歴歩

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韓国・全南羅州佳興里新興古墳 5世紀半ばの前方後円墳を確認

2013年10月08日 | 韓国の遺跡・古墳など
 大漢文化財研究院は8日、全南羅州佳興里新興古墳(나주 가흥리 신흥고분)を発掘調査した結果、これまでで最も古い5世紀半ばの前方後円墳(注1)であることを確認したと発表した。
 日本列島の墓様式である前方後円墳は栄山江流域を中心に国内で13基(注2)が確認されているが、その大部分は築造時期が6世紀始めとみられている。
 (注1) 最近、「前方後円形古墳」と書いていたが、今回は「前方後円墳」と書いている。
 (注2) 今年の初めに、康津永波里古墳が前方後円墳と発表されて、14基目のはずであったが。

 この古墳は墳丘長が30mに達するもので、丘陵を削り扁平にさせた後積み上げていた。 埋葬施設は横口式石槨構造で、被葬者は木柱で骨組を立てた後、石室に安置された。
 石槨から、鉄製大刀と鐵矛(鉄槍)、鉄斧、 サルポ(鏟、살포)などの鉄器類をはじめとして、多量の玉と短頚壷、碗(鉢), 棺釘(꺾쇠)と鎹(かすがい、꺾쇠)数十点などが収集された。
また周溝では、日本では埴輪と称する円筒形土器をはじめとして伽耶系器台, 短頸壺、碗、長卵形土器などが出土した。
 調査団は、5世紀に築造した横口式石槨墓(횡구식 석곽묘)は、栄山江流域では霊岩沃野里方台形古墳(全羅南道記念物84号)が唯一だったとして、今回の発見を重要視している。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2013.2.20 康津・永波里古墳 韓国で14番目の前方後円墳が見つかる
 2008.11.22 韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造
 2010.10.25 全南霊岩・沃野里方台形古墳 4本の木柱を立てて石室壁を築造した横口式石室墓(앞트기식 돌방무덤)を発見、埴輪も出土

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小田原市・小田原城跡 「御用米曲輪」から戦国時代の「池の跡」を確認

2013年10月08日 | Weblog

 平成25年3月26日時点の小田原城跡 「御用米曲輪」 発掘調査状況

 小田原市文化財課は7日、戦国時代の庭状遺構が出土している小田原城跡「御用米曲輪(ごようまいぐるわ)」から15~16世紀に造られたとみられる大規模な「池」の跡が見つかったと発表した。 池の底から16世紀後半の「かわらけ」(素焼きの土器)が出土しており、江戸時代になって埋められたものとみている。 小田原城は15世紀中頃に大森氏により築城され、15世紀末に後北条氏が居城し、天正18年(1590)に北条氏が滅亡した後は徳川家康の領地となり、家康の腹心大久保忠世が城主となり改修した。
 残存する護岸は高さ約1・3mで、斜辺が約2・4m。外周は調査範囲だけでも45m以上もあることが分かった。
 池の周囲の護岸には、2000個以上の石が湾曲させながら、きれいに並べられている。 護岸に使われている石は20〜40cm四方で、火輪、地輪といった五輪塔の部材などが使われている。 石材は箱根火山による箱根溶岩の安山岩で、古文書から同市内には小田原北条氏の配下で、石材の加工技術を持つ「石切」が存在していることが分かっているが、護岸に使われた石材は、当時の加工技術の高さを示すものだという。
庭石と見られる大きな石や玉砂利を配置した遺構があった。
 2010年から開始した同曲輪の発掘調査は、江戸時代の米蔵など遺構修景整備に伴うものだが、これまでに主殿級の建物の一部も見つかっている。戦国時代の小田原は北条氏の本拠地として関東随一の繁栄を誇ったが、今回の大規模な池が確認されたことで、朝廷や幕府など京都とのつながりが深かった北条氏の文化水準の高さを知る手がかりにもなりそうだ。
 10月19日(土)と11月23日(土・祝)、12月21日(土)の午前10時から市民向けの現地説明会が開かれる。
[参加:神奈川新聞、毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 小田原城跡
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安城市・別郷廃寺跡 白鳳時代〜奈良時代の鴟尾片が出土 唐招提寺に匹敵の大きさ

2013年10月08日 | Weblog
 安城市教委は、西別所町の別郷(べつごう)廃寺跡から、古代の鴟尾の破片が出土したと発表した。 同寺は奈良時代の一地方寺院と考えられてきたが、相当規模の格式や勢力を持っていたものとみて調べる。
 鴟尾の破片は、6〜7月の市教委の発掘調査で、土器や瓦などが大量に捨てられた穴から見つかった。 高さ20cm、横52cm、厚さ9cm。 県内で鴟尾の破片が発見されたのは7例目だが、最大という。
 金堂の鴟尾の右側面の破片で、瓦と文様から白鳳時代〜奈良時代(675-720頃)(注1)のもの。破片の大きさから鴟尾全体の高さは120cmほどと推定され、奈良時代に建立された唐招提寺(奈良市)の金堂の鴟尾(高さ119cm)に匹敵するという。
 鴟尾の破片は3日から13日まで、同市安城町の市民ギャラリーで展示されている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

 (注1) これまでにも別郷廃寺では、7世紀後半に建立された西三河最古の寺院・北野廃寺(岡崎市)から出土する素弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、北野廃寺の建立とさほどかわらない時期に建立が開始されたとみられていた。

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