朝いち、わが町の川土手を歩いてきました。
カメラも持たないで、、、、短い距離ですがマジメに歩きました。
胸のほうはストレスフリー、、、、、と言いたいのですが、よ~く見ると何やらあるような、、、、
と言うような気がするのはもう1っヶ所工事ヶ所が残っているからでしょうか?
その工事が終わり、、、、執行猶予をとかれ、、、、、晴れて娑婆に出て来たら、前にもましてガンガン歩けるはずです。
その日にそなえて来年の山行プランをあれこれ考えているところです。
先日恐羅漢山に行ったときに写した写真です。何でもない写真ですが、、、
タカ長にとっては青春の風景とも言える写真です。
左に見えているのが砥石郷山で、正面に見える草山が深入山、そしてその手前が牛小屋谷。
基本的には何も変わっていませんが、タカ長が足しげく通ったのは昭和30年代のことで、、、、
そのころの風景はスキー場の造成によって変わっています。そのことを思えば胸がいたくなるような風景なのです。
あの頃、、、ここ牛小屋高原のススキの中に座り、仲間たちと人生を語り、歌を歌い、、、
ここには数えきれないほどの想い出がありますが、、、その頃の風景はなくなっているのです。
そのころ週末ともなれば登山者がつめかけ、どこの民宿もいっぱいでした。
ここ横川(よこごう)谷の集落、古屋敷や二軒小屋には確かに山村の生活があり、それなりに活気がありました。
しかし、、、、、そのような時に、、、、38(さんぱち)豪雪、、、、、
あの雪が降り始めたのはタカ長が山から下りる日でした。古屋敷から内黒峠に登る時、古老から、、、
「この雪の降り方はいつもと違うから気をつけて行くように、、、、」と声をかけられたことがいまだに忘れられません。
あの豪雪で山の集落は一気に壊滅、、、、タカ長が定宿としていた人たちも広島市内に出て、その家は無人になりました。
次の秋だったのでしょう、独りその集落を訪ねた時には人は一人もいなくて、集落のススキが風に吹かれてカサカサと音をたてていました。
あの音も耳からはなれません。
そのような姿を見てきたので、ここにスキー場が出来ることは容認しないといけない、、、、
スキー場が出来ればここに人が帰ってきて、、、、、というようなことをタカ長なりに考えたのです。
しかし、スキー場が出来ても人は帰ってこなかったようです。
いまこの横川谷に暮らしている人が何人いるのか知りませんが、健全な生活が成り立つほどの人はいないように思われます。
そのような姿を見ると、、、、あのスキー場開発は何だったのか、、、、
ブナの森を伐り、重機をいれて地形まで変え、、、端的に言えば自然破壊をして開いたスキー場が地元にどれだけの利益をもたらしたのか???
と言うようなことを考えると、、、、まだブナの原始林が残されていたころの山が思い出され、、、、
複雑な気持ちになるのです。
人みな花に酔うときも 残雪恋し山に入り
と言う「坊がつる讃歌」の歌詞の通り、4月の残雪期にスキーを担いで山頂まで登り、山頂から滑降したこともあります。
すいすいと下りてきたと言いたいのですが、途中の急斜面で見事に転倒、何十メートルも流されました。
幸い怪我はありませんでしたが、流されてゆくときに右手を下にしていたのでしょうか、ザラメ雪の上を思い切り滑った親指のあたりが麻痺したようになり、、、、、
あの何とも言えない感覚は今でも右手親指のあたりに残っているように感じることがあります。
思い出せばキリがない恐羅漢山をめぐる思い出、、、、、
自然破壊の産物としてのスキー場と衰退した集落を見ると何とも複雑な気持ちになるタカ長です。
カメラも持たないで、、、、短い距離ですがマジメに歩きました。
胸のほうはストレスフリー、、、、、と言いたいのですが、よ~く見ると何やらあるような、、、、
と言うような気がするのはもう1っヶ所工事ヶ所が残っているからでしょうか?
その工事が終わり、、、、執行猶予をとかれ、、、、、晴れて娑婆に出て来たら、前にもましてガンガン歩けるはずです。
その日にそなえて来年の山行プランをあれこれ考えているところです。
先日恐羅漢山に行ったときに写した写真です。何でもない写真ですが、、、
タカ長にとっては青春の風景とも言える写真です。
左に見えているのが砥石郷山で、正面に見える草山が深入山、そしてその手前が牛小屋谷。
基本的には何も変わっていませんが、タカ長が足しげく通ったのは昭和30年代のことで、、、、
そのころの風景はスキー場の造成によって変わっています。そのことを思えば胸がいたくなるような風景なのです。
あの頃、、、ここ牛小屋高原のススキの中に座り、仲間たちと人生を語り、歌を歌い、、、
ここには数えきれないほどの想い出がありますが、、、その頃の風景はなくなっているのです。
そのころ週末ともなれば登山者がつめかけ、どこの民宿もいっぱいでした。
ここ横川(よこごう)谷の集落、古屋敷や二軒小屋には確かに山村の生活があり、それなりに活気がありました。
しかし、、、、、そのような時に、、、、38(さんぱち)豪雪、、、、、
あの雪が降り始めたのはタカ長が山から下りる日でした。古屋敷から内黒峠に登る時、古老から、、、
「この雪の降り方はいつもと違うから気をつけて行くように、、、、」と声をかけられたことがいまだに忘れられません。
あの豪雪で山の集落は一気に壊滅、、、、タカ長が定宿としていた人たちも広島市内に出て、その家は無人になりました。
次の秋だったのでしょう、独りその集落を訪ねた時には人は一人もいなくて、集落のススキが風に吹かれてカサカサと音をたてていました。
あの音も耳からはなれません。
そのような姿を見てきたので、ここにスキー場が出来ることは容認しないといけない、、、、
スキー場が出来ればここに人が帰ってきて、、、、、というようなことをタカ長なりに考えたのです。
しかし、スキー場が出来ても人は帰ってこなかったようです。
いまこの横川谷に暮らしている人が何人いるのか知りませんが、健全な生活が成り立つほどの人はいないように思われます。
そのような姿を見ると、、、、あのスキー場開発は何だったのか、、、、
ブナの森を伐り、重機をいれて地形まで変え、、、端的に言えば自然破壊をして開いたスキー場が地元にどれだけの利益をもたらしたのか???
と言うようなことを考えると、、、、まだブナの原始林が残されていたころの山が思い出され、、、、
複雑な気持ちになるのです。
人みな花に酔うときも 残雪恋し山に入り
と言う「坊がつる讃歌」の歌詞の通り、4月の残雪期にスキーを担いで山頂まで登り、山頂から滑降したこともあります。
すいすいと下りてきたと言いたいのですが、途中の急斜面で見事に転倒、何十メートルも流されました。
幸い怪我はありませんでしたが、流されてゆくときに右手を下にしていたのでしょうか、ザラメ雪の上を思い切り滑った親指のあたりが麻痺したようになり、、、、、
あの何とも言えない感覚は今でも右手親指のあたりに残っているように感じることがあります。
思い出せばキリがない恐羅漢山をめぐる思い出、、、、、
自然破壊の産物としてのスキー場と衰退した集落を見ると何とも複雑な気持ちになるタカ長です。