崎店と秋田駅トピコと、東北の県別ではいちばん多い。どこがフランチャイジーなんだろう。】
2階 ミッシー・ミセスファッションの街、婦人ファッションのフロア
「ミッシー」は初めて聞いた。
2014年の「ライフコラムことばオンライン(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO80043220S4A121C1000000/)」によれば、「いわゆるヤングミセスを指す業界用語だ。一昔前までどこの百貨店のフロア案内でもよく見かけた言葉」。
3階 (テナント4店)、紳士ファッションと子供・おもちゃ・文具のフロア
直営売り場が詰めこんだ感じ。元は、おもちゃと文具は4階にあったのが下りてきたため。
4階 ホビーライフの街、家庭電器と暮らしのフロア
「家電」と言わないのがおもしろい。文具類を下ろした分、当初より家電を充実させたということなんだろうか。末期はパソコンもあった。
判読できないのだが、テナントは、当初はレコード、玩具、書店、時計、それに催事場があった。
個人的には地下と4階が思い出深い。
5階 (テナント3店)、屋内遊園地D.L.L
レストラン街・飲食店街。昔はもっとあったはず。
【4日追記】↑このフロアガイドは階段付近か何かの壁の案内。同時期のエレベーター前にも、書式は違うが同内容のものがあった。しかし、エレベーターの中、ドアの上の階数ランプの表記はまた異なるものだった。一部判読できないものもあるが、テナント部分は以下の通り。
地下:フードショップの街、1階:レディスファッションの街、2階:シティファッションの街、3階:和装(以下判読不可能)、4階:ホビーライフの街、5階:グルメ10番街。(以上追記)
そば一はどこの店よりもうまかった気が。
あとクレープ。あれは土崎のナイスやトピコでもありますが。
それこそ土崎のナイス近くにはこんどう本店ありますが…
イトーヨーカドー亡き後もさまざま入るフォンテとちがい、日生が手を引いたのもあるのか、残しておけばアベノミクスあたりで酔狂な企業や秋田進出を狙うFCがきてくれたかも。
アニメイトみたいなコアイズムな店がきたかもしれない。
ぐるぐるした駐車場とか、世にも奇妙な物語のような不気味なトイレへの取り付け廊下も。
地下イートインはたしか早いうちに閉店した店ありませんでしたが?
地下街の方に向かうドアの隣は、小さい頃からずっと空きテナントでしたが何があったのか。
私も再編集版書いたほうがいいぐらい思い出できてました。
地下にドムドムバーガーがありましたね。コロッケバーガー目当てでよく行きました。
小学生の頃、初めてCDを買ったのは新星堂でした。(確か4階?)5階のゲーセンは広かった印象があります。私の思い出はフレーバー付きで売ってたポップコーンですね。
反対側には、和食の味いちもんめや、雰囲気の良いステーキのお店もありました(確かフォルクスだったかと…)思えば、ダイエーに行けば何でも揃う時代でした。
わずか20年足らずで上手くいかなくなったのは、ダイエー本体問題もあるんでしょうが、ニューシティの場合はやはり駐車場でしょうか?車でアクセスし易ければもっと続いていたかもしれません。
更地のままは何だか寂しいので、早く次の活用が決まって欲しいものです。
>FMENさん
ディッパーダンは最初の頃は「アイス屋」のイメージでした。サーティーワンを知らなかったので、選べるのが斬新で、チョコチップなど好きでした。
トイレは日銀側の階段の向かいでしたよね。1階は入口を曲がってすぐだけど、他のフロアでは廊下が長かったような。その階段が赤い色で、ちょっと怖かった思い出があります(後日また)。
フードコートは、例のADとの地下連絡の関係ではないでしょうか。当初は地下道がなかったので、コートの外周を切れ目なく店があったはずです。地下道建設時に、店が抜けるか再配置するかで、通路を作り、それで余ったスペースなのかもしれません。
オーパ、フォンテ、土崎ジャスコは現役なのに、それらより新しいニューシティがあっさり取り壊されたのは、辻さんの意向なのだと思います。でも、文化施設建設地構想も蹴って、10年経っても空き地なのは…
