河東郡によれば1日、国道19号線(河東邑~岳陽面)拡張事業区間の河東邑興龍里一帯で文化財発掘調査を行った(財)東アジア文化財研究院が三国時代の竪穴式石槨墓21基、朝鮮時代墳墓16基を調査し、土器などを発掘した。
三国時代の竪穴式石槨墓は蟾津江の東側丘陵を中心に月影形周溝が設置され、これを中心にした封土内に1基の埋葬主体部がある単槨式と2~3基の埋葬主体部がある多槨式が共に造成された。
短頸壺・長頸壺、蓋杯、把手付碗、器台など土器数十点が出土したことからみて、石槨墓築造過程で土器と土器片を共に埋葬する葬俗行為が盛んに行われたとみている。
特に、この地域で発掘された土器は下の部分に一字模様が残っており、十字模様が残る大伽耶様式を模倣して自らが生産したと推測される。土器を生産する過程で粘土を叩く打捺板の模様が一字と十字形状で違うためだ。
出土遺物から、古墳群の造成年代は5世紀後半から6世紀前半と推定される。
河東地域はこれまで、大規模古墳群が調査された事例が全くなく、古墳群が発掘されたことは今回が初めてだ。
発掘された興龍里古墳群は蟾津江周辺地域との緩衝役割をしながらこの地域で伽耶のように三国時代につながった文化を把握するよい資料になるものとしている。
[参考:聨合ニュース、MNKマイニュース・コーリア]
三国時代の竪穴式石槨墓は蟾津江の東側丘陵を中心に月影形周溝が設置され、これを中心にした封土内に1基の埋葬主体部がある単槨式と2~3基の埋葬主体部がある多槨式が共に造成された。
短頸壺・長頸壺、蓋杯、把手付碗、器台など土器数十点が出土したことからみて、石槨墓築造過程で土器と土器片を共に埋葬する葬俗行為が盛んに行われたとみている。
特に、この地域で発掘された土器は下の部分に一字模様が残っており、十字模様が残る大伽耶様式を模倣して自らが生産したと推測される。土器を生産する過程で粘土を叩く打捺板の模様が一字と十字形状で違うためだ。
出土遺物から、古墳群の造成年代は5世紀後半から6世紀前半と推定される。
河東地域はこれまで、大規模古墳群が調査された事例が全くなく、古墳群が発掘されたことは今回が初めてだ。
発掘された興龍里古墳群は蟾津江周辺地域との緩衝役割をしながらこの地域で伽耶のように三国時代につながった文化を把握するよい資料になるものとしている。
[参考:聨合ニュース、MNKマイニュース・コーリア]