🌸難波大助、皇太子を撃ったテロ犯
⛳難波大助「虎ノ門事件」判決後2日で死刑
☆昭和天皇となる当時の皇太子を乗せた車
*皇居から赤坂の虎ノ門辺りに差しかかった
* 一人の男がその車に近づき発砲した
☆事件の主役は、24歳の青年、難波大助
*弾丸は窓ガラスに当たってその破片が侍従の顔をかすめた
☆事件の主役は、24歳の青年、難波大助
*弾丸は窓ガラスに当たってその破片が侍従の顔をかすめた
*皇太子は無傷でその日の公務をこなし、暗殺は未遂
☆難波大助は、逮捕後も皇室への批判を改めなかった
*翌年、判決から2日後という異例のスピードで死刑となった
☆難波大助は、逮捕後も皇室への批判を改めなかった
*翌年、判決から2日後という異例のスピードで死刑となった
☆彼が犯行に至った背景には意外な埋由があった
⛳難波大助、アナキストからテロリストに変貌
☆難波大助の父は県会議員
*一家は皇室を重んじて彼自身もその思想を強く受けて育った
☆10代後半から多くの書物と出会い思想に変化が芽生える
☆明治天皇の暗殺を企んだ社会主義者やアナキスト(無政府主義者)
☆10代後半から多くの書物と出会い思想に変化が芽生える
☆明治天皇の暗殺を企んだ社会主義者やアナキスト(無政府主義者)
*彼らが、処刑された幸徳事件に憤慨していた
*労働運動や社会主義運動に積極的に参加する
*労働運動や社会主義運動に積極的に参加する
*父親から教え込まれた彼の思想は大きく揺らいだ
☆軍隊による社会主義者たちの虐殺も頻発した
*難波は市民運動の無力さを痛感した
☆軍隊による社会主義者たちの虐殺も頻発した
*難波は市民運動の無力さを痛感した
*難波は、暴力に訴えるテロリストヘと変貌していった
☆テロは未遂に終わったもののその影響は大きかった
☆テロは未遂に終わったもののその影響は大きかった
*内閣は総辞職、警視総監や警務部長らも懲戒免職の処分
⛳難波の事件の背景にあった劣等感
☆難波は、高校受験に失敗している
*2人の兄は東大と京大に進んだというエリートだった
☆父親は倹約家で、難波が上京したときには仕送りも渋った
*彼は働きながら予備校に通うしかなかった
*合格した高校も1年で辞めて日雇い労働者になっている
☆学業不振や兄への劣等感、父親ヘの恨みから
☆学業不振や兄への劣等感、父親ヘの恨みから
*父や兄を貶めたいという短絡的な理由が犯行の裏にあった
☆衆議院議員になっていた難波の父、事件を聞くと
☆衆議院議員になっていた難波の父、事件を聞くと
*辞職願を出し、息子の処刑後みずから食を絶って死んだ
*エリートだった兄たちも辞職を余儀なくされている
☆事件は、当時の政界に大きな混乱を招いた
*首相は事態の大きさにおののき、全閣僚の辞表を集め総辞職
*警視総監や警視庁の警務部長が懲戒免職になった
*エリートだった兄たちも辞職を余儀なくされている
☆事件は、当時の政界に大きな混乱を招いた
*首相は事態の大きさにおののき、全閣僚の辞表を集め総辞職
*警視総監や警視庁の警務部長が懲戒免職になった
*難波大助が通った小学校の校長や担任教師が辞職
*郷里山口県の県知事が減俸になるなど大きな波紋を広げた
☆難波の父の選挙地盤を継いだのは
☆難波の父の選挙地盤を継いだのは
*外務大臣で、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結した松岡洋右
*松岡の跡を内閣総理大臣の座に就いた、岸信介、佐藤栄作の兄弟が継いだ
*難波大助の恐ろしい事件、数々の人物政治家を排出した
*松岡の跡を内閣総理大臣の座に就いた、岸信介、佐藤栄作の兄弟が継いだ
*難波大助の恐ろしい事件、数々の人物政治家を排出した
(敬称略)
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⛳出典、『日本史の黒幕』
「難波大助」「皇太子テロ」「事件の波及」
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)
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