>市営バス好きさん
CD屋は4階エレベーターを降りて左でした。僕はレコードを買ってもらいました。5階がゲーセン・飲食。食事はヨーカドー並みに和洋とも選択肢は多かったと記憶します。
ほんとに1か所で、そして街中で用が足りましたね。それが当時としては目新しく、今・これからの時代こそ、必要な店のように思えてなりません。
「ダイエー跡」問題は、全国各地の地方都市でよくある問題のようで。弘前は1度失敗したものの、それなりに持ち直していると思います。秋田も、ダイエーの次を、そして壊した後を、もう少し真剣に考えてくれれば違ったかもしれません。
現状では何をしたいのか分かりません。向かいのADも空き屋だし、どうなるのでしょうかね。
東側が辻のテナントですが、ドムドムフォルクス当たりはダイエーグループと、例外も。
5階はゲーセンやそば一中華屋のあたりは雑踏なんですが、真奥の潰れた寿司屋?があったとこからトイレに行くとすると、潰れたテナントやニューシティの多目的ホール(ダイエー時代開けたの見たことなかった)あたりの薄暗くて静かな廊下の不気味さがなんともいえませんでした。
サティも長く静かな取り付けがありますけどあの不気味さときたら。
拙ブログでたびたびネタにする「ゆうれい○○シリーズ」に近そう。
なんかこの5階だけは現実ではなく、パラレルワールドのような神秘性と恐怖性がありました。
中学のとき、部活で校内鬼ごっこをしたことがありましたが、そのときダイエーヨーカドーみたいなとこでやれたらさぞ楽しいだろうなと思ったり。
実現できていたら、フジテレビのあの番組よりも早く盛り上がったのかも。
>市営バス好きさん
駐車場はけっしてひどくはなかったはず。
10面の螺旋式立体に更に別棟がありましたから。
軒並み車なため、正面バス停のイメージよりもそちら。
やはり中内一族の放漫でとにかく資産を切り離さなきゃならない状態が悪すぎたのかと。
閉店翌年に星野阪神を倒し日本一だったのに、さらに翌年身売りしてますからね。
ダイエー自体を知らない人が増えている中、秋田にダイエーが存在した事を知らない人が増えていると感じます。
現在でもダイエー跡地と言う人も少ながらずおりますが…
私は開店当時には生まれておりませんが、2000年〜閉店までのダイエーを知っている最後の世代だと思います。
当時は幼稚園児でした。塾終わりにダイエーのおもちゃ売り場でミニカーを買ってもらい、最上階のゲームセンターで遊び、地下のドムドムバーガーでポテトを食べたのは、いい思い出です。
実は4月初めより、流通科学大学を運営する学校法人中内学園のHPで、ほぼ全店舗の外観写真の展示が始まり、秋田店も掲載されております。
スケルトン?エレベーター側の角型信号機も写っており、往年の大町の街並みを伺う事ができます。(私が物心ついた頃は縦型の金属灯器に更新されておりましたが…)
ダイエーが無くなり、2023年で21年?になりますが、時が経つにつれ益々煌びやかな思い出の場所になりつつあります。
秋田市中心部にこのような商業施設ができる事を願っていますが、人工形態が変化した今の時代では、夢物語で終わってしまうの話なのでしょうね…
ダイエー秋田店の後に姿を消した、秋田市営バス、イトーヨーカドー秋田店なども、知らない秋田市民が多くなっているでしょうね。ダイエーの名は知っていても、元々“地域限定スーパー”だったと思われているかもしれません。
「ダイエー資料館」いいものを教えていただきました。写真が(拡大しても)小さく、秋田店はモノクロが多いのが惜しいですが、貴重な写真ですね。
「大町一丁目」の交差点名があったことや、北側(通町寄り)の街並みなどは、僕も記憶になかったです。
跡地の活用について別の記事でも触れましたが、所有者の意思が分からない、はっきり言えばやる気がなさそうなのが、未来を暗くしていると思います。
いつまでも駐車場とイベント広場のままにするつもりなのか、それではもったいないです。